キム・ギドク 『アリラン』

『アリラン』 キム・ギドク三年ぶりの新作

 『アリラン』はギドクに心酔している私にとっては貴重な体験だった。ギドクの言葉を90分間も聞ける機会はざらにはないし、髪を梳かすギドクの姿なんて多分二度とお目にかかれないだろう。『アリラン』はリハビリ的な意味もあるだろうが、このあとに『アーメン』『ピエタ』という2つの作品の名前も聞かれるようになり、ファンとしては嬉しい限りだ。

(以下、ネタばれを含みます。ギドクに関してはあまり関係ないとは思いますが……。)

 寂れた山小屋のなかに引きこもるギドク。三年ぶりの新作はそんなギドクの姿を映し出す。
 冒頭からしばらくは、ギドクが山小屋のなかでひとり生活する姿が描かれる。眠りから覚め山小屋に設えたテントから抜け出し、外に出て水を汲んで顔を洗う。暖をとるために板切れを割り、ストーブにそれをくべる。手製のエスプレッソメーカーでコーヒーを飲み、動物のように穴を掘って用便を済ます。相棒は猫一匹で、そんな猫同様にただ生きること(生活すること)そのものが描かれる。
 その中心にあるのは食べることだ。赤いトマト、黄色いカボチャ、白い豆などギドクは貪るように食う。ラーメンやキムチなども食すが、燻製のような半身を削がれ頭部のみになったサケに象徴されているように、生きることが自然からすべてを与えられることだと示している。
 動く被写体としては猫以外はギドクしかいないわけで、自分でカメラを動かそうとすれば被写体がなく、自分にカメラを向ければ当然カメラは固定せざるを得ない。そんな制約のなかで細かいカットをつなぎ、どこか荒んだ生活を映し出す。インタビューでもひとりでの撮影の大変さをもらしていたが、冒頭の編集に関しては楽しんでいたのではないだろうか。汚れてひび割れたかかとのアップや、鮮やかな食材の色、豆の割れる音などを交えて小気味いいテンポを作り出している。

 ギドクはカメラに向かって語りだす。ギドクは2008年の『悲夢』以降、映画が撮れなくなった。撮影中の事故で女優が死にかけたことが、ギドクに強い衝撃を与え、映画を撮ることの意味を考え直さざるを得なくなったのだ。そんなギドクにもうひとりのギドクが語りかける。ギドクに疑問を投げかけ叱咤するもうひとりのギドクは、<ありのままのギドク>と説明される。10年ちょっとの間で15本もの映画を世に送り出した、かつてのギドクの姿だ。そのほかにも<影のギドク>も登場したり、撮影したばかりの『アリラン』の映像に「笑わせる」とチャチャを入れる<傍観者のギドク>も現れる。そんな別の自分たちとの語らいのなかで、ギドクは悩み、葛藤し、怒り、泣き出す。そしてカメラに自分の想いを吐露するのだ。
 これまでのギドク作品では登場人物たちの過去はあまり描かれなかった。しかしこの作品はそれまでのギドクの映画や人生を振り返るような意味を持っているようだ。過去に目を向けるのは、何かにぶつかって前に進めなくなったことの表れだろう。
 ギドクはこう語る。

「私は今、映画を撮れない。だから、自分を映画にして撮っている。
その中で私自身の人生を語り、映画監督キム・ギドクと人間キム・ギドクを語る。
これはドキュメンタリーでもドラマでもあり、ファンタジーでもある。
なんの計画もないが、今、何かを撮らなければ幸せになれないから、自分を撮っている。」


 だから『アリラン』は一種の引きこもりに対するギドクなりの治療でもある。
 自分たちとの対話のなかで『春夏秋冬そして春』の冬の場面が登場する。そこでのギドク自身の姿を観ながら、ギドクが慟哭する。ここで流れるのがアリランの歌であり、それがギドクの心に染み入っていく。アリランは「自らを悟る」という意味のある朝鮮民謡であり、「上り坂、下り坂」という歌詞は人生そのものなのだ。
 ギドクは「映画をつくることは人生を理解するための試みだ」と、ある本のなかで語っている。映画は生きることそのものと言ってもいい。これまでのギドクの映画がそうであったように、『アリラン』も人生の理解のためにある。私がギドクに惹かれるのも、そんな人生に対する真摯な姿勢にあるのだと思う。

