恩田陸 『月の裏側』

 ジャック・フィニイ『盗まれた街』にオマージュを捧げた作品。
 恩田陸はフィニイの短編集『レベル3』のあとがきも書いているし、こうして1冊の本を書き上げてしまうくらいだからフィニイのファンなのだろう。私もジャック・フィニイが好きだ。どの作品を読んでもおもしろい。タイムスリップを題材にした作品で、その瞬間を、『ふりだしに戻る』ほど見事に描いたものはないんじゃないかと思う。
 
恩田陸 『月の裏側』

 フィニイ『盗まれた街』は何度も映画化されている(『SF/ボディ・スナッチャー』『インベージョン』)。宇宙から来た“何か”が人の体を奪い取りボディ・スナッチ、ひとつの街が侵略インベージョンされていくというのが筋だ。ここで不気味なのは乗っ取られた人が、外見的にはまったく人間の姿をしているということ。身近な誰かが知らぬうちにまったく別の“何か”に成り果てているというのが恐怖の源だ。
 『月の裏側』もそのあたりは踏襲されている。箭納倉という水郷を舞台とし、張り巡らされた掘割に満ちた水のなかから“何か”が襲ってくる。水辺に面した家に住む人間から失踪し、戻ってきたときには<人間もどき>になっているのだ。
 『盗まれた街』では宇宙からの侵略だったが、『月の裏側』では、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』のような人類の新たな進化という壮大な話になる。人間はもとをたどれば海から上がってきた生き物だ。水のなかに棲んでいたとき、われわれは「ひとつ」だった。今あるわれわれの多様な姿は、生物の戦略として求められたものだった。しかし、長い長い時を経た今となっては、また「ひとつ」に戻ることが求められている。そんな危険な考えが披瀝される。これは『新世紀エヴァンゲリオン』「人類補完計画」めいたものだ。エヴァではもちろんそれは否定された。「ひとつ」になることよりは、多様性に留まることが選ばれるのだ。
 『月の裏側』ではどうなるか。結局、登場人物たち皆が「盗まれて」しまう。箭納倉の街のすべての人間が、人間ではない<人間もどき>に成り下がったのだ。これは不幸な結末か? そうではない。
 『盗まれた街』では乗っ取られた人間は、外見は似ていても得体の知れぬ“何か”として描かれていた。『月の裏側』では「盗まれた」人間も意識ある存在として描かれている。ただ無意識のレベルでは水のなかに棲む“何か”に奪われているのだ。
 『月の裏側』の最後の4つの章は、4人の登場人物たちの1人称で進む(11章までは3人称で視点が次々に移動する)。登場人物それぞれの1人称で心内語が綴られるが、最後の藍子の章は「盗まれた」後のことで、藍子は<人間もどき>の存在だ。それでもその語りにほかの3人との違いは見られない。最初は<人間もどき>にされることが恐怖の対象になっていたのだが、実際になってみると恐ろしいものでもなかったのだ。このあたりの価値の相対化は藤子・F・不二雄『流血鬼』に通じるものがある(吸血鬼に血を吸われて自分もその仲間になってみると、意外なことに別の素晴らしい世界が待っている)。

 最後に、伏線としての「鳩笛」の役割について。
 藍子は<人間もどき>として戻ってきたとき鳩笛を持っている。なぜ自分が鳩笛を持っているのか、それが自分の自由な行動によるものか、水のなかに棲む“何か”に操られているのか悩む。
 『月の裏側』では鳩笛の響きは、水のなかに棲む“何か”の呼び声とされている。それは主人公多聞が探し回って発見したことだ。だが、それが藍子に伝えられたとは書かれていない。「そう言えば、あの音の正体がわかったよ」と多聞が言い、「ほんと?」と藍子が応えるだけだ(p280)。そのあと「昼間彼等が目にしたものを話し合った」という記載や、「河童も鳩笛も――結局、昔の人は薄々気が付いていたんですね」という多聞のつぶやきはある(p288)。しかし藍子が鳩笛に関して触れることはないままだ。にもかかわらず、最終章の藍子は唐突に鳩笛に言及し始める。
 

 小さな鳩笛をシャツの裾できゅっきゅっと磨く。
 泥の落ちた素焼きの鳩のつぶらな目は彼の目に似ていた。
 鳩笛は、日の暮れの音色。
 黒い雲に紫色の光がゆっくりと消えていく。
 私はそっと鳩笛を唇に当てた。


 何度もこだわり過ぎなくらいに鳩笛が登場する。無理に解釈すれば、藍子が無意識のレベルで多聞や箭納倉の人たちとつながって「ひとつ」になっていることの表れと考えられないだろうか。「鳩笛は、日の暮れの音色」とは、昔流行った歌の歌詞だ。藍子にとって箭納倉は故郷ではない(何度か訪れてはいるが)。そんな藍子が突然、箭納倉の郷土品である鳩笛について語りだし、なつかしのメロディまで想い出すのだ。だから藍子が鳩笛の響きの秘密を聞いていないのだとすれば、無意識のなかで多聞とつながって大切なものを受け取ったとも読めるような気がするのだ。そうでなければ伏線として鳩笛が回収できていないし、そうであればこそ藍子が抱いた多聞への秘かな愛にも慰めが与えられるのだから。

恩田陸の作品
ジャック・フィニイの作品
関連記事
スポンサーサイト
Date: 2012.06.25 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

この記事へのコメント:


管理人のみ通知 :

トラックバック:


プロフィール

Nick

Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03 
カテゴリ
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

タグクラウド

広告



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
このブログをリンクに追加する
Powered By FC2ブログ


ブログランキングに参加しました。

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード
QR