『ラ・ラ・ランド』 ひとときの夢のような……

 『セッション』デイミアン・チャゼル監督の最新作。
 第89回アカデミー賞には史上最多タイの14部門でのノミネートという前評判の高い作品。

デイミアン・チャゼル 『ラ・ラ・ランド』 ミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)は街が見える丘の上で踊り出す。名作『バンド・ワゴン』をイメージしているらしい。

 原題の「La La Land」は、「LA」つまり作品の舞台となるロサンゼルスやハリウッドのことを指す。町山智浩によれば、「彼女はラ・ラ・ランドに住んでいるんだ」という使い方をすると、「彼女は夢見がちなんだ。現実を見ていないんだ」といったニュアンスになるらしい。
 『ラ・ラ・ランド』はそんな夢見がちな主人公たちの物語だ。ミア(エマ・ストーン)はオーディションを受けまくっているけれどまったく相手にされない女優の卵。セブ(ライアン・ゴズリング)は自分が好きな古臭いジャズの店をやりたいと考えているけれど、実際には資金もなくて退屈な音楽を弾く仕事に甘んじている。そんなふたりが出会って恋に落ちる。

 映画は所詮虚構なわけだけれど、ひとときの夢を与えてくれたりもする。そんな映画が好きだからこそ映画に関わる人もいる。ハリウッドはそんな人たちの街なのだろう。ミアが現実的で稼ぎもありそうな彼を棄ててまでセブのもとに走るのも、「Audition」という曲で「どうか乾杯を 夢追い人に」と歌い上げるのも、夢見がちな人に対する共感があればこそだろう。だからこそ『ラ・ラ・ランド』はハリウッドでとてもウケがいい。
 劇中では瀕死のジャズという言葉があるが、ミュージカル映画というのも今では瀕死の状態にあるらしい。この作品の製作も難航したようで、チャゼル監督が「資金集めをするときには、ミュージカルやジャズは、映画の要素として人気がないということを嫌というほど思い知らされたし、興行成績も見こめないと何度も言われた」と明かしている。
 それでもチャゼル監督は『セッション』でも題材としたジャズが好きなのと同じように、ミュージカル映画が好きなのだろう。ハリウッドが夢の世界をつくりあげる場所として君臨していた古き良き時代、『ラ・ラ・ランド』はそのころのミュージカル映画に対するオマージュに溢れていている。そんな王道のミュージカルを見事に復活させたからだろうか、アカデミー賞でも本命視されているとのこと。

『ラ・ラ・ランド』 ふたりは夜空高く舞い上がって踊る。まさに夢のようなシーン。

◆ふたりだけの夢の世界
 なぜミュージカル映画が瀕死の状態にあるのかといえば、登場人物が突然歌い出すという通常ではあり得ない設定に違和感を覚える観客が多いからなのだろう。個人的には冒頭のハイウェイ上のモブシーンは唐突でちょっと違和感を覚えた。
 ここでは渋滞に巻き込まれた人々がそのイライラを解消するかのように踊り出す。果てしなくつながる車列とその上で踊る人々を優雅に移動するカメラの長回しで捉えつつ、主人公ふたりのすれ違いまでを一気に見せてしまう手腕は見事なのだけれど、あまりに唐突で気分が盛り上がってこないのだ。

 ミュージカル映画で登場人物が歌い出すのには理由があるはずで、それは何かしらの感情が湧き上がってきたからだろう。それによって舞台は現実から非現実的な夢の世界へと移行し、登場人物はその感情を歌に込め、踊りとして表現する。だから観客を主人公たちの感情に惹きつけることができれば、歌い出すことも不自然ではなくなるのだ。
 ミュージカル映画では主人公たちが歌う必然性が最初から設定されている場合もある。たとえば『ムーラン・ルージュ』のように主人公がキャバレーの踊り手とその曲の作り手だったとすれば、主人公たちが歌い出すのに何の不思議もない。ただこれはミュージカル映画独特の現実から夢の世界への移行という部分がない分おもしろみにも欠けるのかもしれない(『ムーラン・ルージュ』は大好きだけれど)。
 この作品ではミアとセブが出会ってからの展開には惹き込まれた。再会したふたりがそれまでのすれ違いもあって微妙な駆け引きをしながらも近づいていき、街を見下ろす丘の上で踊り出すころにはすでに夢の世界にどっぷりと浸っていた。

 ふたりが恋に落ちると、そこにはふたりだけの夢のような世界がある。ふたりが見つめあうと周囲は暗くなり、周りの人の存在も消え失せ、世界はミアとセブのふたりだけになる。そして、ふたりは歌い踊る。こうした設定はミュージカル映画だからこそで、夢の世界では星がきらめく夜空まで舞い上がることでさえも可能になる。
 ただ現実はやはり厳しくて、夢を追うことには犠牲が必要だ。ラストではふたりそれぞれが夢を実現しているわけだけれど、それによって失ったものもまた大きかったとも感じさせる。5年ぶりに会ったふたりの視線が交錯する瞬間が何とも切なくて涙を禁じ得なかった。