 後半になるとギドクは弟子の裏切りについて語り出し、カメラに向かって罵詈雑言を浴びせる。ギドクを慕ってきた弟子が資本主義の誘惑に負けて去っていったというのだ。自分でも語っているようにギドクは純粋すぎるのだろう。様々理由はあるのかもしれないが『悲夢』での事故も、弟子の裏切りも、ひとつのきっかけにすぎないのかもしれない。人生には上り坂があれば下り坂もある。いつまでも上り続けることは不可能だし、やはり下ったらまた上りださなければならない。
 冒頭の生活場面でも山小屋のドアがノックされる場面があった。ギドクはドアを開けて外を確認するが、すぐに山小屋に引っ込んでしまう。(このノックの音はギドクによれば、ファンからの呼びかけとのことだ。)後半で怒りを爆発させたギドクは、再びノックの音を聞くと、薄暗い山小屋から明るい外の世界に出て行く。そして手製の銃を忍ばせて、裏切った弟子に復讐しに行く(と解釈できる)。
 復讐のエピソードからも明らかだが、これは『リアル・フィクション』にそっくりだ。『リアル・フィクション』では、主人公の分身である<もうひとりの自分>が登場して、主人公の絵描きを挑発した。お前を虐げた奴らに復讐しろと。絵描きはそれに促されて復讐を開始する。そして、その復讐は絵描きに安らぎを与えた。陽光差す画廊(?)でのわずかな眠りがそれだ。その復讐を開始する際に、<もうひとりの自分>は絵描きによって殺害される。つまり<もうひとりの自分>を殺すことで絵描きは前に進んだのだ。
 これを踏まえて『アリラン』を考えれば、ラストのギドクの自殺の意味も明らかになるだろう。ここでは自殺は否定的な意味ではないのだ。ギドクは<引きこもったギドク>を自殺させることで、自身が落ち込んだ境遇からの脱出を企図していると言える。
 また『リアル・フィクション』でも虚構(絵描きの幻想)と現実が曖昧になっていったが、『アリラン』でもギドクがカメラに向かって語る部分は現実に近いが、後半のエピソードは創作だ。ギドクが語るように『アリラン』はドキュメンタリーでもあり、ファンタジーでもあるのだ。そして生活そのものを映画という虚構にしようとするギドクにとっては、現実も虚構も明確に分けられるものではない。ギドクのなかでは、映画という虚構も現実と同じ重みを持っている。だとすれば『アリラン』に描かれたギドクの自殺は、現実世界での別のギドクの復活へと結びついていくものだろう。復活したギドクがかつての<ありのままのギドク>なのかはわからないが、再びギドクの映画に会えることは私にとってなによりの朗報だ。

↓ ギドクの過去作品について書いています。
http://kidukmugen.web.fc2.com/


 最後にひとつ疑問を。
 ギドクは『アリラン』のなかで、『悲夢』のころには“死”をテーマにしていたと語っている。ただ、“死”は簡単に描くべきものではないと自分で戒めてもいる。それは誰にとっても経験できるものではないからだという。『アリラン』での自殺前には、『悲夢』で登場した「寺の壁に描かれた絵」(↓ 画像添付しました)が登場する。『悲夢』でも登場人物の自殺の際にそれが映される。これは韓国の普光寺に、実際にあるもののようだ。仏像のモチーフに「龍に乗る観音」「騎龍観音」というのがあるそうだが、私が調べた限りでは、ギドクが『悲夢』でも『アリラン』でもそれを挟み込んできた理由として納得できるものはなかった。そこが明らかになれば、ギドクの“死”に対する意識が見えてくる気がするが……。

『悲夢』のなかの騎龍観音?

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Date: 2012.03.13 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

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