松江哲明 『あんにょん由美香』
「2005年6月26日 林由美香さんが亡くなった」と始まる『あんにょん由美香』は、『監督失格』でも描かれた林由美香を巡るドキュメンタリーである。ただし公開は2009年で、『監督失格』より前である。

監督松江哲明の著書『セルフ・ドキュメンタリー 映画監督・松江哲明ができるまで』によれば、彼の学生時代の失われた作品に『裸の履歴書』という林由美香を題材にしたものがあるそうだ。しかし、それを観た林由美香に「松江くん、まだまだね」と言われてしまう。平野監督が「監督失格だね」と言われたように……。林由美香の死をきっかけにして、松江は林由美香を題材に「一本ちゃんと(撮りたい)」と考え、映画を撮ることで「由美香さんへの想いを表現したい」と決意する。
この映画の端緒には『東京の人妻 順子』(ユ・ジンソン監督)という韓国で製作され、林由美香が順子役を演じたエロ映画がある。松江は林由美香亡き後に、この映画を発見し、「誰が『東京の人妻 順子』を作ったんだろう?」「どうして由美香さんは韓国のエロ映画に出たんだろう?」と疑問を提示する。
しかしこの疑問は一般的な興味をひくものではない。映画のなかでも問われているが、このドキュメンタリーをつくる動機(松江の著書によれば「内的必然性」)が弱いという批判は否めない。『監督失格』の平野勝之の場合、その必然性は疑いようがない。かつての仕事の同僚、あるいは不倫相手、さらに加えればその“死”の第一発見者として、林由美香との縁は切っても切れないものがあるからだ。
一方、『あんにょん由美香』の監督である松江哲明はいささか分が悪い。『東京の人妻 順子』が対象として選ばれた理由は、それが日本では誰も知らなかった一部の好事家のみが面白がるいわゆるトンデモな作品だからだが、もしかするとそれが韓国作品だからかもしれない。松江哲明は日本に帰化した在日三世であり、デビュー作品『あんにょんキムチ』は在日である自分についてのドキュメンタリーだ。林由美香との共通点が韓国で見つかればという“もくろみ”があったのかもしれない。
松江は韓国まで『東京の人妻 順子』を追って行くが、ほとんど何も見つからない。“もくろみ”は外れたのだ。すでに引退したユ監督を探し出して、脚本だけに残された幻のラストシーンの意味や、韓国語と日本語を使い分けている意図を問いただしても、返ってくる答えは「意味ない」「関係ない」という言葉ばかり。他愛ない作品に過剰な意味を求めるのは、松江の個人的な思い込み(もしくは林由美香に対する思い入れ)に過ぎないのだ。劇映画とは違い、現実は脚本どおりに動いてはいかない。これはドキュメンタリーなのだ。
松江哲明という人間は怖いもの知らずに見える。KY(空気が読めない)にもほどがあろうに平野勝之より先に林由美香の映画に着手し、平野には「誤魔化すような真似するなよ」なんてクギを刺されてもやり通してしまうのだから。
結局、きっかけは林由美香にあったけれど、できた映画は追悼とは違ったものになった。終盤、かつての監督や俳優たちがもう一度集まって、あの幻のラストシーンを撮り直すのだ。私には『ニキータ』のラストのパクリにしか思えなかった。そんな他愛ないシーン蘇らせるのだ。およそ馬鹿げた振る舞いと言えるだろう。しかしそこには映画への想いが感じられてほほえましさが残る。「映画は麻薬です」とは、韓国人の出演俳優のつぶやいた言葉だが、映画が好きでなければそんな馬鹿げたことには付き合えない。松江監督はこの映画に3年の時間をかけている。監督も当然ながら映画が好きなのだ。そんなことが感じられるから、映画が好きでこんなことを記している私にも、我が事のようになかば呆れながらもほほえましく思えるのだ。
それから、『監督失格』で由美香ママの語っていた「人間は二度死ぬ」という言葉は、『あんにょん由美香』でも語られている。中野貴雄という映画監督の言葉だ。中野氏は『007は二度死ぬ』の主題歌の歌詞を引用する。
「ひとつは自分自身のために死ぬ。もうひとつは夢のために死ぬ」。ここからが中野氏の解釈だ。「夢のために死ぬというのがずっとわからなかったが、夢を見るのは死んだ人が見るわけではないから、残された人が夢を見るんです。ということは夢のなかにいる限り(その亡くなった人は)生きているんです。完全に忘れられたときに二度死ぬんじゃないかな」。
由美香ママは『あんにょん由美香』を観て、『監督失格』でのインタビューで「人間は二度死ぬ」という言葉をふともらしてしまったのではないか。これはもちろん私の思い込みだけれど、松江監督は由美香ママを介してでも、『監督失格』のなかに『あんにょん由美香』の痕跡を残せたのを嬉しがっているんじゃないかな。
松江哲明の作品

