マシュー・マコノヒー主演作 『MUD‐マッド‐』 少年の成長物語?
『テイク・シェルター』のジェフ・ニコルズ監督の作品。
タイトルロールのマッドには『ダラス・バイヤーズ・クラブ』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒー。少年役はタイ・シェリダンとジェイコブ・ロフランド。

闇に乗じて家から抜け出し、ボートで川へと漕ぎ出すエリス(タイ・シェリダン)とネックボーン(ジェイコブ・ロフランド)。冒頭の様子では家出少年の冒険譚を想像させる。もちろんそういう部分もあるのだが、主人公エリスは別居の相談がなされているらしい両親と共に、川べりのボートハウスに住むことを嫌っているわけではない。むしろ住み慣れたそこを離れることは、愛し合うべき父と母との別離を意味するゆえに恐れてもいる。むしろエリスの冒険は、外部の世界ではなく、愛という未経験な領域だ。
冒頭で少年たちが見つけるのは大洪水で木の上に流れ着いたボートで、そこに隠れ住む男マッド(マシュー・マコノヒー)とも知り合うことになる。エリスはマッドが孤島のような場所でジュニパーという女性を待っていることを知り、そこに理想の愛し合う男女の姿を見る。マッドは彼女のために人を殺し、そのせいで警察や殺し屋から追われていたのだ。世間的には犯罪者にすぎないマッドだが、エリスは壊れかけた両親の関係と比べ、また始まったばかりの彼女との関係のモデルとして、マッドとジュニパーの姿に希望を託すのだ。
マッドを窮状から救うために、エリスは協力を惜しまない。しかし、計画は土壇場でジュニパーの裏切りによって失敗となる。エリスはジュニパーの裏切りには失望するが、それであきらめてしまうようなマッドにはさらに怒りを露にする。結局、理想の男女という幻想は崩れ去ることになる。
※ 以下、ネタバレあり。

ネックボーン役のジェイコブ・ロフランドがリバー・フェニックスを思わせるからか、現代版『スタンド・バイ・ミー』などと宣伝されて“少年の成長物語”と括られている『MUD‐マッド‐』だが、エリスはマッドから何を学び、どう成長したのだろうか。マッドが年少者を教え導く存在なら、自らの犠牲でもって年少者に範を示しそうなもので、当然マッドの未来には破滅が待っているものと思っていたのだが、途中で物語は急展開する。
エリスの失望と怒りは別の事態を生む。島に生息する毒ヘビに咬まれてしまうのだ。マッドは自らの危険も省みずにエリスの命を助ける。このエピソードは感動的ではあるけれど、エリスのマッドに対する失望は消えぬままのはずだ。最後にエリスとマッドとの間で会話が交わされるものの、事態を説明するほどの余裕もなくラストの銃撃戦が始まってしまう。
一方、マッドとジュニパーのふたりはエリスの知らないところで、一瞬だけ視線を交わし合い互いの気持ちを確認しあう。ふたりの間に愛はあったのだろうが、破滅に向かうようなものではなく、相手の幸福のためなら身を引くという言わば現実的な形だった。エリスはそのことを知る由もなく、つまり理想的モデルの失墜を受け止めたまま、銃撃戦のなかでマッドは姿を消してしまうのだ。エリスが愛の失墜という現実に向き合っただけならば、ほろ苦さが残りそうなものだが……。
エリスはボートハウスを追われ、母親と町中の家に移ることになるが、そこに失望の色合いは見えない。同じ頃、修繕したボートでメキシコ湾の広がりを目にしていたマッドは、父親代わりであるトム(サム・シェパード)と新天地へ向かおうとしている。
意外にも明るい結末から見れば、この映画は“少年の成長物語”というよりも、愛に絡めとられピンチに陥ったマッドが、エリスの真っ直ぐな情熱により救済された物語。そんなふうに要約できるのかもしれない。エリスたちが発見する木の上のボートは、彼らの協力がなければ再び川に戻ることはなかったはずだし、同じようにマッドはエリスによって破滅の運命から逃れられたのだから。(*1)
脚本の展開には都合のいいところも多いのだけれど、愛を希求するエリス少年の造形は魅力的だった。かなり限定された公開だけれど、一見の価値あり。
(*1) 前作『テイク・シェルター』での嵐が単純な自然災害ではなく、主人公に迫りくる内面の危機を表していたように、『MUD』の木の上のボートは、身動きのとれないマッドの姿とする解釈もできる。また、男をダメにする女ジュニパーとヘビの存在もどこか神話的な舞台設定とも言え、寓意性が豊かな作品だと思う。ジュニパーを演じているのはリース・ウィザースプーンで、およそ尊崇の対象とならない感じの面構えが似合っていたと思う。

タイトルロールのマッドには『ダラス・バイヤーズ・クラブ』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒー。少年役はタイ・シェリダンとジェイコブ・ロフランド。