◆アカデミー賞の結果発表
 レビューをアップするのにもたついていたらアカデミー賞の結果が出てしまったようだ。大方の予想を覆し、作品賞は『ムーンライト』だった。『ラ・ラ・ランド』は監督賞と主演女優賞と、歌曲賞(「City of Stars」)・作曲賞(ジャスティン・ハーウィッツ)・撮影賞(リヌス・サンドグレン)・美術賞を獲得した。6部門受賞というのは立派だが、前評判では作品賞も確実視されていたようだし大波乱といった印象。しかも何の因果か進行側の手違いで最初は『ラ・ラ・ランド』の名前が読み上げられてしまい、その後に撤回されるという前代未聞の出来事まで起こってしまったらしい。製作陣はひとときの夢にぬか喜びということになったわけだ。
 『ムーンライト』はまだ日本では公開されていないから詳細はわからないけれど、黒人が主人公で製作総指揮にはブラッド・ピットということで『それでも夜は明ける』のようなシビアな話が予想される。アカデミー賞は娯楽作よりもメッセージ性のあるものを選びがちだから順当なのかもしれないけれど、「アカデミー賞は白人偏重だ」という批判もあったようだからそのあたりが影響しているのかどうか……。個人的には夢のある作品が作品賞になったっていいと思うのだけれど。

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック



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Date: 2017.02.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (9)

『愚行録』 日本は格差社会ではなく階級社会?

 監督の石川慶はポーランドで映画を学んできた人ということで、今回が商業デビュー作。
 原作は直木賞の候補作にもなったという貫井徳郎の同名小説。

石川慶 『愚行録』 主人公となる田中兄妹と対照的なエリートたちのぎらついた目が印象的。


 主人公の田中武志(妻夫木聡)は週刊誌の記者で、一年前の殺人事件について追うことになる。その事件ではエリート会社員とその妻と娘が殺されたのだが、未だに犯人は見つかっていない。田中は改めて被害者の関係者にインタビューを試みる。

 主人公の記者・田中には妹・光子(満島ひかり)がいる。冒頭のエピソードでは、自分の娘への虐待容疑で逮捕された光子と田中の面会が描かれる。その後に本題の殺人事件へと移っていくわけだが、なぜ主人公の記者が編集部の反対を押し切ってまで事件に追うのかは謎のまま進んでいく。

 最初の取材対象者の男(眞島秀和)は、殺されたエリート会社員・田向浩樹(小出恵介)との思い出をビール片手に話し出す。ふたりが新入社員の女の子とちょっと遊んで都合よく棄てたという話で、要は殺された田向という男も取材対象者の男もクソみたいな男だということわかり、観客としてもこんな男なら殺されても当たり前という感情を抱くようになっている。
 その後も田中の取材は続く。被害者たちの思い出話はある大学の特殊な事情に関わっていく。原作未読なので詳細はわからないのだが、原作ではこの大学は慶應大学と名指しされているようだ。映画のなかでは別の名前とされているが、モデルはやはり慶應大学のようで、この特殊な社会では幼稚舎あたりからエリート街道を歩んできた“内部”の人たちと、試験で合格した“外部”の人たちは階級の差がある。
 “内部”はエリートだけで固まって、“外部”の人を差別する。とはいえ“外部”から“内部”へ昇格する人もいる。それはごく一部の容姿端麗な女性だ。そんなふうに昇格した女が夏原友季恵(松本若菜)で、彼女は“内部”と“外部”を結びつける役割も果たすことになる。つまりは“外部”の女を連れてきては“内部”の男に紹介するという遣手婆のような役割を果たしているのだ。平凡な女の子は相手にしないが、“外部”の男が好きそうな容姿の女には近づいていく。そんな友季恵はのちに田向と結婚し、誰かに殺害されることになる。
 ほかの取材対象には夏原友季恵に男を取られて壮絶な張り手の応酬をすることになる宮村淳子(臼田あさ美)とか、田向浩樹に利用されつつ自分もほかの男を利用している稲村恵美(市川由衣)など様々だが、彼らや彼女らがやっていることは愚行というよりも胸クソが悪いものに感じられる。

 ※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!!

