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『アマンダと僕』 エルヴィスはもうこの建物を出ました

 監督のミカエル・アースにとっては第3作目の作品とのこと。ちなみに第2作目の『サマーフィーリング』も公開予定。
 第31回東京国際映画祭の東京グランプリと最優秀脚本賞を受賞した作品。

ミカエル・アース 『アマンダと僕』 ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は姪のアマンダ(イゾール・ミュルトリエ)の面倒を見ることに。


 ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は姉ととても仲がよく、別々に暮らしてはいるものの頻繁に会っている。その姉が突然亡くなってしまい、遺されたのは7歳の姪アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)。ダヴィッド自身も姉の死を受け入れることができないまま、アマンダの面倒を見ることにもなり……。

 予告編を見ていたので姉が死ぬことは知ってはいたのだが、その死がテロによるものとだとわかってちょっとビックリした。『アマンダと僕』は何気ない日常の風景ばかりを描いていて、テロが起きる予兆もほとんど感じられないからだ。
 そして、テロ事件そのものの描写もなく、事件後に傷ついた人を映す程度に留まっている。劇中のニュースではイスラム過激派のことにも触れられたりもするが、それ以上テロの原因や犯人像などを描くこともない。
 本作はテロに対する恐怖や怒りよりも、親しい人を唐突に喪ったことに対する普遍的とも言える感情のほうにフォーカスしていく。ことさらにテロの被害者ということを前面に押し出すことになれば、『女は二度決断する』のように復讐の連鎖を生むことになってしまうわけで、それを超えたもっと前向きな話になっている。

『アマンダと僕』 レナを演じたステイシー・マーティンがとても魅力的。

 この映画で初めて知ったのだが、「Elvis has left the building.」というのは英語では慣用句になっているのだとか。この言葉は英語の先生をしていたダヴィッドの姉サンドリーヌ(オフェリア・コルプ)がアマンダに教えたもの。人気者だったエルヴィスは熱狂的なファンも多く、ファンはライヴが終わってもエルヴィス見たさに会場から帰ろうとしない。そんなときのマイクで呼びかけられたのがこの言葉。「エルヴィスはもうこの建物を出ました」、つまりは「(エルヴィスに会いたくても)もう希望はありません」といった意味で使われるのだとか。
 本作では最後にそれは否定され、希望はあるんだということが謳われることになる。テロ事件の被害者であるアマンダとダヴィッドだが、それに負けることはなくパリの暮らしに戻っていくところにメッセージが込められているのだろう。
 仲のいい姉サンドリーヌとダヴィッドのふたりでの自転車の並走が、ふたりの幸せな時をよく示していて『少年と自転車』を思い出した。後半では悲しみを乗り越えたダヴィッドとアマンダのふたりが自転車で並走することになる。ふたりが並んで自転車を走らすという構図は、それだけでどことなく幸福な一場面と思えるから不思議だ。

 アマンダを演じたイゾール・ミュルトリエがとてもかわいらしい。ちょっとぽっちゃりでシュークリームが大好き。遅刻しそうになっても走りながらもパンをかじっているという食いしん坊ぶりがいい。
 それ以上の見どころは思えたのは、レナを演じたステイシー・マーティン『グッバイ・ゴダール!』もよかった)。役柄としてはあまり重要ではないかもしれないのだがとても魅力的だった。そう言えば、ダヴィッドが突然の悲しみに襲われるのはレナが田舎に帰ってしまってからのことで、支えてくれる人が居なくなると人間は弱いのかもしれない。だからこそダヴィッドはアマンダを支える気になったのかも……。

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Date: 2019.06.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『ハウス・ジャック・ビルト』 それ以上でもなければそれ以下でもない?

