『紙の月』 お金なんかただの紙。だけどみんなが信用している。

原作は未読だが、映画版は原作とは違う部分も多いようだ。主人公の同僚である隅より子(小林聡美)と相川恵子(大島優子)のキャラクターは、映画オリジナルとのことで、脚本も担当した吉田監督の色が強くなっているものと思われる。
題材としては銀行での巨額横領事件をもとにしていて、こうした事件はそれほど珍しいということはないだろうし、誰にとっても金は必要なものだから、意図せずに主人公を焚き付けるような言葉を吐く相川が言うように「ありがちな話」ですらある。
地方銀行に勤める梨花(宮沢りえ)は、顧客の孫である光太(池松壮亮)と駅でばったり会って以来、何となく彼が気にかかるようになる。子供もなく、仕事ばかりの夫とは上辺だけの関係で、そんな梨花はまだ大学生という年下の男に夢中になっていく。このあたりの展開は急で、梨花が光太に入れ込む理由も、光太のために銀行の金を横領することになる理由もよくわからない。
のちに明らかになるのは、梨花はキリスト教系の学校で育ち、寄付という行為を善行として刷り込まれているということ。梨花がした寄付で、洪水の被害者だというバンコクの子供から感謝の手紙が届く。梨花は弱者を助けるという行為に感銘を受ける。そしてさらなる寄付という大いなる善行を優先するあまり、親の財布から金を抜き取るというちょっとした悪事に手を染めている。梨花が光太に入れ込むのも、光太が資産家の祖父がいるにも関わらず大学の授業料を払えないという境遇にいたからで、梨花は弱者に施しを与えることで自らが満足を味わっていたわけだ。
恵まれない大学生を助けるというのがスタートでも、途中からは際限なく贅沢を繰り返しているようにしか見えず、40代で少々衰えを見せる容貌だった梨花は、次第にセレブにでもなったような佇まいにもなっていく。ただ、傍から見ればそうした悪事がバレることは目に見えており、そうした豪勢な生活は砂上の楼閣のようなもの。(*1)光太自身もそれを感じていて、別れの際には「いつか終わってしまいそう」だと口にしている。こうなると破滅への道筋も見えてくる。

しかし、この映画ではここから別の方向へと進んでいく。個人的には、「ありがちな」横領事件や、スローで思い入れたっぷりに描かれる光太とのエピソードには関心しなかったのだが、この方向転換はとてもよかったと思う。
横領がバレた梨花は刑事告訴されることになるわけで、まさにその瀬戸際で、横領に気づいた隅より子と対決することになる。片や巨額の金を横領して好き勝手にやってきた女と、片や勤続25年のお局様で、煙たがられて本社の閑職に追いやられることが決まった女である。隅はそれでも「行くべきところへ行く」だけだと胸を張るのだが、もちろんできれば閑職などに就きたくはないわけで、これは会社のルールに従うしかないという諦めでもある。
「どちらがみじめか」という話題では、隅は社会のルールに縛られて逃げ出せない自分をみじめと考えているし、梨花は刑事告訴されるような立場に陥った自分をみじめと考えている。どちらにしても自分をみじめと思い、自分がなれなかったほかの誰かを羨ましく思っている。
土壇場で銀行の窓ガラスを叩き割った梨花は、その場を逃げおおせ、そのままバンコクへと逃亡する。このとってつけたようなエピソードは、およそ現実的なものではない。少女時代に寄付していた少年と同じ傷を負った男が登場することからも、これは幻想としてあるのだと私には思えた。
「行くべきところへ行く」という隅に対し、「行きたいところに行った」はずの梨花だが、そのバンコクの場面が幻想に過ぎないとなれば、それは反語的な表現でしかないわけで、つまるところ「どこにも行けない」ということなのだろう。そんな女たちの悲しい姿を見せられた映画だった。

“紙の月”という題名を原作者がどうして付けたのかは知らないのだが、恐らく映画『ペーパー・ムーン』から取られているのだろう(日本語として通常使わない表現なのは、翻訳語だからだろう)。ただ、その意味するものはまったく違うものになっている。
『ペーパー・ムーン』では、“紙の月”というのは、舞台などに登場するセットの類いであり、本物の月をかたどったニセモノだった。しかしそのニセモノでも信じることが出来れば、本物になるというのがテーマなのだ。(*2)『ペーパー・ムーン』では、詐欺師とその子供のふりをすることになる少女というニセモノの関係が、いつの間にか本当の親子のような関係になっていくという感動作だった。
一方で『紙の月』では、梨花は本物の月を空に描かれた絵として消し去ってしまう。梨花にとってお金に象徴される社会のシステムは、“紙の月”のようなニセモノでしかなく、梨花はそれを信じることはなく自分の信じたように「やりたいようにやってしまう」。もちろんお金は単なる紙に過ぎないし、それは約束事でしかない。しかし、自分以外の誰もがそれを信用しているのならば、経済は回っていくし、約束事も崩れることはない。空の月を“紙の月”だとして消してしまうのは、梨花の願いに過ぎないわけだ。
「ニセモノでも信じることが出来れば、本物になる」というのが『ペーパー・ムーン』なら、「王様は裸だ(=お金なんてただの紙だ)」と真実を叫んだはずなのに誰からも無視されてしまうというのが映画『紙の月』だろうか?
(*1) クレジットのVelvet Undergroundの「Femme Fatale」は、Nicoのヴォーカルの危なっかしい感じが、彼らの砂上の楼閣のもろさを表現しているようだった。加えて言えば、銀行の上司(近藤芳正)が皆にバレているカツラをやめられないのは、ただの紙が世の中でお金として通用していくように、社会的にハゲはみっともないというイメージが浸透しているからなのだろう。
(*2) ジャズの有名な曲に「It’s Only A Paper Moon」というものがあり、そこから『ペーパー・ムーン』という映画の題名も取られている。
『ペーパー・ムーン』で偽の親子を演じているのは、ライアン・オニールとテイタム・オニールという本当の親子で、テイタム・オニールはこの映画で史上最年少のオスカー受賞者になった。ふたりの息の合った掛け合いがとても楽しい映画だし、当時10歳のテイタム・オニールは本当にかわいい。



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