『女は二度決断する』 そして、私たちは海に帰る
カンヌ国際映画祭では女優賞(ダイアン・クルーガー)を獲得した。
原題は「Us Dem Nichts」(ドイツ語で「ゼロから」といった意味)で、英語のタイトルは「In The Fade」。

主人公のカティア(ダイアン・クルーガー)は獄中で知り合ったトルコ系の夫と家庭を築き、息子にも恵まれた。そんな幸せな日々は突然の出来事によって無残にも崩壊する。何者かの爆弾テロによって夫と息子は帰らぬ人となり、カティアは絶望の淵に追いやられる。
警察の捜査には偏見が入り混じり、事件はトルコ系の移民同士もしくは麻薬常習者たちのいざこざと推定される(カティアたち夫婦も過去に麻薬をやっていた)。実際の犯人は移民のことを快く思わないネオナチのカップルの仕業であり、カティアの目撃証言によってそのことが示唆されていても、被害者であるトルコ系移民である夫は胡散臭い目で見られ、その妻であるカティアも疑いの目を向けられる。しかも犯人が捕まって裁判となったにも関わらず、証拠が不十分だということでネオナチは無罪放免ということになってしまう。社会において正義が行使されないならば、愛する家族を奪われたカティアはどうするのか?
『女は二度決断する』はドイツで起きたある事件をモデルとしている。NSU(国家社会主義地下組織)による連続テロ事件だ。2000年から2006年までにドイツ各地で外国人排斥目的のテロ事件が起き、その犠牲者は8人のトルコ系ドイツ人と、1人のギリシャ系ドイツ人だったとのこと。NSUという極右組織の犯行が明らかになるまでに時間がかかったのは、映画のなかでも描かれているように警察の移民に対する差別意識が捜査の方向性を誤らせていたからだ。
監督・脚本のファティ・アキンはトルコ系ドイツ人であり、その意味ではカティアはファティ・アキンの分身であるとも語っている。それでもこの作品の主人公が白人女性となっているのは、トルコ系移民の主人公だったとすると、観客が移民という特殊な人たちの話であり自分たちには関係ないことだと思ってしまうからだという。だからこの作品は差別に対する闘いであると同時に、愛する人を奪われた者の復讐の物語でもある。

カティアが何度決断したかはともかくとして、最後の決断に関しては呆気に取られた。この作品は復讐を遂げて溜飲を下げるといった類いの作品ではないのだ。カティアが夫と息子を殺したものと同じ爆弾をネオナチカップルにお見舞いすることは難しくはなかったはず。それをしなかったのは巻き添えになるかもしれない小鳥のことを慮ってしまったからなのかもしれないし、相手を殺して自分が生き残るという選択は良心の呵責に苛まれるだけだと冷静に判断していたからかもしれない。
ただ、その冷静さはカティアの身体に平穏さをもたらし、それまで止まっていた生理まで呼び戻すことになる。爆弾テロ事件以来、カティアにとってすべてのことが意味をなさなくなっていた(友人との付き合いですら煩わしいものに感じているようだ)。一度は自殺まで試みるけれど、犯人たちに罪を償わせるために何とか生き永らえてきた。
そんなふうに日常の時間が止まったようなところにいたカティアだが、身体の調子が戻ってきたように、再び日常の時間が戻ってくるのかもしれない。となると夫と息子のことはどこかへ忘れ去られてしまうことになるだろう(英語のタイトル「in the fade」はこうした事態を指すものだろうか)。それだけは許せないというのがカティアの決断であり、ファティ・アキンの決断でもあったということなのだろう。
ラスト、爆発の煙と共にカメラはギリシャの青空を映し出していくのだが、それがそのまま海の波間へとつながっていく。天と地がひっくり返ってしまったかのようにも、一度は天に昇った魂が地上に舞い戻ってきたようにも……。あるいは『気狂いピエロ』で引用されるランボーの詩を想い起こさないでもない。一体、ファティ・アキンはラストに何を込めたのだろうか。
復讐の連鎖という点でカティアの決断は間違っているのではなかろうかと個人的には考えたりもしたのだけれど、カティアと同じような背景を持つファティ・アキンの出した結論は重いものだとも次第に感じるようにもなった。最初の衝撃よりも少し経った今のほうが、ダイアン・クルーガーの暗い表情が脳裏にこびりついて離れないような気がしている。
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ファティ・アキンの作品
