吉田修一 『横道世之介』
吉田修一の本は、『悪人』『パレード』など映画化されることも多い。この『横道世之介』も映画化され、来年公開予定である(映画版についてはこちら)。

『横道世之介』は大学に入学したばかりの横道世之介の1年間を、同じ1年間の期間をかけて新聞連載として描いたものだ。ただ時代は80年代のバブル期の設定だ。章立ても月ごとに分かれ、入学式や夏休み、クリスマスにバレンタインなど、大学生らしいイベントが盛り込まれている。
そんな<現在>の流れに、突然将来の出来事が挿入されてくる。これは小説の流れから見れば将来だが、連載時(2008年4月から2009年3月まで)の話ということになる。ここでは世之介が出会った友人たちのその後が描かれる。サンバサークルの倉持と唯、ゲイの加藤、お嬢様の祥子、憧れの片瀬千春など、世之介とは離れそれぞれの道で生きている。この設定(<現在>への将来の挿入?)は読んでいて不思議な気持ちになった。
時間が一方向にしか流れないように、現実世界では、現在から過去を振り返ることしかできない(未来は未定だから)。小説では、現在から過去を振り返る「回想シーン」は、登場人物の現在を説明する常套手段だろう。例えば犯人探しのミステリーなら、過去の不幸な出来事が、現在の悲惨な事件の引き金になるといった手法だ。
そんなとき、何故か「偶有性」の問題がつきまとう。簡単に言えば「そうでない人生も可能だったのに……」という感覚だ。もちろんすべての「回想」がそういった後悔の念を生じさせるわけではないはずで、回想の幼年時代がその人にとっての黄金時代である場合もあるはずだ。だが多くの「回想シーン」は何らかの「偶有性」を感じさせるものとなっている。
吉田修一作品でも『さよなら渓谷』では、過去を振り返ることが作品の核になっている。
これは過去の事件を秘密にして生きてきた主人公に向けられた言葉だ。主人公はその事件を起こしたことで自分の人生を狂わせ、それ以上に被害者の人生をも狂わせたわけだが、現在から振り返れば「事件を起こさなかった人生」が常に主人公の頭のなかに去来する。現実には「事件を起こさなかった人生」ではなかったからこそ、「事件を起こさなかった人生」を思い描かざるを得ないのだ。
翻って『横道世之介』だが、読者は突然、それまで大学生だった登場人物の20年後に出くわすことになる。その印象は登場人物ぞれぞれで違うだろうが、残念(あるいは痛快)に思うかもしれないし、意外な感に襲われるかもしれない。けれども読んでいくにつれ「なるべくしてそうなった」と思わされる。納得させられてしまうのだ。それは当然と言えば当然で、20年後の現在は厳然としてそこにあるのだから、受け入れざるを得ないのだ。しかし、それは<現在>として描かれる学生時代があったからこその納得なのだと思う。「宿命」とか大げさな言葉は似合わないが、その20年後の姿を肯定するほかない気持ちにさせられるのだ(私が感じた不思議な感覚はこのあたりにあるのだと思う)。
主人公世之介について、作者(吉田修一)はこんなふうに描く。
このあと友人の加藤がたこ焼きを持って訪ねてくると、世之介は「寝起きで、たこ焼きかぁ」とつぶやきつつもたこ焼きに手を出すのだが、作者は「食べるくせに文句は言うのである。」とツッコミを入れる。何だかアニメ『ちびまる子ちゃん』のナレーションのような語りである。この語りは客観的というよりは、世之介の側で彼を見守っているような暖かい雰囲気なのだ。
世之介という愛すべきキャラクターは、「横道」という名前に反して、ひたすら「真っ直ぐ」である。彼女だった祥子はこう語る。
加藤曰く、世之介に出会ったことで人生で何かが変るわけではないが、なぜか得をした気持ちになる、世之介はそんな人物なのだ。
吉田修一は何でもない1年間を平易な言葉で記しつつも、エンターテインメントとして読ませてしまう。ある種道徳的でさえある世之介の最期の行動も、説教臭くなり過ぎないところも絶妙だ。暗くて深いばかりが小説ではないし、屈折して頭でっかちな思想を巡らすような主人公ばかりでもつまらないだろう。世之介という、ごく普通の愛らしい青年の、ちょっとあり得ないくらいの「真っ直ぐ」さも、描く価値があるモチーフだと感じさせられた1冊だった。
その他の吉田修一作品


『横道世之介』は大学に入学したばかりの横道世之介の1年間を、同じ1年間の期間をかけて新聞連載として描いたものだ。ただ時代は80年代のバブル期の設定だ。章立ても月ごとに分かれ、入学式や夏休み、クリスマスにバレンタインなど、大学生らしいイベントが盛り込まれている。
