アカデミー賞作品賞 『それでも夜は明ける』 何だか後ろめたいような……
『SHAME -シェイム-』のスティーヴ・マックィーン監督作品。
出演はキウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ルピタ・ニョンゴ、ブラッド・ピットなど。
アカデミー賞では作品賞と助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)など3部門で受賞した。

時代は、南北戦争も奴隷解放宣言もまだまだ先の1841年。ニューヨーク州で自由黒人としてヴァイオリン奏者をしていたソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、妻と子供と平穏無事に暮らしていた。ある日、二人の男に頼まれて演奏に出向くと、設けられた酒席が終わり目を覚ましたときには、首に鎖を付けられている。ソロモンは騙されて奴隷として南部に売られていく……。
原題が「12 Years a Slave」であるように、ソロモンは12年の長きに渡って奴隷として過ごすことになる。この映画を観ると、公民権運動の歴史に親子のドラマを重ねて娯楽作にしていた『大統領の執事の涙』は、かなりぬるま湯だったという気がしないでもない。そのくらい奴隷の身分に陥ったソロモンの境遇は過酷だ。『大統領の執事の涙』においても、南部の黒人に対する扱いにケネディが「どこの国の話だ」などとつぶやく場面があった。『それでも夜は明ける』の時代は、さらに100年以上前のことだけに、その過酷さは信じられないくらいだし、いつまでも覚めない悪夢のようだ。肉が裂けるほどの鞭打ちとか、首吊りにしたまま放置されたりとか、奴隷はほとんど家畜のような扱いしかされていないのだ。この映画はアメリカにおいて黒人が辿った悲惨な過去をただひたすら映し続ける。
たとえばこの時代に自由な身分の黒人がいたことなど、色々な部分でこの映画の資料的価値は高いと思うし、「普遍的な真理のもとでは奴隷制度は間違っている」という主張など、ぐうの音も出ない正論なわけで、それについては反論のしようもない。だが、一方でアメリカの暗い歴史を暴くことばかりに寄りかかりすぎた印象も強い。奴隷になったソロモンたちは主人の横暴にもただ耐えるばかり。(*1)ソロモン自身は「耐える気はない。生きるだけだ」などと言ってもいるが、状況的にはただ虐げられるばかり。とにかく生きて、ただ生きて、それでも生きて、永遠に続くかと思われた悪夢だが、ひとりの善意によって呆気なく終わる。劇映画としてのドラマツルギーなど無視していて、事実をもとにした映画とは言え、何とも安易な展開だと思う。また、プロデューサーも兼ねたブラッド・ピット演じる白人が滔々と演説を打つあたりもちょっとしらけ気味。

『それでも夜は明ける』の結末には、奴隷から解放されたカタルシスはない。しかしカタルシスがない分、訴えかけるものはある。主人公ソロモンの立ち位置が重要で、彼は自由黒人から奴隷へと堕ち、再び解放される。ソロモンはかつて自分が自由だったときには、そのほかの黒人が奴隷となっていることに心を尽くすことはなかったわけだが、12年間の奴隷を体験した後ではその風景は違ったものに見えるだろう。パッツィーのような同胞を地獄に残して自由になったとして、元の生活を無邪気に享受することなどできないはず。ソロモンは自分だけ運よく助かってしまうわけで、そこにはどうしても“後ろめたさ”が生じる。そうした感情はソロモンをのちに黒人解放の運動に駆り立てることになったようだ。
それと同じことで、この映画を観てしまったら、安穏としていられないような気分になるだろう(特にアメリカ本国ではそうだろう)。観客はソロモンと同じように奴隷となるような体験を味わったわけで、観終わったあとでは黒人に対する差別という問題に対してどうあれコミットしなければいけないような、そんな切迫したものを感じないだろうか。アカデミー賞もそうした心証が影響しないわけがない。そんな重要な映画を採算を度外視して製作したブラッド・ピットは偉いし、奴隷制に対する批判の声を挙げるためにもこの作品は評価しなければならない。そんな気持ちもあったのかもしれない。
作品賞以外では3人の役者がアカデミー賞にノミネートされているが、実際に賞を獲得したのは、映画のなかで一番ひどい目にあったパッツィーを演じたルピタ・ニョンゴだというのも、そうした“後ろめたさ”からと考えるのは斜に構えた見方だろうか。とりあえず、こんなテーマの作品を差し置いて、テーマパークのアトラクションみたいな『ゼロ・グラビティ』に投票するのは憚れたのかもしれない。『ゼロ・グラビティ』を能天気に楽しんだ観客としてはちょっと複雑な気分ではある。
(*1) 虐げられる黒人たちの対応の仕方は、泣き暮らしたり、逆に農作業に精を出したりと様々とはいえ、あまり濃淡の差がなく一様にも感じられた(自由がない彼らが目立ちすぎても碌なことにならないのも確かだが)。それよりも黒人を抱える白人たちのほうが多彩で、それぞれ個性的な姿で描かれていた。特にマイケル・ファスベンダーの演じるエップスは、優秀な黒人奴隷のパッツィーを所有物として好きに扱うわけだが、同時に愛してもいて、どうしてもそれを認められないから彼女を罰するという屈折ぶりであり、こちらに興味を覚えてしまう。

