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『クワイエット・プレイス』 劇場ではマナーを守りましょうという映画?

 監督はジョン・クラシンスキーという人で、重要な登場人物リーを演じてもいる。初めて見る顔かと思っていたのだけれど、役者として『デトロイト』なんかに出ていたらしい。本作では、ジョン・クラシンスキーはエミリー・ブラントと夫婦役を演じているが、ふたりは実生活でも結婚しているとのこと。

ジョン・クラシンスキー 『クワイエット・プレイス』 主演はエミリー・ブラント。彼女の役柄は妊娠している女性。声を上げたら即死なのに……。

 この作品では世界は“何か”によってほとんど壊滅状態にある。その“何か”は音に反応して現れるらしく、音を立てれば人間は生きてはいけない状況なのだ。本作は“何か”が地球上に現れてから89日目の時点からスタートするのだが、その時点で街の機能は停止し、主人公たち家族以外の姿は見えない。
 実際には街から離れた場所にひっそりと暮らしている人がいることも推測されるのだが(夜のかがり火によって)、音を立てることが命を落とすことにつながるために、行動を制限され家族以外の誰かとコミュミケーションをとることも難しいということなのだろう。電話が鳴ったりしたら即死亡という状況では気軽に連絡することも憚られるというわけだ。
 リー(ジョン・クラシンスキー)とエヴリン(エミリー・ブラント)の夫婦が家族と共に生き延びてきていたのは、日常生活の動線となる場所には砂を敷いて消音を図るとか、足音を最小限にするために裸足になるとか工夫をしていたからなのだろう。さらに彼らの娘リーガン(ミリセント・シモンズ)が聴覚障害者のため、家族内で手話を使うことができたからなのかもしれない。

 ※ 以下、ネタバレもあり! 結末についても触れているので要注意!!


『クワイエット・プレイス』 監督のジョン・クラシンスキーは、リー役としてスクリーンにも登場する。リーガン役のミリセント・シモンズは実際に聴覚障害者なんだとか。

 キャッチ・コピーにある「音を立てたら、即死」という設定は『ドント・ブリーズ』を思わせるけれど、『ドント・ブリーズ』の舞台が一軒家のなかだけだったのに対し、『クワイエット・プレイス』ではその範囲が世界全体にも及んでいる。したがって逃げ場がないとも言えるのだけれど、世界は広大なわけで、少しの音なら大丈夫ということでもある。だから大きな音さえ立てなければ、リー一家にも平穏な生活がある。
 ここから先はネタバレだけれど、音に反応する“何か”とは、宇宙から飛来してきたモンスターだ。彼らは外皮が硬い物質でできていて、目は見えないらしい。ただ聴覚だけは異常に発達していて、生物が動く音などを感知するとそれを襲撃して捕獲する。その動きは素早くて、ガタイも人間よりはデカイので戦ったらほとんど絶望的だ。
 ホラー映画では絶叫クイーンなどと呼ばれる女性が登場して、モンスターに遭遇するたびに絶叫して逃げ回るというのが定番のパターン。しかし本作ではそれは封じられている。というのは絶叫すれば即死亡を意味するから。
 だから登場人物たちも息をひそめるようにして生活しているわけで、それを見守る観客としても息をひそめて見守るほかない。だから絶叫クイーンがモンスターから逃げ回るのを、ポップコーンをガサゴソやりながら楽しむ感覚ではない。ちょっとの音さえも気になって緊張感が持続する作品になっているのだ。そんな意味では静かな劇場でほかの多くの観客と見るのが一番なのだろう。多分、ひとりで見てもあまり緊張感は味わえないような気もするから。

 もっともツッコミどころは多い。長男がモンスターに殺される場面で子供が予想外の行動をしてしまうのは学んでいるはずなのに、すぐにまた妊娠しているのはちょっと唖然とするし、生まれた子供が実におとなしく泣き声すらも上げないというのはやはりご都合主義ということになるだろう。それでも95分という時間に必要最低限のエピソードだけをテンポよく盛り込んでいて、楽しめる作品になっていた。監督でもあるジョン・クラシンスキーの最期の場面はちょっとカッコつけすぎだと思うけれど……。

 唐突に現れたモンスターに人間世界も変わらざると得ないという状況はなかなかおもしろかった。今ある生活は、この世界からほとんどの外敵を排除してきたからこその“文化的な生活”ということだろうか。外敵がすぐ近くにいては大きな音を立てることはもちろんのこと、歌うことも踊ることも憚られるわけだから。
 そんななか、劇伴以外で流れる唯一の音楽がニール・ヤング「Harvest Moon」だったのも個人的には嬉しかったところ。ちなみに「Harvest Moon」の歌詞を確認してみると、旦那から妻へのラブレターのような内容で、それは劇中の夫婦の話でもあるけれど、現実の監督と主演女優の話でもあるのかもしれない(つまりノロケ)。

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Date: 2018.09.30 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『リグレッション』 なぜ、今、公開したんだろうか?

