『デトロイト』 今も続いている“死のゲーム”
監督は『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』などのキャスリン・ビグロー。
1967年に起きた「デトロイト暴動」の最中に起きたある事件を題材とした作品。この暴動では鎮圧のために州兵までが投入されたものの、43人もの死者が出たとのこと。

冒頭でこれまでの歴史が辿られる。デトロイトでの人種差別はもう一触即発のところまで来ていて、あとはいつどこで起きるかという状況だった。そして黒人たちが一斉に逮捕される場面をきっかけにして、住民の黒人たちの怒りに火がつく。彼らは警官に対して石を投げつけ、街を破壊し始め、たちまち戦争状態の様相を呈してくる。
そんななかアルジェ・モーテルにはまだのどかな雰囲気があった。それがある黒人の子供っぽいいたずらによって一変することになる。暴動によって殺気立っていた警察は、いたずらの銃声に過敏に反応する。クラウスという警官を中心にモーテル内を制圧し、銃を放った者を捜し出すという“死のゲーム”が始まることになる。
手持ちカメラでドキュメンタリーのように撮られた映像が緊迫感を漂わせ、40分も続くことになるアルジェ・モーテルでの“死のゲーム”の真っ只中に観客も放り込まれることになる。
白人警官のクラウス(ウィル・ポールター)は、上司から“坊や”呼ばわりされる程度の若輩者だ。それだけに正義感に溢れるところもあるのかもしれないのだが、その正義感はかなり偏ってもいる。略奪をする黒人は悪い奴で、そんな悪い奴は殺しすらしているかもしれず、だからこそ逃がしてはおけない。論理に飛躍があったとしてもそれに気づくほどの冷静さはないのだろう。しかしその一方でズル賢い部分もあり、殺してしまった黒人にナイフを持たせて自分の行為を正当化するくらいの知恵は持っている。
そんなクラウスたちが犯人探しのためにするのが“死のゲーム”と呼ばれるもので、その場にいた黒人たちに口を割らせるために、別室で仲間を殺したことを装いつつ、犯人を見つけ出そうとする。周辺は暴動で混乱状態にあり、州兵やほかから手助けにきた警官も人権問題が関わる面倒なことには巻き込まれまいとして見て見ぬフリをするなか、モーテルに足止めされた黒人たちに逃げ場はない。警察に歯向かう気などまったくなかった黒人たちはたちまち暴徒扱いされ、あるはずもない拳銃の在り処を巡って命の危機に晒されることになる。

偏見に満ちた白人警官によって罪のない黒人たちが殺されていく。『フルートベール駅で』などでも描かれているように、今でもアメリカでは度々起きることのようだ。黒人に非はないわけだから、観客としては判官びいき的に黒人に同情し、白人警官に嫌悪感を抱く(クラウスを演じたウィル・ポールターの憎たらしさは絶品)。
実際にこの映画では黒人たちは被害者で、白人警官の行為は非難されるべきものとして描かれてはいる。ただ、もっと黒人たちに寄り添うような描き方をすることも可能だったはずだが、そんなふうにはなっていないようにも思えた。
たとえばディスミュークス(ジョン・ボイエガ)という黒人は、白人と黒人との間に割って入ることのできた存在で、事件の目撃者の立場にある。彼を演じたジョン・ボイエガは、ディスミュークスのことを“ヒーロー”と呼んでいるけれど、彼が事件のなかで大活躍するというわけでもない。ディスミュークスは白人をなだめつつ、黒人には生き延びる術を教えるように行動していくけれど、なかなかうまくはいかないのだ。
そして、ディスミュークスが事件後に真相を話そうとすると警察に犯人扱いされてしまうことにもなり、その後の裁判の過程で彼はほとんど口を開くことはない。目には怒りが宿っていても、それをぶつける術はなく、あまりの理不尽さに吐き気を催すしかなくなるのだ。
たとえば映画をもっとドラマチックに見せたければ、ディスミュークスに闘う姿勢を見せることもできたはずだが、そうはなってはいないのだ。作品のカタルシスよりも事件に忠実であることを選んだということなのだろうか。闘うには敵が悪すぎるということなのかもしれないのだけれど、今でも黒人たちが圧倒的な白人の権勢に吐き気を催しているのは確かだろう。
被害者としてその夜をアルジェ・モーテルで過ごすことになったラリー(アルジー・スミス)は、その夜を境に人生が変わってしまう。モータウンのザ・ドラマティックスとしてこれから売り出そうというときに、その決定的出来事が起き、彼は二度とバンドに戻ることはなかったようだ。
ラリーが選んだのは地元の聖歌隊で歌うことだったけれど、彼の感じたような怒りをもっと前面に押し出していけば、後の世代にはラップのような攻撃的な音楽へとつながっていくことにもなるのかもしれないわけで、今のアメリカにもつながる作品となっているんじゃないだろうか。


