『パッセンジャー』 すべてのことには理由がある?

 監督は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』などのモルテン・ティルドゥム
 主演はジェニファー・ローレンスクリス・プラット

モルテン・ティルドゥム 『パッセンジャー』 オーロラ(ジェニファー・ローレンス)とジム(クリス・プラット)のほとんどふたりだけで物語は展開していく。


 植民惑星へと移住するために宇宙船アヴァロン号に乗っていたジム・プレストン(クリス・プラット)は、機械の故障なのか間違って90年も早く起きてしまう。クルーたちも眠ったままで、冬眠装置に戻ろうとしても無駄とわかり、このままでは船が目的地に着く前に死んでしまうという驚きの事態にジムは愕然とする。


 ※以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意! 


 出だしは悪くないし、舞台設定の宇宙船の造形には金がかかってそうに見える。ただ予告編ですでにもうひとりの登場人物がいることは示されているわけで、いつその女性が登場するのかと気になりつつ物語は進む。
 「宇宙でひとりぼっち」という『オデッセイ』あたりを思わせる設定なのだが、『パッセンジャー』は地球に帰ることはできそうにないわけで、あとはそれなりに船内で楽しむくらいしかやることがない。バーテンをしているアンドロイドのアーサー(マイケル・シーン)との会話はそれなりの気晴らしにはなるけれど、それも1年も続けば気が滅入るわけで、ジムはよからぬことを考え出す。

 SFの設定が何らかのメタファーとして機能しているというのであれば、無理のある設定も納得がいくのかもしれないのだけれど、5000人の乗客のなかでただ一人先に目覚め、どうしもなく孤独になって気に入った女性を目覚めさせてしまうという展開は特殊すぎて何のメタファーにもなっていない。
 というかジムは船内では目的地に着くまでの90年間は神のように振舞えるわけだから、暴君として君臨してもよかったはずなのだけれど、それではジャンルが違う映画になってしまうわけで、ジムは人がいいからかそんな展開にもならず、ラブ・ロマンスといつもの自己犠牲によるトラブル回避といったハリウッドお約束の映画となっていく。

 結末から考えればふたりがいたことで宇宙船は危機を乗り越え、5000人もの命を救ったことにはなったわけだけれど、ジムが最初に選ばれたのは結局偶然にすぎないようだ。個人的にはここに一番驚いた。チラシなんかにも「2人だけが目覚めた理由は1つ」などと煽っているのに……。オーロラ(ジェニファー・ローレンス)が目覚めたのはジムからの一方的な愛とか言うのかもしれないけれど、そもそもの初めが偶然というのでは、「理由などない」と言っているに等しいわけだから。

 一方でジムに選ばれてしまったオーロラだが、何も知らない間は幸せな時間を過ごすことになるのだが、真実を知ると怒り狂う。たとえばオーロラを選んだのが神だとしても文句ぐらいは垂れるだろうし、それが一介の技術者では上流階級らしいオーロラには不満足ということだろう。アダムとイヴが互いのことを自らに釣り合うような異性ではないなどと考えることもなかったのは、ほかに比べる相手もいなかったからで、オーロラには可能性がいくらでもあっただけに余計に悔しいということだろう。
 一応は最後でオーロラがジムを選び直すことで、ふたりはめでたくゴールインということになるのだろうが、単なる偶然に支配された物語を必然のものとして受け取るほど説得力があったとは思えなかった。
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Date: 2017.03.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (11)

『哭声/コクソン』 信じた者にはそう見えてしまう

 『チェイサー』『哀しき獣』ナ・ホンジン監督の最新作。
 よそ者の日本人役を演じる國村隼は、韓国の映画賞・青龍映画賞で外国人俳優として初受賞となる男優助演賞と人気スター賞のダブル受賞を果たしたとのこと。

ナ・ホンジン 『哭声/コクソン』 韓国人俳優に交じって國村隼がインパクトを残す。クレジットでは一番最初に名前が。


 警察官ジョング(クァク・ドウォン)の住む韓国の平和な村で一家惨殺事件が起きる。ある男が狂ったように自らの家族に手をかけたのだ。犯人には湿疹ができ、目はうつろ、正気を失っているように見える。ジョングは捜査のなかで山に住む日本人のよそ者(國村隼)の噂を耳にするのだが……。

 凄惨な事件からスタートしたこの作品だが、主人公のジョングの風貌からかのんびりした雰囲気が漂う。事件の原因としては一応毒キノコが挙げられ、それによって幻覚を見た犯人が凶行に及んだのではないかとも説明される。しかし毒キノコだけでそんな事件を起こすだろうかという疑念もあり、村に住み着いたよそ者の日本人が事件に関わっているのではないという憶測が飛び交うようになる。
 殺人事件の捜査から始まる物語は、祈祷師イルグァン(ファン・ジョンミン)と悪霊とされたよそ者との対決の様相を呈するのだが、そこに事件の目撃者ムミョン(チョン・ウヒ)という女も加わって、誰が善で誰が悪なのか二転三転する展開で観客を煙に巻いていく。自分が見ているものが何なのかといった幻惑感は滅多にない感覚だったように思う。


 ※ 以下、ネタバレもあり!