 『アザーズ』などのアレハンドロ・アメナーバル監督の2015年の作品。
 タイトルの「Regression」とは、「退行」などを意味する。

 事の発端は少女のレイプ事件。被害者のアンジェラ・グレイ(エマ・ワトソン)は父親ジョンのことを告発する。ジョンはそれを認めるものの、その記憶はないという。捜査に当たることになったブルース・ケナー(イーサン・ホーク)は心理学者(デヴィッド・シューリス)の助けを借り催眠療法によってジョンのことを調べる。そうした捜査の結果、浮かび上がってきたのが悪魔崇拝者たちによる恐ろしい儀式の存在。アンジェラはそうした儀式の一環で被害に遭い、その儀式によってはほかにも被害者が出ているのだという。そして、その儀式では子供が食べられたりもしているのだという……。
 そんな禍々しい展開をしていくのだが、実際に証拠として挙がってくるものは何もない。一体どういうことなのか?

 ※ 以下、ネタバレあり!!

アレハンドロ・アメナーバル 『リグレッション』 イーサン・ホークとエマ・ワトソンの共演作で話題になりそうなのだが……。

 最初の告発ではレイプされただけだったはずなのに、それがいつの間にか悪魔崇拝者の話になっていくのも不自然だったし、何より捜査官のブルースがなぜそれを信じてしまうのかがよくわからない。ブルースはアンジェラの声を聞きながら実際に悪魔崇拝者の儀式を目撃したかのような錯覚に陥ってしまい、自分も彼らに襲われるんじゃないかという妄想を抱くまでになってしまう。しかし、そのブルースの背景はいっさい描かれないものだから、なぜそんな過ちを犯すのかがよくわからないのだ。もしブルースが真相にたどり着くのであれば、彼の背景など描かなくてもよかったのかもしれないけれど……。
 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うけれど、枯れ尾花(枯れたススキ)が幽霊に見えてしまうのは、見ている人が怖がっているからで、怖がってなければ幽霊など見えるわけもない。だとしたらブルースが怖がる理由があるはずと思うのだけれど、それが描かれないから最初から観客にとっても疑わしい話になってしまっていたと思う。オチがオチだけに、そこは失敗だったんじゃないだろうか。エマ・ワトソンみたいな少女が困っていたら心配にもなるだろうとは思うけど、それにしても……。
 イーサン・ホークエマ・ワトソンの共演というそれなりに話題になりそうな作品なのに、今まで公開されていなかったのも肯けるという気もする。

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Date: 2018.09.24 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『愛しのアイリーン』 国際結婚と姥捨て山

 原作は『ザ・ワールド・イズ・マイン』などの新井英樹の同名漫画。
 監督は『犬猿』『ヒメアノ~ル』などの吉田恵輔

吉田恵輔 『愛しのアイリーン』 岩男(安田顕)はフィリピンから嫁のアイリーン(ナッツ・シトイ)を連れて帰ってくる。

 新井英樹の漫画が映画化されるのは『愛しのアイリーン』が初めてとのこと(今年『宮本から君へ』がテレビドラマ化されたようだが)。それというのも新井英樹の漫画が万人向けではないというか、人の神経を逆撫でするようなものがあるからなんじゃないかという気もする。『愛しのアイリーン』もその例に漏れずアクの強い作品になっていて、テレビの地上波なんかでは絶対に放送することはないだろう。主人公が放送禁止用語を連発するからだ。
 そんな主人公の宍戸岩男(安田顕)はもう42歳。片想いの女性に対する幻想を打ち砕かれ、なかばやけくそになって嫁をフィリピンから連れてくる。その嫁・アイリーン(ナッツ・シトイ)はまだ18歳の処女。自分が金で買われたことはわかっているけれど、初体験は好きな人という夢も捨てきれてはいない。そんなアイリーンを岩男の母・ツル(木野花)はまったく認めようとはせずに……。

