リー・ダニエルズ 『大統領の執事の涙』 もうひとつのアメリカ史
『プレシャス』『ペーパーボーイ 真夏の引力』のリー・ダニエルズ監督の最新作。アイゼンハワーからレーガンまでの、歴代大統領に執事として仕えた人物の実話に基づく物語。
出演はフォレスト・ウィテカー、オプラ・ウィンフリーなど。歴代の大統領を誰が演じるかも見物。リー・ダニエルズと近しいマライア・キャリーやレニー・クラヴィッツが『プレシャス』に続いて顔を見せている。

『フォレスト・ガンプ』はアメリカ史だったが、あれは白人中心の正史だったのかもしれない。『大統領の執事の涙』はアフリカ系アメリカ人(つまり黒人)の公民権運動の歴史を描いている。奴隷からは解放されたはずの黒人たちだが、差別は根強く残り、南部などでは白人が黒人を殺すことが罪にならなかった時代があった。そんな時代から映画は始まる。主人公のセシルはたまたまホワイトハウスで働くことになり、時間にすれば30年以上の歴史を大統領の傍で見守ることになる。
リー・ダニエルズ監督の出世作『プレシャス』では、本筋の主人公プレシャスの話よりも、虐待する母親のエピソードが感動的だという妙な脱線具合がよかったが、この『大統領の執事の涙』は着実に真っ直ぐに進む。語られるエピソードが盛りだくさんで、脱線のしようもなかったのかもしれない。その分毒気が薄まった印象もあるが、手際よく黒人解放運動の趨勢をまとめていて、多くの観客に受け入れやすい映画になっていると思う。(*1)
主人公はフォレスト・ウィテカー演じる執事セシルだが、彼と反目する形になる長男との関係も重要だ。この映画はアメリカ史と同時に、親と子の物語でもあるのだ。「show time」という掛け声で執事たちが大統領たちに給仕する場面では、大学生となりシット・イン(座り込み)という抗議活動に参加した長男の姿が並行に描かれていく。セシルは大統領に仕えるという仕事で闘っているわけだが、長男はもっと直接的な抗議へと向かう。方法論は違うが、共に闘っている点では同じなのだ。
また、ホワイトハウスでの白人と同様の給料を求める交渉では、まともに話を聞いてもらえず部屋から出ていくセシルの姿は、暗殺前にモーテルで佇むキング牧師の姿とも重ね合わされている。キング牧師はノーベル平和賞を受賞したとき、「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」と語った。それと同じように、この『大統領の執事の涙』でも黒人のそれぞれが自分の方法で闘ってきたことが強調され、そうした闘いがラストでのオバマ大統領誕生へと結びつくのだ。

一方で、セシルと長男との関係はどうなったのか。
セシルの父親は白人に逆らったために撃ち殺された。セシルはそれに学び、白人に抵抗することをやめ、執事として白人に仕えることになる。長男はそんなセシルの姿を苦々しく思い、逆に過激な運動に突き進む。同じころ次男は兄の姿を反面教師にして、国に尽くす方向へと進む。「兄貴は国と闘っているが、おれは国のために闘う」と宣言してベトナム戦争へと繰り出し、戦死する。このあたりの親子のエピソードは脚色らしいが、それぞれの道を決めるのが理路整然とした説得などではなく、反発を糧にしているところはリアルだと思う。
長男はより過激なブラックパンサー党を経て政治へと向かうが、それでも父と子の反目は続く。というより父のセシルは、自分の選んだ道を捨て切れないのだ。和解のきっかけになるのは、レーガン大統領(アラン・リックマン)だった。この映画に登場する大統領は黒人解放に資する方向で政治を動かしていくが、レーガンは唯一政策を誤った大統領として描かれている。しかしセシルに対しては、同情的に接する愛すべき大統領となっている。
レーガンによって晩餐会に招待されたセシルだが、自らの居場所に違和感を覚える。処世術としてふたつの顔(白人に見せる顔と本当の顔)を使い分けてきた執事としての生き方に疑問を抱くのだ。そのことが長男の行動を理解するきっかけとなり、セシルは自分の非を認め、長男と行動を共にすることになる。進むべき方向は同じなのに、方法の違いから長い確執にあった父と子。彼らをもどかしい思いで見てきた観客としては、泣かされる場面だった。
黒人解放への歴史をダイジェストで学ばせてくれる教育的な映画とも言えるし、音楽にはジェームズ・ブラウンやその他諸々のブラックミュージックが使用されていて楽しめる。
(*1) 主人公の両親のエピソードなどは、掘り下げればおもしろそう。狂気に到る母親や、父親を躊躇なく殺す白人など、前作の『ペーパーボーイ』なんかを思わせるキャラクターだった。


