東京国際映画祭グランプリ 『もうひとりの息子』 そしてみんな仲良くなる?
2012年の東京国際映画祭で、最高賞の東京サクラグランプリと優秀監督賞を獲得した作品。
日本での劇場公開は昨年10月からで、今月になってDVDがレンタル開始となった。

テルアビブのイスラエル人ヨセフ(ジュール・シトリュク)は兵役の際の血液検査により、両親の本当の子どもではないことが判明する。実は18年前の湾岸戦争の混乱で子どもの取り違えがあったのだ。ヨセフはヤシン(メディ・デビ)というアラブ人と取り違えられていた……。
“子どもの取り違え”という事件を扱っているということで、『そして父になる』をどうしても思い出させる。ただ『もうひとりの息子』の場合は、ほかの要素も多い。舞台はイスラエルで、取り違えられるのはユダヤ人とアラブ人という敵同士の子どもなのだ。取り違えの原因も『そして父になる』では看護婦の悪意だったが、この映画では湾岸戦争時の社会の混乱が影響している。取り違え事件をきっかけにして父親の成長が描かれた『そして父になる』に対して、『もうひとりの息子』の場合は個人的な問題よりも、より社会的な問題(民族の対立や宗教)に焦点を当てるものになっている。
『そして父になる』の場合、双方の家族は日本人同士であるため、取り違えが生じるのはわからなくもないし、実際に起きた事件をもとにしている。しかし『もうひとりの息子』の場合は民族が違うから、実際にそうしたことが起こり得るのかは、私にはちょっとわかりかねる。上のチラシの写真などを見ると、イスラエル人の母親(エマニュエル・ドゥヴォス)から見た本当の息子ヤシンよりも、もうひとりの息子ヨセフのほうが彼女に似ているように見える。そんな意味でこの設定にリアリティがあるのかは疑問も残るが、テーマの重要性のほうを論じるべきなのだろう。この映画は、ユダヤ系のフランス人女性監督ロレーヌ・レヴィの手によるもので、幾分か自分の出自の混乱に対しての希望的観測が入り混じっているのかもしれない。

私が思い描くユダヤ人のイメージとアラブ人のイメージは、映画などで見る程度の浅薄なものでしかないわけで、外国人が日本人を「出っ歯でカメラを片手に観光地を回っている」とイメージするくらいの型どおりで思い違いに満ちたものなのだろう。『もうひとりの息子』を観ると、ユダヤ人とアラブ人のそれぞれのイメージはそれほど明確なものではなくなってくる。母親たちはそれぞれの文化的背景を反映したような着こなしをしていて違いは明確に見えるが、それぞれの父親はどちらがユダヤ人でどちらがアラブ人なのかよくわからないのだ。
私は先に何となく「民族が違うから」などと記したが、これは間違いとは言わないまでも、厳密には不明瞭な部分を含むのかもしれない。たとえば山内昌之『民族問題入門』などを読むと、「民族」とか「国民」とか「人種」などは明確に定義することが実は難しいものなのだそうだ。日本のように多少の例外はあっても「民族」と「国民」と「人種」が等しいものと考えられる国ばかりではないのだ。
ユダヤ人として育ったヨセフだが取り違えの事実が判明すると、ラビに「お前はユダヤ人ではない」と宣告されてしまう。これはユダヤ人の定義が、「ユダヤ人の母親から生まれたこと」とされているためで、それを否定された途端、ヨセフはユダヤ人ではなくなってしまうのだ。実はユダヤ人の定義としては、「ユダヤ教を信仰する者」とする場合もあるようだが、ここでは前者の定義で考えられているようだ(ヨセフはもちろんユダヤ教徒として生きてきた)。とにかく「人種」という自明のものと思われているものも、実際は世の中の決め事にすぎず、明確な根拠などないあやしいものなのだ。
この映画は“子どもの取り違え”を通して、「民族」とか「人種」など、通常自明とされているものをもう一度考え直すための重要な問題提起を行っている。今まで息子だと思って育ててきたのに、その息子に敵側の血が流れていると判明したからといって、急に憎しみが沸くわけではない。むしろ敵だと思っていた彼らも自分たちと何も変わらない存在だと知り、これまで反目の歴史をも疑問視させるのだ。
ただこの映画が孕む問題があまりに大きすぎたのか、ラストは性急でいささか甘い印象も否めない。現実のイスラエルでは、つい先日も空爆が行われたりしてきな臭い状況が続いているのだ。ラストがいまひとつ腑に落ちないのも、この問題がそう簡単に答えを出せるものではないということ示してもいるようだ。