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ニンフォマニアック』などのラース・フォン・トリアー監督の最新作。
 原題は「The House That Jack Built」
 カンヌ国際映画祭では退場者が続出し、アメリカ公開時には修正バージョンだったという作品だが、日本では完全版での公開となった。

ラース・フォン・トリアー 『ハウス・ジャック・ビルト』 シリアルキラーのジャック(マット・ディロン)と彼を導くヴァージ(ブルーノ・ガンツ)。

 シリアルキラー・ジャック(マット・ディロン)の殺人の数々を遠慮会釈もなく描くことで、今回も顰蹙を買ったラース・フォン・トリアー。特に観客をひかせたのは、3つ目のエピソードの人間狩りの部分だろうか。ここではジャックは自分の恋人とその息子たちを狩りに連れて行き、鹿の代わりに人間を標的にすることになる。
 しかも殺すだけならともかく(それだけでも十分に不快なわけだが)、トリアーは子供の片足が千切れるところを嬉々として描写するのだ。ほかにも挙げていけばキリがないわけだが、この作品は常識的な倫理観など吹き飛ぶほどのおぞましい犯罪が描かれていくことになる。さらにはそうした犯罪が描かれつつも、それを笑いにしてしまうという悪趣味もあり、妙に居心地の悪い作品になっている。

『ハウス・ジャック・ビルト』 最初の犠牲者を演じるのはユマ・サーマン。犠牲者というよりは、ジャックの本性を開拓した張本人?

 ジャックは次々と殺人を重ね、その行為に洗練さを求めるようになっていき、「殺人はアートである」とのたまうようになる。映画は何を描くのも自由だし、芸術が倫理によって制限されることがあってはならない。その主張は理解できるのだが、殺人がアートであるという部分に関しては都合のいい屁理屈とも思える。
 確かにジャックの理屈だけを聞けば芸術擁護論のような部分も感じなくもないわけだが、ジャックによる芸術作品である「ジャックの建てた家」を見ると、その芸術擁護論も説得力を失うような気がしなくもない。「ジャックの建てた家」はどこにも美的感覚を刺激するものなどないからだ。もちろんジャック自身にとってはそうではないのかもしれないのだが……。
 ちなみにジャックはトリアー作品のなかでは久しぶりの男性の主人公。そして、ジャックの抱える強迫性障害はトリアー自身の病でもあるわけで、どこかで監督自身の姿も投影されているということは推測される。
 ジャックは家を建築するための材料にこだわり、その家を何度も作り直すことになる。彼が最後に選んだのが死体という材料だった。しかし、その結果は悪夢のようなものだったということになる。そこからすればトリアーは今回の作品で殺人という題材を選んだわけだが、そのこと自体が間違いで本作もひどく不出来なものとなっていると自ら宣言しているのかもしれない。ジャックがヴァージ(ブルーノ・ガンツ)に導かれて地獄の底に堕ちていくことも、トリアーの自虐を感じなくもないのだ。

 本作ではキム・ギドク『嘆きのピエタ』のラストのような殺人も描かれていた。ギドクもトリアーも良識から外れていき、「全く何てことを考えるんだ」と面食らわせるところでは似ている部分があるのかもしれない。ただ、ギドクが『嘆きのピエタ』のラストでやったことは贖罪のためだったわけで、本作の殺人とは趣きが異なる。
 振り返ってみればかつてのトリアー作品『奇跡の海』では、ケガをした夫の願いを叶えるために妻が売春をするという話だった。ここでもそれなりの反感はあったと思うのだが、理由があっての行動だけに感動的でもあった(『奇跡の海』は「黄金の心三部作」のひとつとされている)。それに対して、前作の『ニンフォマニアック』のセックスとか、『ハウス・ジャック・ビルト』における殺人などは、それ以上でもなければそれ以下でもないわけで、芸術を騙った悪ふざけにも思えた。もちろんそうするのも自由だし、それなりに楽しめる作品ではあるのだが、どうも釈然としない部分もある。

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Date: 2019.06.24 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ウィーアーリトルゾンビーズ』 ダサくてもエモいほうがいい

 第33回サンダンス映画祭短編部門グランプリの『そうして私たちはプールに金魚を、』長久允の長編デビュー作。

長久允 『ウィーアーリトルゾンビーズ』 主役は4人の少年少女だが、脇役には豪華な面子が顔を揃えている。
 
 火葬場で出会った4人の少年少女の物語。それぞれの理由で両親を亡くし、その日火葬場で出会った4人は、あまりの突然のことだったからか、単に悲しくないからか、涙を流すこともない。LITTLE ZOMBIESというのは死んでるみたいに生きている4人の少年少女のこと。

