『美女と野獣』 教育的で楽しめるミュージカル

 ディズニーの1991年のアニメ作品『美女と野獣』の実写版リメイク。
 監督は『ドリームガールズ』などのビル・コンドン
 主役のベル役には『ハリー・ポッター』シリーズや『ウォールフラワー』などのエマ・ワトソン

ビル・コンドン 『美女と野獣』 エマ・ワトソン演じるベルと野獣。アニメ版のダンスシーンを見事に再現している。

 アカデミー作品賞にまでノミネートされたという1991年のアニメ版のほうは観ていないのだけれど、本作はアニメ版がかなり忠実に再現されているようだ(両バージョンを比較した動画が参考になる)。原作のイメージを膨らませて大胆にデフォルメされたアニメ版の野獣のイメージを、そのままそっくり実写版で再現するだけの技術が確立されたということなのだろう。
 ちなみに1946年のジャン・コクトー版は高い美意識に貫かれている作品ではあるけれど、その野獣の姿は人間がマスクをかぶっただけのようにも見えてしまうし、燭台や時計が動き出して歌い出すなんてこともなかったわけで、『ジャングル・ブック』などと同様にCGの格段の進歩に改めて感心した次第。

 コクトー版のモノクロで格調高いイメージとは違い、本作の野獣(ダン・スティーヴンス)はどこか茶目っ気が感じられるし、作品全体もちょっとだけコミカルな要素も混ぜ込んでいて、誰にでもわかりやすく楽しめる賑やかなミュージカル作品となっている。主人公であるベルも、それを演じたエマ・ワトソンのノーメイクのそばかすもあって、2014年のレア・セドゥ版の艶っぽいベルとは違って、もっと親しみやすい印象になっていたと思う。
 それから実は最後まで気がつかなかったのだけれど、燭台から人間に戻ったルミエールはユアン・マクレガーが演じている。だからルミエールの歌った「ひとりぼっちの晩餐会」という曲はユアン・マクレガーの歌声だったということになる。あとになって聴いてみると確かにそうで、ユアン・マクレガーは先日の『T2 トレインスポッティング』に引き続いてまたもや美声を響かせている。

 この作品のテーマは「人を見かけで判断してはいけません」という教えなのだろうが、説教臭さを感じさせないエンターテインメントになっている。ちなみに本作では野獣の住むお城に黒人が多かったり、ガストン(ルーク・エヴァンス)に従うル・フウ(ジョシュ・ギャッド)の役柄がちょっと同性愛者のようにも感じられる(それほど露骨ではないのだけれど)。
 某国では検閲によって同性愛っぽいシーンをカットしたところ、ディズニーは本作の公開を見送ることにしたとのことで、人種差別や同性愛に対する偏見に対して多様性を認めようというのがディズニーの考えらしい。子供たちが本作を観てもそんなことを感じたりはしないだろうが、自然に多様性という考えが刷り込まれていくかもしれないわけで、まったくもって教育的な作品と言えるだろう。



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Date: 2017.04.23 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『午後8時の訪問者』 何がジェニーに起ったか?

 『ロゼッタ』『サンドラの週末』などのジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の最新作。
 原題は「La fille inconnue」「見知らぬ女の子」といった意味らしい。
 この作品でもダルデンヌ兄弟作品の常連役者があちこちに顔を出している。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『午後8時の訪問者』 女医のジェニー(アデル・エネル)は診療時間を過ぎて鳴らされたベルを無視したことで、助けられたかもしれない命を救えなかったことに悩む。


 ある夜、診療時間を1時間も過ぎたころに鳴ったベルを、女医のジェニー(アデル・エネル)は無視してしまう。翌日、ベルを無視したことでひとりの女性が亡くなったということを知らされる。ジェニーはもしかすると助けられたかもしれない命を見過ごしてしまったことに思い悩むことになる。