日本での劇場公開は昨年10月からで、今月になってDVDがレンタル開始となった。

テルアビブのイスラエル人ヨセフ(ジュール・シトリュク)は兵役の際の血液検査により、両親の本当の子どもではないことが判明する。実は18年前の湾岸戦争の混乱で子どもの取り違えがあったのだ。ヨセフはヤシン(メディ・デビ)というアラブ人と取り違えられていた……。
“子どもの取り違え”という事件を扱っているということで、『そして父になる』をどうしても思い出させる。ただ『もうひとりの息子』の場合は、ほかの要素も多い。舞台はイスラエルで、取り違えられるのはユダヤ人とアラブ人という敵同士の子どもなのだ。取り違えの原因も『そして父になる』では看護婦の悪意だったが、この映画では湾岸戦争時の社会の混乱が影響している。取り違え事件をきっかけにして父親の成長が描かれた『そして父になる』に対して、『もうひとりの息子』の場合は個人的な問題よりも、より社会的な問題(民族の対立や宗教)に焦点を当てるものになっている。
『そして父になる』の場合、双方の家族は日本人同士であるため、取り違えが生じるのはわからなくもないし、実際に起きた事件をもとにしている。しかし『もうひとりの息子』の場合は民族が違うから、実際にそうしたことが起こり得るのかは、私にはちょっとわかりかねる。上のチラシの写真などを見ると、イスラエル人の母親(エマニュエル・ドゥヴォス)から見た本当の息子ヤシンよりも、もうひとりの息子ヨセフのほうが彼女に似ているように見える。そんな意味でこの設定にリアリティがあるのかは疑問も残るが、テーマの重要性のほうを論じるべきなのだろう。この映画は、ユダヤ系のフランス人女性監督ロレーヌ・レヴィの手によるもので、幾分か自分の出自の混乱に対しての希望的観測が入り混じっているのかもしれない。

私が思い描くユダヤ人のイメージとアラブ人のイメージは、映画などで見る程度の浅薄なものでしかないわけで、外国人が日本人を「出っ歯でカメラを片手に観光地を回っている」とイメージするくらいの型どおりで思い違いに満ちたものなのだろう。『もうひとりの息子』を観ると、ユダヤ人とアラブ人のそれぞれのイメージはそれほど明確なものではなくなってくる。母親たちはそれぞれの文化的背景を反映したような着こなしをしていて違いは明確に見えるが、それぞれの父親はどちらがユダヤ人でどちらがアラブ人なのかよくわからないのだ。
私は先に何となく「民族が違うから」などと記したが、これは間違いとは言わないまでも、厳密には不明瞭な部分を含むのかもしれない。たとえば山内昌之『民族問題入門』などを読むと、「民族」とか「国民」とか「人種」などは明確に定義することが実は難しいものなのだそうだ。日本のように多少の例外はあっても「民族」と「国民」と「人種」が等しいものと考えられる国ばかりではないのだ。
ユダヤ人として育ったヨセフだが取り違えの事実が判明すると、ラビに「お前はユダヤ人ではない」と宣告されてしまう。これはユダヤ人の定義が、「ユダヤ人の母親から生まれたこと」とされているためで、それを否定された途端、ヨセフはユダヤ人ではなくなってしまうのだ。実はユダヤ人の定義としては、「ユダヤ教を信仰する者」とする場合もあるようだが、ここでは前者の定義で考えられているようだ(ヨセフはもちろんユダヤ教徒として生きてきた)。とにかく「人種」という自明のものと思われているものも、実際は世の中の決め事にすぎず、明確な根拠などないあやしいものなのだ。
この映画は“子どもの取り違え”を通して、「民族」とか「人種」など、通常自明とされているものをもう一度考え直すための重要な問題提起を行っている。今まで息子だと思って育ててきたのに、その息子に敵側の血が流れていると判明したからといって、急に憎しみが沸くわけではない。むしろ敵だと思っていた彼らも自分たちと何も変わらない存在だと知り、これまで反目の歴史をも疑問視させるのだ。
ただこの映画が孕む問題があまりに大きすぎたのか、ラストは性急でいささか甘い印象も否めない。現実のイスラエルでは、つい先日も空爆が行われたりしてきな臭い状況が続いているのだ。ラストがいまひとつ腑に落ちないのも、この問題がそう簡単に答えを出せるものではないということ示してもいるようだ。
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