『哭声/コクソン』 祈祷師イルグァン(ファン・ジョンミン)とよそ者との祈祷対決が中盤の見どころ。

◆様々な解釈あるいは矛盾
 最終的にたどり着いたところから見ていけば、ムミョンは村の守護神のような存在で、祈祷師イルグァンはジョングの娘を苦しめている悪となり、よそ者は祈祷師とグルとなっているといる可能性もある。そうしたなかで警察官のジョングはムミョンとイルグァンの間で揺れ動くものの、自ら悲劇を招いてしまうことになる。
 しかし結末を見てもなお、その結末を信じていいのかわからないような気分で、様々な解釈が考えられそうでもある。さらにどんな解釈に立ってもどこかに矛盾が生じるようにも思える。

 『哭声/コクソン』の冒頭ではルカによる福音書の第24章の一部が引用されている。これはイエスが復活したのに、そのことに誰も気がつかないというエピソードになっている。イエスの噂話をしている人々は、通りかかったイエスと話をしているにも関わらずイエスとは気がつかないし、もしくは気づいたとしても亡霊だと勘違いする。そこでイエスはこんなふうに語る。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」と。
 このイエスの言葉は見たままを信じなさいということだ。イエスは一度死んで復活した。そのイエスが目の前に実体としてあるのだから、復活をそのまま信じなさい。イエスがわざわざこんなことを言うのは、信じていないものは見えないからでもある。つまり、一度死んだ人が復活するということを信じられない人は、イエスが目の前に居てもそれに気づくことはないのだ。信じているものが違う人にとっては、世界は別様に現れるということであり、この作品に矛盾があると感じられるとすれは、それは視点となる登場人物の信じるものが異なるからなのかもしれない。

◆それぞれの世界
 この作品で最初にジョングがいる世界は、世俗化された社会で殺人事件の原因は科学的に実証できるものとして示される(つまりは毒キノコによる錯乱)。しかし、ジョングは娘の身体にも発疹ができていることを知ることで、それ以外の原因を探り始める。
 映画の中盤で祈祷師イルグァンが山を越えてやってくるあたりで、映画のジャンルが変わったような気がするのはそれまでの世俗化された世界から祈祷師たちが活躍する呪術的世界へと移行していくからだろう(雰囲気も陰鬱さを増していく)。イルグァンの登場によって世界は一変し、呪いによって人が支配される世界となる。そして映画のジャンルはオカルトとなり『エクソシスト』的な対決が描かれる。

『哭声/コクソン』 ある村人が見たよそ者の姿はこんな巨大化したバケモノとして見える。
 
◆よそ者とは何者か?
 この作品のなかで一番謎を秘めているのはよそ者の日本人だろう。というのは、よそ者はそれを見る人によって様々な姿となって現れるからだ(見られる存在であるよそ者は見る人の主観で様々な姿に見えるわけだが、よそ者自身がカメラで村人を撮影するのは、自分が客観的な視点を持っていると示そうとしているのかもしれない)。
 日本人を怖いものだと信じ込んでいる村人には、よそ者はシカ肉を生のまま喰らう赤鬼のように見える。そしてキリスト教の見習い神父にとってはサタンのようにも見える。とはいえ、よそ者が実際のところ何をやっているのかははっきりしない。中盤の見どころでもある祈祷対決は、イルグァンが「殺」を送っていたのはジョングの娘であり、よそ者が狙っていたのは別の村人である。それでもその村人を助けようとしていた可能性も残り、よそ者は善か悪か判然としないのだ。
 それは最後にキリスト教の見習い神父がよそ者と対峙する場面にもよく表れている。この場面のよそ者の手の平には聖痕がある。この時点では、見習い神父にとってよそ者は多くの人には誤解されているかもしれないけれど、どこかに聖なるものを感じさせていたものと思われる。それでも対話のなかで見習い神父のなかの疑念が増幅されていき、よそ者はサタンの姿へと変貌を遂げてしまう。

 先ほどルカによる福音書についての部分では「信じていないものは見えない」と書いたが、これを逆に言えば「信じた者にはそう見えてしまう」ということでもある。見習い神父はよそ者のことを悪だと信じてしまったからこそ、よそ者はサタンへと変わることになる。
 同じことは祈祷などの呪術そのものにも言えて、世俗的な社会に生きる人ならば、祈祷の類などは迷信にすぎないと思うだろうが、それを信じている者にとってはその力は実在するものとなる(実際に祈祷によって治癒する病もあるのだろう)。祈祷師が言っていた「餌に喰らいつく」というのは、ジョングの娘が呪術の力を信じてしまったということであり、だからこそジョングの娘は何かに憑依されてしまう(「信じる者は救われる」ではなく「信じる者は呪われる」)。呪術の力を信じてなければその力は発揮されないわけで、村の守護神ムミョンの力が祈祷師には効果てき面なのにジョングには効かないのは、ジョングが呪術の力を疑っているからだろう。

