『リトル・フォレスト 夏・秋』 田舎に流れるゆったりとした時間
原作は五十嵐大介の同名マンガ。『重力ピエロ』などの森淳一が監督。
出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、温水洋一、桐島かれん。

冒頭、緑に囲まれた小森(リトル・フォレスト)という地域が主人公・いち子(橋本愛)のナレーションで紹介される。周囲は山と沢と田畑ばかりで、商店は山を自転車で1時間半も下った駅前にしかなく、郊外型のスーパーに行くとすれば1日がかりになるらしい。そんな山の中の一軒家にいち子はひとりで暮らしている。
この『リトル・フォレスト 夏・秋』は、いち子の田舎暮らしを描いており、季節の食材を使った料理の一種のレシピ集としても目論まれているようだ。いち子の食べる料理は彼女のナレーションによって丁寧に手順が追われていく。グルメ番組ではないからいち子が料理の出来に気の効いたコメントをするわけではないが、その美味しさは映像だけでも伝わってくる。
いち子は会社勤めをしているわけではなく、イワナの放流など臨時のバイト以外は金銭収入はなさそう。ただ農家だから毎日農作業をやっているため、食べるものはある。田んぼで米も作るし、芋類や青菜は家の前の畑で間に合う。裏山に足を延ばせば木の実やら果物など自然の恵みが得られる。自給自足で何とも豊かな生活なのだ。
普段は食べないグミを砂糖と煮詰めてジャムにしたり、アケビの皮をトマトと合わせて調理してみたり、夏の暑さに合う米サワーを作ったり、工夫しながら楽しんでもいる。レシピは具体的で、たとえばジャム作りではグミに対する砂糖は60%では酸っぱいとか、煮詰め具合の目安など、実践的な情報も盛り込まれている。また、母のありがたみを知るのも料理で、青菜の炒め物も意外なところに一手間かけられていたことを、いち子は自分が料理をする立場になった今になって発見する。
登場人物はごく限られているし、物語の起伏もないのだが、「生きる 食べる 作る」という営みがそれぞれの料理に凝縮されていて、田舎に流れるゆったりとした時間に同化したように心地よい感覚に浸れる映画だった。
この映画全体は夏⇒秋⇒冬⇒春という4部作という体裁で、今回公開された「夏」と「秋」も独立した作品である。「夏」篇が終わるとエンディングロールが流れ、「秋」篇が一から始まる。小森の場所を示す冒頭のナレーションは同じだが、切り取られる風景はそれぞれの季節の彩りを示している。観客はエンディングロールも二度観ることになるわけだが、これはそれぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりであることを意識させる。それは人の生命も同じで、キッチンに立ついち子と母の姿が重ね合わされるように、母から娘への生命のつながりは人の営みの繰り返しとも言えるが、いち子と母、それぞれの生はまったく新しい始まりであることをも示しているのだろう。

いち子がなぜひとりで田舎暮らしをしているかは詳しく語られるわけではない。一度は街で男の人と暮らしたが、別れて実家である小森に戻ったこと。母は5年前に彼女を残して家を出たらしいこと。そんなことがいち子の独白で知らされる。近所のユウ太(三浦貴大)は田舎に積極的な意味を見出して戻ってきた。田舎の大人たちは、生活のなかで獲得した実のある言葉を使っていて信頼できるというのが彼の評価だ。一方でいち子は街が合わなくて逃げ帰ってきた面があるようだ。
「秋」篇の最後には、出て行った母親からの手紙が届けられる。母親はなぜ小森を去ったのか、いち子はなぜ一度は去った田舎に戻ったのか、そんな疑問を残して終わる。オシャレなスローライフ風の田舎生活だが、いち子の母のように出ていくものもいるわけだし、単なる田舎礼賛ばかりでは終わらないような気もするがどうだろうか? 原作マンガを読んでいるわけではないので今後の展開はわからないが、「冬」篇と「春」篇も楽しみだ。
田舎の自然とその恵みを背景にして、主演の橋本愛はほとんど出ずっぱり。容姿端麗ぶりは衆目の一致するところかと思うが、そんなイメージを捨ててほとんど化粧っけもなしに作業着姿で野良仕事に勤しんでいる。夏の場面では、脇汗ばかりか被った帽子にまで汗が染み込むほど。小森の自然を捉えた映像はもちろん美しいが(*1)、そのなかに入り込んだ橋本愛もとても自然な姿で美しかった。
(*1) 夏の場面が印象的だった。盆地である小森は湿気も溜まるらしく、湿った空気が山から降りてくる場面は、ドキュメンタリー『ニッポン国 古屋敷村』の一場面を思い出した。