 監督の長久允はCM業界出身とのこと。4人の少年少女(二宮慶多水野哲志奥村門土中島セナ)のどちらかと言えば醒めた印象とは違い、映像のテンションは高い。会話は細かいカットをテンポよくつないで見せるし、ドラクエのような真上から捉えたショットとか、ビビッドな色合いの映像(時にモノクロシーンも)も冴えている。火葬場の粉(骨)がなぜかミートソースの粉チーズにつながるとか、葬式の鯨幕が虎のいる檻へと移行するあたりのイメージの広がりもよかったと思う。
 こんなふうに書くと大絶賛みたいにも聞こえるかもしれないのだが、MVのような高いテンションのまま2時間を引っ張ろうとしたからか、途中からはかえって平坦なものにも感じられた。
 軸となる物語がないのは、親を喪って進むべき方向を見失った子供たちだからこその展開なのかもしれないのだが、劇中の言葉を使えばダサくてもエモい部分は必要だったんじゃないだろうか。というよりも、監督の様々なテクニックを詰め込んだものを見せられているようでちょっと鼻につくところがあるのだ。LITTLE ZOMBIESというバンドの結成も、その唐突な終わりも、特段必要性があるというよりはおもしろいからやってみたという感じで、ラストも取ってつけたものに感じられた。
 LITTLE ZOMBIESの曲はヘタウマ(ヘタヘタ?)で聴かせるものがあると思うのだが、なぜバンドをやりたかったのかはまったくわからないわけで、映画のなかで大人が子供たちを利用するのと同様に、電通の社員だという監督の売らんかなという意識なのかとも思えてしまった。



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Date: 2019.06.18 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『町田くんの世界』  町田くんがうまく現実に着地できれば……

 『舟を編む』『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などの石井裕也監督の最新作。
 主役のふたりにはオーディションで選ばれた新人の細田佳央太関水渚
 原作は安藤ゆきの同名漫画。

石井裕也 『町田くんの世界』 フレッシュな新人細田佳央太と関水渚が主役。


 町田くん(細田佳央太)はあり得ないほどいい人だ。困っている人を見つけると助けないではいられない。そんな町田くんが「人が嫌い」な同級生・猪原さん(関水渚)と出会い……。

 こんなクソみたいな世の中で、なぜ町田くんは素直に善意の人でいられるのか。一応、物語上の説明はある。町田くんは幼いころに枯れた井戸に落ちて一度死に、新たに生まれ変わった。そのときの後遺症もあるのか、町田くんはちょっと愚鈍なところがあり、健忘症気味のところすらある。しかも勉強はできないし、走る姿はひどくみっともない。そんな欠点ばかりにも見える町田くんだが、それらの欠点を補うほどの善意に満ちている。

 偶然なのか時代の要請かは不明だが、町田くんのようなキャラクターが登場する作品がちょっと前に取り上げた『幸福なラザロ』。どちらも極端な善意の人を描いていて、一度死んで生き返るところまで一緒だ。
 ただ、このふたつの作品を比べてみると、それぞれの主人公が置かれた世界が異なっているとも感じられる。ラザロの場合は世間から隔絶された昔ながらのイタリアの村であり、村人たちは牧歌的な世界に生きている。それに対して、町田くんのいる現代日本では、世の中は悪意に満ちている。猪原さんは有名芸能人である母親が不倫をしたことで学校でも爪弾きにされているし、そうした芸能人を食い物にしている雑誌記者・吉高(池松壮亮)もクソみたいな世の中にうんざりしている。
 ラザロの村では村人たちはのんびりと生活していて、ラザロも特別に村人たちから乖離している感じはない。ラザロという善意の人も、「そういう人間もいるものだ」というくらいで違和感はなく、みんなの役に立つ(利用価値がある)人として村に受け入れられている。
 それに対して『町田くんの世界』の主人公はもっとファンタジックな存在だ。現代日本では清廉潔白な印象の芸能人も裏では何をしているかわからないし、一生懸命に頑張っても報われる世の中となっているわけでもない。いつも世間はギスギスしていて、多くの人が焦燥感に駆られている。そうしたなかで、ただひとり町田くんだけは、薄汚い世界を見たことがないかのように純粋さを保ち、善意を持って人々に接している。ほとんどあり得ないその姿に周囲の人々は驚かされ、「町田、マジか」(友人役の前田敦子の台詞)とつぶやかざるを得ない。
 「人が嫌い」と言ってみんなを避けていた猪原さんも、町田くんの素直の言葉と裏表のない純粋な行動に心を揺さぶられることになる。「大切な人」という言い方を町田くんはするのだが、これには町田くんにとっては深い意味はない。町田くんは人のことが大好きで、誰もが大切な人だからだ。しかし孤独な猪原さんにはそんな言葉が愛の言葉のようにも思え、勘違いを肥大化させていく。そうなるとそんな彼女と相対する町田くんもこれまで抱いたことのない感情に混乱していく。

