『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』 「映画が歌っている」とは?
『月光の囁き』『害虫』『どろろ』などの映画監督・塩田明彦の映画美学校での講義をもとにした本。
映画監督の映画論であるから、実作者の視点から映画が捉えられるわけで指摘はとても具体的。さらにこの講義の生徒たちは俳優志望であり、俳優の動かし方や演出のつけ方などに主眼をおいた構成になっているところがユニークなところ。(*1)講義は名作映画の一場面を観ながら、それについて解説するという形式で、この本にもそれらの連続写真が掲載されていて非常にわかりやすい。
題名はトリュフォーがヒッチコックをインタビューした、あの『映画術』からとられている。

この本を読むと、もしかすると作品そのものを観るよりも、その映画がわかった気になるかもしれない。塩田は実作者であって映画評論家ではないから、ときに「僕の感覚」だと言い訳してみたり、「こんな適当なことを話していいのか」などと逡巡してみたりするのだが、その思い込みのような部分にこそ鋭い指摘がなされている。講義をもとにしているから文章は平易で親しみやすいけれど、素人がただ漫然と映画を観ていただけでは気がつかないような発見がある。リストに挙げられている映画とともに繰り返し参照したくなる本になっていると思う。
この講義で二度に渡って取り上げられている増村保造監督の『曽根崎心中』は、私も以前どこかの名画座あたりで観た。とにかく異様に高いテンションで引き込まれるようにして観たことは覚えている。(*2)
『曽根崎心中』の台詞回しは、リアリティとはかけ離れている。登場人物の誰もが朗々としゃべるからだ。「曽根崎心中」は人形浄瑠璃をもとにしているわけで、浄瑠璃の節回しなどに影響されているのかもしれないが、塩田はそうした台詞で綴られる映画を「音楽」として論じている。サウンドトラックなど映画に使用される音楽について論じるのではなく、『曽根崎心中』という映画そのものに「音楽を感じる瞬間」があり、「映画が歌っている」という感覚があるということだ。
そうした繰り返しが何を生むのかと塩田は考え、「魔術的な次元」が開くと表現しているのだが、私が最初にこの映画を観たときに“異様なテンション”と感じたのも、このあたりにあるような気もする。
それから『曽根崎心中』で主役を演じる梶芽衣子の目の演技に関しては、「視線と表情」(第3回)でも論じられている。ここではまず小津安二郎『秋刀魚の味』の岩下志麻の表情が分析される。小津は目の演技を嫌ったようで、小津映画の登場人物は能面のような表情になるわけだが、増村の『曽根崎心中』はその対極にある。

