デヴィッド・フィンチャー 『ドラゴン・タトゥーの女』

 原作は『ミレニアム』というスウェーデンの小説。すでにスウェーデン版として全3部作が映画化されている。原作の題名を直訳すると「女を憎む男」。主人公リスベットは「男を憎む女」なのだが……(因みに私は原作も読んでいないし、スウェーデン版も未見です)。

デヴィッド・フィンチャー 『ドラゴン・タトゥーの女』

 ある監督の作品が気に入って次の作品を心待ちにするようになると、特にそれが独特な映像世界を造っている作家性の強い監督となればなおさらだが、「この監督は〇〇だ」とか一言で決めてみたくもなるものだ。デヴィッド・フィンチャーの映画を観ると、私もいつもそんなことを考えるのだが、うまくはまる言葉がない。
 宮台真司は、フィンチャーについて、巷間よく言われそうな「スタイリッシュな映像」については凡庸な指摘だと切り捨てて、観客の感情への訴求がない展開をスーパーフラットだと記す。そしてこんなふうに決めている。

 フィンチャーの本質は「道徳から遠く離れて」にある。道徳的視座との過剰な無関連ぶり。これはどう見ても非凡である。    『〈世界〉はそもそもデタラメである』


 これは『ゾディアック』のときの文章だが、過去作に比べオーソドックスな印象を受ける作品を擁護し、フィンチャー作品への誤解を正すべく語られたものだ。『ソーシャル・ネットワーク』もこの視点から論じられている。『ドラゴン・タトゥーの女』についての宮台の見解は知らないが、上記のフィンチャーの本質についてはちょっと首を傾げざるを得ない。フィンチャー作品を貫く支柱の想定は理解できるが、あまり説得的だとは思えない。

 ここ最近のフィンチャー作品『ドラゴン・タトゥーの女』『ソーシャル・ネットワーク』『ベンジャミン・バトン』『ゾディアック』は膨大な量の情報をいかにして物語るかという点に力点が移っているように感じられる。例えば『ソーシャル・ネットワーク』では、頭の切れる学生たちの饒舌な台詞を処理するために、台詞のテンポを早め次の台詞をかぶせ気味に発することで時間を短縮しているそうだ。
 『ドラゴン・タトゥーの女』では、スウェーデンを牛耳るほどの名門一族の闇があり、連続する猟奇的殺人の謎があり、消えた少女の行方が改めて探求され、一族の評伝を書く名目で登場し“招かれざる客”となる記者ミカエルの奮闘が追われていく。とにかく長大な原作を2時間半に詰め込んで、テンポよく物語は展開していく。ジャンルで言えばミステリーなのだが、タイトルにもあるように「ドラゴン・タトゥーの女(=リスベット)」が作品のメインだからか、観客の興味を惹きつける謎はあっけなく解け、『セブン』のように殺人鬼が活躍することもなく、律儀に消えた少女を探し出し、はめられたミカエルの名誉回復にリスベットが策を弄する後日談までを描いている。観客の感情に訴えるならもっといびつに描いてもよさそうだ。リスベットのミカエル救出と殺人鬼との対決、そのあたりのシークエンスをさらに盛り上げることもできたはずだ。しかし意外なくらいにさらっと描いているのだ(宮台が指摘するスーパーフラットだ)。

 ところで、蓮實重彦はどこかで映画における「説話論的な経済性」ということを語っていた。これはいかに簡潔に物語を観客に伝えるかということだ。現在の映画は「説話論的な経済性」が失われて見世物と化しているのだそうな。物語を伝えるよりも、スペクタクルが支配する映画がいかに多いか。
 そもそも映画とは物語を伝えるメディアとしてあった。そんなふうに考えると、フィンチャーの意図は端的に物語を伝えることの重視にあるのではないか(身もふたもない結論だが、作家性という名の自己主張みたいなものを見出すほうが間違っていたのかも)。『セブン』や『ファイト・クラブ』の印象もあって独自の世界観を期待しまうのだが、フィンチャーは一種の“職人”なのではないか。
 もともとフィンチャーはPV製作から映画業界に入ってきた人だ。そのころからいわゆる「スタイリッシュ」な映像とやらを造ることに長けていた。マドンナの「Vogue」やストーンズの「Love Is Strong」のPVもフィンチャーが手がけたものらしい。
 個人的な記憶をたどれば、私も当時の『MTV』や『ベストヒットUSA』などでそうしたフィンチャー作品を知らぬうちに見てきた。初期のフィンチャーの作品であるPaula Abdulの一連のヒット曲「Straight Up」、「Forever Your Girl」、「Cold Hearted」、「Opposites Attract」を見てもわかるが、何しろ器用で多才なのだ。黒と白のコントラストが印象的な映像もあれば、『フラッシュダンス』のパロディめいたものがあり、『ロジャー・ラビット』ばりのアニメキャラクターとの競演までしている。ジャネット・ジャクソンの振り付け師だったPaula Abdulは才能のある人なのかもしれないが、フィンチャーの手がけた「Straight Up」が成功のきっかけとなっている(デビューアルバムから4曲ものビルボードチャート1位を獲得!)。フィンチャーのPVが果たした役割も小さいものではないはずだ。もちろんPVにはフィンチャーの作家性などない。曲とPaula Abdulのダンスを売るためのプロモーションに資することが重要なのだから。
 マルチな才能があるからといって、その才能を自らの主張やモチーフに振り向ける必要もないのだ。作家性よりも“職人”としての仕事ぶりをもっと注視すると、その堅実な仕事が見えてくる。『セブン』みたいな題材にはグロテスクさをたっぷりと見せたりもするが、『ソーシャル・ネットワーク』では若者たちの愛憎を台詞劇に徹して描いても飽きさせることはない。『ドラゴン・タトゥーの女』でも連続殺人が起こるが、それは警察の証拠資料として登場するくらいで、描くべきはリスベットというちょっと風変わりで複雑な女の存在なのだ(過去の体験からか男を憎みつつも、なぜかミカエルには惹かれている)。だからミカエルに会う前のリスベットの悲惨なエピソードは丹念に追われている。描くべき物語(脚本)に対していかに効果的に接近するかという点がフィンチャーにとって重要なのだろう。それが「説話論的な経済性」と呼べるかは私にはわからないが、フィンチャーはアーティスティックな世間的イメージと違って職人的な監督なんじゃないかと思う。



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Date: 2012.07.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

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