 ジェニーは優秀な医者だ。診療所に現れる患者は様々な問題を抱えているけれど、医者は冷静に病状を判断して対処しなければならない。それだけに患者の痛みにあまりに繊細に反応してしまう研修医(オリヴィエ・ボノー)のことが心配でもあり、プロフェッショナルとしての対応を見せようとする。そんな事情が診療時間を過ぎてからのベルを無視するという結果を招き、それによって助けられたかもしれない命は喪われることになる。
 診療所の監視カメラには見知らぬ黒人女性が助けを求めるようにベルを鳴らす姿が捉えられていた。彼女は何から逃げようとしていたのか。ジェニーは亡くなった女性のことを独自に調べ始める。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『午後8時の訪問者』 ジェニーは亡くなった女性について調べることになるのだが……。常連のオリヴィエ・グルメも顔を出す。

◆主人公を追い続けるカメラ

 ダルデンヌ兄弟の作品では、最初から最後までカメラが主人公の姿を追い続けていくことになる。たとえば『ロゼッタ』では貧困のどん底にあえぐロゼッタがどうやって生きていくかが追われることになるし、『息子のまなざし』では息子を殺された父親がその犯人と出会ってしまったことで生じる葛藤を追われていく。前作『サンドラの週末』では、職を失うことになるかもしれないサンドラが、助けを求めて同僚たちを説得しに回る姿が追われることになる。
 カメラは主人公の姿を延々と追い続けるわけで、観客の興味は主人公がどうやって事態を乗り越えるのか、あるいは破滅するのかといったところに向かうし、観客は常に主人公に寄り添うことになるために主人公に対する共感の気持ちも生まれるだろう。
 しかし『午後8時の訪問者』のジェニーの場合は事情が異なる。カメラはジェニーを追い続けることになるわけだけれど、観客の興味としては亡くなった女性が一体何者だったのかという点にある。つまり、ジェニーは観客の視点の役割は果たしているけれど、観客の共感の対象とはなりづらい位置にいるのだ。
 ジェニーは事情を探り始めるけれど、ジェニー自身が切羽詰った状況にあるわけではないし、亡くなった女性の秘密を明らかにする探偵のような役割になってしまっている。探偵が活躍する推理小説では、探偵自身に対する興味よりも事件の謎のほうに興味が向くのは当然で、本作でも亡くなった女性の謎が明らかになるにつれて、ジェニーの役割が減じていくように見えるのだ。

◆手法に対する執着が空回り?
 ジェニーがあちこちを嗅ぎ回ってわかってくるのは、亡くなった女性が街娼をしていたという事実だ。さらに娼婦との関係があった街の人々の後ろ暗い事情も明らかになってくる。黒人女性は移民であり、彼女の稼ぐ金で生計を立てている移民仲間の存在もほのめかされる。
 ダルデンヌ兄弟がインタビューなどでも語っているように、ジェニーと移民の関係は、ヨーロッパと移民の関係を示している。開かれることのなかった診療所のドアは、移民に対してヨーロッパが閉ざされているということになる。
 ちなみにダルデンヌ作品ではすでに『ロルナの祈り』において移民が主人公となっている。こちらの作品では観客は常にロルナのそばに寄り添うことになり、その切羽詰った状況に同情し、彼女を応援するような気持ちにもなる。しかし『午後8時の訪問者』では、移民の問題が浮かび上がってきても、主人公のジェニーとはほとんど無関係とも言える。もっとも移民という問題自体が、そうした無関心によって存在しているとも言えるわけだけれど……。

 主人公にカメラが寄り添うという手法を選択するのだとしたら、移民の問題が浮かび上がってから、ジェニーがそれまでのキャリアを捨てて患者に寄り添う診療所医師のほうを選択するという展開にしたほうがよかったのかもしれない。作品の中盤あたりでジェニーはプライベートな生活を捨てて診療所内で生活し始める。ここではジェニーのまるで菩薩のような生真面目さは感じられるのだけれど、最後に明らかにされるいくつかの打ち明け話がジェニーに対して決定的なものをもたらすわけではないために、主人公がただの視点人物に成り下がり、いささか共感に欠ける作品となってしまっているようにも思えた。

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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌのその他の作品
Date: 2017.04.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『グレートウォール』 戦隊ヒーローものとして観れば楽しめる

