『悪童日記』 衝撃的な原作小説のラストはどうなったか?
40カ国の言葉に翻訳されたアゴタ・クリストフのベストセラー小説をもとにした映画。
監督は原作者と同じハンガリーのヤーノシュ・サース。

第二次世界大戦下、双子の兄弟は母親に連れられて<大きな町>を離れる。<小さな町>へ疎開するためだ。そこにはふたりのおばあちゃんが居る。おばあちゃんはおじいちゃんを毒殺したと噂され、“魔女”と呼ばれているのだ。おばあちゃんはふたりを“牝犬の子”と呼び、働かなければ食事を与えることもしない。そんなおばあちゃんのもとで、ふたりのサバイバル生活が始まる。
「汝、殺すなかれ」と言いつつ人間が互いに殺し合っている戦争の時代、そんな時代をサバイバルするためにふたりは自分たちを鍛えあげる。暴力に屈しないように痛みに耐性をつけ、空腹や寒さに耐え、母親のことを想い出さないように努め、日々薪割りや水汲みなどの仕事に励む。それと同時に勉強することも怠らない。そしてふたりは彼らが見た真実だけをノートに書き記していく。
※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れています。

原作では双子は「ぼくら」として登場し、それぞれに名前が与えられるわけでもなく、彼らが個々の存在として書き分けられることは数えるほどだ。双子は「ぼくら」という二人で一つの存在として世界を把握し、それをノートに書き綴っていくわけだ。母親も双子が「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格を形づくっている」と語っている。だから、原作の「訊問」という章では、双子は刑事に訊問されるが、その場面はこんなふうに記されている。
双子は「ぼくら」という代名詞で示されていて、まったく区別されていない。実際にそのとき椅子から転がり落ちるのは双子のどちらかのはずだが、それでも「ぼくら」が椅子から転がり落ちると表現されているのだ。ここではまるで「ぼくら」が、一つの腰や胃を共有しているかのようだ。
こんなふうに「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格」というものが、原作では「ぼくら」という代名詞で表現されていたわけだが、映画になるとそれは難しい。当たり前のことだが、はじめから双子はふたりの存在であることは見ればわかるからだ。双子を演じたアンドラーシュ&ラースロー・ジェーマントは、スチールなどで見ると微妙に違うのだが、映画のなかで見る限りでは個々の違いを区別することは難しい。暗闇のなかで身を寄せ合って眠る場面などはふたりの一心同体ぶりを感じさせるけれど、それでも彼らが別個の存在であることに違いないわけだ。
そして先ほどの「訊問」の場面は、映画版では、ふたりが引き離されることがもっとも有効な拷問の手段となることとして描かれている。しかし、ふたりが別個の存在であることは見ればわかるわけで、引き離されることがふたりにとって致命的だということにあまり説得力があるとは思えない。だからラストでのふたりの別れもそれほどの驚きがあるわけではない。
なにより原作のラストが衝撃的だったのは、常に「ぼくら」という表記だった主人公が、分離したようにも感じられるからだと思う。原作のラストはこんなふうに書かれている。
「ぼくら」という表記は常に一心同体だと感じさせ、彼らが別れることがあるなどと思うべくもない。そんな「ぼくら」にも別れが訪れる。父親の屍を乗り越えていくという部分もそれなりに衝撃的かもしれないが、それまで常に一体だった「ぼくら」が、「一人」と「残ったほうの一人」に分離されることに私は驚かされた。「ぼくら」が引きちぎられて「一人」と「残ったほうの一人」に分けられた、そんな別離に思えたのだ。
それにしても映画とその原作というのはまったく別物で、並べて論じてもあまり意味のないものなのかもしれないとも思う。ついつい原作に思い入れがあったりすると、それらを比べてどこが違うなどと言ってみたくなったりもするのだけれど……。
映画学者・加藤幹朗の著作を読むと、そうしたことは媒体が違うからとあっさりと片付けられている。そんなふうに言われると身も蓋もないという気もするが、正しい態度なのだろう。たとえば『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』では、映画『ブレードランナー』をこれ以上ないほど詳しく分析しているが、原作となっているフィリップ・K・ディックの『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』に関してはほとんど無視していてかえって潔いくらいなのだ。

