『そして父になる』などの
是枝裕和監督の最新作。
主演は『そして父になる』以来のタッグとなる
福山雅治。

弁護士の重盛(
福山雅治)は友人の摂津(
吉田鋼太郎)に頼まれ、殺人の前科を持つ男・三隅(
役所広司)の弁護を引き受ける。三隅は解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけたことを認めている。勝ちにこだわる重盛にとっては、この事件に関わることは気が進まない。接見を重ねるたびに三隅の主張はころころと変わり、真実など興味もなかったはずの重盛も事件の真実を追い求めるようになり……。
◆事件のあらまし 最初から結末に触れてしまうけれど、この映画を最後まで見てもこの事件の全貌がわかることはない。三隅が「空っぽの器」のようだと称されるのは、空っぽだからこそ中身に何でも詰め込めるからだろう。三隅はサイコパスにも見えるし、世界の理不尽な選別に怒る正義漢にも、単なる人のいいおじさんにも見えるのだ。
三隅の最初の殺人は約30年前に借金取りを二人殺したというもの。この事件の裁判官であった重盛の父(
橋爪功)はそのときの判決を振り返って、あのとき死刑にしておけば今回の二度目の殺人は起きなかったと反省の弁を述べる。一方で社会のあり方が犯罪者を生み出すという考えが支配的だったとも語る。三隅は何らかの社会の歪みによって生み出されたモンスターだったということだろう。
二度目の殺人に関して後半になると明らかになってくるのは、殺された被害者の娘・山中咲江(
広瀬すず)が関わっているらしいということ。そして、咲江は殺された父親に性的虐待を受けていたことを重盛たちに告白する。咲江と親しい関係にあった三隅は計画的にその父親を殺し、咲江を虐待から救ったのかもしれないのだ。「空っぽの器」である三隅には何かしらの正義感が入り込んだかのようだ。裁判官であった重盛の父に手紙を出しているところをみると、彼の裁きによって生かされたことの意味を、自分の娘の姿とも重ねられる咲江を救うことに見出したのかもしれない。
ただ、こうしたことはすべて観客である私の推測だ。三隅が語るように、凡人である多くの人は物事を「いい話」として理解しがちだから、もしかすると真実は別にあるのかもしれないのだ。
◆3人の関係性 三隅が「空っぽの器」だとすれば、重盛もそうだろう。この作品は拘置所でのふたりの対峙が大きなウェイトを占める。繰り返される接見でふたりは次第に近づいていく。ふたりを真横から捉えた場面では、ふたりを遮るガラス板の存在はほとんど無化されて、ふたりの男は鼻をくっ付けんばかりの位置で見つめ合う。さらにその後の場面では、ガラスの映り込みのなかでふたりの顔が重ね合わされることになる。
重盛の空っぽさはかつて父親のような裁判官を目指していたのに、今では逆の立場である弁護士となっているところにも表れているし、検察官が重盛に放った「犯罪者が罪と向き合うことを妨げている」という言葉を自分のなかに吸収し、今度はそれを三隅に向かって投げかけるところにも表れているだろう。
3人が雪のなかで雪合戦に興じる妄想の場面では、最後に三人が並んで雪の上に寝転がる。ここでは三隅と咲江が「十字架の形」となっているのに対し、重盛は「大の字」となっている。これは三隅と咲江が何らかの罪を背負っているということなのだろう。三隅と咲江は共謀して咲江の父を殺したのかもしれない。
また、殺された男の返り血を浴びる場面もそれぞれに描かれている。頬に飛び散った血を、三隅は自分の身体の内側へと向けて拭いさるのに対し、咲江はそれを外側に拭い去る(これは予告編で確認できる)。咲江が降りかかる災難を払いのけるように罪を犯したのに対し、三隅は罪を自ら引き受けたようにも感じられる仕草と言えるのではないだろうか。さらに実際は犯行現場にいるはずもない重盛も返り血を浴びる妄想を抱くのだが、彼は三隅と同様に自分の身体の内側へと拭っている。これは三隅と重盛の立場が同じということでもあるのだろう。タイトルとなっている「三度目の殺人」とは、三隅が自らを死刑にするという結末のことであり、それは重盛の手助けがあって成り立ったのだから。
◆回想の嘘 裁判の行方は混沌とし、三隅は殺しは被害者の妻(
斉藤由貴)に頼まれたからと言い出してみたり、最後には殺人現場には行っていないと裁判の前提部分までひっくり返すまでに至る。これは「いい話」に解釈すれば咲江を守るためということになるわけだが、結局のところ「真実は藪の中」というところに落ち着く。さらにこの作品は返す刀で司法の問題点にまで踏み込んでいき、見どころは多いのだが、なぜだか釈然としない感じも残る。
作品の冒頭で三隅が男を撲殺し、その死体に火をかける場面が映し出される。神の視点から描かれたかのようなこの場面は、最初の前提となっている。しかし三隅は後半でこの最初の前提をひっくり返すことになる。神の視点かと思われた冒頭の場面は、三隅の証言(=回想)を映像化したものだったということになる。つまりこの作品は「嘘の回想シーン」から始まっていたことになる。
「嘘の回想シーン」は
ヒッチコックも
『舞台恐怖症』という作品で試みていて、それを失敗だったと断じている。
「奇妙なことに、映画のなかである人物が嘘の話をしても、観客はごく自然にうけいれる。あるいはまた、ある人物が過去の話をするときに、それがまた現在起こっているかのようにフラッシュ・バックで描かれても、だれもふしぎには思わない。ところが、フラッシュ・バックで語られる内容が嘘だと観客はまるっきりうけつけない……」(『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』より)
何が問題なのかと言えば、映像として描かれることは観客にとって真実のように見えてしまうということなのではないか。「私が男を殺しました」と告白するだけならば、証拠はどこにあるのかとすぐには信じがたいわけだが、映像として観客の前に殺人事件が繰り広げられたならば、それが夢でもない限り真実らしいものとして受け入れられてしまう。だからそんな回想シーンが「嘘でした」とひっくり返されるのは観客としてはどうにも受け入れにくいものなのだ。
もちろん「嘘の回想シーン」をうまく作品に取り込んでいる
『羅生門』のような傑作もある。この作品の原作は
芥川龍之介の
『藪の中』だが、この小説ではある事件の当事者3人がそれぞれに異なる証言(回想)をすることになる。つまりは「真実は藪の中」ということだ。しかしこれを映像化するにあたって
黒澤明が追加している部分がある。それが当事者以外の木こりの証言だ。
『羅生門』では当事者3人がそれぞれに自分に「都合のいい話」を語ることになるのだが、それはまるで見てきたかのように映像化されて観客の前に提示される。これはヒッチコックの言う「嘘の回想シーン」ということになる。単なる言葉だけではなく、映像として嘘が展開されると、それは観客には真実とも嘘とも判別することができないし、映像化されたものは真実らしいものとして受け取られることになる。しかし『羅生門』では嘘を並べて終わるのではなく、より客観的な木こりの証言を最後に提示することで真実らしきものを見せ、観客にもすんなりと受け取りやすいものにしていたとも言えるかもしれない(実際には木こりの話にも嘘は存在するのだが)。
『三度目の殺人』について言えば、「真実は藪の中」というよりも、すべてが嘘ばかりで観客自体も映画そのものに騙されているような気分になってくるのかもしれない。その感覚はラストで重盛がたたずむ十字路と似たようなものなのかもしれないのだけれど、やっぱりモヤモヤしたものを感じてしまう。






