『ターナー、光に愛を求めて』 マイク・リーの新機軸?
『秘密と嘘』『家族の庭』などのマイク・リー監督の最新作。
『ハリー・ポッター』シリーズのピーター・ぺティグリュー役でも知られるティモシー・スポールは、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を獲得した。

イギリスの庶民の生活を取り上げることが多いマイク・リー監督だが、今回の題材は実在したロマン主義の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年~1851年)である。(*1)絵画の素人が見ると、印象派っぽいが、時代はターナーのほうが先だ。イギリスでは最も有名な画家とのことで、夏目漱石も『坊っちゃん』のなかでターナーに言及している。
『ターナー、光に愛を求めて』はそんなターナーの後半生を描いている。様々なエピソードはターナーの伝記的事実から採られている。たとえば、嵐の海を描くためにマストに自らの身体を縛りつけたり、展覧会で隣の画家の絵に対抗して即興で自らの絵に修正を加えたりしたのも、有名なエピソードなのだそうだ。
マイク・リーのこれまで演出では、事前に脚本はなく、ある程度の設定から即興的に場面を描いていく。こうした手法はいつもの庶民の日常という題材ならば効果を発揮しそうだが、今回のような事実に基づいた物語となると、即興性がどこまで活かされているのかはわからない。その代わり今回の作品で意識されているのは、ターナーが題材を求めて出た旅先で発見する美しい自然の風景の数々だ。
冒頭、オランダの風車の風景が描かれる。黄昏時の光のなかでスケッチブックにペンを走らせるターナーの姿を捉える、ゆっくりとした移動撮影。こんな審美的な映像はマイク・リー作品には珍しい(撮影はこれまでと同じディック・ポープ)。これまでの作品では、それほど広くはない家のなかで家族の小競り合いが描かれるのがほとんどで、四季を描いていた『家族の庭』ですら描写の対象はすぐそばの庭の風景だったのだ。
作品中にはターナーの有名な作品も登場するが、それらの作品そのものをじっくりと見せるよりも、ターナーが題材としたその風景を映画のなかで再現することを狙っているようだ。「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」という代表作に描かれた風景も、ただひたすらに美しい映像として捉えられている。そんな意味ではマイク・リー監督のこれまでの作品とは一味違ったものになっている。
(*1) いつもは現代劇のマイク・リー作品だが、今回はコスチューム・プレイものというかちょっと前の時代の話。日本では劇場未公開だった『トプシー・ターヴィー』は観ていないので詳細はわからないけれど、この作品も「ミカド」という演劇をつくったギルバートとサリヴァンをモデルにしているらしく、現代劇ではないらしい。

ターナーの人物像は捉えどころがない風変わりな印象。ターナーは父親とだけは良好な関係を築いていて、父親も息子の仕事に協力的で、互いに大事な存在となっている。ただ女中に対するターナーの態度にはぶしつけなところがあるし、気が乗らない人の前などではYESともNOともつかない呻き声を漏らすだけで済ましている。その一方で展覧会などでは妙に社交的に振舞ったりもする。
また愛人には子供を産ませ、孫までこしらえているにも関わらず認知することはないし、母親を精神病院に入れたらしいのだが、それを気に病む様子でもない。人間的には問題がある人物だが、画家としての評価があれば、そんなことはターナーには関係ないのかもしれない。晩年は港町の宿屋の未亡人と親しくなって添い遂げるものの、最後まで結婚することはない。そんな意味では人付き合いよりも、芸術を愛しているのだ。
ティモシー・スポールが今までマイク・リー作品で演じてきた役は、どちらかと言えばおどおどして、人生の悲哀に途方に暮れているといった目をしていたのだが、このターナーの目は違う。朝日や夕日の光そのものを捉えようとする鋭い眼光をしているのだ。病いで先が長くないことを知ると「おれの存在が消えるのか」とつぶやくターナーは、それでも最後までスケッチブックを手放すことはない。彼にとっての存在の価値は、そうした光をキャンバスに再現することにあったのだろう。
『ハリー・ポッター』シリーズのピーター・ぺティグリュー役でも知られるティモシー・スポールは、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を獲得した。

