『父の秘密』 内にこもる父/世界との不調和
メキシコ出身のマイケル・フランコ(ミッシェル・フランコ)の第2作で、監督・脚本を担当したこの作品では、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリに輝いた。
原題は「After Lucia」であり、「ルシアの亡き後」と「光の不在の世界」のダブル・ミーニングとなっている。
5月2日からレンタルが開始となった(セル版は6月13日から)。

妻ルシアを亡くしたロベルト(エルナン・メンドーサ)は娘のアレハンドラ(テッサ・イア)とともに新天地で出直しを図る。アレハンドラは転校先での仲間もでき順調に見えたが、酔った勢いでの火遊びがネットに流出して、いじめの対象となってしまう。
宮台真司がこの映画のパンフレットのために書いた解説が公開されている。物語の読みとしては、ほとんど網羅的に解説されている。この映画の父と娘はいい関係だが、やはり秘密にしていることはある。「娘の秘密(マリファナの使用など)」と「父の秘密(妻の死により自分を制御できないこと)」とが描かれていくが、娘がいじめられるに至って「娘の秘密」が前景化してくる。しかし、最後はそれが明らかになることにより、父親は「父の秘密」へと自らを閉ざしてしまう。宮台はこの映画を「全てが分かっているのにどうしようもないという〈世の摂理〉」を描いたものとしている。とても説得的な解説で付け加えることは何もない気もするから、以下には好き勝手な感想を……。

この映画に限らず、移動する車のなかから捉えた映像はどこかちょっと怖いところがある。これは私がまったくのペーパードライバーで、車の運転自体が怖いということでもあるのだが、そればかりではない気もする。『父の秘密』では、車内からの固定したカメラで車外を捉えた映像が繰り返し登場する。冒頭の長回しもそうで、カメラは運転席に座る父親の後ろから外の様子を捉えている。
通常、人が車を運転するとすれば、交差点では左右を確認するだろうし、不穏な物体があれば目を凝らすなどして安全を確保するはずだ。しかし、固定されたカメラはただ一点のみを愚直に映していく。一点のみを見つめて運転している状態が危険なのは当たり前だ。横から追い越す車が現れるのは突然と感じるし、カーブを曲がるときその先がまったく見えないから不安に駆られる。単に車に乗っているというだけの場面だが、それは通常のドライブとは異なる作用をもたらす。“怖い”というのは、車の外の世界がいつもと違って感じられるからなのだ。
こうした主体と外界の関係が、この映画のモチーフのひとつだ。『父の秘密』では、父親がひとりで引越しの後片付けをしていると突然泣き出す場面がある。また職場を辞めると言い出すのも突然だし、冒頭では何の説明もなしに車を道端に乗り捨てる。(*1)これらが唐突に思えるのは、父親の内面を推測させる要素がほとんどないからだ。この父親は自らの内部に閉じこもって、外部の世界とうまく波長を合わせられない状態にあるのだ。(*2)
閉じこもった父親と世界との不調和、そうしたものが先に説明した冒頭の場面にも感じられる。車の中はある程度自分のコントロール下にある領域だが、そこから眺められる外部の世界は異化されたものとして現れる。どこかよそよそしく自分とは切り離された世界なのだ。
こうした図式はラストシーンも同様だ。ここではボートで海に出る父親の姿が捉えられる。ボートを操作する父親の姿は、固定したカメラとシンクロしていてほとんど動かないのだが、ボート自体は波に乗り上げながら疾走していくため、周囲でしぶきを上げる海の様子ばかりが荒れ狂っているように見える。父親はそこである事を成して岸へ引き返す。ボートが方向転換していくと、父親の姿だけが不動の中心にあって、周囲の世界ばかりがぐるぐると回転していく。閉じこもった父親を取り巻く外部の世界が不気味に迫ってくるようであり、世界との不調和をまざまざと感じさせるのだ。
(*1) この車は妻ルシアが乗っていて事故を起こした車であり、ほとんどすべてを修理されて戻ってきた車なのだ。血だらけだった車内もすっかり清潔になって戻ってきたわけで、かえって二度と戻ってこない妻への想いのほうが募るだろう。
(*2) 娘のアレハンドラの姿もどこか外部の世界に対して無関心のようにも見える。母親の死にも父親ほどの打撃を受けていないように見えるし、いじめの場面はかなり不快ではあるけれど、自らに閉じこもることで対抗しようとしているような……。
原題は「After Lucia」であり、「ルシアの亡き後」と「光の不在の世界」のダブル・ミーニングとなっている。
5月2日からレンタルが開始となった(セル版は6月13日から)。