出演はフォレスト・ウィテカー、オプラ・ウィンフリーなど。歴代の大統領を誰が演じるかも見物。リー・ダニエルズと近しいマライア・キャリーやレニー・クラヴィッツが『プレシャス』に続いて顔を見せている。

『フォレスト・ガンプ』はアメリカ史だったが、あれは白人中心の正史だったのかもしれない。『大統領の執事の涙』はアフリカ系アメリカ人(つまり黒人)の公民権運動の歴史を描いている。奴隷からは解放されたはずの黒人たちだが、差別は根強く残り、南部などでは白人が黒人を殺すことが罪にならなかった時代があった。そんな時代から映画は始まる。主人公のセシルはたまたまホワイトハウスで働くことになり、時間にすれば30年以上の歴史を大統領の傍で見守ることになる。
リー・ダニエルズ監督の出世作『プレシャス』では、本筋の主人公プレシャスの話よりも、虐待する母親のエピソードが感動的だという妙な脱線具合がよかったが、この『大統領の執事の涙』は着実に真っ直ぐに進む。語られるエピソードが盛りだくさんで、脱線のしようもなかったのかもしれない。その分毒気が薄まった印象もあるが、手際よく黒人解放運動の趨勢をまとめていて、多くの観客に受け入れやすい映画になっていると思う。(*1)
主人公はフォレスト・ウィテカー演じる執事セシルだが、彼と反目する形になる長男との関係も重要だ。この映画はアメリカ史と同時に、親と子の物語でもあるのだ。「show time」という掛け声で執事たちが大統領たちに給仕する場面では、大学生となりシット・イン(座り込み)という抗議活動に参加した長男の姿が並行に描かれていく。セシルは大統領に仕えるという仕事で闘っているわけだが、長男はもっと直接的な抗議へと向かう。方法論は違うが、共に闘っている点では同じなのだ。
また、ホワイトハウスでの白人と同様の給料を求める交渉では、まともに話を聞いてもらえず部屋から出ていくセシルの姿は、暗殺前にモーテルで佇むキング牧師の姿とも重ね合わされている。キング牧師はノーベル平和賞を受賞したとき、「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」と語った。それと同じように、この『大統領の執事の涙』でも黒人のそれぞれが自分の方法で闘ってきたことが強調され、そうした闘いがラストでのオバマ大統領誕生へと結びつくのだ。

一方で、セシルと長男との関係はどうなったのか。
セシルの父親は白人に逆らったために撃ち殺された。セシルはそれに学び、白人に抵抗することをやめ、執事として白人に仕えることになる。長男はそんなセシルの姿を苦々しく思い、逆に過激な運動に突き進む。同じころ次男は兄の姿を反面教師にして、国に尽くす方向へと進む。「兄貴は国と闘っているが、おれは国のために闘う」と宣言してベトナム戦争へと繰り出し、戦死する。このあたりの親子のエピソードは脚色らしいが、それぞれの道を決めるのが理路整然とした説得などではなく、反発を糧にしているところはリアルだと思う。
長男はより過激なブラックパンサー党を経て政治へと向かうが、それでも父と子の反目は続く。というより父のセシルは、自分の選んだ道を捨て切れないのだ。和解のきっかけになるのは、レーガン大統領(アラン・リックマン)だった。この映画に登場する大統領は黒人解放に資する方向で政治を動かしていくが、レーガンは唯一政策を誤った大統領として描かれている。しかしセシルに対しては、同情的に接する愛すべき大統領となっている。
レーガンによって晩餐会に招待されたセシルだが、自らの居場所に違和感を覚える。処世術としてふたつの顔(白人に見せる顔と本当の顔)を使い分けてきた執事としての生き方に疑問を抱くのだ。そのことが長男の行動を理解するきっかけとなり、セシルは自分の非を認め、長男と行動を共にすることになる。進むべき方向は同じなのに、方法の違いから長い確執にあった父と子。彼らをもどかしい思いで見てきた観客としては、泣かされる場面だった。
黒人解放への歴史をダイジェストで学ばせてくれる教育的な映画とも言えるし、音楽にはジェームズ・ブラウンやその他諸々のブラックミュージックが使用されていて楽しめる。
(*1) 主人公の両親のエピソードなどは、掘り下げればおもしろそう。狂気に到る母親や、父親を躊躇なく殺す白人など、前作の『ペーパーボーイ』なんかを思わせるキャラクターだった。
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