バフマン・ゴバディ 『サイの季節』 詩人が示す沈黙
監督のバフマン・ゴバディはイラン出身のクルド人(ウィキペディアによれば、クルド人は「独自の国家を持たない世界最大の民族」とのこと)。ゴバディは2009年に『ペルシャ猫を誰も知らない』を無許可で撮影したために、亡命生活を余儀なくされ、この作品はトルコで撮影されたもの。実在するクルド系イラン人の詩人サデッグ・キャマンガールが、主人公サヘルのモデルとなっている。

サヘルは詩集『サイの最後の詩』を出版し、美しい妻ミナ(モニカ・ベルッチ)と共に幸せな日々を送っていた。ミナは司令官の娘であり、彼らは運転手付きの車を持つほど裕福な生活だった。しかし1977年にイラン革命が起きると状況は一変する。サヘルは「反体制的な詩を書いた」としてミナと共に逮捕される。
イラン革命が目指したもの何なのかよく知らないのだけれど、革命後には世界は一変し、支配者が被支配者に取って代わられることになる。それまで政府の中枢にいたものはことごとく逮捕され、それまで不遇の立場にいた者が凱歌を挙げる。上の者が下になり、下の者が上になるだけが革命の本義ではないのだろうが、なかには政治の混乱をうまく利用したものもいる。
混乱に乗じてサヘルたち夫婦を陥れたのは、彼らの運転手だったアクバルという男。アクバルはふたりに仕えながらも、ミナに横恋慕していたのだ。アクバルは髭で覆われた顔からは想像もつかないほどロマンチストらしく、こっそり彼女の口紅を舐めたりもする(なかなか破壊的なシーンで、アクバルを演じるユルマズ・エルドガンのねちっこい感じがいい)。さらにその想いを秘めていることもできずに、ミナに愛を告白して司令官の部下たちにボコボコにされたりする。
不遇な立場にあったアクバルは、革命後には新体制側に回る。そして裏でうまく立ち回り、サヘルとミナの仲を引き裂き、サヘルを死んだことにしてミナを自分のものにしてしまう。30年経ってようやく牢屋から出てきたサヘルは、自分の墓標を発見することになる。
※ 以下、ネタバレもあり!


若いときのサヘル(カネル・シンドルク)はミナと夢を語り合っていたが、30年後のサヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は沈黙を保っている。(*1)サヘルはミナを追ってトルコにたどり着くのだが、最後までミナに正体を打ち明けたりはしない(もはやミナにとって彼は死者であるわけだから)。詩人が操るのは言葉であるはずだが、言葉にできない30年分の“何か”をサヘルのその沈黙が感じさせる。
監督のバフマン・ゴバディは、その沈黙を表情のクローズアップと背景のコントラストで示す。何げないシーンのようで妙に印象深いのは、近景と遠景の差異を意識させる画面づくりがなされているからだろうか。車のフロントガラス越しに視線の先にあるミナの家を眺める様子は胸に迫ってくるものがあるし、黒い海が広がる手前で白い波しぶきが上がったりもする場面は鮮烈だった。
時代に翻弄されるふたりの物語はわかりやすいが、動物たちが登場してくるエピソードはその意味を掴みかねる部分もある。サヘルが詩に詠んでいたサイの姿も登場するのだが、この場面は現実なのか彼の詩のイメージなのかは曖昧だ(トルコでは野生のサイが群れをなして走り回るのは普通の風景なのだろうか)。
さらには『マグノリア』のカエルみたいに亀が空から降ってくる場面もあるし、車の助手席には馬が親しげに顔を突っ込んでくる。その意味はわからないが、サヘルの心象風景が詩的なイメージとなって表現されているのだろう。サヘルという詩人の、言葉にできない想いがそうした幻想として表現されているのかもしれないし、ゴバディ監督の過去作には『亀も空を飛ぶ』とか『酔っぱらった馬の時間』という作品もあるらしいので、そのあたりとの関係があるのかもしれない。
サヘルがその身体に刻むのは、「境界に生きる者だけが、新しい祖国を作ることができる」という言葉。しかも、それは彫師をしているミナの手によって刻まれる。サヘルは生者であり死者でもある存在だ。そんな境界に生きる彼の決断は、ミナと彼女の子供たちにとっての「新しい祖国」という“自由”につながることになったのだろうと思う。(*2)
(*1) 30年後のサヘルを演じるベヘルーズ・ヴォスギーは、イランのかつての大スターだった人だとか。ベヘルーズ・ヴォスギー自身もイラン革命後に映画に出ることができなくなり、本作品が35年ぶりの復帰作。
(*2) かなり特殊な三角関係の物語でもあるわけで、ラストは某フランス映画を想起させるような……。





