『火口のふたり』 破れかぶれのふたりだったのに
『この国の空』などの荒井晴彦の監督作。
原作は『一瞬の光』『ほかならぬ人へ』などの白石一文。

原作者の白石一文の本は多分10冊くらいは読んでいるのだが、その感想ということになると複雑なものがある。この作者に対する評価としては「生きることに対する真摯な姿勢が感じられる」などという言い方がされたりする。確かに日常的なアレコレを描いているようでいて、それだけではない何かを探求しているようにも感じられる。その何かは安易に宗教的なものに流れたりはせずに時によって様々だが、「こんなアホみたいな日常だけがすべてなんてやってられないだろう」という感覚には共感できるものがある。ただ一方でとても青臭く感じる部分もあって――それはもしかすると私自身が青臭いからかもしれないとも思うのだが――だからこそ反感を覚える部分もある。
『火口のふたり』は東日本大震災の後に書かれた作品で、どことなく終末的なものを感じさせるものがある。主人公の賢治は会社の社長だが、その会社は倒産しかけている。つまりは破滅しかけていて自分を見つめ直す休暇中という設定なのだ。そして、もうひとりの主人公である直子はすでに結婚が決まっていて、独身最後に元恋人だった賢治と一夜だけ昔のような肉欲に溺れたいと願う。片や破滅寸前の男と、片や独身最後で羽目を外したい女。どちらにしても破れかぶれのふたりの話ということになる。
そして、現在公開中の映画版だが、原作では40代くらいの設定なのだが、映画版では30代程度という設定。賢治を演じるのは柄本佑で、直子役は瀧内公美だ。ふたりは久しぶりに再会し結婚式までの短い休暇を誰にも邪魔されずに堪能することになる。何をするのかと言えば当然セックス三昧ということになり、セックスの合間に食事をして疲れたら眠り、起きてはまたセックスを繰り返すという怠惰な時間を過ごすことになる。

本作では賢治と直子以外の登場人物はおらず、背景程度の人物しか登場しない。それだけにふたりの絡みが中心となってくる。中盤以降はほとんど裸ばかりという作品で、役者陣の頑張りは十二分に感じられるのだが、延々とその行為を見せられるだけだとちょっと退屈だというのは、『ニンフォマニアック』などと同じという感じもする。
荒井晴彦が雑誌のインタビューで答えていて「なるほど」と思ったのは、ロマンポルノでは女優さんの裸は2人以上という決まりがあったのだそうだ。観客となる男性の好みのタイプが様々ということが一番の理由なのだと思うのだが、同時に本作のようにあまりに閉じた関係だと物語に広がりがなくなるので、それを防いでいたのかもしれないとも思えた。
映画版と原作とで異なるのは映画では舞台が秋田となっているところと、賢治のキャラがただのフリーターという能天気な男になっているところ。秋田が舞台となっているのは、東日本大震災で被害が大きかった東北を取り上げるということと、秋田の亡者踊りを登場させたかったということがあるようだ。亡者踊りは生者と死者が一緒に踊るという設定で、その祭りは「生と死のあわい」を垣間見させてくれるようなものらしい。
そして、賢治がただのフリーターになってしまっているという変更もあって、原作が意図していたような破れかぶれの感覚はあまりない。破れかぶれのふたりの間で最後に残ったものがセックスだったというのではなくて、単に官能に溺れているだけのようにも感じられた。
また映画版のラストでは賢治が子供をつくることを同意したとも思えるような台詞もあり、賢治と直子がその後に正式に結婚したりするんじゃないかとも見えなくもない。いろいろあったけれど最後は日常に回帰してめでたしめでたしという終わりとも思えなくもなかったのだ。
個人的には原作者の白石はそんなふうに日常的なところへ着地させようという意図はなかったんじゃないかと思っているのだがどうなのだろうか。「子供ができてもいい」という感覚は破れかぶれになっているというよりも、生というものの継続を意識させているように感じられたのだが、荒井晴彦はどういうつもりだったんだろうか。