妻ルシアを亡くしたロベルト(エルナン・メンドーサ)は娘のアレハンドラ(テッサ・イア)とともに新天地で出直しを図る。アレハンドラは転校先での仲間もでき順調に見えたが、酔った勢いでの火遊びがネットに流出して、いじめの対象となってしまう。
宮台真司がこの映画のパンフレットのために書いた解説が公開されている。物語の読みとしては、ほとんど網羅的に解説されている。この映画の父と娘はいい関係だが、やはり秘密にしていることはある。「娘の秘密(マリファナの使用など)」と「父の秘密(妻の死により自分を制御できないこと)」とが描かれていくが、娘がいじめられるに至って「娘の秘密」が前景化してくる。しかし、最後はそれが明らかになることにより、父親は「父の秘密」へと自らを閉ざしてしまう。宮台はこの映画を「全てが分かっているのにどうしようもないという〈世の摂理〉」を描いたものとしている。とても説得的な解説で付け加えることは何もない気もするから、以下には好き勝手な感想を……。

この映画に限らず、移動する車のなかから捉えた映像はどこかちょっと怖いところがある。これは私がまったくのペーパードライバーで、車の運転自体が怖いということでもあるのだが、そればかりではない気もする。『父の秘密』では、車内からの固定したカメラで車外を捉えた映像が繰り返し登場する。冒頭の長回しもそうで、カメラは運転席に座る父親の後ろから外の様子を捉えている。
通常、人が車を運転するとすれば、交差点では左右を確認するだろうし、不穏な物体があれば目を凝らすなどして安全を確保するはずだ。しかし、固定されたカメラはただ一点のみを愚直に映していく。一点のみを見つめて運転している状態が危険なのは当たり前だ。横から追い越す車が現れるのは突然と感じるし、カーブを曲がるときその先がまったく見えないから不安に駆られる。単に車に乗っているというだけの場面だが、それは通常のドライブとは異なる作用をもたらす。“怖い”というのは、車の外の世界がいつもと違って感じられるからなのだ。
こうした主体と外界の関係が、この映画のモチーフのひとつだ。『父の秘密』では、父親がひとりで引越しの後片付けをしていると突然泣き出す場面がある。また職場を辞めると言い出すのも突然だし、冒頭では何の説明もなしに車を道端に乗り捨てる。(*1)これらが唐突に思えるのは、父親の内面を推測させる要素がほとんどないからだ。この父親は自らの内部に閉じこもって、外部の世界とうまく波長を合わせられない状態にあるのだ。(*2)
閉じこもった父親と世界との不調和、そうしたものが先に説明した冒頭の場面にも感じられる。車の中はある程度自分のコントロール下にある領域だが、そこから眺められる外部の世界は異化されたものとして現れる。どこかよそよそしく自分とは切り離された世界なのだ。
こうした図式はラストシーンも同様だ。ここではボートで海に出る父親の姿が捉えられる。ボートを操作する父親の姿は、固定したカメラとシンクロしていてほとんど動かないのだが、ボート自体は波に乗り上げながら疾走していくため、周囲でしぶきを上げる海の様子ばかりが荒れ狂っているように見える。父親はそこである事を成して岸へ引き返す。ボートが方向転換していくと、父親の姿だけが不動の中心にあって、周囲の世界ばかりがぐるぐると回転していく。閉じこもった父親を取り巻く外部の世界が不気味に迫ってくるようであり、世界との不調和をまざまざと感じさせるのだ。
(*1) この車は妻ルシアが乗っていて事故を起こした車であり、ほとんどすべてを修理されて戻ってきた車なのだ。血だらけだった車内もすっかり清潔になって戻ってきたわけで、かえって二度と戻ってこない妻への想いのほうが募るだろう。
(*2) 娘のアレハンドラの姿もどこか外部の世界に対して無関心のようにも見える。母親の死にも父親ほどの打撃を受けていないように見えるし、いじめの場面はかなり不快ではあるけれど、自らに閉じこもることで対抗しようとしているような……。
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