 どのキャラクターも強烈だけれど、特に岩男と母ツルの関係性もきわどいものがある。岩男を溺愛するツルは、岩男の夜な夜なのオナニーを覗いていて、きちんとした嫁をあてがうのに必死で策を練る。外国人の嫁など受け入れられないとばかりに、岩男をこっそり別の女性・琴美(桜まゆみ)に会わせてみたりもする。しかも琴美には睡眠薬まで盛っていて、岩男が眠った琴美に手を出して既成事実ができれば、それを理由にアイリーンを離縁しようと企んでいる。しかし、そんな企みが厄介なトラブルを招くことになる。
 監督の吉田恵輔は本作のなかの愛が、すべて片想いとなっていることをインタビューで指摘している。岩男は職場の同僚・愛子(河井青葉)に想いを寄せているし、ツルは岩男を溺愛している。日本にやってきたアイリーンはフィリピンの母親のことを想っているし、愛子は愛情ではなくてセックスを求めている。そんなふうにそれぞれの想いはすれ違っていく。

『愛しのアイリーン』 岩男の母ツルはアイリーンを受け入れずに猟銃で威嚇する。ツルを演じる木野花のテンションがすさまじかった!

 本作はとっかかりは嫁探しから始まるけれど、よくある嫁姑問題を超えて変な方向へと転がっていく。主人公・岩男が途中で退場した後は、ツルとアイリーンのふたりが残される。そして、『楢山節考』などでも描かれた「姥捨て山」が主題として浮かび上がってくる。
 かつての日本では、働けなくなった老人たちが口減らしのために山に捨てられた。そんな伝説が「姥捨て山」のお話となっている(実際にそんな事態があったのかはともかくとして)。しかし、戦後の経済成長は日本に豊かさをもたらし、様々な事情で嫁の来手がない家では女をフィリピンなどの貧困に喘いでいる国から買ってくるまでに。ただ、逆にフィリピンで起きていることは、親や家族のために娘が犠牲になるということでもある。
 終盤でアイリーンとツルの間で和解のようなものが成立するのは、そんなふうに社会の犠牲者という点での共感だったのかもしれない(片や「姥捨て山」と、片や「国際結婚」という名の人身売買)。とにかく、ふたりとも姑にいびられながら宍戸家の子供を孕んだという点では一緒なのだ。
 ラスト、雪のなかを歩いていくアイリーンのその後のことはわからないまま終わる。だからこれを悲劇と見るべきなのか、ハッピーエンドと受け取るべきなのかは曖昧とも言える。しかし、個人的には希望があるものに感じられた。
 この作品では男どもは、皆、あっさり退場していく。岩男の父親(品川徹)はボケたまま死んでしまう。アイリーンを誘拐しようとしたヤクザ者(伊勢谷友介)は岩男の逆襲に遭って退場。そして岩男自身もアイリーンへの気持ちを木に刻みつけ自滅して退場していく。
 一方で女性陣はしぶとく生き残っていく。愛子は暴力夫に苦しみつつもセックスを楽しんでいるし、岩男を諌める関西弁が印象的なマリーン(ディオンヌ・モンサント)も売春しながらも生きている。ツルは宍戸家の大黒柱として、家族に手当たり次第に喚き散らす強い姑になって生きてきた。そして、アイリーンもフィリピンに帰るという選択肢だったあったはずなのに、日本に踏みとどまって生きている。彼女たちの境遇は恵まれてはいなくとも、決してそれに負けることなく生きている。「しぶとく」というのは称賛の言葉である。

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Date: 2018.09.21 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『プーと大人になった僕』 「何もしない」ことの効用

 「くまのプーさん」とは、A・A・ミルンによる名作児童文学をもとにしたディズニーの人気アニメキャラクターのことだが、今回は初めての実写映画化。
 監督は『ワールド・ウォー Z』『主人公は僕だった』などのマーク・フォースター
 原題は「Christopher Robin」

マーク・フォースター 『プーと大人になった僕』 クリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)とプー。赤い風船はプーが大切にしているもの。

 ディズニーのキャラの「くまのプーさん」は何となく知っていたけれど、そのほかはほとんど何も知らない状態での鑑賞。なぜプーさんの造形がぬいぐるみがそのまま動いているような映像となっているのかと疑問に思っていたのだけれど、もともとのA・A・ミルンの原作が、子供がぬいぐるみで遊んでいる様子から着想を得ているかららしい。ほかのキャラも同じようにぬいぐるみで、トラのティガーなんかは特に色褪せてしまっているのも実際のぬいぐるみに寄せているからなのだろうと思われる。
 今回の実写版『プーと大人になった僕』は、ぬいぐるみで遊んでいた子供だったクリストファー・ロビンが大人になってからの話。中間管理職として働いているクリストファー・ロビン(ユアン・マクレガー)は、養うべき妻(ヘイリー・アトウェル)と娘(ブロンテ・カーマイケル)もおり、子供時代のころなどすっかり忘れてしまっている。会社では上司から仕事の改善案の提出をせっつかれ、娘と約束していた休日の予定もキャンセルするしかない忙しさで、ノスタルジックな想いに浸る余裕などまったくないからだ。

『プーと大人になった僕』 皺が多くなったなんて言われているユアン・マクレガーだが、笑顔を見せると『シャロウ・グレイブ』のころとあまり変わってないようにも感じられる。

 プーが大人になったクリストファー・ロビンのところへやってきて何をしてくれたかと言えば、はちみつをなめてあちこち家を破壊していっただけのようにも思えるのだけれど、その素朴な質問は大人となったクリストファー・ロビンには深く刺さるものがある。
 プーにとって大切なものは赤い風船だったけれど、クリストファー・ロビンにとっては仕事が大切。プーに「それは風船よりも大切?」と素直に訊かれると、クリストファー・ロビンは答えに窮してしまう。というのも、本来ならば家族を養うための仕事であったはずが、いつの間にか仕事のために家族が我慢するような状態になってしまっているから。
 のんびりしたプーは、かつて「100エーカーの森」で子供だったクリストファー・ロビンと一緒に遊んでいたときのまま。クリストファー・ロビンはそこを離れ、寄宿学校に行き、戦争に行き、会社で働くというように、歳を重ね成長していった。しかし、そのうちに大切なことを忘れてしまってもいたのだ。この作品でプーが教えてくれる大切なこととは、「何もしない」ことがいいことにつながるということ。
 でも改めて振り返ってみれば、これは子供時代のクリストファー・ロビンがプーに教えていたことでもあったのだ。クリストファー・ロビンはいつの間にかにそれを忘れ、再会したプーによって改めてそれを学ぶことになる。
 職場の上司は「何もしないこと」は座して死を待つことにつながると言っていたわけだけれど、この作品ではちょっと立ち止まることで価値の転倒をも生み出すことになっている。たまにはのんびりしてみることもいいことなのかもしれない。プーと仲間のぬいぐるみたちとの世界にほんわかとさせられると、そんな気持ちにもなってくる。

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Date: 2018.09.17 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『寝ても覚めても』 朝子の自己欺瞞から解釈してみると

 上映時間が5時間を超えるという『ハッピーアワー』という作品で高い評価を受けた濱口竜介の商業デビュー作。
 原作は『きょうのできごと』などの柴崎友香の同名小説。

濱口竜介 『寝ても覚めても』 朝子(唐田えりか)はかつての恋人麦とそっくりな亮平(東出昌大)と出会い……。
 

 ある日、朝子(唐田えりか)はバク東出昌大)という男と出会い恋に落ちる。しばらくの幸福な時間の後、麦は突然姿を消してしまう。その2年後、朝子は麦と瓜二つの亮平(東出昌大の二役)と出会い……。

 ちょっと前に取り上げた『2重螺旋の恋人』での瓜二つの男は双子の兄弟という設定だったけれど、『寝ても覚めても』の麦と亮平はまったくの赤の他人である。しかもパーソナリティもかなり異なっている。
 麦はかなりマイペースな人間で、言ってみれば異世界にいる人間であり、一度消えた後には芸能界という別世界に現れる(ちなみに原作者は『ユリイカ』のインタビューで麦のことをエイリアンに例えてもいて、そんな意味では『予兆 散歩する侵略者 劇場版』でもエイリアンが似合っていた東出昌大がうまくはまっている)。一方の亮平は常識人であり、他人のことなど考えず急に消えてしまったりする麦とは違い、他人に対する思いやりに溢れた男だ。
 常識的にはつき合うなら亮平のほうが真っ当と思えるけれど、朝子が亮平に興味を持ったのはそもそも麦がいたからで、オリジナルの麦に対して亮平はどこか偽物のようにも感じられるのかもしれないし、見た目が同じなら誰でもいいというのは愛と言えるのかというためらいもあったのかもしれない。