キャスリン・ビグローの作品

1967年に起きた「デトロイト暴動」の最中に起きたある事件を題材とした作品。この暴動では鎮圧のために州兵までが投入されたものの、43人もの死者が出たとのこと。

冒頭でこれまでの歴史が辿られる。デトロイトでの人種差別はもう一触即発のところまで来ていて、あとはいつどこで起きるかという状況だった。そして黒人たちが一斉に逮捕される場面をきっかけにして、住民の黒人たちの怒りに火がつく。彼らは警官に対して石を投げつけ、街を破壊し始め、たちまち戦争状態の様相を呈してくる。
そんななかアルジェ・モーテルにはまだのどかな雰囲気があった。それがある黒人の子供っぽいいたずらによって一変することになる。暴動によって殺気立っていた警察は、いたずらの銃声に過敏に反応する。クラウスという警官を中心にモーテル内を制圧し、銃を放った者を捜し出すという“死のゲーム”が始まることになる。
手持ちカメラでドキュメンタリーのように撮られた映像が緊迫感を漂わせ、40分も続くことになるアルジェ・モーテルでの“死のゲーム”の真っ只中に観客も放り込まれることになる。
白人警官のクラウス(ウィル・ポールター)は、上司から“坊や”呼ばわりされる程度の若輩者だ。それだけに正義感に溢れるところもあるのかもしれないのだが、その正義感はかなり偏ってもいる。略奪をする黒人は悪い奴で、そんな悪い奴は殺しすらしているかもしれず、だからこそ逃がしてはおけない。論理に飛躍があったとしてもそれに気づくほどの冷静さはないのだろう。しかしその一方でズル賢い部分もあり、殺してしまった黒人にナイフを持たせて自分の行為を正当化するくらいの知恵は持っている。
そんなクラウスたちが犯人探しのためにするのが“死のゲーム”と呼ばれるもので、その場にいた黒人たちに口を割らせるために、別室で仲間を殺したことを装いつつ、犯人を見つけ出そうとする。周辺は暴動で混乱状態にあり、州兵やほかから手助けにきた警官も人権問題が関わる面倒なことには巻き込まれまいとして見て見ぬフリをするなか、モーテルに足止めされた黒人たちに逃げ場はない。警察に歯向かう気などまったくなかった黒人たちはたちまち暴徒扱いされ、あるはずもない拳銃の在り処を巡って命の危機に晒されることになる。

偏見に満ちた白人警官によって罪のない黒人たちが殺されていく。『フルートベール駅で』などでも描かれているように、今でもアメリカでは度々起きることのようだ。黒人に非はないわけだから、観客としては判官びいき的に黒人に同情し、白人警官に嫌悪感を抱く(クラウスを演じたウィル・ポールターの憎たらしさは絶品)。
実際にこの映画では黒人たちは被害者で、白人警官の行為は非難されるべきものとして描かれてはいる。ただ、もっと黒人たちに寄り添うような描き方をすることも可能だったはずだが、そんなふうにはなっていないようにも思えた。
たとえばディスミュークス(ジョン・ボイエガ)という黒人は、白人と黒人との間に割って入ることのできた存在で、事件の目撃者の立場にある。彼を演じたジョン・ボイエガは、ディスミュークスのことを“ヒーロー”と呼んでいるけれど、彼が事件のなかで大活躍するというわけでもない。ディスミュークスは白人をなだめつつ、黒人には生き延びる術を教えるように行動していくけれど、なかなかうまくはいかないのだ。
そして、ディスミュークスが事件後に真相を話そうとすると警察に犯人扱いされてしまうことにもなり、その後の裁判の過程で彼はほとんど口を開くことはない。目には怒りが宿っていても、それをぶつける術はなく、あまりの理不尽さに吐き気を催すしかなくなるのだ。
たとえば映画をもっとドラマチックに見せたければ、ディスミュークスに闘う姿勢を見せることもできたはずだが、そうはなってはいないのだ。作品のカタルシスよりも事件に忠実であることを選んだということなのだろうか。闘うには敵が悪すぎるということなのかもしれないのだけれど、今でも黒人たちが圧倒的な白人の権勢に吐き気を催しているのは確かだろう。
被害者としてその夜をアルジェ・モーテルで過ごすことになったラリー(アルジー・スミス)は、その夜を境に人生が変わってしまう。モータウンのザ・ドラマティックスとしてこれから売り出そうというときに、その決定的出来事が起き、彼は二度とバンドに戻ることはなかったようだ。
ラリーが選んだのは地元の聖歌隊で歌うことだったけれど、彼の感じたような怒りをもっと前面に押し出していけば、後の世代にはラップのような攻撃的な音楽へとつながっていくことにもなるのかもしれないわけで、今のアメリカにもつながる作品となっているんじゃないだろうか。
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