『ジミー、野を駆ける伝説』 大地と自由と歴史と
『ケス』『麦の穂をゆらす風』『天使の分け前』などのケン・ローチの最新作。
原題は「Jimmy's Hall」で、これはジミーたちが作り上げた集会場のこと。このホールは「ピアース&コノリー・ホール」が正式名称で、独立運動の指導者の名前から付けられている。ジェームズ・コノリーについては『麦の穂をゆらす風』でも話題となっていた。
『ジミー、野を駆ける伝説』の冒頭では、アイルランドの歴史的背景が字幕で説明されているが、そのあたりの事情はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した『麦の穂をゆらす風』に詳しい。
『麦の穂をゆらす風』は、イギリスの支配からの独立を勝ち取るため、義勇軍として戦うことになる兄弟を描いている。彼らはイギリスから休戦協定を得たものの、北アイルランドを認めるか否かで袂を分かち、兄弟は内戦のなかで敵味方に別れて争うことになる。『ジミー、野を駆ける伝説』は、その内戦から約10年を経たあとの話で、ジミー・グラルトンは実在した人物である。

1932年、アメリカからジミー・グラルトン(バリー・ウォード)が帰ってくる。ジミーは地域のリーダー的存在で、ホール建設でも中心的役割を果たしていた。10年ぶりに祖国の地を踏んだジミーは、そこで年老いた母親とのんびり過ごそうと考えていたのだが……。
リーダーになる人物には、どこか人をひきつける魅力があるようだ。ジミー・グラルトンもそうで、彼が強固な政治的信念を持っていたようには見えないのだが、彼の行くところには人が集まってくる。ホールの再開もジミーが積極的に働きかけたものではなかった。かつてそのホールの活動のおかげで教会から目の敵にされ、国外へと逃げざるを得なくなったのだから。
けれども何もないアイルランドの片田舎で、そのホールのことは伝説となっていて、ジミーも噂の人となっていた。若者たちは教会の監視の下に健全なダンスしたいわけではなく、自分たちの自由な場所を求めていたのだ。それを可能にしてくれるのがジミーであると信じられ、ジミーは人々の先頭に立つことになる。
そんなホールの再開を快く思わないのが、カトリック教会のシェリダン神父(ジム・ノートン)だ。ジミーたちがホールですることは、ダンスや歌、芸術やスポーツなど様々だが、それが唯一の権威である教会を揺るがすとでも言うように、ジミーたちをあからさまに弾圧していく。ジミーたちにとって教会とその取り巻きはファシストに思えるが、教会から見るとジミーたちは危険な共産主義者に見えるようだ。そうした対立は幾分か誤解も含んでいるように思えるが、両者は歩み寄ることはできない(その後の歴史の趨勢を見れば、誤解とは言えないのかもしれないが)。

シェリダン神父は保守的で、カトリックの教えを守ることが村やアイルランドのためになると信じている。ジミーは教会に反対するわけではないが、「ただ生存するためではなく、喜びのために生きよう、自由な人間として」という演説の言葉にもあったように、“自由”を何よりも重んじている。シェリダン神父とジミーは真っ向から対立しあいながらも、一方では認め合う部分もある。
ケン・ローチの視線はいつも労働者階級や弱者に向けられている。この映画も当然ジミーたちの側に寄り添っている。しかし、シェリダン神父がまったくの敵対者として描かれるわけでもない。神父は「あなたの心の中には、愛よりも憎悪が多い」というジミーの言葉に心動かされもする。神父には神父なりの信念があり、その強引な押し付けも善意によるものということなのだろう。
『麦の穂をゆらす風』では、兄弟が内戦で殺し合うことになってしまうわけだが、それぞれの立場には言い分があった。どちらかが完全に間違っているなどというわけではない。(*1)『ジミー』においても、神父の側が完全に悪とされているわけではない。それぞれの立場での正義のせめぎ合い、その結果として歴史がつくられていく、ケン・ローチはそんな見方をしているのかもしれない(「歴史に善悪はない」などとも言うのだとか)。
ジミーはまた国外へと追放されてしまうが、“自由”への想いは皆に伝わっているわけで、悲劇としか言いようがない『麦の穂をゆらす風』の時代よりは一歩前進したように思えた。ジミーと昔の恋人(シモーヌ・カービー)との暗闇のなかのダンスが地味ながら印象的で、ふたりの心のなかだけに音楽が流れ出すといった演出もよかった。
ケン・ローチ監督の作品では新鮮な顔が登場することも多い。『リフ・ラフ』で主役だったロバート・カーライルは、その後『トレインスポッティング』『フル・モンティ』などで活躍するような俳優になった。前作『天使の分け前』のポール・ブラニガンは素人だったようだが、その後『アンダー・ザ・スキン』にも顔を出していた。『ジミー』のバリー・ウォードは演劇の出身だそうだが、映画では初主演とのこと。なかなか渋い男で、今後は映画のほうでも活躍しそうな感じもする。
(*1) 『麦の穂をゆらす風』では、アイルランドの義勇軍のひとりは、イギリスでの収容所生活が最高の日々だったとも語っている。支配者であるイギリスの良さも認めているのだ。
『麦の穂をゆらす風』はアイルランドの映画だが、監督であるケン・ローチはイギリス人であり、複雑な立場だ。