 『HERO』などのチャン・イーモウ監督の最新作。
 中国・アメリカ合作となっていて、チャン・イーモウにとっては初のハリウッド進出とのこと。

チャン・イーモウ 『グレートウォール』 ウィリアム(マット・デイモン)は弓矢の名手。


 黒色火薬を求めて中国へとやってきたウィリアム(マット・デイモン)は、馬賊に追われて逃げ惑ううちに万里の長城にたどり着く。長城を守る禁軍に捕らわれることになるウィリアムだが、そこで饕餮(とうてつ)というバケモノが襲ってくる場面に遭遇することになる。

 万里の長城は異民族の侵入を防ぐためにつくられたとどこかで習ったような気がするのだが、とすれば本作のなかで60年に一度襲ってくる饕餮というモンスターはそうした夷狄(野蛮人)の一種ということになるのだろう。といっても饕餮の見た目は狛犬か何かのような獣の類いに見える(本作はファンタジーである)。中国人にとっては西洋人もそうした野蛮人と一緒で、中国人は仲間に対する“信頼”というものを理解するが、西洋人であるウィリアムはそれを理解しないことになっている。
 一応の主人公はウィリアムということになっているけれど、彼ら西洋人は野蛮な輩で、当時の先進国である中国から火薬という武器を盗み出そうとする取るに足らない人物として描かれている。そんなウィリアムがリン司令官(ジン・ティエン)たちとの共闘のうちに、中国人から“信頼”というものを学ぶという点では中国を礼賛する映画とも言える。

 本作がアメリカでこけたのは、本作がハリウッド的娯楽作のダメな模倣と受け取られたのかもしれないけれど、長城を舞台にした饕餮との闘いはなかなかおもしろかった。壁の上に陣取って防御する禁軍に対し、『ワールド・ウォーZ』のゾンビ並みの群れで襲撃してくる饕餮たちとの決死戦は楽しめた。饕餮のビジュアルが酷いとか色々とツッコミどころも多いのだけれど、バンジージャンプ方式で攻撃する鶴軍とか、壁の間からデカいハサミで饕餮をちょん切るとか、様々なスペクタクルを見せてくれる。

『グレートウォール』 戦隊ヒーローものみたいな出で立ち。

 チャン・イーモウは監督デビュー作『紅いコーリャン』などでも色彩に凝った画づくりをしていて、本作はかつてのような文芸作品といったものからはかけ離れているけれど、禁軍は部隊ごとに武具の色使いを変えて遊んだりもしている。ブルーを基調にした女だけの鶴軍の見映えなどは戦隊ヒーローものっぽい感じもするのだけれど、戦隊ヒーローものとして金もかかっているし、動員されているエキストラの数も桁外れだ。
 北京オリンピックの演出まで手がけたチャン・イーモウは、中国での超大作を任される立場にあるようだ。一方では『妻への家路』(2015年)のような地味な作品もつくったりもしているわけで、この作品も中国映画界のために一肌脱いだということなのかもしれない。

 チャン・イーモウ作品からはコン・リー(『紅いコーリャン』『紅夢』など)やチャン・ツィイー(『初恋のきた道』など)が輩出された。この作品ではジン・ティエンが一押しのヒロインとして登場する。最近の『キングコング:髑髏島の巨神』でも、髑髏島まで行って何とか生還するもののほとんど顔出しだけといったわけのわからない役を演じていたジン・ティエン。同じ製作会社(レジェンダリー・ピクチャーズ)が関わっているだけに、予告編みたいなものだったのだろうか。
 ほかにもアンディ・ラウウィレム・デフォーなどの大物も顔を出すのだけれど、使い方が結構もったいない。猿ぐつわをかまされたまま最期を迎えるウィレム・デフォーの表情はちょっと笑えたのだけれど、なぜウィレム・デフォーがこんな役柄を引き受けたのかは大いに謎だった。

チャン・イーモウの作品
Date: 2017.04.15 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『T2 トレインスポッティング』 同病相憐れむ?