出演はキウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ルピタ・ニョンゴ、ブラッド・ピットなど。
アカデミー賞では作品賞と助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)など3部門で受賞した。

時代は、南北戦争も奴隷解放宣言もまだまだ先の1841年。ニューヨーク州で自由黒人としてヴァイオリン奏者をしていたソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、妻と子供と平穏無事に暮らしていた。ある日、二人の男に頼まれて演奏に出向くと、設けられた酒席が終わり目を覚ましたときには、首に鎖を付けられている。ソロモンは騙されて奴隷として南部に売られていく……。
原題が「12 Years a Slave」であるように、ソロモンは12年の長きに渡って奴隷として過ごすことになる。この映画を観ると、公民権運動の歴史に親子のドラマを重ねて娯楽作にしていた『大統領の執事の涙』は、かなりぬるま湯だったという気がしないでもない。そのくらい奴隷の身分に陥ったソロモンの境遇は過酷だ。『大統領の執事の涙』においても、南部の黒人に対する扱いにケネディが「どこの国の話だ」などとつぶやく場面があった。『それでも夜は明ける』の時代は、さらに100年以上前のことだけに、その過酷さは信じられないくらいだし、いつまでも覚めない悪夢のようだ。肉が裂けるほどの鞭打ちとか、首吊りにしたまま放置されたりとか、奴隷はほとんど家畜のような扱いしかされていないのだ。この映画はアメリカにおいて黒人が辿った悲惨な過去をただひたすら映し続ける。
たとえばこの時代に自由な身分の黒人がいたことなど、色々な部分でこの映画の資料的価値は高いと思うし、「普遍的な真理のもとでは奴隷制度は間違っている」という主張など、ぐうの音も出ない正論なわけで、それについては反論のしようもない。だが、一方でアメリカの暗い歴史を暴くことばかりに寄りかかりすぎた印象も強い。奴隷になったソロモンたちは主人の横暴にもただ耐えるばかり。(*1)ソロモン自身は「耐える気はない。生きるだけだ」などと言ってもいるが、状況的にはただ虐げられるばかり。とにかく生きて、ただ生きて、それでも生きて、永遠に続くかと思われた悪夢だが、ひとりの善意によって呆気なく終わる。劇映画としてのドラマツルギーなど無視していて、事実をもとにした映画とは言え、何とも安易な展開だと思う。また、プロデューサーも兼ねたブラッド・ピット演じる白人が滔々と演説を打つあたりもちょっとしらけ気味。

『それでも夜は明ける』の結末には、奴隷から解放されたカタルシスはない。しかしカタルシスがない分、訴えかけるものはある。主人公ソロモンの立ち位置が重要で、彼は自由黒人から奴隷へと堕ち、再び解放される。ソロモンはかつて自分が自由だったときには、そのほかの黒人が奴隷となっていることに心を尽くすことはなかったわけだが、12年間の奴隷を体験した後ではその風景は違ったものに見えるだろう。パッツィーのような同胞を地獄に残して自由になったとして、元の生活を無邪気に享受することなどできないはず。ソロモンは自分だけ運よく助かってしまうわけで、そこにはどうしても“後ろめたさ”が生じる。そうした感情はソロモンをのちに黒人解放の運動に駆り立てることになったようだ。
それと同じことで、この映画を観てしまったら、安穏としていられないような気分になるだろう(特にアメリカ本国ではそうだろう)。観客はソロモンと同じように奴隷となるような体験を味わったわけで、観終わったあとでは黒人に対する差別という問題に対してどうあれコミットしなければいけないような、そんな切迫したものを感じないだろうか。アカデミー賞もそうした心証が影響しないわけがない。そんな重要な映画を採算を度外視して製作したブラッド・ピットは偉いし、奴隷制に対する批判の声を挙げるためにもこの作品は評価しなければならない。そんな気持ちもあったのかもしれない。
作品賞以外では3人の役者がアカデミー賞にノミネートされているが、実際に賞を獲得したのは、映画のなかで一番ひどい目にあったパッツィーを演じたルピタ・ニョンゴだというのも、そうした“後ろめたさ”からと考えるのは斜に構えた見方だろうか。とりあえず、こんなテーマの作品を差し置いて、テーマパークのアトラクションみたいな『ゼロ・グラビティ』に投票するのは憚れたのかもしれない。『ゼロ・グラビティ』を能天気に楽しんだ観客としてはちょっと複雑な気分ではある。
(*1) 虐げられる黒人たちの対応の仕方は、泣き暮らしたり、逆に農作業に精を出したりと様々とはいえ、あまり濃淡の差がなく一様にも感じられた(自由がない彼らが目立ちすぎても碌なことにならないのも確かだが)。それよりも黒人を抱える白人たちのほうが多彩で、それぞれ個性的な姿で描かれていた。特にマイケル・ファスベンダーの演じるエップスは、優秀な黒人奴隷のパッツィーを所有物として好きに扱うわけだが、同時に愛してもいて、どうしてもそれを認められないから彼女を罰するという屈折ぶりであり、こちらに興味を覚えてしまう。
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