ケン・ローチの作品
原題は「Jimmy's Hall」で、これはジミーたちが作り上げた集会場のこと。このホールは「ピアース&コノリー・ホール」が正式名称で、独立運動の指導者の名前から付けられている。ジェームズ・コノリーについては『麦の穂をゆらす風』でも話題となっていた。
『ジミー、野を駆ける伝説』の冒頭では、アイルランドの歴史的背景が字幕で説明されているが、そのあたりの事情はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した『麦の穂をゆらす風』に詳しい。
『麦の穂をゆらす風』は、イギリスの支配からの独立を勝ち取るため、義勇軍として戦うことになる兄弟を描いている。彼らはイギリスから休戦協定を得たものの、北アイルランドを認めるか否かで袂を分かち、兄弟は内戦のなかで敵味方に別れて争うことになる。『ジミー、野を駆ける伝説』は、その内戦から約10年を経たあとの話で、ジミー・グラルトンは実在した人物である。

1932年、アメリカからジミー・グラルトン(バリー・ウォード)が帰ってくる。ジミーは地域のリーダー的存在で、ホール建設でも中心的役割を果たしていた。10年ぶりに祖国の地を踏んだジミーは、そこで年老いた母親とのんびり過ごそうと考えていたのだが……。
リーダーになる人物には、どこか人をひきつける魅力があるようだ。ジミー・グラルトンもそうで、彼が強固な政治的信念を持っていたようには見えないのだが、彼の行くところには人が集まってくる。ホールの再開もジミーが積極的に働きかけたものではなかった。かつてそのホールの活動のおかげで教会から目の敵にされ、国外へと逃げざるを得なくなったのだから。
けれども何もないアイルランドの片田舎で、そのホールのことは伝説となっていて、ジミーも噂の人となっていた。若者たちは教会の監視の下に健全なダンスしたいわけではなく、自分たちの自由な場所を求めていたのだ。それを可能にしてくれるのがジミーであると信じられ、ジミーは人々の先頭に立つことになる。
そんなホールの再開を快く思わないのが、カトリック教会のシェリダン神父(ジム・ノートン)だ。ジミーたちがホールですることは、ダンスや歌、芸術やスポーツなど様々だが、それが唯一の権威である教会を揺るがすとでも言うように、ジミーたちをあからさまに弾圧していく。ジミーたちにとって教会とその取り巻きはファシストに思えるが、教会から見るとジミーたちは危険な共産主義者に見えるようだ。そうした対立は幾分か誤解も含んでいるように思えるが、両者は歩み寄ることはできない(その後の歴史の趨勢を見れば、誤解とは言えないのかもしれないが)。

シェリダン神父は保守的で、カトリックの教えを守ることが村やアイルランドのためになると信じている。ジミーは教会に反対するわけではないが、「ただ生存するためではなく、喜びのために生きよう、自由な人間として」という演説の言葉にもあったように、“自由”を何よりも重んじている。シェリダン神父とジミーは真っ向から対立しあいながらも、一方では認め合う部分もある。
ケン・ローチの視線はいつも労働者階級や弱者に向けられている。この映画も当然ジミーたちの側に寄り添っている。しかし、シェリダン神父がまったくの敵対者として描かれるわけでもない。神父は「あなたの心の中には、愛よりも憎悪が多い」というジミーの言葉に心動かされもする。神父には神父なりの信念があり、その強引な押し付けも善意によるものということなのだろう。
『麦の穂をゆらす風』では、兄弟が内戦で殺し合うことになってしまうわけだが、それぞれの立場には言い分があった。どちらかが完全に間違っているなどというわけではない。(*1)『ジミー』においても、神父の側が完全に悪とされているわけではない。それぞれの立場での正義のせめぎ合い、その結果として歴史がつくられていく、ケン・ローチはそんな見方をしているのかもしれない(「歴史に善悪はない」などとも言うのだとか)。
ジミーはまた国外へと追放されてしまうが、“自由”への想いは皆に伝わっているわけで、悲劇としか言いようがない『麦の穂をゆらす風』の時代よりは一歩前進したように思えた。ジミーと昔の恋人(シモーヌ・カービー)との暗闇のなかのダンスが地味ながら印象的で、ふたりの心のなかだけに音楽が流れ出すといった演出もよかった。
ケン・ローチ監督の作品では新鮮な顔が登場することも多い。『リフ・ラフ』で主役だったロバート・カーライルは、その後『トレインスポッティング』『フル・モンティ』などで活躍するような俳優になった。前作『天使の分け前』のポール・ブラニガンは素人だったようだが、その後『アンダー・ザ・スキン』にも顔を出していた。『ジミー』のバリー・ウォードは演劇の出身だそうだが、映画では初主演とのこと。なかなか渋い男で、今後は映画のほうでも活躍しそうな感じもする。
(*1) 『麦の穂をゆらす風』では、アイルランドの義勇軍のひとりは、イギリスでの収容所生活が最高の日々だったとも語っている。支配者であるイギリスの良さも認めているのだ。
『麦の穂をゆらす風』はアイルランドの映画だが、監督であるケン・ローチはイギリス人であり、複雑な立場だ。
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