 1996年に公開された『トレインスポッティング』の20年ぶりの続編。
 監督ダニー・ボイル、脚本ジョン・ホッジ、原作アーヴィン・ウェルシュ、そしてキャスト陣も前作の面々が顔を揃えている。

ダニー・ボイル 『T2 トレインスポッティング』 ポスターのイメージも前作を受け継いでいる。

 前作の彼らは本当にどうしようもない連中だった。イギリスの支配下にあるスコットランドを罵倒しつつ、そんな場所で生きていくための健全な選択としてヘロイン中毒となり、赤ん坊や仲間まで見殺しにしつつもすべてを忘れて酩酊状態に陥るというクズっぷり。それでいて語り部のレントンが腐れ縁の仲間たちを出し抜きクソまみれな状況から抜け出すというラストでは、ちょっとだけ希望を感じさせてしまうという不思議な作品だった。そして、センスのいい音楽とシャレたポスターのイメージで大ヒット作となった。

 あれから20年、レントン(ユアン・マクレガー)はスコットランドへと戻ってくる。元シック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)は恐喝まがいのことをしているし、スパッド(ユエン・ブレムナー)は妻と子供から見放され自殺まで図る(スパッドは前作でこっそり分け前をもらったのにかえって逆効果だったらしい)。さらには乱暴者のベグビー(ロバート・カーライル)は予想通り刑務所にいる。
 20年ぶりのスコットランドには変わった部分もあるし、まったく変わっていない場所もある。けれども人は一様に歳をとるわけで、彼らは病気を抱えたり、頭髪が寂しくなったり、勃起不全に陥ったりで、要はみんなオヤジとなっている。しかし、ただ老けただけで立派な人間になったわけではなかったようだ。
 一応は前作で亡くなった赤ん坊やトミーについても言及され、少しは悔恨の表情を見せるもののレントンとサイモンはヘロインに手を出すし、脱走したベグビーは息子を前に反省したりもするものの暴力衝動は抑えることができない。結局ほとんど成長してないというのが彼ららしいところだ。

 一番ツボだったのはプロテスタントたちの集会に紛れ込んで盗みを働き、即興で「ノー・モア・カトリック」とぶちまけて喝采を浴びるというエピソード。町山智浩の解説によれば、この集会はユニオニストというイギリスとの統一を望む人たちの集まりとのこと。レントンは前作でもイギリスの子分となっているスコットランドについて愚痴っていたわけで、敵陣のなかに入り込んでそれをおちょくる毒気がいかにもイギリス映画っぽい。レントン役のユアン・マクレガー『ムーラン・ルージュ』でも聴かせた歌声を披露して楽しませるし、ちょっと悪ノリの感もある編集もあって笑わせる場面になっている。

前作『トレインスポッティング』のときのレントンたち。死んでしまうトミーもいる。みんな若い!!

『T2 トレインスポッティング』 前作と同じ場所にトミーを弔いにきた3人。

 前作では語り部のレントンが「Choose your future. Choose life.」などと人生訓めいたものを語るところがあった。この台詞は麻薬撲滅キャンペーンとして使われていたものをレントンが冗談めかして使っていたものらしい。本作でもその2017年版とも言えるバージョンが登場することになる。
 レントンの言葉はもちろん前作のほうが威勢がいい。というのは前作のときにレントンの目の前にあったのは「これからの人生」だったわけだが、本作においては「これまでの人生」を振り返ることになるからだ。様々な選択をしてきたあとで、その結果がどうにも惨めなものとなっただけに歯切れがよくないのだ。
 それでもちょっとだけ救いがあったのは、そんなレントンの言葉がスパッドを立ち直らせるところだろうか。俺たちはヘロイン中毒だったけれど、誰でも何かに依存しているじゃないか。そんなレントンの開き直りは意外にも核心を突いていて、スパッドは自分たちの過去を小説にするという、ヘロインに代わる嗜癖(addiction)を見つけることになる。
 考えてみれば誰にもそんなaddictionがあって、レントンたちにはもちろんヘロインがあり、ベグビーには暴力衝動があり、それが良くも悪くもその人の生きる糧になっていた。ほかにはサッカーに入れ込む人もいるだろうし、SNSにはまる人もいるし、仕事中毒という人だっているのかもしれない。そう言えばサイモンは前作のときはショーン・コネリーに夢中だったけど、本作ではそれは忘れられたようで、時代と共にaddictionも変わっていくのかもしれない。