闇に乗じて家から抜け出し、ボートで川へと漕ぎ出すエリス(タイ・シェリダン)とネックボーン(ジェイコブ・ロフランド)。冒頭の様子では家出少年の冒険譚を想像させる。もちろんそういう部分もあるのだが、主人公エリスは別居の相談がなされているらしい両親と共に、川べりのボートハウスに住むことを嫌っているわけではない。むしろ住み慣れたそこを離れることは、愛し合うべき父と母との別離を意味するゆえに恐れてもいる。むしろエリスの冒険は、外部の世界ではなく、愛という未経験な領域だ。
冒頭で少年たちが見つけるのは大洪水で木の上に流れ着いたボートで、そこに隠れ住む男マッド(マシュー・マコノヒー)とも知り合うことになる。エリスはマッドが孤島のような場所でジュニパーという女性を待っていることを知り、そこに理想の愛し合う男女の姿を見る。マッドは彼女のために人を殺し、そのせいで警察や殺し屋から追われていたのだ。世間的には犯罪者にすぎないマッドだが、エリスは壊れかけた両親の関係と比べ、また始まったばかりの彼女との関係のモデルとして、マッドとジュニパーの姿に希望を託すのだ。
マッドを窮状から救うために、エリスは協力を惜しまない。しかし、計画は土壇場でジュニパーの裏切りによって失敗となる。エリスはジュニパーの裏切りには失望するが、それであきらめてしまうようなマッドにはさらに怒りを露にする。結局、理想の男女という幻想は崩れ去ることになる。
※ 以下、ネタバレあり。

ネックボーン役のジェイコブ・ロフランドがリバー・フェニックスを思わせるからか、現代版『スタンド・バイ・ミー』などと宣伝されて“少年の成長物語”と括られている『MUD‐マッド‐』だが、エリスはマッドから何を学び、どう成長したのだろうか。マッドが年少者を教え導く存在なら、自らの犠牲でもって年少者に範を示しそうなもので、当然マッドの未来には破滅が待っているものと思っていたのだが、途中で物語は急展開する。
エリスの失望と怒りは別の事態を生む。島に生息する毒ヘビに咬まれてしまうのだ。マッドは自らの危険も省みずにエリスの命を助ける。このエピソードは感動的ではあるけれど、エリスのマッドに対する失望は消えぬままのはずだ。最後にエリスとマッドとの間で会話が交わされるものの、事態を説明するほどの余裕もなくラストの銃撃戦が始まってしまう。
一方、マッドとジュニパーのふたりはエリスの知らないところで、一瞬だけ視線を交わし合い互いの気持ちを確認しあう。ふたりの間に愛はあったのだろうが、破滅に向かうようなものではなく、相手の幸福のためなら身を引くという言わば現実的な形だった。エリスはそのことを知る由もなく、つまり理想的モデルの失墜を受け止めたまま、銃撃戦のなかでマッドは姿を消してしまうのだ。エリスが愛の失墜という現実に向き合っただけならば、ほろ苦さが残りそうなものだが……。
エリスはボートハウスを追われ、母親と町中の家に移ることになるが、そこに失望の色合いは見えない。同じ頃、修繕したボートでメキシコ湾の広がりを目にしていたマッドは、父親代わりであるトム(サム・シェパード)と新天地へ向かおうとしている。
意外にも明るい結末から見れば、この映画は“少年の成長物語”というよりも、愛に絡めとられピンチに陥ったマッドが、エリスの真っ直ぐな情熱により救済された物語。そんなふうに要約できるのかもしれない。エリスたちが発見する木の上のボートは、彼らの協力がなければ再び川に戻ることはなかったはずだし、同じようにマッドはエリスによって破滅の運命から逃れられたのだから。(*1)
脚本の展開には都合のいいところも多いのだけれど、愛を希求するエリス少年の造形は魅力的だった。かなり限定された公開だけれど、一見の価値あり。
(*1) 前作『テイク・シェルター』での嵐が単純な自然災害ではなく、主人公に迫りくる内面の危機を表していたように、『MUD』の木の上のボートは、身動きのとれないマッドの姿とする解釈もできる。また、男をダメにする女ジュニパーとヘビの存在もどこか神話的な舞台設定とも言え、寓意性が豊かな作品だと思う。ジュニパーを演じているのはリース・ウィザースプーンで、およそ尊崇の対象とならない感じの面構えが似合っていたと思う。
![]() |

![]() |

- 関連記事
-
- アカデミー賞作品賞 『それでも夜は明ける』 何だか後ろめたいような……
- マシュー・マコノヒー主演作 『MUD‐マッド‐』 少年の成長物語?
- フランソワ・オゾン監督 『17歳』 ワクワクするもの
スポンサーサイト
この記事へのコメント: