『裁かれるは善人のみ』 弁護士の真実と司祭の真実

 カンヌ国際映画祭脚本賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞したというロシア映画。アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。監督は『父、帰る』でヴェネチア国際映画祭金獅子賞を獲得したアンドレイ・ズビャギンツェフ

アンドレイ・ズビャギンツェフ 『裁かれるは善人のみ』 ロシアの田舎町が舞台。クジラらしき巨大な骨が登場する。


 海辺にたたずむ一軒家にディーマ(ウラジーミル・ウドビチェンコフ)という弁護士がやってくる。ディーマはその家の主人コーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)の軍人時代の後輩だ。コーリャは市長のヴァディム(ロマン・マディアノフ)によって先祖代々住んできたその家を奪われようとしていた。モスクワの有力者から市長に不利な証拠を持ってきたディーマは、コーリャのために市長と交渉をすることになるのだが……。

 小物が権力なんてものを持つとかえって勘違いをすることが多いようだ。この映画の市長もそんな人物だ。地元ではデカい顔ができるからそれに慣れてしまって、コーリャの土地を奪うことを当然のことと考えているのかもしれない。コーリャは頑固で古臭い人間ではあるけれど、何の落ち度もない。生まれ育った土地を離れたくないのは当たり前の感情で、市長の横暴は目に余る。
 土地収用の裁判はすぐに片が付く。裁判官は機械的な早口で判決を読み上げるだけで、土地を奪われるコーリャのことなど考えもしない。それでも弁護士ディーマが市長に突きつけた証拠で状況は一変する。市長は交渉に応じ、350万ルーブルという大金を払うことを約束する。

◆国家と個人
 この作品の原題は「リヴァイアサン」である。“リヴァイアサン”はヨブ記に登場する海の怪物のことだが、トマス・ホッブスが書いた同名の政治哲学書のことでもある。ホッブスによれば、人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」であるという。みんながそれぞれに闘っていたら危なっかしくて生きていけないわけで、ホッブスは「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を国家に対して全部譲渡するべき」と考えたらしい。国家という巨大な権力があればそれが悪党たちに睨みをきかせ、善人は税金を払っていればその庇護の下で生きていくことができる。国家は必要悪みたいなものなのかもしれないのだが、同時にホッブスはそれを“リヴァイアサン”という怪物の名前で呼んでいる。そのことからしても国家権力は簡単に手懐けられるような代物ではないということなのだろう。
 この作品では市長がそうした厄介な怪物となっている。市長は弁護士に弱みを握られ、一度は弱気になったりもするのだけれど、司祭に相談することで息を吹き返す。司祭は具体的な作戦を授けたわけではない。ただ神の名の下に市長の行為を正当化するきっかけを与えてしまっている。市長は弁護士を逆に脅し、娘のことを話題に出しただけですべての仕事から手を引かせてしまう。弁護士という助けを失ったコーリャはもう為す術もない。ただ降りかかる災いに唖然とするだけだ。

『裁かれるは善人のみ』 弁護士ディーマ(左)は市長(右)と対決することになるのだが……

◆2つの真実
 『裁かれるは善人のみ』では2つの真実がある。弁護士ディーマの真実と、司祭の真実だ。
 弁護士ディーマは法律に基づいた真実を求めている。そのためには証拠がなければならない(市長はかつての悪事の証拠を突きつけられる)。誰かが恣意的に裁きを与えたりしないようにするためで、法律家としては真っ当な考えだろう。ただディーマの真実には都合のいいところがあって、ディーマはコーリャの妻と浮気をしても、証拠がなければ大丈夫だと居直っているところもある。
 他方、司祭が求めている真実は神の真実だ。しかし神の行いは計り知れず、人間ごときが理解できるものではない。司祭はこのことを何度も繰り返す。この作品の着想のひとつである旧約聖書のヨブ記もそうしたことがテーマとなっている。ヨブ記の場合は最後に神が姿を見せることになるわけだが、現実世界では神は沈黙している。そうなると神の真実は都合よく解釈されることがあり得る。神の真実を誰も知り得ないのならば、誰かが神の意思を騙って勝手なことをすることが可能だということだ。司祭と親しくし教会にも通っている市長は、それだけで神の祝福を受ける権利があるとでも勘違いをしているようだ。

 弁護士の真実によれば、証拠がなければやりたい放題となる。神が見ているといった意識(あるいはごく普通の道徳観)があればそんなことはできないはず。また、司祭の真実からすれば、神の名の下にやりたい放題となる。そんなわけでどちらの真実も到底真実とは言いがたく、どちらの真実にも神の不在が露わになっている。
 作品中にはロシア正教が重要な要素として登場する。司祭は教会に来ることもないコーリャに説教したりする一面もあるのだが、この作品で描かれるロシア正教は宗教という外貌を見せながらも世俗的なものに成り下がっているように思えた。だからラストで厳かな雰囲気で宗教的儀式が行われるのには皮肉が交じっているのだろうと思う(誰かの車にはキリストの姿がグラビア女性と同列に貼られていた気もする)。
 さらに、実際に世俗の権力を握っている政治家は、銃弾の的として肖像画があてがわれるくらいの存在なわけで、結局どこにも救いがないのだ。荒涼としたロシアの風景と相まってとにかく重苦しくて陰鬱とした作品だ。この監督の作品は『父、帰る』もそうだったけれど、絶望的に暗いのだけれど、その暗さが物語を牽引しているところがあって、2時間20分の上映時間に退屈するところはなかった。