 前作を観たのは昨年閉館したシネマライズだったのかはちょっと思い出せない。20年も前となるとそんなものだろう。当時は渋谷にもよく行っていたのでシネマライズだったのかもしれないし、二番館の早稲田松竹とかギンレイホールとかの二本立てで観たのかもしれない。とにかく何とも懐かしい想いで4人の姿を追っていたのだけれど、それを観ている自分もあまり変わっていないということもまた感じることになり、身につまされるところもあった。
 そのころから自分にとっては映画が一種のaddictionだったと思うのだけれど、今になってもこんなブログなんてやってみたりと、ほとんど成長もしないというのが何とも歯がゆい気分で、前作を観たときの高揚感とは別のものを感じざるを得なかったのだ。それでも『T2 トレインスポッティング』のちょっと苦々しい感じを嫌いになれないのは、やはりレントンやベグビーのように観る側の自分も歳をとったということで、同病相憐れむといった気持ちになるからなのだろう。
 何だかんだと言いつつも前作を楽しんだ人は絶対に楽しめる作品になっているし、前作同様サントラも手に入れたくなることは間違いないと思う。

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Date: 2017.04.12 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『はじまりへの旅』 頑固ジジイになるよりは……

 監督のマット・ロスは、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞に輝いたとのこと。
 原題は「Captain Fantastic」

マット・ロス 『はじまりへの旅』 父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と子供たちは亡くなった母親の葬儀へ出席するため山を下りる。

 現代社会から隔絶した山のなかで自然と一緒になった生活をしつつ、独自の訓練に明け暮れるちょっと変わった父親とその子供たちを描いた作品。
 「愛するが故に今のアメリカは見ていられない」とジャングルに新しくアメリカを創造しようとする『モスキート・コースト』によく似ているけど、『はじまりへの旅』の父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)はどこかで元の社会を意識しているように見える。『モスキート・コースト』の父親がほとんど何も持たずにジャングルへと向かったのと比べると、ベンは本や音楽などの教養に関しても、アスリート並みの身体能力についても、自分の子供たちが街中で暮らしている人以上であることを誇りにしているようでもあるからだ。
 ベンは有名な育児書の著者であるスポック博士に関する論文を書いていたこともあり、教育に関しては一家言を持つようで、子供たちへの教育も独自の理念に基づいている(それが一般的な社会に適合するかはともかくとして)。読書の感想にはあらすじではなく独自の考察を、権利章典を暗唱するだけではなくその意義を説明せよ、そういったベンの教育方針は実際に子供たちにものを考える力を植えつけることだろう。
 しかし山のなかの生活でそれが役に立つのかというと疑問もある。時代的にはズレがあるような気もするけれどヒッピー的な雰囲気もあるベンだから、そうした信条からの山ごもりなのかと思いきや、そもそものきっかけは奥さんの病にあったらしい。ベンは自信満々のようでいてブレがある部分もあるようだ。

『はじまりへの旅』 ベンたちは山のなかで自給自足の生活をしている。

『はじまりへの旅』 子供たちは優秀だがとても素直でかわいらしい。

 結局奥さんは躁うつ病のせいで自殺することになってしまうが、そのことが再びベンとその子供たちを社会に触れさせるきっかけになる。そして、子供たちは自分たちの暮らしがとても普通ではないことに気づいていくようになる。ハーバード大学にも合格した長男(ジョージ・マッケイ)も、女の子とのコミュニケーションのことは何も知らずに痛い目を見ることになる。

 奥さんの遺した言葉のなかにはプラトンの“哲人王”というキーワードがあった。これはプラトン『国家』において説いた理想国家の形に由来している。哲学を学んだエリートが支配する社会が最も理想的であるという考えだ(プラトンの後期には否定されるらしいが)。けれどもそんな“哲人王”も山のなかにいつまでもこもっていては何の意味もない。どこかで山を下りて社会と交わる必要が出てくるのは当然のことなのだろう。
 だから子供たちが社会とのつながりを欲したときに、ベンは自分の間違いを認めて妥協した道を行くことになる。ブレがあるというのはある意味では柔軟でもあるということであり、頑固ジジイにならなかったのは作品の展開としてはインパクトには欠けるけれど、人間的には真っ当なあり方だったように思えた。