そんな<現在>の流れに、突然将来の出来事が挿入されてくる。これは小説の流れから見れば将来だが、連載時(2008年4月から2009年3月まで)の話ということになる。ここでは世之介が出会った友人たちのその後が描かれる。サンバサークルの倉持と唯、ゲイの加藤、お嬢様の祥子、憧れの片瀬千春など、世之介とは離れそれぞれの道で生きている。この設定(<現在>への将来の挿入?)は読んでいて不思議な気持ちになった。
時間が一方向にしか流れないように、現実世界では、現在から過去を振り返ることしかできない(未来は未定だから)。小説では、現在から過去を振り返る「回想シーン」は、登場人物の現在を説明する常套手段だろう。例えば犯人探しのミステリーなら、過去の不幸な出来事が、現在の悲惨な事件の引き金になるといった手法だ。
そんなとき、何故か「偶有性」の問題がつきまとう。簡単に言えば「そうでない人生も可能だったのに……」という感覚だ。もちろんすべての「回想」がそういった後悔の念を生じさせるわけではないはずで、回想の幼年時代がその人にとっての黄金時代である場合もあるはずだ。だが多くの「回想シーン」は何らかの「偶有性」を感じさせるものとなっている。
吉田修一作品でも『さよなら渓谷』では、過去を振り返ることが作品の核になっている。
「……あの事件を起こさなかった人生と、かなこさんと出会った人生と、どちらかを選べるなら、あなたはどっちを選びますか?」
これは過去の事件を秘密にして生きてきた主人公に向けられた言葉だ。主人公はその事件を起こしたことで自分の人生を狂わせ、それ以上に被害者の人生をも狂わせたわけだが、現在から振り返れば「事件を起こさなかった人生」が常に主人公の頭のなかに去来する。現実には「事件を起こさなかった人生」ではなかったからこそ、「事件を起こさなかった人生」を思い描かざるを得ないのだ。
翻って『横道世之介』だが、読者は突然、それまで大学生だった登場人物の20年後に出くわすことになる。その印象は登場人物ぞれぞれで違うだろうが、残念(あるいは痛快)に思うかもしれないし、意外な感に襲われるかもしれない。けれども読んでいくにつれ「なるべくしてそうなった」と思わされる。納得させられてしまうのだ。それは当然と言えば当然で、20年後の現在は厳然としてそこにあるのだから、受け入れざるを得ないのだ。しかし、それは<現在>として描かれる学生時代があったからこその納得なのだと思う。「宿命」とか大げさな言葉は似合わないが、その20年後の姿を肯定するほかない気持ちにさせられるのだ(私が感じた不思議な感覚はこのあたりにあるのだと思う)。
主人公世之介について、作者(吉田修一)はこんなふうに描く。
九月になっても一向に涼しくならない。すでに十時間以上も寝ているくせに、まだ眠れるんじゃないかと汗臭い枕に顔を押しつけているのが世之介である。これが三日ぶりの睡眠であるならば話も分かるが、地元から戻って以来、気分が悪くなるほど世之介は寝てばかりいる。
このあと友人の加藤がたこ焼きを持って訪ねてくると、世之介は「寝起きで、たこ焼きかぁ」とつぶやきつつもたこ焼きに手を出すのだが、作者は「食べるくせに文句は言うのである。」とツッコミを入れる。何だかアニメ『ちびまる子ちゃん』のナレーションのような語りである。この語りは客観的というよりは、世之介の側で彼を見守っているような暖かい雰囲気なのだ。
世之介という愛すべきキャラクターは、「横道」という名前に反して、ひたすら「真っ直ぐ」である。彼女だった祥子はこう語る。
「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」「もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人」
加藤曰く、世之介に出会ったことで人生で何かが変るわけではないが、なぜか得をした気持ちになる、世之介はそんな人物なのだ。
吉田修一は何でもない1年間を平易な言葉で記しつつも、エンターテインメントとして読ませてしまう。ある種道徳的でさえある世之介の最期の行動も、説教臭くなり過ぎないところも絶妙だ。暗くて深いばかりが小説ではないし、屈折して頭でっかちな思想を巡らすような主人公ばかりでもつまらないだろう。世之介という、ごく普通の愛らしい青年の、ちょっとあり得ないくらいの「真っ直ぐ」さも、描く価値があるモチーフだと感じさせられた1冊だった。
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