 国家と人間というテーマのなかでちょっと異質なのが、コーリャの若い奥さんリリア(エレナ・リャドワ)のエピソード。市長に家を奪われそうになって依怙地になるコーリャを尻目に、リリアは新しい生活を望んでいるように見えた。そんなリリアがなぜディーマと浮気をしなければならないのか、なぜ自殺しなければならないのかはよくわからない。義理の息子が冷たくても死ぬことはないし、弁護士とモスクワに逃げる手もあったはずなのに……。
 リリアがまだ薄暗い明け方のうちから仕事に出かけるたびに、そのまま失踪しそうな暗い表情が際立っていた。リリアが最期に海で垣間見たのは多分クジラなのだろうが、それがリリアを死へと誘う怪物の類いにも感じられた。テーマとはズレたところにあるエピソードなのだけれど、妙に印象に残る。

裁かれるは善人のみ [DVD]


父、帰る [DVD]


関連記事
スポンサーサイト
Date: 2015.11.08 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (7)

この記事へのコメント:

チャマ

Date2016.12.10 (土) 23:59:41

とても分かりやすく参考になりましたが、奥さんは自殺でなく、市長に仕組まれて殺されたのだと思いますよ!
今頃観たものでコメント遅くなりましたが、良い作品でしたね。

Nick

Date2016.12.11 (日) 15:43:18

 奥さんのエピソードはちょっとズレたところにあると私自身は思っていたのですが、チャマさんの言うように市長に殺されたのだとすればちょっと解釈も違ってくるかもしれません。
 一度観ただけなので、見逃していた部分があったのかもしれません。次に観る機会があれば、そのあたりを注意して観たいと思います。

管理人のみ通知 :

トラックバック:


>>「裁かれるは善人のみ」 from ここなつ映画レビュー
タイトルの通りに考えると、裁かれるのは善人なのだからして、恐らく市井の貧しくも健気に生きている小市民なのだろう、と思いながら鑑賞。どんな風に裁かれるのだろうか?必ずや裁かれるんだよね?と、全編通して最初からドキドキしていて、ドアをノックする音にドッキリ、誰かが猟銃を手にすれば心臓バクバク、という大変に緊張を強いられる鑑賞となった。2時間20分、全てそんな状態。しかし、「裁かれる」とはそういう... >READ

2015.11.09

>>裁かれるは善人のみ from 象のロケット
ロシア北部、バレンツ海に面した入り江の小さな町。 自動車修理工のコーリャは、老いた父、息子ロマ、水産加工場で働く若い後妻リリアと慎ましく暮らしている。 強欲な市長ヴァデゥムは、開発計画のため彼らの土地を二束三文で強引に買収しようとしていた。 コーリャは軍隊時代の友人である弁護士ディーマをモスクワから呼び寄せ、強硬策に抗おうとするのだが…。 実話から生まれた社会派ヒューマンドラマ。 >READ

2015.11.12

>>『裁かれるは善人のみ』 北極圏の風景 from Days of Books, Films
Leviathan(viewing film) 『裁かれるは善人のみ(英題:Le >READ

2015.11.16

>>裁かれるは善人のみ〜リヴァイアサン滅亡後のロシア from 佐藤秀の徒然幻視録
公式サイト。ロシア映画、原題:Leviafan、英題:Leviathan。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督。アレクセイ・セレブリャコフ、エレナ・リャドワ、ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ、ロ ... >READ

2015.11.17

>>映画「裁かれるは善人のみ」を観ました。 from みなと横浜みなみ区3丁目
[ CONTENTS ] ~クリックでジャンプ ・こんな映画です。 ・ストーリー ・見どころ ・監督・キャスト・スタッフ(管理人の独断的評価あり) こんな映画です。 黒い雲が立ち込め、今にも雨が落ちてきそうなこの日、シアター「ジャック&ベティ」のある横浜・伊勢佐木町界隈は、いつになく落ち着きがなかった。 それもそのはず、11月17日は映画館から鎌倉街... >READ

2015.11.25

>>裁かれるは善人のみ from 映画的・絵画的・音楽的
 『裁かれるは善人のみ』を新宿武蔵野館で見ました。 (1)評判が良いのを耳にして、これもまたひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。  本作(注1)の冒頭では、北極圏の海岸の酷く荒涼とした風景がじっくりと映し出されます。朽ちて竜骨や肋骨がむき出しになっ... >READ

2015.12.12

>>裁かれるは善人のみ from 1964大阪生まれのネタバレ全開映画駄話
2015/11/10 テアトル梅田 6/10 皆が口揃えて いい作品ですねぇ なんて言われてる代物にはかなり警戒心抱くんですけどこれはまたゴールデングローブやら カンヌやらいろいろ箔もついてるみたいでそんなに言うならお手並み拝見といきましょうかてな具合に出かけたんです… >READ

2016.01.13

プロフィール

Nick

Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03 
カテゴリ
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

タグクラウド

広告



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
Powered By FC2ブログ


ブログランキングに参加しました。

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード
QR