 母親の弔いのために歌われるのはGuns N' Roses「Sweet Child o' Mine」だが、母親が好きだった曲として聴くと、母親が子供たちを想って歌っているもののように聴こえてくる。もとは恋人のことを歌った曲だったのだろうと思うのだけれど、独自のアレンジもあってまったく解釈が異なるものとして聴こえた。
 それから権利章典の意義を語る子供なんてこましゃくれたガキのように思えるけれど、本作の子供たちはみんな厭味がなく微笑ましく見ていられるところがよかった。



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Date: 2017.04.08 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『ムーンライト』 たまたま同性だった?

 前評判の高かった『ラ・ラ・ランド』を抑えての第89回アカデミー賞作品賞を獲得した作品。
 監督は本作が長編2作目だというバリー・ジェンキンス

バリー・ジェンキンス 『ムーンライト』 3人の役者が3つの時代のシャロンを演じる。

 たとえば『それでも夜は明ける』のように人種差別に喘いでいたりとか、『ストレイト・アウタ・コンプトン』に描かれたヒップホップスターのような黒人のイメージしかない見聞の狭い人間としては、『ムーンライト』に描かれるシャロンの姿は新鮮なものにも感じられた。うつむき加減で内気な黒人がいてもおかしくはないはずで、観る側の勝手なイメージを黒人に押し付けてしまっているわけだが、本作の主人公はよくある型にはまった黒人像とは違っているように思えた。
 本作ではシャロンの成長が3つの時代に分けて描かれる。まず気がつくのは白人がほとんど登場しないことだろう。舞台となるマイアミが実際黒人だらけなのかはわからないけれど、シャロンの周囲には白人の姿は見えず人種差別の問題は表立っては出てこない。ただシャロンは少年時代にも高校時代でも“オカマ”と言われていじめの対象になっていて、次第にセクシャリティの問題が前面に出てくることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『ムーンライト』 黒人の肌は月明かりでブルーに輝くという。シャロンがリトルと呼ばれていた時代。

 ラストから振り返るとすると、シャロンとその友人ケビンの純愛の話のようにも思えるのだが、果たして本作が同性愛の話だったのかは疑問にも感じられた。もしかするとヘテロセクシャルの鈍感さが本作の繊細な部分を感じとれないことによるのかもしれないけれど……。

 シャロンの母親(ナオミ・ハリス)は麻薬中毒者であり、シャロンはいつもネグレクト状態にあった。学校でも自宅でも居場所がなく、たまたま逃げ込んだ廃墟で出会ったのがフアン(マハーシャラ・アリ)であり、シャロンは以後フアンのことを父親のように慕うことになる。その後、成人したシャロンの姿はフアンそっくりであり、明らかにフアンになりきろうとしている。
 ただ一方ではフアンは麻薬の売人でもあり、シャロンのネグレクトの原因でもある麻薬を母親に売りつけている張本人である。子供時代のシャロンはそんなフアンに疑問を投げかけるのだが、フアンはそれに答えることができない。シャロンにとってフアンは屈折した感情を抱かざるを得ない人物だったはずだ。それでもシャロンはそんなフアンになりきり、同じように売人を生業とすることでしか、その後の人生を生き抜くことができなかったということだ。
 シャロンの世界はごく限られたものであり、彼の前に開かれた可能性も大きいものとは言えない。彼の周りにはフアンとその妻を除けば、ケビンくらいしか親身になってくれる人がいないのだ。シャロンの同世代の登場人物がケビン以外には男も女も出てこないのは、シャロンの世界の狭さを示しているようにも思える。そんな意味では、シャロンのケビンに対する想いは、たまたま優しく手を差し伸べてくれた人が同性だっただけとも言えるのではないか。セクシャリティを自分が選択できるのか否かという問題は別としても、シャロンにはケビンしかそうした対象がいなかったのかもしれないのだ。いつまでもそのことを胸に秘めていたというラストの告白は、だからこそ何とも切ないものに響いた。
 大人になって筋肉の鎧を身につけたシャロンだが、それは黒人に備わる先天的なものではなく、日々の鍛錬によって獲得したものだったようだ。シャロンは生きるためにそうした肉体によって虚勢を張らなければならなかったということであり、その中身はいつまでもリトルと呼ばれていた時代のままなのだろうと思う。

