上映時間が5時間を超えるという
『ハッピーアワー』という作品で高い評価を受けた
濱口竜介の商業デビュー作。
原作は
『きょうのできごと』などの
柴崎友香の同名小説。
ある日、朝子(
唐田えりか)は
麦(
東出昌大)という男と出会い恋に落ちる。しばらくの幸福な時間の後、麦は突然姿を消してしまう。その2年後、朝子は麦と瓜二つの亮平(東出昌大の二役)と出会い……。
ちょっと前に取り上げた
『2重螺旋の恋人』での瓜二つの男は双子の兄弟という設定だったけれど、
『寝ても覚めても』の麦と亮平はまったくの赤の他人である。しかもパーソナリティもかなり異なっている。
麦はかなりマイペースな人間で、言ってみれば異世界にいる人間であり、一度消えた後には芸能界という別世界に現れる(ちなみに原作者は『ユリイカ』のインタビューで麦のことをエイリアンに例えてもいて、そんな意味では
『予兆 散歩する侵略者 劇場版』でもエイリアンが似合っていた東出昌大がうまくはまっている)。一方の亮平は常識人であり、他人のことなど考えず急に消えてしまったりする麦とは違い、他人に対する思いやりに溢れた男だ。
常識的にはつき合うなら亮平のほうが真っ当と思えるけれど、朝子が亮平に興味を持ったのはそもそも麦がいたからで、オリジナルの麦に対して亮平はどこか偽物のようにも感じられるのかもしれないし、見た目が同じなら誰でもいいというのは愛と言えるのかというためらいもあったのかもしれない。
◆なぜ朝子は非常識なのか? この作品は朝子の経験する長い時間が追われていき、舞台となる場所も変わっていく。大阪での麦との出会いの後、2年後に東京で亮平と出会う。そして震災という出来事を挟み、5年が経過し、亮平の転勤を機に大阪で結婚するという運びになる。しかし、そこに麦が戻ってきて話がこじれることになる。
不思議なのは最後の怒涛のような展開も、それを引き起こすことになる朝子の心情をまったく説明しようとはしないところ。朝子は麦に連れられ一度は亮平のもとを去りながらも、途中で翻意して戻ってくる。この朝子の行動は非常識なものだ。もともとふわふわして捉えどころのない朝子だけれど、非常識な行動にまで至る心境の変化はわからないのだ。朝子役の
唐田えりかは役者としては素人同然ということもあり、微妙な感情の揺らぎなんかを表現させようという演出意図は最初からないと思われる。
ちなみに原作小説においてもそれは同様で、原作を読むと朝子の心情が手に取るようにわかるというわけではない。ただ、原作では麦と亮平が似ているということ自体が朝子の主観に過ぎなかったということも書かれている。原作では、朝子の友人・春代曰くふたりは全然似ていないということになり、つまりは朝子の勘違いだったとも読めるのだ。しかし、映画のなかでふたりを演じるのは東出昌大であり、映画のなかの春代(
伊藤沙莉)は麦と亮平がそっくりなことに驚いている。つまり映画版ではふたりは誰が見てもそっくりという設定であり、原作以上に朝子の翻意が理解しづらいとも言える。
理解しづらいからダメだと本作を否定しているわけではない。亮平をお化けでも見たかのようにあしらう朝子を微笑ましく感じ、後半の朝子の行動に驚かされつつ、亮平を追っていく朝子を捉えたロングショットには陶然となった。にも関わらず、どこがよかったと表現する術がなかったのだ。何だかわからないけど魅力的と評するだけでは芸もないので、本作がどんなふうに出来ているのかを考えてみようと思う。以下は、原作と映画で違っている部分を中心にして、脚本も手がけている
濱口竜介がどんな構成でこの作品をつくっていこうとしたのかということを検討してみたものである。
◆『野鴨』について 最初に注目したいのが映画だけに登場する
イプセンの
『野鴨』という戯曲である。岩波文庫版の解説にはこんなふうにある。
人間はどれだけ「真実」に耐え得るのか。うそ偽りの上に幸福は築けないと考えるグレーゲルスは、ささやかながら平穏な生活をおくるエクダル家を欺瞞の泥沼から救いだそうと「真実」をつきつける。
『野鴨』で「真実」と言われているのは、エクダル家の秘密である。この秘密が隠されていることによってエクダル家は平穏でいられた。しかし「真実」が暴露されると、それはあまりに耐え難く、エクダル家は悲劇に見舞われる。正義病のグレーゲルスは親切心から「真実」をつきつけるけれど、それはエクダル家を崩壊させてしまうことになる。ここで明らかになるのは人生には時には「嘘」も必要だということだ。