◆なぜ朝子は非常識なのか?
 この作品は朝子の経験する長い時間が追われていき、舞台となる場所も変わっていく。大阪での麦との出会いの後、2年後に東京で亮平と出会う。そして震災という出来事を挟み、5年が経過し、亮平の転勤を機に大阪で結婚するという運びになる。しかし、そこに麦が戻ってきて話がこじれることになる。
 不思議なのは最後の怒涛のような展開も、それを引き起こすことになる朝子の心情をまったく説明しようとはしないところ。朝子は麦に連れられ一度は亮平のもとを去りながらも、途中で翻意して戻ってくる。この朝子の行動は非常識なものだ。もともとふわふわして捉えどころのない朝子だけれど、非常識な行動にまで至る心境の変化はわからないのだ。朝子役の唐田えりかは役者としては素人同然ということもあり、微妙な感情の揺らぎなんかを表現させようという演出意図は最初からないと思われる。
 ちなみに原作小説においてもそれは同様で、原作を読むと朝子の心情が手に取るようにわかるというわけではない。ただ、原作では麦と亮平が似ているということ自体が朝子の主観に過ぎなかったということも書かれている。原作では、朝子の友人・春代曰くふたりは全然似ていないということになり、つまりは朝子の勘違いだったとも読めるのだ。しかし、映画のなかでふたりを演じるのは東出昌大であり、映画のなかの春代(伊藤沙莉)は麦と亮平がそっくりなことに驚いている。つまり映画版ではふたりは誰が見てもそっくりという設定であり、原作以上に朝子の翻意が理解しづらいとも言える。
 理解しづらいからダメだと本作を否定しているわけではない。亮平をお化けでも見たかのようにあしらう朝子を微笑ましく感じ、後半の朝子の行動に驚かされつつ、亮平を追っていく朝子を捉えたロングショットには陶然となった。にも関わらず、どこがよかったと表現する術がなかったのだ。何だかわからないけど魅力的と評するだけでは芸もないので、本作がどんなふうに出来ているのかを考えてみようと思う。以下は、原作と映画で違っている部分を中心にして、脚本も手がけている濱口竜介がどんな構成でこの作品をつくっていこうとしたのかということを検討してみたものである。

『寝ても覚めても』 ラスト。ふたりの目の前には川があり、亮平は「きたない川」と評するのに対し、朝子は「でも、きれい」と応える。『マクベス』の台詞なんかを思わせなくもないが、どんな意味が込められているのだろうか?

◆『野鴨』について
 最初に注目したいのが映画だけに登場するイプセン『野鴨』という戯曲である。岩波文庫版の解説にはこんなふうにある。

人間はどれだけ「真実」に耐え得るのか。うそ偽りの上に幸福は築けないと考えるグレーゲルスは、ささやかながら平穏な生活をおくるエクダル家を欺瞞の泥沼から救いだそうと「真実」をつきつける。


 『野鴨』で「真実」と言われているのは、エクダル家の秘密である。この秘密が隠されていることによってエクダル家は平穏でいられた。しかし「真実」が暴露されると、それはあまりに耐え難く、エクダル家は悲劇に見舞われる。正義病のグレーゲルスは親切心から「真実」をつきつけるけれど、それはエクダル家を崩壊させてしまうことになる。ここで明らかになるのは人生には時には「嘘」も必要だということだ。
 また、重要なのは「嘘」は他人を騙すためのものばかりではないということ。加えて、自らを欺くこと(=自己欺瞞)も「嘘」の一種だということだ。エクダル家のヤルマールは「発明をする」という「夢」によって退屈な日々を生きている。また、敗残者であるヤルマールの父親は、自宅裏の森でクマを狩っているという「妄想」のなかにいる(実際はウサギを狩っているだけなのに)。ここでの「夢」や「妄想」は、「嘘」とほとんど同義語として機能している。つまり人から「嘘」を取り上げれば幸福に生きていくこともできないということなのだ。

◆朝子の抱える自己欺瞞
 さて、ようやく『寝ても覚めても』に戻る。朝子の「嘘=自己欺瞞」がどこにあるかと言えば、亮平が麦の代わりでしかないのかもしれないということだろう。これは麦が消えてしまった状態では確かめようもないことでもある。しかし、亮平と一緒の場所に麦が現れることで、朝子には自分の抱えた欺瞞に向き合うことができることになる。そのために朝子は一度亮平を裏切り、麦と逃避行する必要があったのだ。そして、その逃避行で明らかになるのは、朝子が選ぶべきなのが亮平であったということだ(この選択に理屈はなく、「愛」ゆえなのだろう)。
 次の展開において奇妙なのは朝子が亮平のもとに戻る前に、岡崎(渡辺大知)の家に寄ることだ。ちなみにこれも原作にはないエピソードである。岡崎は大阪時代の友人であり、現在は難病によって動けない状態にある。久しぶりの再会に朝子は涙するのだけれど、この涙は岡崎のための涙ではない。かつて仲良くしていた岡崎の病気を前にしても、朝子が考えているのは自分のことばかり。それでも友人みたいな振舞いをしてみせている。そんな自己欺瞞に気づいたための涙だったのだ。この気づきによって、今まで自分の気持ちに曖昧なまま亮平と付き合っていたという欺瞞への認識を新たにしたのだろう。
 ちなみに本作の英語版のタイトルは「Asako I & II」となっている。つまり本作では朝子のヴァージョンⅠとヴァージョンⅡが描かれているということであり、ここを境にして朝子は生まれ変わったということになるんじゃないかと思う。朝子は自分が抱えていた欺瞞を振り払い、何の疑問を感じることもなく亮平のもとへと行くことができるのだ。

