『ポケットの中の握り拳』 マルコ・ベロッキオ、幻の処女作
1965年に公開されたマルコ・ベロッキオ26歳の処女作。日本では限定的にしか公開されていなかった作品。すでに劇場での公開は終了したのだが、名画座でやるかもしれないし、そのうちDVD化されることを期待して……。

北イタリアの田舎のブルジョア家庭、次男アレッサンドロ(ルー・カステル)と妹ジュリア(パオラ・ピタゴラ)は働きもせずに怠惰な日々を送っている。盲目の母親と知的障害を抱えた弟がいるその家では、長男アウグストが父親のような存在で、唯一の希望の星であり、アウグストが何とかその家庭を支えていた。
アレッサンドロと三男には癲癇の持病があり、アレッサンドロは鬱屈した想いを抱えながら没落寸前のブルジョア家庭で生活を続けている。また妹のジュリアは、父親代わりのアウグストに対してファザコン的な感情を抱いていて、アウグストの彼女に嫉妬して手紙を捏造して関係を壊そうとする。会話もない寒々しい夕食の場面でもわかるように、この家庭はどこか壊れつつある。知的障害のある三男ですら「この家で暮らすことは拷問のようだ」とつぶやくのだ。
※ 以下、ネタバレもあり。

アレッサンドロが屈折しているのは、長男に対して羨望を抱きつつも、自分もそうなりたいと願うのではなく、自分を長男アウグストに寄生する余計者のように感じていることからもわかる。そんな卑屈さが高じて、アウグストが家庭のくびきから逃れられるようにと、ほかの家族を引き連れての心中計画を練ったりもする。しかし、それが失敗すると、今度は逆に自分たちの足かせになっていると思われる母親に目を向ける。盲目の母親がいなければ、もっと自由になれると考えるのだ。
『ポケットの中の握り拳』が当時のイタリアで衝撃をもって受け止められたのも何となく理解できる。イタリアはヨーロッパのほかの国と比べても家族を大事にする国らしく(フランスなどは個人主義が強そう)、現代ではわが国と同様に、家族と同居するパラサイト・シングル現象などもあるようだ。そのようなお国柄の場所で、邪魔になった母親を崖から突き落とし、その棺桶に足を架けてふんぞり返ってみたり、その上をあん馬のように飛び回ってみたりするのだから、不敬ぶりは際立っていたのだろうと思う。
以前取り上げたベロッキオの『眠れる美女』では“尊厳死”がテーマになっていたわけだが、この処女作もそれに通じるものがある。“尊厳死”と言われるもののなかには、実際には様々なケースがあるのだろう。『眠れる美女』には、妻の切実な願いを叶えてやったウリアーノ議員のような場合もあれば、植物状態の姉を邪魔者扱いする弟もいた。実際には“尊厳”という言葉に値しない事態も、“尊厳死”というカテゴリーに分類されて済まされていることもあるのだろう。
“尊厳死”と殺人がまったく違うのは言うまでもない。それでも“尊厳死”に賛成の立場は、人工呼吸器を止めて患者を死に追いやる点で、役立たずの母を葬り去る『ポケットの中の握り拳』のアレッサンドロの態度と結びつかないこともない。昔の日本なら似たような事態は“姥捨て山”と呼ばれたかもしれないが、現代ではそれを“尊厳死”と呼ぶのかもしれない。わざわざそれに“尊厳”という仰々しい名前を付けるのは、後ろめたさの裏返しでもあるのだろう。
『眠れる美女』でも対立する立場の両方が描かれたが、『ポケットの中の握り拳』でもそんな対立関係がある。長男のような社会的に有為な側と、無用な存在として切り捨てられる側だ。アレッサンドロとジュリアはその間を彷徨っているわけだが、アレッサンドロは途中から無駄な存在を切り捨てる側に立つ。しかし、その行動には行き過ぎがあり、最後には心理的な共犯者であったジュリアからも見捨てられることになってしまう。家族を切り捨てたアレッサンドロは、その家族に見捨てられることになるのだ。
ラスト、家族の邪魔者を片付けたアレッサンドロは、オペラ「椿姫」に合わせてひとりで踊り回り、歓喜の高笑いを笑うのだが、それはとても空虚なものに響く。その高笑いがなぜか次第に嗚咽へと変り、癲癇の発作を引き起こすという、残酷で孤独な破滅の描き方がとても素晴らしかった。
ジュリア役のパオラ・ピタゴラの美しさも印象に残るが、アレッサンドロを演じたルー・カステルが秀逸だった。突然奇声を発してみたり、盲目の母親には見えないことをいいことに小馬鹿にした態度をとってみたり、とにかく何かしらに苛立っている。さらに苛立ちは自罰的態度になったり、他罰に向かったりと忙しなく、常に不安定な状態にいる様を見事に体現しているようだった。