監督松江哲明の著書『セルフ・ドキュメンタリー 映画監督・松江哲明ができるまで』によれば、彼の学生時代の失われた作品に『裸の履歴書』という林由美香を題材にしたものがあるそうだ。しかし、それを観た林由美香に「松江くん、まだまだね」と言われてしまう。平野監督が「監督失格だね」と言われたように……。林由美香の死をきっかけにして、松江は林由美香を題材に「一本ちゃんと(撮りたい)」と考え、映画を撮ることで「由美香さんへの想いを表現したい」と決意する。
この映画の端緒には『東京の人妻 順子』(ユ・ジンソン監督)という韓国で製作され、林由美香が順子役を演じたエロ映画がある。松江は林由美香亡き後に、この映画を発見し、「誰が『東京の人妻 順子』を作ったんだろう?」「どうして由美香さんは韓国のエロ映画に出たんだろう?」と疑問を提示する。
しかしこの疑問は一般的な興味をひくものではない。映画のなかでも問われているが、このドキュメンタリーをつくる動機(松江の著書によれば「内的必然性」)が弱いという批判は否めない。『監督失格』の平野勝之の場合、その必然性は疑いようがない。かつての仕事の同僚、あるいは不倫相手、さらに加えればその“死”の第一発見者として、林由美香との縁は切っても切れないものがあるからだ。
一方、『あんにょん由美香』の監督である松江哲明はいささか分が悪い。『東京の人妻 順子』が対象として選ばれた理由は、それが日本では誰も知らなかった一部の好事家のみが面白がるいわゆるトンデモな作品だからだが、もしかするとそれが韓国作品だからかもしれない。松江哲明は日本に帰化した在日三世であり、デビュー作品『あんにょんキムチ』は在日である自分についてのドキュメンタリーだ。林由美香との共通点が韓国で見つかればという“もくろみ”があったのかもしれない。
松江は韓国まで『東京の人妻 順子』を追って行くが、ほとんど何も見つからない。“もくろみ”は外れたのだ。すでに引退したユ監督を探し出して、脚本だけに残された幻のラストシーンの意味や、韓国語と日本語を使い分けている意図を問いただしても、返ってくる答えは「意味ない」「関係ない」という言葉ばかり。他愛ない作品に過剰な意味を求めるのは、松江の個人的な思い込み(もしくは林由美香に対する思い入れ)に過ぎないのだ。劇映画とは違い、現実は脚本どおりに動いてはいかない。これはドキュメンタリーなのだ。
松江哲明という人間は怖いもの知らずに見える。KY(空気が読めない)にもほどがあろうに平野勝之より先に林由美香の映画に着手し、平野には「誤魔化すような真似するなよ」なんてクギを刺されてもやり通してしまうのだから。
結局、きっかけは林由美香にあったけれど、できた映画は追悼とは違ったものになった。終盤、かつての監督や俳優たちがもう一度集まって、あの幻のラストシーンを撮り直すのだ。私には『ニキータ』のラストのパクリにしか思えなかった。そんな他愛ないシーン蘇らせるのだ。およそ馬鹿げた振る舞いと言えるだろう。しかしそこには映画への想いが感じられてほほえましさが残る。「映画は麻薬です」とは、韓国人の出演俳優のつぶやいた言葉だが、映画が好きでなければそんな馬鹿げたことには付き合えない。松江監督はこの映画に3年の時間をかけている。監督も当然ながら映画が好きなのだ。そんなことが感じられるから、映画が好きでこんなことを記している私にも、我が事のようになかば呆れながらもほほえましく思えるのだ。
それから、『監督失格』で由美香ママの語っていた「人間は二度死ぬ」という言葉は、『あんにょん由美香』でも語られている。中野貴雄という映画監督の言葉だ。中野氏は『007は二度死ぬ』の主題歌の歌詞を引用する。
You only live twice.
One life for yourself and one for your dreams.
「ひとつは自分自身のために死ぬ。もうひとつは夢のために死ぬ」。ここからが中野氏の解釈だ。「夢のために死ぬというのがずっとわからなかったが、夢を見るのは死んだ人が見るわけではないから、残された人が夢を見るんです。ということは夢のなかにいる限り(その亡くなった人は)生きているんです。完全に忘れられたときに二度死ぬんじゃないかな」。
由美香ママは『あんにょん由美香』を観て、『監督失格』でのインタビューで「人間は二度死ぬ」という言葉をふともらしてしまったのではないか。これはもちろん私の思い込みだけれど、松江監督は由美香ママを介してでも、『監督失格』のなかに『あんにょん由美香』の痕跡を残せたのを嬉しがっているんじゃないかな。
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