◆『野鴨』と『寝ても覚めても』の差異
 ここで振り返ると、『寝ても覚めても』は『野鴨』の結論とは違うところにたどり着いていることがわかる。朝子は自らの欺瞞に気づく。つまりは真実を見つめている。どちらも自己欺瞞と真実がテーマとなっているが、『野鴨』が欺瞞も必要だと言うのに対し、『寝ても覚めても』は真実に重きを置く。
 だから、震災のあとの亮平は、中止になってしまった舞台『野鴨』の立て看板をきちんと立て掛けるのではなく、横倒しにしたままその場を去る。つまりはここでは『野鴨』の結論をそのままなぞるわけではないことが示されている。
 また、『寝ても覚めても』では自己欺瞞が主題となる場面がもう一つ用意されている。マヤ(山下リオ)とクッシー(瀬戸康史)の出会いの場面だ(これも原作にはないエピソード)。マヤが登場する舞台の録画を見せられたクッシーは、なぜかマヤのことを非難する。というのも、実はクッシーも元演劇人であり、自分があきらめた夢をマヤが追い続けているのに嫉妬したのだ。それでもクッシーはその自己欺瞞を認めることで、のちにマヤと結婚することになる。ここでも真実のほうが重要視されている。
 もともと『野鴨』の発端は、正義病のグレーゲルスが「真実の上に築く幸せ」を求めたお節介にあった。そして、平均的な人間にはそれは難しいというのが『野鴨』のなかでの結末だ。しかし、平均的ではない人間ならばどうだろうか。強い人間ならば真実に耐えられるかもしれない。『寝ても覚めても』はそんな強い人間を描こうとしていて、だからヴァージョンⅡの朝子は強い(平均的な観客としてはここが理解しづらいところと言えるかもしれない)。ふわふわして捉えどころのなかったヴァージョンⅠの朝子とは違う存在なのだ。
 だからそこから先の朝子の亮平に対する態度は驚くほど決然としたものになる。「亮平に謝りたい。でも、どんなに謝っても謝りきれない。そんなことをした。だから、謝らへん」という朝子の台詞はそれをよく示している。亮平と麦を天秤にかけるような欺瞞からは脱した朝子だからこそ、突き放そうとする亮平に対してもまっすぐに立ち向かうことができたのだ。
 こんなふうに本作を朝子の自己欺瞞からの快復の物語として見ると、映画版は原作にはないエピソードをあちこちに配置した独自の脚本になっていることがわかる。こうした綿密な構成があるからこそ、説明的な台詞など必要なかったということなのだろう。本作は約2時間で終わってしまうけれど、個人的には朝子が亮平に追いすがって必死になるあたりをもっと見ていたかったという気もする。話題になっていたのは知っていたけれど、長時間の上映にしり込みしていた前作の『ハッピーアワー』も是非とも観たくなってきた。

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Date: 2018.09.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『きみの鳥はうたえる』 輝くクソを眺めること

 原作は『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』などの佐藤泰志の同名小説。
 監督は『Playback』『密使と番人』などの三宅唱
 タイトルはビートルズの曲「And Your Bird Can Sing」の直訳。映画のなかではこの曲が使われることもないけれど、登場人物の心情とその歌詞はよく合っている気もする。

三宅唱 『きみの鳥はうたえる』 “僕”(柄本佑)と同居する静雄(染谷将太)。その間にいるのが佐知子(石橋静河)。

 函館郊外の本屋で働く“僕”(柄本佑)と同居する失業中の静雄(染谷将太)。そんなふたりの間に入り込んでくるのが、“僕”の職場の同僚の佐知子(石橋静河)。
 たまたま同じ日に公開となった『寝ても覚めても』が10年近くの長い時間の経過を描いたものだとすれば、『きみの鳥はうたえる』のほうは現在進行形の時間を体験させてくれるような作品だと言える。
 最初に“僕”と佐知子の関係が描かれ、そこに“僕”の同居人の静雄も加わる。3人が集まり、ただ酒を飲み、タバコを吸い、ビリヤードや卓球に興じ、踊る。特にクラブで佐知子が踊るシーンは即興的に撮られているものと思え、それをカメラは延々と捉えていく(佐知子を演じる石橋静河はコンテンポラリーダンサーでもあったらしい)。