◆矛盾をそのまま提示する
 この作品では登場人物の信じるものによって、それぞれの世界は主観的に違ったものとして捉えられる。互いに矛盾した世界の現れが、そのまま作品を構築していくことになるために、すべてにおいて整合性のとれた解釈というものは無理ということになるのだろう。
 監督・脚本のナ・ホンジンはキリスト教徒とのことで、新約聖書の4つの福音書においても互いに矛盾した記載があるという事実にも影響を受けているのかもしれない。『福音書=四つの物語』という本によれば、福音書間の矛盾は福音書記者の立場の違いによるものとのこと。つまりは信じるものが違うためにイエスの物語においても矛盾が生じているということらしい。
 それはさておき、ジョングのような信念に欠けたのん気な人は、強烈な見方を提示する周囲の人に影響を受けやすい。ジョングは結局どっちつかずのままで悲劇を招いてしまったわけだが、そもそものきっかけはよそ者である日本人に対する偏った見方にあった。それも周囲の風評に流されてのことだったわけだけれど、ごく一般の人はそんなものかもしれないとも思う。私もこの映画を観ながらあっちへこっちへと揺さぶられながら、どれが正しい道なのかなどまったく見当もつかなかったわけだし……。

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Date: 2017.03.23 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『わたしは、ダニエル・ブレイク』 為政者の方々にはお薦めかと

 『ケス』『ジミー、野を駆ける伝説』などのケン・ローチ監督の最新作。
 カンヌ国際映画祭において、『麦の穂をゆらす風』以来の二度目のパルム・ドールを獲得した作品。
 
ケン・ローチ 『わたしは、ダニエル・ブレイク』 ダニエル(デイブ・ジョーンズ)とケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)の家族は貧しくても助け合うのだが……。


 還暦間近の大工ダニエル(デイブ・ジョーンズ)は心臓の病気で医者に仕事を止められてしまう。仕事ができないために国の援助を受けようとするのだが、煩雑な制度に阻まれていつになっても給付を受けることができない。同じように給付申請に来ていた子連れのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)も、約束した時間に間に合わなかったことを理由に門前払いされてしまう……。

 役所の四角四面の対応はあまりに凝り固まっていてかえって笑えてしまうほどだが、助けを求めにやってきた人々からすればジョークにはなりそうもない。ダニエルは医者に仕事を止められているにも関わらず、対応する職員はいくつかの質問だけで仕事をすることが可能だと判断し、仕事ができるのならば求職活動をしなければ給付は受けられないと言ってのける。
 職員たちは規程に則って仕事をしているのだろうが、本来の福祉の理念とはまったく相容れないことをやっていることに気がついていない。さらには偉くなったつもりにでもなってしまうのか、給付申請者の態度の良し悪しに文句をつけたりするばかりで、結局は個々の事情など聞くこともない。点数化された可否判定は本当に助けが必要な人を救うどころか、役所は何もしてくれないということを思い知らせ、申請を諦めさせるためにやっているようにすら見えてくる。
 最初は「勘弁してくれよ」と苦笑いだったダニエルも、言われたことをやらないと罰則が科せられるといった脅しめいた対応に無表情のまま去っていくことになる。ダニエルは呆れるのを通り越して静かに怒り狂っているのだ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』 ダニエルは自らの主張を壁に書き付ける。

 弱い者いじめのような役所の対応から比べ、ダニエルの周囲の人々は貧しくても助け合っている。ダニエルは2人の子どもを抱えたケイティの新生活を大工の腕を活かして支えてやることになるのだが、そもそも互いが役所に支援を申請するほど貧しいわけで、どうしてもやはり無理が生じる。ダニエルは家具を売り払って遣り繰りするし、ケイティは空腹にも子供たちの窮状にも耐えかねて身体を売るような仕事にまで手を出すことになる。
 貧しい人同士が助け合うのは悪くないけれど限界があるのだ。追いつめられたダニエルはほとんどやけっぱちのように壁に落書きをするのだけれど、自分が間違っていないということも感じているはずで、そこにはしっかりと自分の名前が署名されている。それはこの作品のタイトル『わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Blake)』にもなっている。(*1)包み隠すことなど何もなく堂々と名乗りを上げているのはそうした信念の表れだろう。
 そしてまたダニエルが訴えたかったのは、彼はたとえば社会保障番号とかに還元されたりする“何か”ではないし、いくつかの質問に答えて点数化されるような“何か”でもないということだからだ。ダニエルにはダニエルの尊厳があるし、ケイティにはケイティの尊厳がある。それはほかの誰とも違う固有名でしか示せないような“何か”にほかならない。だからこそ彼は「ダニエル・ブレイク」という署名でもってそれを訴えたのだ。

 ケン・ローチは前作『ジミー、野を駆ける伝説』で一度は引退を表明していたらしいのだが、それを撤回してまでこの作品に取り組んだのは、ダニエルのような人たちの怒りを放っておくわけにもいかないという義務感のようなものなのだろう。そうしたケン・ローチ自身の怒りにも関わらず、この作品は幾分の気負いも感じさせずユーモアを交えつつ静かな調子で進んでいく。そのあたりが妙にリアリティがある部分だったと思う。結末はシビアだけれど、それは現実がそうであるからにほかならない。

(*1) ケン・ローチには『マイ・ネーム・イズ・ジョー』という作品があるが、これはアルコール依存症の主人公の台詞から採られている。AA(アルコホーリクス・アノニマス)のグループセラピーでは身分とか社会的属性とかから離れた話し合いをするために、ファーストネームしか名乗らないのだとか……。

ケン・ローチの作品
Date: 2017.03.20 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『ボヤージュ・オブ・タイム』 天地創造を担う母なる神

 『天国の日々』『聖杯たちの騎士』などのテレンス・マリック監督の最新作。

テレンス・マリック 『ボヤージュ・オブ・タイム』 瞳のなかの虹彩は宇宙の彼方の光にもよく似ている。

 この作品は誰が決めたのか一応ドキュメンタリーということになっているらしいのだが、宇宙の起源とか生命の誕生という誰かがどこかで撮影できるものではないものを描いていくわけで、記録映画というジャンルからはほど遠いものになっている。
 すでに『ツリー・オブ・ライフ』において一部そうしたものは描いているけれど、この映画はテレンス・マリックが40年来温めてきた企画ということで、派生的にできあがった『ツリー・オブ・ライフ』のほうが先に公開されたということのようだ。描写にはよく似ている部分もあって、ブランコのシーンはまた登場するし、庭の木の描写は『ツリー・オブ・ライフ』でも使われたものを流用しているように見える(ウィキペディアの記載では一部流用があるとのこと)。

 日本語版では中谷美紀がナレーションを務め、マリックらしい神への祈りのような言葉が連ねられていく。ちなみに作品冒頭では道元禅師の「世の中は 何にたとえん 水鳥の嘴振る露に 宿る月影」という和歌が掲げられる。この導入は日本版独自のもので、各国で違うバージョンが公開されているとのこと。中国では道教の教えが、アラブ圏ではコーランの言葉が、インドでは「Brahma Vishnu Shiva」というヒンズー教の神々の名前が挙げられるらしい。映像に母国語でのナレーションを合わせるというのもマリック監督の意図とのこと。字幕を読むのではなくて映像と音で体験させることを意識しているのだろう。

 この作品では「母」とか「あなた」とか呼びかけられるのは神のことなのだろうと思うのだけれど、キリスト教圏というか一神教を信奉する諸国の映画で、神が「母」のイメージで語られるのは珍しいような気もするのだがどうなのだろうか? 母なる大地とかいった言い方はあるけれど、ここで呼びかけられているのは宇宙が誕生する前の暗闇のなかをさまよっていたという存在なのであり、地球が誕生する前から存在している“何か”なのだ。
 マリックは特定の宗教についてというよりももっと普遍的なものを想定しているのかもしれず、すべてを生み出した元となったものはやはり「母」ということになったということなのだろうか。マリックの連ねる言葉は説明的ではないからそうした疑問に対する回答はないのだけれど、そんなことをぼんやり考えることになった90分だった。
 世界を見つめる瞳の描写から、その瞳の網膜のなかに入り込み、身体の内部のCGらしき映像、それが宇宙の起源のビックバンへと重ね合わせられたりする。ミクロコスモスとマクロコスモスとが照応するといった華厳哲学のようなものもほんのり感じさせたりもするもののそれ以上の展開は感じられず、『ツリー・オブ・ライフ』の二番煎じとも……。

テレンス・マリックの作品
Date: 2017.03.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『バンコク・ナイツ』 「ここではないどこか」についてのあれこれ

 「空族(クゾク)」という映像作家集団の最新作。
 監督・脚本・主演には富田克也。共同脚本には相澤虎之助

富田克也 『バンコク・ナイツ』 ラック(スベンジャ・ポンコン)はバンコクの娼婦。日本語も結構うまい。

 バンコクの歓楽街タニヤ通りに集う娼婦や、祖国を逃げ出してそこに居ついている日本人などを描く群像劇。中心となるのはラック(スベンジャ・ポンコン)という娼婦と、彼女の昔の恋人オザワ(富田克也)との関係になるけれど、物語はあってないようなもの。3時間を越える上映時間には、妖しげなネオン街、ひな壇に並ぶ娼婦たち、イサーン地方の美しい風景、共産ゲリラの幻影、さらにはタイ独特な音楽などのあれやこれやがまとめて詰め込まれている。

 日本人がタニヤ通りに集まるのは、ひとつには女目的ということになるわけだけれど、沈没組などと呼ばれる人たちもいて日本に居られなくなった人たちもいる。そこで日本人観光客のガイドをしてみたり、タイ人娼婦のヒモになったり、日本人をカモしたあやしげな商売を企てたりしながら生きている。主人公のオザワ自身も「日本に俺のいるとこなんてねえもん。エコノミック・ダウン。メルト・ダウン。エブリシング・ダウン」と語るように、日本を逃げ出してきたひとりということになる。
 一方でタイ人の女の子がタニヤ通りにやってくるのは、故郷の家族たちを食べさせるためだ。彼女たちの多くはタイ北部のイサーン地方から出稼ぎに来ていて、彼女たちの稼いだ金で田舎の家族たちは生計を立てている。