『町田くんの世界』 最初は澄ましていた猪原さん(関水渚)もだんだんと崩れていくところがかわいらしい。

 ラザロのときに触れた“聖なる愚者”。こうしたキャラはラストに死んでしまう(あるいは死んだようになってしまう)運命にある。ラザロもそうだったし、ムイシュキン公爵もそうだ。なぜ彼らが死ななければならないかと言えば、あまりにも現実離れしているからかもしれない。そんなキャラがその作品世界でうまく居場所を見出だし「長らく幸せに暮らしましたとさ」という展開に着地させるのはなかなか難しい。
 そんなわけで町田くんだってそういう危機はあったはず。誰にでも優しい町田くんは、猪原さん以外の女の子でも、それこそ男の子でも、たまたま見かけたおばあさんでも、とにかく分け隔てなく接する。しかし誰にでも優しいということは猪原さんも特別な存在ではなくなるということで、彼女が不満気な表情を見せるのもその点だ。ちょっと頭が鈍い町田くんは猪原さんをほかの人よりも優先しなければならないということに気がつかないのだ。
 しかし町田くんが猪原さんへの愛に気づき、猪原さんを優先しほかの人を疎かにしたとしたら、町田くんは町田くんの存在意義を失ってしまうだろう。だから最後は奇跡という力技が必要だったということだろう。

 そもそも本作で「世の中をクソだ」と盛んに語っているのは雑誌記者の吉高。だが同時に彼は町田くんの素晴らしさの理解者でもある。吉高と町田くんが会話するシーンでは、なぜかふたりは似ていて兄弟のようにも見える。多分、吉高はスポイルされた町田くんなんだろうと思う。もともとの純粋さも世の中の悪意によって裏切られると、吉高のように世界をクソとしか思えなくなる。世界がみんな町田くんならそんなことはないはずなのに……。そうした想いが最後の奇跡には込められていたのかもしれない。
 前作『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の感想を読み返してみたら、前作のときも奇跡が起きるかも云々と書いていて、同時に青臭いとも書いている。青臭いのは本作も同様なのだが、誰かがそれを語り続ける必要があるのかもしれないとも感じなくもない。現実にも町田くんの居場所があればいいと思うからだ。

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Date: 2019.06.15 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (3)

『さよならくちびる』 映画は音楽に嫉妬する

 監督・脚本・原案は『害虫』『どろろ』などの塩田明彦
 劇中の楽曲は秦基博あいみょんの提供したもの。

塩田明彦 『さよならくちびる』 ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)のふたりでハルレオ。

 インディーズで売り出し中のデュオ「ハルレオ」は全国7カ所を巡るツアーに旅立つところ。しかしハルレオはそのツアーで解散することが決まっていた。
 高架下に停めた車にハルレオのふたりとローディーのシマ(成田凌)が勢ぞろいしたところから険悪な雰囲気。ハル(門脇麦)はレオのことをバカ女呼ばわりし、レオ(小松菜奈)もハルの存在を無視している。シマは改めて解散の意思について確認するものの、それは変わらないらしく、そのまま車はスタートすることに……。