『きみの鳥はうたえる』 3人は夜通し飲み歩く。実際に飲んで撮影しているところもあるのだとか。

 三宅唱監督は『映画芸術』でのインタビューではこんなことを語っていた。とてもうまい言い方だと感じたので引用しておく。

誰にでも朝まで飲まなきゃやってられないような夜ってあると思うのですが、だからなのかはわかりませんけど、夜明け頃の街にいる人たちって、なんというか、輝くクソという感じで、僕はそれを眺めるのが好きですね。(下線は引用者)


 作品内でも3人は朝まで飲み歩く。そういう姿は傍目には醜悪なものとも見えるけれど、本人たちにとっては酔いもあってとても楽しそうでもある。延々と続くクラブのシーンなんかは人によっては醜悪なものを感じるのかもしれない。ただ三宅監督はそうした場面を眺めるのが嫌いではないわけで、上記の言葉のあとには「自分もその一部だなあと思える」と語っている。それでもどこか醜悪なものがあることも感じているわけで、だから「輝くクソ」といった表現になるのだろう。

 この作品では3人がひたすら楽しく過ごす時間が描かれ、面倒なことは避けられている。“僕”と佐知子が最初に関係するときも、「面倒くさいことはイヤ」ということを互いに念を押している。それから静雄は飲みすぎる母親(渡辺真起子)との会話のなかでボケたり病気になったりして面倒になることを心配してもいる。
 「遊んだり飲んだりして何が悪いの?」(*1)という台詞通りに3人は楽しく過ごしていくわけだけれど、どうしても避けがたいことに面倒はやってくることになる。佐知子は“僕”と別れて、静雄と付き合うことを宣言するし、静雄には母親の病気の知らせが届く。
 この作品は面倒なことが決定的に始まる前に終わってしまうけれど、ラストを飾るのは佐知子の何とも言えない表情。これまで終始「輝くクソ」を眺めてきた観客としては、この作品に対する評価に関しても微妙なものを感じる瞬間もあったのだけれど(だって輝いていてもクソはクソだし)、最後の佐知子の表情ですべて報われたような気もした。その曖昧な表情からはその後の展開を推測することは難しいけれど、楽しかった時間の終わりを感じさせる絶妙なラストだったのだ。
 “僕”は本屋の同僚店員・森口(足立智充)にその不誠実さを責められる。“僕”は面倒くさくてあまり相手にしないのだけれど、森口は他人が楽しくしているのがうらやましくて耐えられないというタイプ。そんな森口も本屋の店長(萩原聖人)に情けをかけられて飲み歩く夜はとても楽しそう。その姿はまさに「輝くクソ」といった感じで、この作品はそんな時間が捉えられているところが素晴らしいのだ。とにかくラストを観るだけでも映画館に行く価値があるんじゃないかと思う。

 80年代に書かれた原作を現在に時を移しての映画化で、クラブで使われている音楽はヒップホップなのだけれど、3人のたたずまいは昭和のそれっぽい感じもある。路面電車が走っている函館という街も昔ながらの風情があるのかもしれない。
 魅力的に佐知子を演じた石橋静河は、落ち着いたトーンの声といい、すでに貫禄すら感じさせるくらいだったと思う。

(*1) この台詞はどこか「気分が良くて何が悪い?」という村上春樹の本に出てくる言葉を思わせなくもない。原作者の佐藤泰志と村上春樹は同い年だったらしく、その当時の感覚が似たような台詞として登場しているのかもしれない。ちなみに私自身は原作を読んでいないのだけれど、原作ではさらにその続きが描かれているらしい。

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Date: 2018.09.08 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『判決、ふたつの希望』 外面は地味だが中身はエンタメ?

 アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたレバノン映画。
 監督・脚本はジアド・ドゥエイリ。この人はタランティーノ監督作品のアシスタントとして参加していたこともあるとのことで、この作品は長編第4作。
 原題は「The Insult」で、「侮辱」という意味。

ジアド・ドゥエイリ 『判決、ふたつの希望』 左側がパレスチナ人のヤーセル(カメル・エル・バシャ)、右側がレバノン人のトニー(アデル・カラム)。

 ささいな口論が裁判に発展し、周囲の人々を巻き込みつつ、宗教や民族間の対立まで煽るような事態となっていくという法廷劇。舞台となるのはレバノンの首都ベイルートで、そこに住むトニー(アデル・カラム)はアパートの改修工事にやってきたパレスチナ人のヤーセル(カメル・エル・バシャ)に対してひどい態度を示し、それがヤーセルの暴言を引き出すことに……。