『バンコク・ナイツ』 お店のなかはこんな感じらしい。

 私が空族の映画を観たのは今回が初めて。彼らの作品はゆるやかな関わりを持つ「空族サーガ」を形成しているらしい。今回は『バンコク・ナイツ』のほかに『国道20号線』(2006年)『サウダーヂ』(2011年)短編『チェンライの娘』(2012年)を観ることができた。ちなみに空族の作品はDVD化もされないらしい(吉本興業の資本が入っている『チェンライの娘』は例外的にDVD化されている)。
 『国道20号線』の主人公がいる世界は、パチンコ屋と郊外型ショッピングセンターと消費者金融のATMばかりのロードサイド。どこにも行けそうにない場所で、主人公はシンナーによる幻影のなかに「ここではないどこか」を見る。『サウダーヂ』の地方都市・甲府は、バブル崩壊後の不景気で商店街はシャッター通りと化し、土方の主人公は仕事もなくなりタイ人の女の子と日本を逃げ出すことばかりを考えている。そうした感覚において『バンコク・ナイツ』は過去の作品と関わりを持ってくることになる。

 『バンコク・ナイツ』では冒頭でラックの「Bangkok shit」という台詞で始まるわけで、ラックはバンコクをクソだと思っている。どうしてクソなのかと言えば、金のためとはいえ日本人のエロジジイたちのお相手をしなければならないからだろう。そんなふうに今いるところが気に入らないという気持ちが「ここではないどこか」へと結びついていくことになるわけだけれど、それを求めて向かった先にあるのが楽園となるとは限らない。
 たとえば『サウダーヂ』では、一度東京へ出てから地元の甲府へとUターンしてきたまひるという登場人物は、東京への憧れを語る友達に対して「Tokyo shit」と言い放つ。田舎が気に入らなくて東京へと出たはずのまひるは、「ここではないどこか」を求めていたはずが結局は東京もクソだと知ることになる。
 そうしたことは『サウダーヂ』のブラジル移民たちにも言えて、日本に行けば稼げると思っていたのに、来てみれば不況と言葉の問題で仕事もなく居場所もない。そんな彼らが「ここではないどこか」を逆に故郷へと求めること(=郷愁)も理解しやすい道筋だろう。
 ちなみにブラジル移民たちが住んでいるのは山王団地という場所で、この団地は登場人物のひとりである猛の想い出の場所でもある。ブラジル移民にとっては幻滅した場所だったかもしれないのに、猛にとっては外国人に占拠されたような団地こそが「ここではないどこか」を指すものとなっている。また、ここでは「サウダーヂ」と「サンノウダンチ」が混同されるのだが、ブラジル人と日本人とで話が通じているようでいて実はまったく違う「ここではないどこか」を考えているようでもある。

 こんなふうに空族の作品では「ここではないどこか」というものが追求されていく。『国道20号線』や『サウダーヂ』の主人公は未だ日本のなかに留まっていて、ドラッグや過去の幻影という「ここではないどこか」に逃げ込んでいたとも言えるわけだけれど、今回の『バンコク・ナイツ』では日本を飛び出して実際にバンコクへと渡ることになる。

『バンコク・ナイツ』 イサーン地方には昔の風景が残っている。後ろの家はラックがクスリ漬けの母親に買ってやったもの。

◆バンコクは楽園となったのか?
 オザワはラックと共に彼女の故郷であるイサーン地方へと渡り、その後、自衛隊時代の上司の頼みもあってラオスまで渡っていく。イサーン地方は昔のままの風景が残っている場所で、オザワも現実の日本の故郷とは別の「故郷の原風景」のようなものを感じたのかもしれない。オザワはラックの故郷に留まるのかとも思えたのだが、結局ふたりは別れることになり、オザワはバンコクへと帰ることになる。つまりはイサーン地方もバンコクもオザワにとっては楽園とはならなかったようだ。
 ちょっと唐突な感じもあるふたりの別れには、夢見がちな男と現実的な女という対立よりも、オザワが外国人であったということ大きかったのかもしれない。同じ日本人でも金城(川瀬陽太)のように為替レートの差をいいことに、女の子と羽目を外すことばかりが目的の男には、オザワは軽蔑の目を向けている。それは訪れた国の事情にあまりに無頓着だからだろう。
 元自衛隊員のオザワはかつてカンボジアにPKOで派遣されたりしていて、そのあたりには敏感でラオス国境付近では大地に穿たれた大きな穴を目にすることになる。それはかつての戦争の爆撃によってつくられた傷跡なのだ。オザワが「ここではないどこか」を求めて海外まで放浪した先にあったのはそうした歴史である(空族の作品『花物語バビロン』には「それを歴史は許さない」という台詞があるらしい)。

 ただ、オザワがちょっとだけタイやその周辺諸国の歴史を知った気になったとしても、日本人が旅行気分で知ることはたかが知れているわけで、ラックが故郷へ戻ることの意味合いとオザワがそこに形だけの「故郷の原風景」を見出すのとはわけが違う。そうした差が唐突なふたりの別れとなったように思えた。
 実はすでに『サウダーヂ』のブラジル移民との関係にもそうした結末の萌芽は示されていたのかもしれないのだけれど、それを実地で検証してみせたのがこの『バンコク・ナイツ』ということになるのかもしれない。実際にバンコクに入り、現地の人たちと親しくなって撮影して出来上がったこの作品は、ドキュメンタリー作品とは違うけれども空族が追求してきたことと現地で体験したことが交じり合った現時点での答えが示されている。
 先日の新宿K's cinemaでの『サウダーヂ』のレイトショーでは、空族富田克也相澤虎之助のふたりと、出演者の川瀬陽太による舞台挨拶があった。川瀬陽太は冗談まじりに空族のことを「政治結社」だと語っていたのだが、確かに何らかの運動めいた雰囲気もなくはない。『バンコク・ナイツ』は決してまとまりがいい作品ではないとも思うけれど、空族の今後の活動にさらなる期待を抱かせるには充分の熱量を持っている作品だった。