監督は原作者と同じハンガリーのヤーノシュ・サース。

第二次世界大戦下、双子の兄弟は母親に連れられて<大きな町>を離れる。<小さな町>へ疎開するためだ。そこにはふたりのおばあちゃんが居る。おばあちゃんはおじいちゃんを毒殺したと噂され、“魔女”と呼ばれているのだ。おばあちゃんはふたりを“牝犬の子”と呼び、働かなければ食事を与えることもしない。そんなおばあちゃんのもとで、ふたりのサバイバル生活が始まる。
「汝、殺すなかれ」と言いつつ人間が互いに殺し合っている戦争の時代、そんな時代をサバイバルするためにふたりは自分たちを鍛えあげる。暴力に屈しないように痛みに耐性をつけ、空腹や寒さに耐え、母親のことを想い出さないように努め、日々薪割りや水汲みなどの仕事に励む。それと同時に勉強することも怠らない。そしてふたりは彼らが見た真実だけをノートに書き記していく。
※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れています。

原作では双子は「ぼくら」として登場し、それぞれに名前が与えられるわけでもなく、彼らが個々の存在として書き分けられることは数えるほどだ。双子は「ぼくら」という二人で一つの存在として世界を把握し、それをノートに書き綴っていくわけだ。母親も双子が「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格を形づくっている」と語っている。だから、原作の「訊問」という章では、双子は刑事に訊問されるが、その場面はこんなふうに記されている。
ぼくらは口をとざす。刑事は蒼白になる。彼は殴る。これでもか、これでもかと殴る。ぼくらは椅子から転がり落ちる。彼は、ぼくらの肋骨を、腰を、胃を、足で蹴り、踏みつける。
双子は「ぼくら」という代名詞で示されていて、まったく区別されていない。実際にそのとき椅子から転がり落ちるのは双子のどちらかのはずだが、それでも「ぼくら」が椅子から転がり落ちると表現されているのだ。ここではまるで「ぼくら」が、一つの腰や胃を共有しているかのようだ。
こんなふうに「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格」というものが、原作では「ぼくら」という代名詞で表現されていたわけだが、映画になるとそれは難しい。当たり前のことだが、はじめから双子はふたりの存在であることは見ればわかるからだ。双子を演じたアンドラーシュ&ラースロー・ジェーマントは、スチールなどで見ると微妙に違うのだが、映画のなかで見る限りでは個々の違いを区別することは難しい。暗闇のなかで身を寄せ合って眠る場面などはふたりの一心同体ぶりを感じさせるけれど、それでも彼らが別個の存在であることに違いないわけだ。
そして先ほどの「訊問」の場面は、映画版では、ふたりが引き離されることがもっとも有効な拷問の手段となることとして描かれている。しかし、ふたりが別個の存在であることは見ればわかるわけで、引き離されることがふたりにとって致命的だということにあまり説得力があるとは思えない。だからラストでのふたりの別れもそれほどの驚きがあるわけではない。
なにより原作のラストが衝撃的だったのは、常に「ぼくら」という表記だった主人公が、分離したようにも感じられるからだと思う。原作のラストはこんなふうに書かれている。
手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、お父さんのぐったりした体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。
残ったほうの一人は、おばあちゃんの家に戻る。 (傍線は引用者)
「ぼくら」という表記は常に一心同体だと感じさせ、彼らが別れることがあるなどと思うべくもない。そんな「ぼくら」にも別れが訪れる。父親の屍を乗り越えていくという部分もそれなりに衝撃的かもしれないが、それまで常に一体だった「ぼくら」が、「一人」と「残ったほうの一人」に分離されることに私は驚かされた。「ぼくら」が引きちぎられて「一人」と「残ったほうの一人」に分けられた、そんな別離に思えたのだ。
それにしても映画とその原作というのはまったく別物で、並べて論じてもあまり意味のないものなのかもしれないとも思う。ついつい原作に思い入れがあったりすると、それらを比べてどこが違うなどと言ってみたくなったりもするのだけれど……。
映画学者・加藤幹朗の著作を読むと、そうしたことは媒体が違うからとあっさりと片付けられている。そんなふうに言われると身も蓋もないという気もするが、正しい態度なのだろう。たとえば『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』では、映画『ブレードランナー』をこれ以上ないほど詳しく分析しているが、原作となっているフィリップ・K・ディックの『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』に関してはほとんど無視していてかえって潔いくらいなのだ。
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