イギリスの庶民の生活を取り上げることが多いマイク・リー監督だが、今回の題材は実在したロマン主義の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年~1851年)である。(*1)絵画の素人が見ると、印象派っぽいが、時代はターナーのほうが先だ。イギリスでは最も有名な画家とのことで、夏目漱石も『坊っちゃん』のなかでターナーに言及している。
『ターナー、光に愛を求めて』はそんなターナーの後半生を描いている。様々なエピソードはターナーの伝記的事実から採られている。たとえば、嵐の海を描くためにマストに自らの身体を縛りつけたり、展覧会で隣の画家の絵に対抗して即興で自らの絵に修正を加えたりしたのも、有名なエピソードなのだそうだ。
マイク・リーのこれまで演出では、事前に脚本はなく、ある程度の設定から即興的に場面を描いていく。こうした手法はいつもの庶民の日常という題材ならば効果を発揮しそうだが、今回のような事実に基づいた物語となると、即興性がどこまで活かされているのかはわからない。その代わり今回の作品で意識されているのは、ターナーが題材を求めて出た旅先で発見する美しい自然の風景の数々だ。
冒頭、オランダの風車の風景が描かれる。黄昏時の光のなかでスケッチブックにペンを走らせるターナーの姿を捉える、ゆっくりとした移動撮影。こんな審美的な映像はマイク・リー作品には珍しい(撮影はこれまでと同じディック・ポープ)。これまでの作品では、それほど広くはない家のなかで家族の小競り合いが描かれるのがほとんどで、四季を描いていた『家族の庭』ですら描写の対象はすぐそばの庭の風景だったのだ。
作品中にはターナーの有名な作品も登場するが、それらの作品そのものをじっくりと見せるよりも、ターナーが題材としたその風景を映画のなかで再現することを狙っているようだ。「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」という代表作に描かれた風景も、ただひたすらに美しい映像として捉えられている。そんな意味ではマイク・リー監督のこれまでの作品とは一味違ったものになっている。
(*1) いつもは現代劇のマイク・リー作品だが、今回はコスチューム・プレイものというかちょっと前の時代の話。日本では劇場未公開だった『トプシー・ターヴィー』は観ていないので詳細はわからないけれど、この作品も「ミカド」という演劇をつくったギルバートとサリヴァンをモデルにしているらしく、現代劇ではないらしい。

ターナーの人物像は捉えどころがない風変わりな印象。ターナーは父親とだけは良好な関係を築いていて、父親も息子の仕事に協力的で、互いに大事な存在となっている。ただ女中に対するターナーの態度にはぶしつけなところがあるし、気が乗らない人の前などではYESともNOともつかない呻き声を漏らすだけで済ましている。その一方で展覧会などでは妙に社交的に振舞ったりもする。
また愛人には子供を産ませ、孫までこしらえているにも関わらず認知することはないし、母親を精神病院に入れたらしいのだが、それを気に病む様子でもない。人間的には問題がある人物だが、画家としての評価があれば、そんなことはターナーには関係ないのかもしれない。晩年は港町の宿屋の未亡人と親しくなって添い遂げるものの、最後まで結婚することはない。そんな意味では人付き合いよりも、芸術を愛しているのだ。
ティモシー・スポールが今までマイク・リー作品で演じてきた役は、どちらかと言えばおどおどして、人生の悲哀に途方に暮れているといった目をしていたのだが、このターナーの目は違う。朝日や夕日の光そのものを捉えようとする鋭い眼光をしているのだ。病いで先が長くないことを知ると「おれの存在が消えるのか」とつぶやくターナーは、それでも最後までスケッチブックを手放すことはない。彼にとっての存在の価値は、そうした光をキャンバスに再現することにあったのだろう。
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