バンコクナイツ Bangkok Nites


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  ↑ 短編『チェンライの娘』のこのオムニバス作品の一編となっている。
Date: 2017.03.15 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『お嬢さん』 シンメトリーな関係

 『オールド・ボーイ』『イノセント・ガーデン』などのパク・チャヌク監督の最新作。
 原作はサラ・ウォーターズ『荊の城』

パク・チャヌク 『お嬢さん』 詐欺師の男(ハ・ジョンウ)は秀子(キム・ミニ)に取り入ろうと画策する。


 舞台は日本統治下の朝鮮半島。詐欺師たちに育てられたスッキ(キム・テリ)はある計画を持ちかけられる。藤原伯爵を名乗る詐欺師(ハ・ジョンウ)は、秀子(キム・ミニ)というお嬢さんを騙して莫大な財産を狙っているのだという。スッキは秀子の侍女として豪邸に入り込み、詐欺師のために秀子を騙す策を巡らせることになるのだが……。

 サラ・ウォーターズの原作『荊の城』を読んだわけではないのだが、その前作の『半身』はたまたま読んでいる。「このミステリーがすごい!」というランキングでは、どちらの本もその年の第1位となっていることからするとミステリーファンには評価が高いらしい。
 しかし、個人的には『半身』のオチには読み終わった文庫本を投げつけようかと思ったくらいで、全然ミステリーとしては受け付けなかった。それでもあとになって考えてみれば作品世界の構築はとても素晴らしいものがあったことも確か。妖しい世界のなかで展開する女同士の危険な関係という意味で、丁寧に描かれた「やおい」として楽しめる作品だったかと思う。
 『お嬢さん』も二転三転していく展開に驚かされるところもあるのだけれど、舞台となる奇妙な世界の構築のほうに重点があるような気もするし、そのなかで繰り広げられるスッキと秀子のレズシーンはもはやオチとは関係なく、ただパク・チャヌクの変態趣味を満足させんがために展開しているような感もある。韓国の女優陣に日本語で「ち○ぽ」「ま○こ」と言わせたりしているのもおもしろがってやっているように見える。
 秀子が囚われの身となっている豪邸はイギリスと日本の和洋折衷様式で、その内部にはマニア垂涎のエロい稀覯本がコレクションされていて、秀子が読み手となった朗読会という妖しい集会が催されたりもしている。そこでは日本語で卑猥な言葉が飛び交うのだが、演じている役者陣はすべて韓国人であり、訛った日本語はわれわれ日本の観客からするとちょっと気恥ずかしくもあればおかしくもある。そんな奇妙な世界観が見事だったし、エロを描いても日本のロマンポルノとはまったく異なるエンターテインメント作品になっていたと思う。

『お嬢さん』 侍女のスッキを演じるのはキム・テリ。オーディションで選ばれた新人だとか。

『お嬢さん』 お嬢さんと侍女は次第に近づいていき……。

 叔父に豪邸に閉じ込められている深窓の令嬢・秀子と、スラム育ちの侍女・スッキ。騙すつもりで秀子に近づいたスッキだが、お嬢さんの美しさとその純朴さに惹かれていく。侍女はお嬢さんの身の回りの世話をする役目であるから、いつも一緒にいることになり、ふたりは次第に身分を越えて親しい関係になっていく。
 このサイトのインタビューを参考にすると、パク・チャヌクは男女のベッドシーンとは違ったものを狙っていたようで、この作品では『アデル、ブルーは熱い色』のような濃密なレズの絡みがあるけれど、『アデル』と異なるのは裸になったふたりがまったく同じように見えてくるところだろうか。
 秀子を演じるキム・ミニとスッキを演じるキム・テリの顔はまったく似ていないけれど、すべてを脱ぎ去り髪をほどいたあとはどちらも対等で見分けがつかない。長い黒髪とスレンダーな手足、小ぶりな胸。そんなふたりがくんずほぐれつする場面は、絡み合ったふたりがシンメトリーな構図を生み出している。上下関係もなければ攻めとか受身とかもないベッドシーンは、確かに男女のそれとはまったく別物のシーンとなっていたと思う。

