河瀨直美監督の最新作 『あん』 どら焼きだけに口当たりはいいのだが……

 河瀨直美監督の最新作。
 原作はドリアン助川の同名小説。ドリアン助川は河瀨監督の『朱花の月』では明川哲也という名前で役者として出演しているわけで、そうした縁での映画化ということだろうか。

河瀨直美監督 『あん』 主役の樹木希林。その下の内田伽羅はもちろん樹木希林の孫。永瀬正敏もいい味を出している。


 どら焼き屋「どら春」で雇われ店長として働く千太郎(永瀬正敏)は、桜の咲く季節にある老女・徳江(樹木希林)と出会う。徳江は“年齢不問”という求人広告を見て「雇ってくれるか」と訊ねてきたのだった。千太郎は適当な理由をつけて断るのだが、徳江は手作りの粒あんを持って再び現れ……。

 河瀨作品の今度の舞台は東京である。奈良の山の緑(『萌の朱雀』)もなければ、奄美の青い海(『2つ目の窓』)もない。西武線沿線のごく普通の住宅街だ。ただ冒頭(ラストも)の季節は桜のころで、淡い桜色の風景が心地いい空気を生み出している。
 そんな桜を眺めつつ感に堪えないといった様子の徳江が歩いてくる。物語の始まりはあまり流行っていないどら焼き屋に現れた暇を持て余した老女と、やる気の感じられない店長、さらに常連客の中学生ワカナ(内田伽羅)のふれあいを描いていく。
 徳江は小豆の炊くのにも鍋に顔を寄せ、小豆の声に耳を澄ます。そんな真剣さが伝わるのか、鍋のなかの小豆も一粒一粒が輝いて見える。それまで出来合いの粒あんで満足していた千太郎も徳江の作る粒あんの美味しさだけはわかり、次第にどら焼き屋の仕事にものめり込んで行く。
 しかし、あることが問題になる。徳江は手が不自由だったが、それはハンセン病の後遺症だった。徳江の作った粒あんが評判となり、一時は行列までできた「どら春」だが、ある時期からぱったりと客足が途絶えてしまう。オーナー(浅田美代子)は徳江の病気の噂を聞きつけて、千太郎に徳江を追い出すようにと迫る。

『あん』 樹木希林演じる徳江。ちょっと手に違和感はあるがごく普通の老女。

 前半ののんびりした雰囲気が急展開し、ハンセン病とそれに対する差別が主題化される。ほとんど事前の情報もなく観ていた私はいささか戸惑った(ちなみにチラシには病気のことは何も書かれていない)。徳江は手が不自由なことを除けば、ほかに何も問題はなさそうに見えたからだ。
 ハンセン病(らい病)は聖書のなかでもその存在が記されている病で、それが進行すると手足や顔に変形が生じることから忌み嫌われてきた。日本でも「らい予防法」という法律で患者は療養所の隔離されることになっていたのだ。その法律が廃止されたのは1996年だからそれほど昔のことではない。現在では治療法も確立し、患者たちも自由を取り戻したはずだが、社会の側にはいまだに差別が残る。

 被差別者(徳江)とそれを守れなかった者(千太郎)、さらにもしかすると差別されるきっかけをつくったかもしれない者(ワカナ)。3人にはそんな関係がある。また、3人は“囚われの身”になっている点でも似ている部分がある。療養施設に隔離されざるを得なかった徳江と、借金で「どら春」という店に囲われている千太郎、母子家庭で居場所がないのか「どら春」の常連となっているワカナ(加えればワカナが連れている籠の中のカナリアも)。
 3人は療養所で再会する。千太郎とワカナが徳江を訪ねたのは、似たような境遇にあるとも言える徳江から先達の智慧をもらいたかったからなのかもしれない。そして徳江はそうした智慧を手紙にしたためて死んでしまう。
 徳江は小豆の言葉に耳を澄ませと言っていた。小豆には小豆の言葉がある。風には風の言葉がある。月には月の言葉ある。言葉があるというのは、意味があるということだろう。小豆にも風にも月にも意味はあるし、当然われわれ人間にも意味がある。それは次の徳江の言葉へつながっていく。
 

私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。……だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ。


 これは徳江が人生のなかで掴み取った考えで、尤も至極なことである。これを批判することは誰にもできない。それでもこの作品ではそれがあまりにも軽々しく響いた気がしてならなかった。

 なぜかと言えばハンセン病を題材としているわりに、とても口当たりがいいからだ。療養所のなかでは患者らしき人の姿も見られるが、それを如実に映そうとはしない。ワカナがハンセン病の歴史を学ぶための本のなかでは多少は触れられるのだが、具体的な描写は意図的に避けているようにも見える。
 また、徳江を演じている樹木希林はとてもよかったと思うが、良くも悪くも樹木希林にしか見えない。それは徳江の友人・佳子を演じた市原悦子も同じだ。つらい過去を背負ってきたはずのふたりだが、それがいつもテレビで見るお馴染みの顔であるというのは安心はできるけれど、虚構の部分が露わになりすぎて鋭いところまでは届かない気もする。
 ドキュメンタリー作品から出発した河瀬監督ならば、もっと踏み込むことができたはず(見たくない自分の過去なんかも積極的に描いているし)。勝手に推測するに、題材に遠慮があって、その分口当たりがいい泣かせる話になっているようにも思えた(このインタビューでは出資者が見つからなかったと話している)。あまりに塩を効かせすぎると幅広い層の口には合わないということだろうが……。

 そのあたりが気になって映画のあとに原作を読んでみた。原作では徳江の友人・森山(映画では市原悦子が演じた佳子のこと)は「下唇が垂れ、歯茎がのぞいている」ほどハンセン病の後遺症があることになっている。
 徳江から手紙を預かっていた森山は、徳江の言葉を批判する。実際に「小豆の言葉が聞こえるわけがない」と。そして徳江にもそれを認めさせてもいる。しかしそのうえで次のように森山は続ける。

「店長さんたちをがっかりさせちゃいけないんだけど……トクちゃんもその時に言ったの。小豆の言葉なんて聞こえるはずがないって。でも聞こえると思って生きていれば、いつか聞こえるんじゃないかって。そうやって、詩人みたいになるしか、自分たちには生きていく方法がないんじゃないかって。現実だけ見ていると死にたくなる。囲いを越えるためには、囲いを越えた心で生きるしかないんだって」


 「私達には生きる意味がある」という言葉も、そうした葛藤の末にぎりぎりで搾り出した言葉であり、「すべてに意味がある」というのは、「そう思いたいという願い」なのだ。
 映画版ではそのあたりの屈折がなく、さらっとストレートに口に出された感じがしたのだ。しかもその言葉は千太郎やワカナにも共通するものとして述べられている。もちろんそれは間違いではないけれど、背負っているものが明らかに違うわけで、徳江の言葉ということでなければ説得力を欠くと思う(中学を卒業したばかりのワカナがそんなことを語ったとしたら素直に受け取れるわけがない)。
 河瀬監督が描く自然のあり様は都会を舞台にしても魅力的で、療養所の木々の上に浮かぶ月は作られたものみたいに幻想的だったし、患者たちの墓標でもある木が本当に息をしているように見える場面には目を瞠った。それだけにちょっと遠慮気味な部分が残念……。

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Date: 2015.06.11 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

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