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Date: 2017.04.06 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『キングコング:髑髏島の巨神』 王者らしい闘いっぷりを堪能する

 監督は新鋭のジョーダン・ヴォート=ロバーツ
 原題は「kong:Skull Island」
 1933年の特撮映画の古典とされる『キング・コング』以来、何度も映画化されてきたキングコングものの最新作。

ジョーダン・ヴォート=ロバーツ 『キングコング:髑髏島の巨神』 いかにも怪獣映画といった感じのポスター。

 一応の主人公がコンラッド(トム・ヒドルストン)という名前であったり、ヘリコプターの編隊飛行の豪華さにも、『闇の奥』とそれを元にした『地獄の黙示録』を感じさせる始まり。そして、闇の奥で何に出会うかといえば、今まで人類が目にしたこともなかった怪獣たちだ。
 ゴングの見上げるような大きさは迫力満点だし、トカゲやタコなどのバケモノは日本のアニメにも影響されているとかで、オタクテイストも満載のキャラがわんさかと登場して楽しませる。怪獣同士の闘いは一種の異種格闘技みたいで、どんな闘いになるのか予想もつかないだけにワクワクさせるものがあったと思う。

 そんな場所に迷い込んだ人類はかなり分が悪いわけで、あっという間に人間たちは怪獣の餌食になっていく。それでも人類が勝手に髑髏島に乗り込んで行ったのだから仕方ない。政府特殊機関「モナーク」のランダ(ジョン・グッドマン)は、かつて仲間を殺されたことの敵討ちとして髑髏島の怪獣たちに闘いを挑んだのだ。
 さらにパッカード大佐(サミュエル・L・ジャクソン)が事態を悪化させる。彼はベトナム戦争が終わってしまったことを寂しく感じているようでもあり、コングに仲間を殺されたことの怒り以上に、狂気のように闘うことを求めているようにも見える。やはり男たちは闘うことが好きなのかもしれないとも思うし、観客としても血湧き肉躍るといった感じで単純に楽しかった。

『キングコング:髑髏島の巨神』 美女役ウィーバー(ブリー・ラーソン)は胸を強調した衣装で男性客を楽しませる。

 オリジナルの『キング・コング』(1933年)でもそうだったけれど、このシリーズでは野獣が美女に骨抜きにされてしまうという構図があるようだ。しかし、『キングコング:髑髏島の巨神』のコングはそんなことはなかった。いかにも島の守り神らしく闘いに明け暮れ、美女役ウィーバー(ブリー・ラーソン)を救うことはあっても執着することもなく、すぐに背中を見せて去っていくあたりが男の美学みたいなものを感じさせなくもない。
 コングの武器は身ひとつしかないわけだけれど、手強い怪獣たちと闘っているうちに道具を使うことまで覚える。巨大だけれど類人猿の仲間だと思われるコングは、自分の島に害をなす人間とそれ以外を見分けてもいるわけで、それなりの知能があるのだろう。
 コングが丸太を抱えたときには、『北斗の拳』のケンシロウが雑魚たちの前で構えたような決めポーズでもやるのかと思ってちょっとドキドキした。もちろんそんなことはしなかったけれど、道具まで使うようになったコングはまさに無敵の強さで頼もしかった。さらにコングはこの作品ではまだ成長過程であるとも言われていて、“キング”とまでは呼ばれていないのだけれど、夕日を背負った堂々たる姿は王者にふさわしい風格だった。
 ちなみに本作は「モンスターバース」というシリーズの第2弾となる作品とのこと。第1弾がギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』ということで、ゴジラなどほかの王者の存在がほのめかされることになるエンドロール後のおまけもあるのでお見逃しなく。

キングコング諸作品
Date: 2017.04.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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