橋本愛の作品

出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、温水洋一、桐島かれん。

冒頭、緑に囲まれた小森(リトル・フォレスト)という地域が主人公・いち子(橋本愛)のナレーションで紹介される。周囲は山と沢と田畑ばかりで、商店は山を自転車で1時間半も下った駅前にしかなく、郊外型のスーパーに行くとすれば1日がかりになるらしい。そんな山の中の一軒家にいち子はひとりで暮らしている。
この『リトル・フォレスト 夏・秋』は、いち子の田舎暮らしを描いており、季節の食材を使った料理の一種のレシピ集としても目論まれているようだ。いち子の食べる料理は彼女のナレーションによって丁寧に手順が追われていく。グルメ番組ではないからいち子が料理の出来に気の効いたコメントをするわけではないが、その美味しさは映像だけでも伝わってくる。
いち子は会社勤めをしているわけではなく、イワナの放流など臨時のバイト以外は金銭収入はなさそう。ただ農家だから毎日農作業をやっているため、食べるものはある。田んぼで米も作るし、芋類や青菜は家の前の畑で間に合う。裏山に足を延ばせば木の実やら果物など自然の恵みが得られる。自給自足で何とも豊かな生活なのだ。
普段は食べないグミを砂糖と煮詰めてジャムにしたり、アケビの皮をトマトと合わせて調理してみたり、夏の暑さに合う米サワーを作ったり、工夫しながら楽しんでもいる。レシピは具体的で、たとえばジャム作りではグミに対する砂糖は60%では酸っぱいとか、煮詰め具合の目安など、実践的な情報も盛り込まれている。また、母のありがたみを知るのも料理で、青菜の炒め物も意外なところに一手間かけられていたことを、いち子は自分が料理をする立場になった今になって発見する。
登場人物はごく限られているし、物語の起伏もないのだが、「生きる 食べる 作る」という営みがそれぞれの料理に凝縮されていて、田舎に流れるゆったりとした時間に同化したように心地よい感覚に浸れる映画だった。
この映画全体は夏⇒秋⇒冬⇒春という4部作という体裁で、今回公開された「夏」と「秋」も独立した作品である。「夏」篇が終わるとエンディングロールが流れ、「秋」篇が一から始まる。小森の場所を示す冒頭のナレーションは同じだが、切り取られる風景はそれぞれの季節の彩りを示している。観客はエンディングロールも二度観ることになるわけだが、これはそれぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりであることを意識させる。それは人の生命も同じで、キッチンに立ついち子と母の姿が重ね合わされるように、母から娘への生命のつながりは人の営みの繰り返しとも言えるが、いち子と母、それぞれの生はまったく新しい始まりであることをも示しているのだろう。

いち子がなぜひとりで田舎暮らしをしているかは詳しく語られるわけではない。一度は街で男の人と暮らしたが、別れて実家である小森に戻ったこと。母は5年前に彼女を残して家を出たらしいこと。そんなことがいち子の独白で知らされる。近所のユウ太(三浦貴大)は田舎に積極的な意味を見出して戻ってきた。田舎の大人たちは、生活のなかで獲得した実のある言葉を使っていて信頼できるというのが彼の評価だ。一方でいち子は街が合わなくて逃げ帰ってきた面があるようだ。
「秋」篇の最後には、出て行った母親からの手紙が届けられる。母親はなぜ小森を去ったのか、いち子はなぜ一度は去った田舎に戻ったのか、そんな疑問を残して終わる。オシャレなスローライフ風の田舎生活だが、いち子の母のように出ていくものもいるわけだし、単なる田舎礼賛ばかりでは終わらないような気もするがどうだろうか? 原作マンガを読んでいるわけではないので今後の展開はわからないが、「冬」篇と「春」篇も楽しみだ。
田舎の自然とその恵みを背景にして、主演の橋本愛はほとんど出ずっぱり。容姿端麗ぶりは衆目の一致するところかと思うが、そんなイメージを捨ててほとんど化粧っけもなしに作業着姿で野良仕事に勤しんでいる。夏の場面では、脇汗ばかりか被った帽子にまで汗が染み込むほど。小森の自然を捉えた映像はもちろん美しいが(*1)、そのなかに入り込んだ橋本愛もとても自然な姿で美しかった。
(*1) 夏の場面が印象的だった。盆地である小森は湿気も溜まるらしく、湿った空気が山から降りてくる場面は、ドキュメンタリー『ニッポン国 古屋敷村』の一場面を思い出した。
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橋本愛の作品

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