北イタリアの田舎のブルジョア家庭、次男アレッサンドロ(ルー・カステル)と妹ジュリア(パオラ・ピタゴラ)は働きもせずに怠惰な日々を送っている。盲目の母親と知的障害を抱えた弟がいるその家では、長男アウグストが父親のような存在で、唯一の希望の星であり、アウグストが何とかその家庭を支えていた。
アレッサンドロと三男には癲癇の持病があり、アレッサンドロは鬱屈した想いを抱えながら没落寸前のブルジョア家庭で生活を続けている。また妹のジュリアは、父親代わりのアウグストに対してファザコン的な感情を抱いていて、アウグストの彼女に嫉妬して手紙を捏造して関係を壊そうとする。会話もない寒々しい夕食の場面でもわかるように、この家庭はどこか壊れつつある。知的障害のある三男ですら「この家で暮らすことは拷問のようだ」とつぶやくのだ。
※ 以下、ネタバレもあり。

アレッサンドロが屈折しているのは、長男に対して羨望を抱きつつも、自分もそうなりたいと願うのではなく、自分を長男アウグストに寄生する余計者のように感じていることからもわかる。そんな卑屈さが高じて、アウグストが家庭のくびきから逃れられるようにと、ほかの家族を引き連れての心中計画を練ったりもする。しかし、それが失敗すると、今度は逆に自分たちの足かせになっていると思われる母親に目を向ける。盲目の母親がいなければ、もっと自由になれると考えるのだ。
『ポケットの中の握り拳』が当時のイタリアで衝撃をもって受け止められたのも何となく理解できる。イタリアはヨーロッパのほかの国と比べても家族を大事にする国らしく(フランスなどは個人主義が強そう)、現代ではわが国と同様に、家族と同居するパラサイト・シングル現象などもあるようだ。そのようなお国柄の場所で、邪魔になった母親を崖から突き落とし、その棺桶に足を架けてふんぞり返ってみたり、その上をあん馬のように飛び回ってみたりするのだから、不敬ぶりは際立っていたのだろうと思う。
以前取り上げたベロッキオの『眠れる美女』では“尊厳死”がテーマになっていたわけだが、この処女作もそれに通じるものがある。“尊厳死”と言われるもののなかには、実際には様々なケースがあるのだろう。『眠れる美女』には、妻の切実な願いを叶えてやったウリアーノ議員のような場合もあれば、植物状態の姉を邪魔者扱いする弟もいた。実際には“尊厳”という言葉に値しない事態も、“尊厳死”というカテゴリーに分類されて済まされていることもあるのだろう。
“尊厳死”と殺人がまったく違うのは言うまでもない。それでも“尊厳死”に賛成の立場は、人工呼吸器を止めて患者を死に追いやる点で、役立たずの母を葬り去る『ポケットの中の握り拳』のアレッサンドロの態度と結びつかないこともない。昔の日本なら似たような事態は“姥捨て山”と呼ばれたかもしれないが、現代ではそれを“尊厳死”と呼ぶのかもしれない。わざわざそれに“尊厳”という仰々しい名前を付けるのは、後ろめたさの裏返しでもあるのだろう。
『眠れる美女』でも対立する立場の両方が描かれたが、『ポケットの中の握り拳』でもそんな対立関係がある。長男のような社会的に有為な側と、無用な存在として切り捨てられる側だ。アレッサンドロとジュリアはその間を彷徨っているわけだが、アレッサンドロは途中から無駄な存在を切り捨てる側に立つ。しかし、その行動には行き過ぎがあり、最後には心理的な共犯者であったジュリアからも見捨てられることになってしまう。家族を切り捨てたアレッサンドロは、その家族に見捨てられることになるのだ。
ラスト、家族の邪魔者を片付けたアレッサンドロは、オペラ「椿姫」に合わせてひとりで踊り回り、歓喜の高笑いを笑うのだが、それはとても空虚なものに響く。その高笑いがなぜか次第に嗚咽へと変り、癲癇の発作を引き起こすという、残酷で孤独な破滅の描き方がとても素晴らしかった。
ジュリア役のパオラ・ピタゴラの美しさも印象に残るが、アレッサンドロを演じたルー・カステルが秀逸だった。突然奇声を発してみたり、盲目の母親には見えないことをいいことに小馬鹿にした態度をとってみたり、とにかく何かしらに苛立っている。さらに苛立ちは自罰的態度になったり、他罰に向かったりと忙しなく、常に不安定な状態にいる様を見事に体現しているようだった。
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