 音楽映画というだけで映画ファンの評価の点数は甘くなるところがあるんじゃないかと常々思っているのだが、それはなぜかと言えばやはり音楽というものが魅力的だからということになる。『ボヘミアン・ラプソディ』があれだけの評判を獲得したのも、クイーンの楽曲の良さにあったことは間違いないだろう。
 この作品も秦基博、あいみょんの提供した楽曲によって魅力度を増している。そして、ハルを演じる門脇麦とレオを演じる小松菜奈は、実際にギターを弾きながら歌っている。ふたりの歌声のハーモニーが思った以上に素晴らしく、映画を観た人の多くがハルレオのCDが欲しくなるんじゃないだろうか。
 特に門脇麦の声は際立っていて、また芸達者な部分を見せてくれたように思う。相方の小松菜奈はマッシュルームカットが涼しげな目とぴったりマッチしていて、カリスマ的な人気を誇るレオにふさわしいビジュアルだった。そんなハルレオのライブを体験できただけでもう十分満足という作品だったと思う。



 映画の感想としてはすでに尽きているとも思うのだが、塩田明彦監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』には本作を理解する上で役に立つかもしれないことが記されていたようにも思えたので、以下その点について書きたいと思う。
 『映画術』では音楽について書かれた章がある。塩田はここで黒沢清監督の言葉として「ただひとつ、映画が嫉妬するジャンルがあって、それが音楽なんだ」というものを挙げている。塩田はその言葉からスタートして「映画が音楽になる」ということはどういうことかという独自の論を展開していく。
 黒沢清がどんな意図でもって映画が音楽に嫉妬していると語ったのかについては塩田は触れていないのだが、ある程度推測することはできる。というのは黒沢清の言葉はウォルター・ペイターの「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」というものが元ネタだと推測できるからだ。
 私がこの言葉を知ったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの本(『詩という仕事について』)の引用で、ボルヘスはこの言葉にさらに解説を加えていて、なぜ「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」のかを論じている。

 ウォルター・ペイターが書いています。あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる、と。(もちろん、門外漢としての意見ですけれども)理由は明らかです。それは、音楽においては形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。私の意見では、分割不可能な一個の構造です。メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。


 つまりこういうことだろう。何らかの感情なりテーマを表現しようとしたとき、音楽ならメロディーでそれを直接に表現できる。ベートーヴェンが交響曲第5番を作曲したとき、最初にあったのはメロディーであって、それで事足りているはずだ。
 ウィキペディアにあるエピソードによれば、交響曲第5番が「運命」と呼ばれたりするのは、「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」と答えたことに由来しているとか。ベートーヴェンは問われたからそう答えただけで、そうした説明は蛇足であるとも言えるだろう。
 また、そうしたテーマを言葉で表現するとすれば、物語という形式で伝えることはできるかもしれない。ただ、伝えようとする内容と、表現のための形式は分けられている。何らかの形式を媒介として内容を伝えるということになる。
 映画だって同様だろう。映画は映像メディアであるから映像を使って何かを表現することになるわけだが、伝えようとする内容と表現の形式は常に別個に考えられているんじゃないだろうか。しかしながら音楽だけは何の媒介もなしに表現することができる。だから映画は音楽に嫉妬している、そんなふうに黒沢清は語っているのだと思う。
 塩田が言う「映画が音楽になる」というのもそうした議論があってのこと。塩田が『映画術』のなかで挙げている例としては『曽根崎心中』『緋牡丹博徒 花札勝負』などの台詞回しがある。これらの作品では独特の台詞回しが音楽を感じさせるものとなっているのだ。