また、重要なのは「嘘」は他人を騙すためのものばかりではないということ。加えて、自らを欺くこと(=自己欺瞞)も「嘘」の一種だということだ。エクダル家のヤルマールは「発明をする」という「夢」によって退屈な日々を生きている。また、敗残者であるヤルマールの父親は、自宅裏の森でクマを狩っているという「妄想」のなかにいる(実際はウサギを狩っているだけなのに)。ここでの「夢」や「妄想」は、「嘘」とほとんど同義語として機能している。つまり人から「嘘」を取り上げれば幸福に生きていくこともできないということなのだ。
◆朝子の抱える自己欺瞞 さて、ようやく『寝ても覚めても』に戻る。朝子の「嘘=自己欺瞞」がどこにあるかと言えば、亮平が麦の代わりでしかないのかもしれないということだろう。これは麦が消えてしまった状態では確かめようもないことでもある。しかし、亮平と一緒の場所に麦が現れることで、朝子には自分の抱えた欺瞞に向き合うことができることになる。そのために朝子は一度亮平を裏切り、麦と逃避行する必要があったのだ。そして、その逃避行で明らかになるのは、朝子が選ぶべきなのが亮平であったということだ(この選択に理屈はなく、「愛」ゆえなのだろう)。
次の展開において奇妙なのは朝子が亮平のもとに戻る前に、岡崎(
渡辺大知)の家に寄ることだ。ちなみにこれも原作にはないエピソードである。岡崎は大阪時代の友人であり、現在は難病によって動けない状態にある。久しぶりの再会に朝子は涙するのだけれど、この涙は岡崎のための涙ではない。かつて仲良くしていた岡崎の病気を前にしても、朝子が考えているのは自分のことばかり。それでも友人みたいな振舞いをしてみせている。そんな自己欺瞞に気づいたための涙だったのだ。この気づきによって、今まで自分の気持ちに曖昧なまま亮平と付き合っていたという欺瞞への認識を新たにしたのだろう。
ちなみに本作の英語版のタイトルは
「Asako I & II」となっている。つまり本作では朝子のヴァージョンⅠとヴァージョンⅡが描かれているということであり、ここを境にして朝子は生まれ変わったということになるんじゃないかと思う。朝子は自分が抱えていた欺瞞を振り払い、何の疑問を感じることもなく亮平のもとへと行くことができるのだ。
◆『野鴨』と『寝ても覚めても』の差異 ここで振り返ると、『寝ても覚めても』は『野鴨』の結論とは違うところにたどり着いていることがわかる。朝子は自らの欺瞞に気づく。つまりは真実を見つめている。どちらも自己欺瞞と真実がテーマとなっているが、『野鴨』が欺瞞も必要だと言うのに対し、『寝ても覚めても』は真実に重きを置く。
だから、震災のあとの亮平は、中止になってしまった舞台『野鴨』の立て看板をきちんと立て掛けるのではなく、横倒しにしたままその場を去る。つまりはここでは『野鴨』の結論をそのままなぞるわけではないことが示されている。
また、『寝ても覚めても』では自己欺瞞が主題となる場面がもう一つ用意されている。マヤ(
山下リオ)とクッシー(
瀬戸康史)の出会いの場面だ(これも原作にはないエピソード)。マヤが登場する舞台の録画を見せられたクッシーは、なぜかマヤのことを非難する。というのも、実はクッシーも元演劇人であり、自分があきらめた夢をマヤが追い続けているのに嫉妬したのだ。それでもクッシーはその自己欺瞞を認めることで、のちにマヤと結婚することになる。ここでも真実のほうが重要視されている。
もともと『野鴨』の発端は、正義病のグレーゲルスが「真実の上に築く幸せ」を求めたお節介にあった。そして、平均的な人間にはそれは難しいというのが『野鴨』のなかでの結末だ。しかし、平均的ではない人間ならばどうだろうか。強い人間ならば真実に耐えられるかもしれない。『寝ても覚めても』はそんな強い人間を描こうとしていて、だからヴァージョンⅡの朝子は強い(平均的な観客としてはここが理解しづらいところと言えるかもしれない)。ふわふわして捉えどころのなかったヴァージョンⅠの朝子とは違う存在なのだ。
だからそこから先の朝子の亮平に対する態度は驚くほど決然としたものになる。
「亮平に謝りたい。でも、どんなに謝っても謝りきれない。そんなことをした。だから、謝らへん」という朝子の台詞はそれをよく示している。亮平と麦を天秤にかけるような欺瞞からは脱した朝子だからこそ、突き放そうとする亮平に対してもまっすぐに立ち向かうことができたのだ。
こんなふうに本作を朝子の自己欺瞞からの快復の物語として見ると、映画版は原作にはないエピソードをあちこちに配置した独自の脚本になっていることがわかる。こうした綿密な構成があるからこそ、説明的な台詞など必要なかったということなのだろう。本作は約2時間で終わってしまうけれど、個人的には朝子が亮平に追いすがって必死になるあたりをもっと見ていたかったという気もする。話題になっていたのは知っていたけれど、長時間の上映にしり込みしていた前作の
『ハッピーアワー』も是非とも観たくなってきた。