『曽根崎心中』の梶芽衣子は終始目を見開いている。何かを凝視しているというのではなく、最初から最後まで何も見ていない。塩田は梶芽衣子が見ているのは“死”そのものだと語る。確かに心中の場面では、ふたりは向き合って最期のときを迎えるのだが、互いにあさってのほうを向いて両親への想いを口にしたりする。相手を想うというよりも、もはや死んで極楽浄土へと生まれ変わることを見据えている。女の意地を貫き通し、死んであの世で夫婦になるのを望む、そんな「死にたくてしょうがない」稀有なヒロインということで、この映画の梶芽衣子が「異常に体温が高い」という指摘も頷ける。
そのほかにも『乱れる』を題材に成瀬巳喜男の動線設計を論じる箇所や、『座頭市物語』における三隅研次の演出した動きについて、『復讐は俺に任せろ』でのフリッツ・ラングの今や失われたハリウッド映画の話法など、「なるほど」と納得させられることばかりだった。
塩田明彦の監督作品はほとんど観ているのだが、去年の『抱きしめたい -真実の物語-』は障害を持つ女性の恋愛で泣かされる話ではあったのだが(一方で前向きでもあった)、いまひとつピンと来なかったというのが正直なところ。ただ、この本を読むと自分がいかに映画を観ていないかということも知らされるわけで、改めて『抱きしめたい』を観直してみれば、塩田監督の演出において新たな発見もあるかもしれない……。
(*1) 映画において最初に撮りたいものは面白い動き、面白い出来事ではあるけれど、最後に頼りにしてすがりつくのは俳優であるという告白もある。
(*2) 今回、久しぶりにDVDで観た。新宿TSUTAYAにはレンタルがあるが、回転率が高く何度か無駄足を踏むことになった。セルDVDはもう中古しかないようだ(しかも高価)。
塩田明彦の作品
映画監督の映画論であるから、実作者の視点から映画が捉えられるわけで指摘はとても具体的。さらにこの講義の生徒たちは俳優志望であり、俳優の動かし方や演出のつけ方などに主眼をおいた構成になっているところがユニークなところ。(*1)講義は名作映画の一場面を観ながら、それについて解説するという形式で、この本にもそれらの連続写真が掲載されていて非常にわかりやすい。
題名はトリュフォーがヒッチコックをインタビューした、あの『映画術』からとられている。
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第1回「動線」:『西鶴一代女』『乱れる』『裸のキッス』
第2回「顔」:『月光の囁き』『サイコ』『パリの灯は遠く』『顔のない眼』
第3回「視線と表情」:『散り行く花』『秋刀魚の味』『許されざる者』『曽根崎心中』『スリ』『少女ムシェット』
第4回「動き」:『工場の出口』『雪合戦』『ザ・ミッション 非情の掟』『座頭市物語』『大菩薩峠』『ドラゴン・イン 新龍門客棧』
第5回「古典ハリウッド映画」:『復讐は俺に任せろ』『ビッグ・ガン』『はなればなれに』『シェルブールの雨傘』
第6回「音楽」:『緋牡丹博徒 花札勝負』『男はつらいよ フーテンの寅』『曽根崎心中』『この子の七つのお祝いに』『遊び』
第7回「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」:『マジェスティック』『ミニー&モスコウィッツ』『こわれゆく女』『恋人たちは濡れた』『悶絶!! どんでん返し』
この本を読むと、もしかすると作品そのものを観るよりも、その映画がわかった気になるかもしれない。塩田は実作者であって映画評論家ではないから、ときに「僕の感覚」だと言い訳してみたり、「こんな適当なことを話していいのか」などと逡巡してみたりするのだが、その思い込みのような部分にこそ鋭い指摘がなされている。講義をもとにしているから文章は平易で親しみやすいけれど、素人がただ漫然と映画を観ていただけでは気がつかないような発見がある。リストに挙げられている映画とともに繰り返し参照したくなる本になっていると思う。
この講義で二度に渡って取り上げられている増村保造監督の『曽根崎心中』は、私も以前どこかの名画座あたりで観た。とにかく異様に高いテンションで引き込まれるようにして観たことは覚えている。(*2)
『曽根崎心中』の台詞回しは、リアリティとはかけ離れている。登場人物の誰もが朗々としゃべるからだ。「曽根崎心中」は人形浄瑠璃をもとにしているわけで、浄瑠璃の節回しなどに影響されているのかもしれないが、塩田はそうした台詞で綴られる映画を「音楽」として論じている。サウンドトラックなど映画に使用される音楽について論じるのではなく、『曽根崎心中』という映画そのものに「音楽を感じる瞬間」があり、「映画が歌っている」という感覚があるということだ。
増村の『曽根崎心中』の特徴は、この独特のグルーヴ感です。ひたすら似たような台詞を反復していって、執拗に繰り返して繰り返して、独特のグルーヴ感を出していく。
(略)
たとえば誰かが「お前を殺したい!」と言って、ぐっと溜めてから次の……ってことはやらなくて、「殺したい! 殺す! 殺したるでえ!」まで言わせる。そういう極端な芝居をさせるんです。(p.206)
そうした繰り返しが何を生むのかと塩田は考え、「魔術的な次元」が開くと表現しているのだが、私が最初にこの映画を観たときに“異様なテンション”と感じたのも、このあたりにあるような気もする。
それから『曽根崎心中』で主役を演じる梶芽衣子の目の演技に関しては、「視線と表情」(第3回)でも論じられている。ここではまず小津安二郎『秋刀魚の味』の岩下志麻の表情が分析される。小津は目の演技を嫌ったようで、小津映画の登場人物は能面のような表情になるわけだが、増村の『曽根崎心中』はその対極にある。

『曽根崎心中』の梶芽衣子は終始目を見開いている。何かを凝視しているというのではなく、最初から最後まで何も見ていない。塩田は梶芽衣子が見ているのは“死”そのものだと語る。確かに心中の場面では、ふたりは向き合って最期のときを迎えるのだが、互いにあさってのほうを向いて両親への想いを口にしたりする。相手を想うというよりも、もはや死んで極楽浄土へと生まれ変わることを見据えている。女の意地を貫き通し、死んであの世で夫婦になるのを望む、そんな「死にたくてしょうがない」稀有なヒロインということで、この映画の梶芽衣子が「異常に体温が高い」という指摘も頷ける。
そのほかにも『乱れる』を題材に成瀬巳喜男の動線設計を論じる箇所や、『座頭市物語』における三隅研次の演出した動きについて、『復讐は俺に任せろ』でのフリッツ・ラングの今や失われたハリウッド映画の話法など、「なるほど」と納得させられることばかりだった。
塩田明彦の監督作品はほとんど観ているのだが、去年の『抱きしめたい -真実の物語-』は障害を持つ女性の恋愛で泣かされる話ではあったのだが(一方で前向きでもあった)、いまひとつピンと来なかったというのが正直なところ。ただ、この本を読むと自分がいかに映画を観ていないかということも知らされるわけで、改めて『抱きしめたい』を観直してみれば、塩田監督の演出において新たな発見もあるかもしれない……。
(*1) 映画において最初に撮りたいものは面白い動き、面白い出来事ではあるけれど、最後に頼りにしてすがりつくのは俳優であるという告白もある。
(*2) 今回、久しぶりにDVDで観た。新宿TSUTAYAにはレンタルがあるが、回転率が高く何度か無駄足を踏むことになった。セルDVDはもう中古しかないようだ(しかも高価)。
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