 今回の『さよならくちびる』について言えば、ハルレオのギター演奏とふたりの歌声はもちろん一番の見どころなのは間違いないのだが、ほかの部分でも「映画が音楽になる」瞬間があったような気もする。
 この作品は音楽映画と言いつつも使われている楽曲はそれほど多くはないし、よくある音楽映画のような高揚感には欠けるかもしれない。ハルレオのふたりとシマという男の奇妙な三角関係(というか三すくみ状態?)があって、それはほとんど変わらずにライブ会場を回っていく。そんな設定のドキュメンタリーのように見えるところもある。塩田監督はライブシーンではないロードムービーの部分にこそ「映画が音楽になる」瞬間を狙っていたのかもしれない。
 冒頭、シマがハルのアパートから荷物を運び出し、その後、ハルがギターを抱えてゆっくりとしたリズムで歩いていく。その先の車のなかにはレオが居て、三人のギクシャクした雰囲気が生まれる。そうしたシークエンスがとても心地よくて「映画が音楽になる」瞬間があったようにも感じられたのだ。

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Date: 2019.06.10 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『長いお別れ』 祝! 蒼井優、結婚!!

 『湯を沸かすほどの熱い愛』などの中野量太監督の最新作。
 原作は直木賞作家の中島京子の同名小説。
 このレビューを書いていたら、ちょうど主役のひとりである蒼井優の結婚のニュースが……。劇中では彼氏にフラれ、認知症の父親に泣き事をもらすことになるのだが、実生活は別だったらしい。ご結婚はめでたいことだが、まだまだ蒼井優には日本映画界の第一線にいてほしいものだとも思う。

中野量太 『長いお別れ』 東昇平(山﨑勉)とその家族たち。

 タイトルを見るとチャンドラーの小説のことを思い浮かべてしまうのだが、これはまったく別の話。アメリカではアルツハイマー型認知症で亡くなることを「Long Goodbye」と呼ぶことがあるらしい。「少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」だ。
 本作でも山﨑勉が演じる東昇平は、認知症になって7年の月日を過ごして死んでいくことになる。認知症はガンなんかの病気とは違うわけで、本人には痛みや苦しみもなく、症状の自覚すらないこともあり、それでも少しずつ調子が狂っていくことになる。
 昇平は校長先生をやっていたほどの人物で、孫の崇には漢字マスターと呼ばれるほど難しい漢字を知っている。そんな昇平も次第に漢字を忘れ、本を読むことも覚束なくなり、意味不明な言葉を使ったりするようにもなってくる。

『長いお別れ』 「そう、くりまるな」「ゆーっとするんだ」という意味不明な会話が微笑ましい。

 私自身は認知症のことについてはほとんど何も知らない。昔テレビで『恍惚の人』を見た記憶はあるが、結構シビアなものがあるんだろうとは思う。それではこの『長いお別れ』ではどうだったかと言えば、シビアな面もあるし、そうでない部分もあった。
 シビアな面というのは、昇平が粗相をしてしまうエピソードだったり、魚の解剖シーンなど。どちらもえげつない描写になっていて目を背けたくなる部分ではあるけれど、これは現実に行われている人の営みということなのだろう。介護の現場では粗相など当たり前だし、研究者にとっては魚の脳を取り出すことも必要なことなのだろう。
 本作は深刻な場面はほどほどに、あちこちに笑いが散りばめられているし、認知症の昇平を中心に据えた微笑ましい場面も多々ある。この作品が介護現場を美化しているのかどうかはわからない。ただ、まったくの嘘ではなさそうだし、シビアな面もそうでない部分も、どちらもあるということなのだろうと推測する。

 昇平は次女の芙美(蒼井優)の泣き言を聞いているのかどうかもはっきりせず、「そう、くりまるな」という意味不明な言葉を返す。ただ、そんな言葉でも昇平が彼女を励ましていることは何となく通じているのが微笑ましい。かつての父娘の関係とは変わったかもしれないのだが、別のコミュニケーションが成立しているのだ。
 それから長女の麻里(竹内結子)はカリフォルニアに居て、海外での生活になじめず、日本の家のことを“実家”と呼んで旦那にたしなめられる。“実家”という言葉はちょっと不思議で、漢字を見る限り住んでいる家よりもそちらのほうが本当の家のようにも思える。
 昇平も自分の家にいるにも関わらず、どこか別の場所に帰ろうとする。もちろんこれは認知症の症状なのだが、時間の感覚が曖昧となり今も昔も一緒くたになっている昇平には、本当に帰りたい場所を素直に感じ取っているということなのだろう。それが幼かった娘たちが遊んでいた遊園地だったというのは泣かせるところ。