 整理しておくと、トニーはレバノン人でキリスト教徒。しかも愛国的な政党を支持する右寄りの男。そして暴言を吐いてしまったパレスチナ人のヤーセルはイスラム教徒で、レバノンでは難民として不法就労している。
 トラブルを迅速に収めようという上司の申し出で、ヤーセルはトニーに対して謝罪に出向くのだけれど、ヤーセルはトニーの発したある言葉に怒り出し、謝罪に来たのも忘れてトニーを殴ってケガを負わせてしまう。
 その言葉は「シャロンに抹殺されてればな」というもの。中東の政治状況について不案内な私のような観客にとってはわかりにくいのだけれど、シャロンというのはレバノンの隣国イスラエルの首相だった人。パレスチナ難民にとってシャロンは、自分たちが難民となる原因をつくった憎き相手ということになる。だからトニーの言葉は、「お前らなんか、あの時、殺されてればよかったのに」という願望であって、すべてを失って難民となって隣国レバノンへと逃げなければならなかったパレスチナ人にとっては傷口に塩を塗られるようなもので、侮辱以外の何ものでもないということになる。

『判決、ふたつの希望』 ふたりが外野の取り巻きを離れて顔を合わせる印象的な場面。

 裁判が始まると事はどんどん大きくなっていく。控訴審となり互いに弁護人がつくようになると、もはやトニーとヤーセルだけの話ではなくなっていく。互いの弁護士はなぜか親子で、その親子対立まで持ち込んでいるし、周囲はふたりの裁判を民族や宗教の対立の表れとして見ることになる。そうなるとメディアも動き出し、政治的な問題も絡んできて、もともとのふたりのいざこざはほとんど蚊帳の外のような状態にもなってくる。きっかけはトニーがヤーセルから謝罪を求めただけだったのに……。
 最初の印象ではトニーの態度は不遜なものにも感じられる。ヤーセルは仕事としてトニーの家を修繕しようとしただけだからだ。確かに謝罪するのを嫌がるヤーセルも頑固ではあるけれど、トニーの態度がそもそもの原因だったんじゃないか。そんな気持ちにもなるのだけれど、裁判の過程で明らかになるのはトニーのほうにも言い分があるということなのだ。
 レバノンは1975年から1990年まで内戦が続いていたとのことで、トニーは1976年の「ダムールの虐殺」により故郷を追われてベイルートに移り住んできたのだ。そうした内戦のきっかけとなっているのがパレスチナ難民だという意識からか、トニーは難民に対してはじめから快く思ってなかったのだ。だからこそヤーセルが改修工事でトニーの家に現れたとき、ヤーセルに対してつっかかるような態度をしてしまうことになったわけだ。

 ジアド・ドゥエイリ監督は、レバノンで今も弁護士をしている母親の影響もあってこの作品の脚本を書いたとのこと。そして「正義(ジャスティス)というのは人それぞれにあるが、公正(フェア)は揺るがし難い。不公平を正したいというのが弁護士としての母の信念だった」とインタビューで語っている(こちらのサイトを参照)。
 トニーにとっての正義もあるし、ヤーセルにとっての正義もある。というか、どちらも悪い人間ではない。劇中、ふたりが外部の人のいない場所で顔を合わせる場面がある。ここではヤーセルの車の調子が悪くなったのを見て、自動車修理業を営むトニーが手を貸してやる。個々の人間同士では対立することもないのだ。ただ、レバノンという国の歴史には個人を飲み込む様々な対立が存在し、それから自由になることも難しい個々人も対立してしまう場合もあるということだろう。
 ヤーセルもまた正義漢であるのは、トニー殴打のきっかけとなった言葉に関しては第一審では語ろうとしなかったことでも明らかだし、最後の彼の謝罪の仕方にも表れている。ヤーセルは自分がトニーを殴ってしまったことは悪いことだと認めている。単に謝罪するだけでは、トニーの殴られ損ということになってしまう。それを見越して、悪態を吐いてトニーに自分を殴らせてから謝罪するという念の入ったやり方も、ヤーセルなりの落とし前のつけ方で、ここには彼なりのフェアというものが表れているのだろう。

 判決は一応最後に出ることになるけれど、すでにふたりのなかでの決着はついている。ただ、その過程で忘れ去っていたことが明らかになり、互いにそれぞれの抱える傷を多少なりとも理解したということはケガの功名というものだろう。
 役者たちの演技は抑制されているけれど、裁判の矢継ぎ早の展開とか劇伴の盛り上げ方なんかはハリウッド的なエンターテインメントのようにすら思える。最後のトニーとヤーセルの表情にも希望を感じさせるものがあり、カタルシスすら感じさせる作品となっていたと思う。

判決、ふたつの希望 ブルーレイ&DVDセット [Blu-ray]


Date: 2018.09.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)
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