原作は『一瞬の光』『ほかならぬ人へ』などの白石一文。

原作者の白石一文の本は多分10冊くらいは読んでいるのだが、その感想ということになると複雑なものがある。この作者に対する評価としては「生きることに対する真摯な姿勢が感じられる」などという言い方がされたりする。確かに日常的なアレコレを描いているようでいて、それだけではない何かを探求しているようにも感じられる。その何かは安易に宗教的なものに流れたりはせずに時によって様々だが、「こんなアホみたいな日常だけがすべてなんてやってられないだろう」という感覚には共感できるものがある。ただ一方でとても青臭く感じる部分もあって――それはもしかすると私自身が青臭いからかもしれないとも思うのだが――だからこそ反感を覚える部分もある。
『火口のふたり』は東日本大震災の後に書かれた作品で、どことなく終末的なものを感じさせるものがある。主人公の賢治は会社の社長だが、その会社は倒産しかけている。つまりは破滅しかけていて自分を見つめ直す休暇中という設定なのだ。そして、もうひとりの主人公である直子はすでに結婚が決まっていて、独身最後に元恋人だった賢治と一夜だけ昔のような肉欲に溺れたいと願う。片や破滅寸前の男と、片や独身最後で羽目を外したい女。どちらにしても破れかぶれのふたりの話ということになる。
そして、現在公開中の映画版だが、原作では40代くらいの設定なのだが、映画版では30代程度という設定。賢治を演じるのは柄本佑で、直子役は瀧内公美だ。ふたりは久しぶりに再会し結婚式までの短い休暇を誰にも邪魔されずに堪能することになる。何をするのかと言えば当然セックス三昧ということになり、セックスの合間に食事をして疲れたら眠り、起きてはまたセックスを繰り返すという怠惰な時間を過ごすことになる。

本作では賢治と直子以外の登場人物はおらず、背景程度の人物しか登場しない。それだけにふたりの絡みが中心となってくる。中盤以降はほとんど裸ばかりという作品で、役者陣の頑張りは十二分に感じられるのだが、延々とその行為を見せられるだけだとちょっと退屈だというのは、『ニンフォマニアック』などと同じという感じもする。
荒井晴彦が雑誌のインタビューで答えていて「なるほど」と思ったのは、ロマンポルノでは女優さんの裸は2人以上という決まりがあったのだそうだ。観客となる男性の好みのタイプが様々ということが一番の理由なのだと思うのだが、同時に本作のようにあまりに閉じた関係だと物語に広がりがなくなるので、それを防いでいたのかもしれないとも思えた。
映画版と原作とで異なるのは映画では舞台が秋田となっているところと、賢治のキャラがただのフリーターという能天気な男になっているところ。秋田が舞台となっているのは、東日本大震災で被害が大きかった東北を取り上げるということと、秋田の亡者踊りを登場させたかったということがあるようだ。亡者踊りは生者と死者が一緒に踊るという設定で、その祭りは「生と死のあわい」を垣間見させてくれるようなものらしい。
そして、賢治がただのフリーターになってしまっているという変更もあって、原作が意図していたような破れかぶれの感覚はあまりない。破れかぶれのふたりの間で最後に残ったものがセックスだったというのではなくて、単に官能に溺れているだけのようにも感じられた。
また映画版のラストでは賢治が子供をつくることを同意したとも思えるような台詞もあり、賢治と直子がその後に正式に結婚したりするんじゃないかとも見えなくもない。いろいろあったけれど最後は日常に回帰してめでたしめでたしという終わりとも思えなくもなかったのだ。
個人的には原作者の白石はそんなふうに日常的なところへ着地させようという意図はなかったんじゃないかと思っているのだがどうなのだろうか。「子供ができてもいい」という感覚は破れかぶれになっているというよりも、生というものの継続を意識させているように感じられたのだが、荒井晴彦はどういうつもりだったんだろうか。
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