サヘルは詩集『サイの最後の詩』を出版し、美しい妻ミナ(モニカ・ベルッチ)と共に幸せな日々を送っていた。ミナは司令官の娘であり、彼らは運転手付きの車を持つほど裕福な生活だった。しかし1977年にイラン革命が起きると状況は一変する。サヘルは「反体制的な詩を書いた」としてミナと共に逮捕される。
イラン革命が目指したもの何なのかよく知らないのだけれど、革命後には世界は一変し、支配者が被支配者に取って代わられることになる。それまで政府の中枢にいたものはことごとく逮捕され、それまで不遇の立場にいた者が凱歌を挙げる。上の者が下になり、下の者が上になるだけが革命の本義ではないのだろうが、なかには政治の混乱をうまく利用したものもいる。
混乱に乗じてサヘルたち夫婦を陥れたのは、彼らの運転手だったアクバルという男。アクバルはふたりに仕えながらも、ミナに横恋慕していたのだ。アクバルは髭で覆われた顔からは想像もつかないほどロマンチストらしく、こっそり彼女の口紅を舐めたりもする(なかなか破壊的なシーンで、アクバルを演じるユルマズ・エルドガンのねちっこい感じがいい)。さらにその想いを秘めていることもできずに、ミナに愛を告白して司令官の部下たちにボコボコにされたりする。
不遇な立場にあったアクバルは、革命後には新体制側に回る。そして裏でうまく立ち回り、サヘルとミナの仲を引き裂き、サヘルを死んだことにしてミナを自分のものにしてしまう。30年経ってようやく牢屋から出てきたサヘルは、自分の墓標を発見することになる。
※ 以下、ネタバレもあり!


若いときのサヘル(カネル・シンドルク)はミナと夢を語り合っていたが、30年後のサヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は沈黙を保っている。(*1)サヘルはミナを追ってトルコにたどり着くのだが、最後までミナに正体を打ち明けたりはしない(もはやミナにとって彼は死者であるわけだから)。詩人が操るのは言葉であるはずだが、言葉にできない30年分の“何か”をサヘルのその沈黙が感じさせる。
監督のバフマン・ゴバディは、その沈黙を表情のクローズアップと背景のコントラストで示す。何げないシーンのようで妙に印象深いのは、近景と遠景の差異を意識させる画面づくりがなされているからだろうか。車のフロントガラス越しに視線の先にあるミナの家を眺める様子は胸に迫ってくるものがあるし、黒い海が広がる手前で白い波しぶきが上がったりもする場面は鮮烈だった。
時代に翻弄されるふたりの物語はわかりやすいが、動物たちが登場してくるエピソードはその意味を掴みかねる部分もある。サヘルが詩に詠んでいたサイの姿も登場するのだが、この場面は現実なのか彼の詩のイメージなのかは曖昧だ(トルコでは野生のサイが群れをなして走り回るのは普通の風景なのだろうか)。
さらには『マグノリア』のカエルみたいに亀が空から降ってくる場面もあるし、車の助手席には馬が親しげに顔を突っ込んでくる。その意味はわからないが、サヘルの心象風景が詩的なイメージとなって表現されているのだろう。サヘルという詩人の、言葉にできない想いがそうした幻想として表現されているのかもしれないし、ゴバディ監督の過去作には『亀も空を飛ぶ』とか『酔っぱらった馬の時間』という作品もあるらしいので、そのあたりとの関係があるのかもしれない。
サヘルがその身体に刻むのは、「境界に生きる者だけが、新しい祖国を作ることができる」という言葉。しかも、それは彫師をしているミナの手によって刻まれる。サヘルは生者であり死者でもある存在だ。そんな境界に生きる彼の決断は、ミナと彼女の子供たちにとっての「新しい祖国」という“自由”につながることになったのだろうと思う。(*2)
(*1) 30年後のサヘルを演じるベヘルーズ・ヴォスギーは、イランのかつての大スターだった人だとか。ベヘルーズ・ヴォスギー自身もイラン革命後に映画に出ることができなくなり、本作品が35年ぶりの復帰作。
(*2) かなり特殊な三角関係の物語でもあるわけで、ラストは某フランス映画を想起させるような……。
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