『幸福なラザロ』 ラザロ! ラザロ! ラザロ!
カンヌ国際映画祭では脚本賞を受賞した作品。
原題は「Lazzaro Felice」。

最初にタイトルのラザロについてだが、これは新約聖書に登場する人物のこと。新約聖書には2カ所にラザロが登場するらしい。1つは「ヨハネによる福音書」に登場するラザロで、イエスの友人だったとされる人物。このラザロは病気で亡くなった4日後、イエスの呼びかけによって甦ることになる。もう一つは「ルカによる福音書」のなかに登場するラザロで、こちらは「金持ちとラザロ」というたとえ話に登場するのだが、ウィキペディアによるとこの2人のラザロは別人とのこと。本作ではこの両方のラザロのことが踏まえられているものと思われる。搾取する側(資本家)と搾取される側(労働者)に関する洞察を盛り込みつつ、復活の奇跡が描かれていくことになるからだ。
『幸福なラザロ』におけるラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)はとにかく善人である。ラザロのいる村では誰もがラザロに仕事を頼む。だから村ではいつも彼を呼ぶ声が響き、ラザロはそれに追われるように走り回っている。それでもラザロはそのことを苦にする様子はないし、誰の頼みでも嫌な顔をすることなく受け入れ、何も欲しがることもなければ、怒り出すこともない。ラザロは“聖なる愚者”そのものなのだ。村を支配する侯爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)曰く、「私は小作人を搾取し、小作人たちはラザロを搾取する」。村はそんなふうに成り立っている。
ただ、昔ながらの生活は途中で一変することになる。実はこの村は災害によって外界からは閉ざされた形になっていて、小作人制度は廃止されていたにも関わらず、農園主である侯爵夫人は未だに村人たちを小作人として囲っていたのだ(これは実際の事件を参考にしているらしい)。しかし、侯爵夫人の息子タンクレディがラザロを巻き込んで起こした騒動により、侯爵夫人の企みは露呈して、村人たちは解放されて村を出ていくことになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆ラザロとは一体何者なのか?
後半では時が流れ、舞台も変わる。ラザロは前半部の最後で事故によって死んでしまうのだが、その約20年後(?)に誰も居なくなった村でひとり息を吹き返すことになる。そして、村を抜け出したラザロは町へと出かけ、かつての村人たちと再会することになる。しかもラザロは時の流れをまったく感じさせない姿で村人たちの前に現れるのだ。
大人になったアントニア(アルバ・ロルヴァケル)は甦ったラザロを聖人と見て、会った途端に彼の前に跪く。ラザロは村のなかでみんなに尽くし、事故によって死に、善性を嗅ぎ分ける狼に促されるようにして復活を遂げた。ラザロとは一体何者なのか?
そもそも復活していることもすでに奇跡なのだが、後半では教会のオルガンの音がラザロの後を追ってくるという不思議な出来事も起きる。ラザロが神の恩寵を受けているのは明らかだろう。ただ、そんなラザロが復活後に成し遂げたのは何かと考えると、タイトルでわざわざ“幸福な”と形容されていることにも疑問が生じる。
というのは、ラザロは今では財産を差し押さえられて困窮状態にあるタンクレディのために銀行強盗の真似事をした形となり、たまたまその場に居た人々の怒りを買い袋だたきにされてしまうからだ。
せっかく復活したにも関わらず、ほとんどの人にラザロの善意は理解されず、寄ってたかって打ち据えられラザロは死んでしまったかのように見える。そんなラザロが“幸福な”とはどういうことなのだろうか。善性を嗅ぎ分けるとされる狼はラストの出来事を見届けたあとにどこかへ走り去るのだが、狼は別の善性を持つ人を探しにいったのだろうか。
私がラザロという名前を聞いて思い浮かべるのは、キルケゴールが『死に至る病』の冒頭で書いていたこと。
よしラザロが死人の中から甦らしめられたとしても、結局はまた死ぬことによって終局を告げなければならなかったとしたら、それがラザロにとって何の役に立とう?
もちろんキルケゴールは「ラザロは不死ではないのだから甦ったとしても仕方ない」と言っているわけではない。キリストの教えがあればこそ、甦ってその教えを聞くことができるのならば意味があるということなのだろう。
翻って本作のラザロはどうなのだろうか。善性を理解しようとしない周囲の人々の愚かさを知らしめるためなのだろうか。とりあえず考えさせるラストではあったけれど、何とも呆気にとられたことも正直なところ。
◆“聖なる愚者”
ただ、それにも関わらず本作が素晴らしかったと思えるのは、ラザロのキャラクターの造形の部分だろうか。ラザロを演じているアドリアーノ・タルディオーロは、本作でデビューした新人とのこと。
私が“聖なる愚者”といって思い浮かべるのはドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵なのだが、これは小説のなかの人物であり、ムイシュキンを映像化するのはなかなか骨だろうとも思う。役者がそれを演じようとしてもどうしてもあざとくなってしまいそうだからだ。
本作のラザロは当然ながらムイシュキン公爵とは違うけれど、演じたアドリアーノ・タルディオーロの無垢な瞳とずんぐりむっくりした身体が、“聖なる愚者”を見事に体現していた。ともすれば非現実的な存在になってしまいそうな“聖なる愚者”を、違和感なく観客に受け入れさせることに成功していたんじゃないだろうか。
アリーチェ・ロルヴァケルの前作『夏をゆく人々』もわかりやすい作品とは言えないながら、イタリア・トスカーナ地方の陽光とそこに住まう素朴な人々の姿が魅力的で、その年のベスト10に入れた。本作も前半部には同様の魅力があったと思う。ラストについては未だに咀嚼できていない部分があるのだが、それでも観るべき価値がある作品なんじゃないかと思う。何だか村人たちがラザロを呼ぶ声がいつまでも耳に残っている気がする。
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