 認知症という現実にはシビアな面があるのは当然だ。とはいえ、本作を観ていると認知症にならなければわからなかったこともあると教えてくれるようでもある。それがシビアな現実を受け入れるための強がりとも思えなかった。
 最後の呼吸器問題にしても、奥さんの曜子(松原智恵子)は介護が長引くのも厭わずに呼吸器を付けることを選択する。娘ふたりが迷っているにも関わらず、曜子だけははっきりと自分の意思を決めていたのだ。いつも隣にいて常に一緒だった曜子がそんなふうに決めたのも、介護現場にもシビアなことばかりではないということなんだろうと思えた。

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Date: 2019.06.05 Category: 日本映画 Comments (2) Trackbacks (4)

『誰もがそれを知っている』 噂は真実を穿つ?

 『別離』『セールスマン』などのアスガー・ファルハディの最新作。
 ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムにとっては夫婦共演作品。

アスガー・ファルハディ 『誰もがそれを知っている』 ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムの夫婦共演作品。

 アルゼンチンに住むラウラ(ペネロペ・クルス)は、妹の結婚式のためにスペインに帰ってくる。結婚式は大いに盛り上がるのだが、賑やかなパーティの最中にラウラの長女イレーネ(カーラ・カンプラ)が誘拐される事件が起こる。
 舞台となるのは誰もがそれぞれの顔を把握しているような小さな村。そんな場所で起きた誘拐事件だけに、一体誰が犯人なのかという疑問も生じる。犯人からは身代金の要求もあり、娘のことを心配して警察に事件を知らせるのを拒んだラウラは、昔の恋人パコ(ハビエル・バルデム)や警察OBのアドバイスを得て、イレーネを取り戻すために奔走することに……。

『誰もがそれを知っている』 ラウラとパコはかつての恋人同士。今ではそれぞれに子供もいるのだが……。

 アスガー・ファルハディの作品らしく、誰がイレーネを誘拐したのかという謎が物語を引っ張っていくことになる。最初はパコの農園で働く季節労働者たちや、結婚式で映像を撮っていた近くの更正施設の若者たちが疑われる。さらにはスペインには来なかったラウラの夫にも疑いの目が向けられる。そうした犯人捜しのうちに、結婚式で浮かれ騒ぐ村人たちからは読み取ることのできない小さな村での秘密が明らかになっていく。
 そのひとつが土地の問題。かつてはその土地の地主であったラウラの父親は、博打によってそれを手放し、今ではその土地はパコの農園となっている。そうした経緯がかつての地主にとっては不当なことと思われるらしく、事件をきっかけにしてその不満が爆発したりもするのだ。
 そしてタイトルにはちょっとひねりも感じられ、最初はかつてラウラとパコが恋人同士だったことが誰もが知っている事実なのかと思っていると、村人の噂話はなかなかするどくて、ラウラが秘密として抱えていたと思っていたことすらも、村人は薄々察していたということもわかってくる。
 知らぬは当事者ばかりというのが皮肉で、そうした秘密の犠牲となるのがイレーネということになる。親の都合で子供が痛い目を見るのは『別離』『ある過去の行方』でも共通していて、あれだけ生意気で奔放だったイレーネの消沈した表情はちょっとかわいそうでもあった(娘を誘拐されたペネロペ・クルスの憔悴しきった表情も印象的)。

 どの作品も水準が高いアスガー・ファルハディだが、『誰もがそれを知っている』はちょっと食い足りなかったような気もする。イランの監督がスペインというまったく違う世界を舞台にした作品を撮ったということが影響しているのかもしれない。
 踏み込みが足りないように感じるのは、ラウラとパコの別離の部分だろうか。一応、作品のなかの噂話で外国に出ることが玉の輿だとされていて、村に留まることよりも海外での結婚のほうに希望があったことは推測される。ただ、その頼るべき夫は元アル中で、今は仕事もなく何かと神頼みばかりだとなると、パコと別れてまでスペインを出て行ったことに説得力がないような気もした。

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Date: 2019.06.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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