 最初に登場する侍女役のキム・テリは、素朴でかわいらしく導入部で観客の視点となるにふさわしい女性を演じていて、新人とは思えないくらい度胸もいい。それでもこの作品の基調となっている妖しさを体現しているのはお嬢さん秀子を演じたキム・ミニだろう。そんな意味では英題の「The Handmaiden(侍女)」よりも、原題の「アガシ(お嬢様)」からいただいた邦題のほうが内容に合っている。
 ちなみに役名の“秀子”とは日本の女優・高峰秀子から採られているとのこと。キム・ミニは高峰秀子には似ていないが、松嶋菜々子っぽく見えるときもある。首吊り未遂で揺れている姿が似合うという人はあまりいないと思うが、キム・ミニはそんな妖しい姿が合っていて幽霊役とかやらせたらはまりそう。
 ハ・ジョンウの演じた詐欺師は悪役ということになるのだろうが、慣れない日本語の台詞がどことなく憎めない印象で、その詐欺師の最後の一言が笑わせてくれる。

荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)


荊[いばら]の城 下 (創元推理文庫)


半身 (創元推理文庫)


Date: 2017.03.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『ラビング 愛という名前のふたり』 白人と黒人との距離

 『テイク・シェルター』『MUD‐マッド‐』ジェフ・ニコルズの最新作。
 主演女優のルース・ネッガはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
 「ラヴィング対ヴァージニア州裁判」として知られる出来事を題材にした作品。

ジェフ・ニコルズ 『ラビング 愛という名前のふたり』 ラビングという苗字を持つふたりのラブストーリー。

 大工として働くリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠したことを告げられ結婚を申し込む。しかし、彼らの住むヴァージニア州では異人種間の結婚は認められていなかった。リチャードは白人で、ミルドレッドは黒人だから、ふたりが結婚することは法律に違反することになる。
 ふたりが結婚したのは1958年。それほど大昔というわけではないのだけれど、アメリカの保守的な州では異人種間の結婚が禁止されていたようだ。ふたりは異人種間の結婚が認められているワシントンD.C.まで遠出して正式に結婚をすることになるが、故郷に戻って新婚生活を始めた途端、夜中に保安官(マートン・ソーカス)が乗り込んできてふたりは逮捕されてしまう。

 ふたりは理不尽な仕打ちになすすべもない。ふたりには知恵もなければコネもなく、差別意識むき出しの保安官の指示にも従うほかない。おかしいことだとわかっていても声高に叫んだりはせず、悲観して嘆いたりすることもない。そんなふたりがのちに最高裁判所に「異人種間結婚禁止法が違憲である」と認めさせることになるのは、ただ愚直なまでにふたりが一緒にいることを望んだからだろう。
 状況に現実的に対応するのは女性のミルドレッドのほうで、司法長官に手紙を出したことがきっかけとなって裁判が動き出す。リチャードはそうした彼女の行動を静観するような態度だが、機会があれば協力も惜しまない。最高裁への出廷については、ミルドレッドはリチャードの意見を尊重するあたり、ふたりが常に互いを尊重しあって最後まで一心同体のごとく結びついていることを感じさせる。

『ラビング 愛という名前のふたり』 リチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)と恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)。冒頭の場面からふたりは同じ方を向いている。

 「異人種間の結婚が禁止されていた時代」という事前の情報からして、ふたりの主人公にはどれほどの距離があるのだろうかと考えていたりもしたのだけれど、そんな予想は冒頭のエピソードで覆されたように思えた。
 冒頭ではミルドレッドが妊娠のことをリチャードに告げるのだが、この場面はそれぞれの横顔がクローズアップで捉えられている。妊娠を告げるミルドレッドの横顔のあとに、それを聞くリチャードの横顔。ここではふたりがまるで向き合っているかのようにスクリーンの端と端とに捉えられ、そこには距離があるように見える。しかしこれは作品上での見せかけに過ぎない。次のカットでふたりの全景が映されると、実際にはふたりは玄関先に並んで座っているのだ。
 白人と黒人という主人公たちの間に距離があると偏見を抱いていたのは、観客である自分のほうだったのだろう。実際にはミルドレッドとリチャードの間に距離はない。リチャードは父親が黒人に雇われていたらしく、生まれたときから黒人たちと一緒になって暮らし、そんななかであくまで自然にミルドレッドと恋愛関係になったと推測される。
 冒頭でふたりに距離を感じるように撮られているのは、観る側のそうした偏見を打ち砕く意図があったのかもしれない。思えばミルドレッドとリチャードのふたりは、最初に玄関先に並んで登場したときから最後に裁判で勝利を得るまで常に同じ方を向いて進んでいたのだった。ふたりの意見が対立するのはメディアに対する対応の部分くらいだろうか。それも結局はリチャードが折れる形でミルドレッドの傍を離れることはなかったわけで、異人種間の結婚ということを抜きにしても愛に溢れた夫婦だったと思う。やや恥ずかしい気もする邦題だけれど、これはふたりの苗字がLovingだったからで、まさにふたりの関係を示してもいるわけでまあ許せるだろうか(原題「Loving」のままでもいいと思うが)。

 『ザ・ギフト』では監督・主演も務めてインパクトを残したジョエル・エドガートンが不器用なリチャードを演じている。普段は不機嫌そうな顔にも見えるが、ミルドレッドに笑みを見せるときとの落差がかえって親しみを感じさせる。リチャードにはほとんど何の力もないのだが、それでもミルドレッドを守ると宣言する。その言葉に実現性が伴うかどうかはあやしい気もするのだが、常にミルドレッドの傍を離れないリチャードの愛の言葉としては有効だったと思う。地味ではあるけれど心に染みる作品。
Date: 2017.03.09 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『素晴らしきかな、人生』 悪意転じて福と成る?

 『プラダを着た悪魔』デヴィッド・フランケルの最新作。
 キャストはウィル・スミス、ケイト・ウィンスレット、キーラ・ナイトレイ、エドワード・ノートン、ヘレン・ミレンと豪華。
 最近の『永い言い訳』とか『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』などと同じように、近しい人を亡くした者のグリーフワーク(喪の仕事)を題材としている(『雨の日』は主人公の壊れっぷりにちょっとついていけなかったけれど)。

デヴィッド・フランケル 『素晴らしきかな、人生』 主役のウィル・スミス以下、なかなか豪華なキャスト陣。

 主人公のハワード(ウィル・スミス)は愛娘を亡くして以来、自分で創業した広告代理店の仕事にも手がつかない。ほとんど周囲とのコミュニケーションすらできない状態で、職場には顔を出しても日がな一日ドミノをやっている(ドミノは一気にすべてが崩れ去ってしまったハワードの心情を示している)。娘が亡くなる前のハワードは広告マンとして従業員のカリスマだった。しかし娘の死で彼は腑抜けになり、その影響で会社自体も傾きかけている。
 ホイット、クレア、サイモンという同僚たち3人はハワードに立ち直ってもらいたいという願いと、会社を潰すわけにはいかないという義務感もあり、ハワードが心を病んでいる証拠を探偵に調べさせる。ハワードが取締役として適格性を欠いているという証拠があれば、会社を救うことができるからだ。
 探偵の調査で明らかになるのは、ハワードが「愛」「時間」「死」という抽象的概念に宛てて手紙を書いていたという事実だ。これだけでもかなり病的だということはわかるわけだが、同僚たちは「愛」「時間」「死」という概念を具現化した人物を役者に演じさせて、ハワードに揺さぶりをかけることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『素晴らしきかな、人生』 ハワードの同僚の3人衆。

『素晴らしきかな、人生』 こちらは「死」「愛」「時間」を演じることになる役者たち。本当に役者だったのかは不明?

 役者たちが演じることになる「愛」「時間」「死」は、ハワードが従業員を前にした演説でも論じていた重要なキーワードだ。ハワードは「広告は人に伝えることがすべて。愛を渇望し、時間を惜しみ、死を恐れる。それこそが人々を繋ぐ要素である」といったことを語っていた(このサイトから引用)。そんなものが具現化して自分に語りかけてきたものだから、ハワードはさすがに自らの病気を自覚したのかもしれない。
 ただこの作品のミソはハワードが立ち直る部分よりも、一連の出来事によって同僚たちのほうがかえって救われるところにあるのだろう。原題は「Collateral Beauty」となっていて、字幕では「幸せのオマケ」という意訳がなされている。
 「Collateral」とは「副次的な」という意味。つまり、同僚たちが仕掛けた作戦はハワードを貶めるためのものだったはずだが、そのとばっちりがうまい具合に同僚たちに波及していくということが含意されているのだろう。「愛」「時間」「死」というキーワードは誰にでも共通することであり、それが人々を結びつけるというのがハワードの考えだった。そして、そうしたつながりこそが登場人物たちの救いの役割を果たしていくのだ。

 ハワードの親友でもあったホイット(エドワード・ノートン)は離婚して娘との関係に悩んでいる。クレア(ケイト・ウィンスレット)は仕事に専念しすぎたのか婚期を逸してしまい、子供を持つことで悩んでいる。サイモン(マイケル・ペーニャ)は自らの死期を知ったものの、それを家族に言い出すことができないでいる。
 そんな3人とペアを組む形になるのが、ハワードを騙すために雇った役者たちで、娘への愛情で悩んでいるホイットは「愛」役のエイミー(キーラ・ナイトレイ)と、婚期を逸したクレアは「時間」役のラフィ(ジェイコブ・ラティモア)と、死期を悟ったサイモンは「死」役のブリジット(ヘレン・ミレン)とやりとりするうちに、それぞれの状況を打破するヒントを得ることになる。

 「愛」「時間」「死」役の3人は、ホイットが拾ってきた役者だったのだけれど、登場の仕方はかなり胡散臭い。もしかすると3人は人間のフリをした天使のようなものだったのかもしれない。脚本全体がかなりご都合主義なのも、天使たちが仕組んだことならば納得がいくだろう。
 この作品の邦題は『素晴らしき哉、人生!』(原題「It's a Wonderful Life」)という名作からいただいてきている。その名作ではクリスマスの晩に天使が登場して主人公を救うことになるわけだが、この『素晴らしきかな、人生』(原題「Collateral Beauty」)もそのあたりはよく似ている。ただ、かつての名作と比べられるほど本作が「素晴らしい」とは言い難い気もする。それでも間違いなく泣かせる話であるとは言える。脚本のあざとさを気にせずに、存分に泣くのもたまにはいいんじゃないかと思う。

素晴らしき哉、人生! ジェームズ・スチュワート ドナ・リード CID-5011 [DVD]



Date: 2017.03.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (6)
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