『愚行録』 光子(満島ひかり)は精神科で過去について語り出す。

 なぜ記者の田中がその事件に拘るのかと言えば、実は妹の光子がその事件の犯人であることを知っているから。この兄妹はエリート社会とは縁のないはずの人間で、親から虐待を受けて育った子供たちだ。そんな光子も実は舞台となる大学の“外部”側の人間だったことが明らかになる。さらに記者の田中が取材を続けているのは、取材によって妹が事件に関わっていることを感づいている人物を探すためでもある。エリートたちの行動は胸クソ悪いが、田中兄妹の行動は愚かだったとは言えるかもしれない。

 時代背景がはっきりとは示されないけれど、登場人物がスマホではなく折りたたみ式の携帯電話を使っているところからするとちょっと前の話かと思われる。登場人物が一様に上昇志向(聞き役の田中は例外だが)で、男たちは彼女の父親に取り入ってまで一流企業に入ろうと奔走するし、女たちはエリート会社員と結婚するというゴールを疑うことがない。このあたりは未だ不況から抜け出す気配もない今から見るとちょっとウソっぽくも感じられる。
 予告編で煽っているような衝撃な部分は色々とあるものの、児童虐待とか近親相姦といった出来事は誰もが身近に感じられるものとは思えないし、エリート大学の特殊事情に関してはそれが本当なのかも知らないし、本当だとしてもアホみたいな話に思えた。劇中でも「ほかの人にはわからない」という台詞があるけれども、端的にどうでもいい話でしかないからだ。そんな意味ではやはりエリートたちも愚かな人たちだとも言えるのかもしれない。「胸クソ悪い」と感じてしまうのは、観ているこちらが“内部”側の人ではないからなのだろう。

 冒頭にバスのなかで席を譲るシーンがあり、ラストでも再び繰り返されるのだが、それはまったく同じ形ではない。冒頭では田中の行為にささくれ立った心を見ることになるが、ラストでは素直に席を譲っている。2時間の映画のなかで田中のなかに何か変化があったということになるわけだが、妹の犯罪を隠し通すことにも成功してちょっとだけ心にゆとりを持つことができたということかもしれない。それでも彼らの未来は明るいとは到底思えないわけで、どこにも救いがなく何ともイヤな気持ちになる作品だった。
 新人監督の演出も悪くなかったと思う。雨のなかにくすんだ風貌で登場する妻夫木聡と、陽の光で脱色されたような満島ひかり。その兄妹とは対照的に過去に登場するエリートたちは妙に目がぎらついているのが印象に残る。ただ、エリート大学の特殊事情を示す様々なエピソードにはどうにも興味を抱けなかった。

愚行録 (創元推理文庫)


Date: 2017.02.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『たかが世界の終わり』 自己憐憫の先にあるもの

 『わたしはロランス』『トム・アット・ザ・ファーム』などのグザヴィエ・ドランの最新作。
 原作ジャン=リュック・ラガルスの戯曲『まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔』。なぜか映画の邦題は「たかが」となっていて、原作とは異なる。「たかが」と「まさに」では意味が違うと思うのだけれど……。この映画の原題も英語版は「It’s only the end of the world」で、フランス語版では「Juste la fin du monde」となっていて、その違いが原作と映画の邦題の違いなのだろうか。

グザヴィエ・ドラン 『たかが世界の終わり』 フランスを代表する役者陣が揃った豪勢な作品。


 12年も前に家を飛び出したルイ(ギャスパー・ウリエル)は、自分の死期が近いことを告げに自宅へと帰る。久しぶりの再会に家族からの歓待を受けるルイだが、目的となる告白をすることはできずに時間が過ぎていく。昼食後のデザートのタイミングで告白しようと決断するものの、その間の家族のやりとりは穏やかなものではなかった。

 ルイは今では劇作家として成功した立場にある。彼がなぜ家を出ることになったのかはわからない。ゲイであることがきっかけかもしれないし、口数少なく愛想笑いばかりのルイにとっては、家族間の言い争いが絶えないこの家は居心地のいい家ではなかったことは推測できなくもない。
 次男の帰郷にテンションが上がる母親(ナタリー・バイ)も、ルイが家を飛び出したころには幼かった妹シュザンヌ(レア・セドゥ)もルイを歓待する。その様子を離れたところから窺っている兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)は横から色々とケチをつけてくる。彼らのやりとりは騒がしく、兄嫁のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)はどこか居心地が悪そうにも見える。そんな疎外感において、家を飛び出したルイとカトリーヌはどこかで通じ合っている部分がある。

『たかが世界の終わり』 家族が揃って食事をするものの雰囲気は穏やかとは言えない。

◆家族間のディスコミュニケーション
 戯曲の映画化ということで中心となるのは会話であり、監督ドランはそれをクローズアップの多用で描いていく(役者陣が豪華なのはこのためだろう)。交わされる会話の多くは他愛ないもので、場を繕うためのものにすぎない。12年ぶりに戻ったルイに対してそれぞれ言いたいことはあるはずだけれど、家族が勢揃いした場では騒がしいやりとりがあるばかりだ。
 ルイが家族の面々と個々に対話する場面もある。そうなるとルイに対して言いたいことが噴き出してくるのだが、すぐにもそうした言葉は否定されたりもする。「ごめんなさい」とか「別にあなたを非難したいわけではない」なとど取り繕うのだが、否定した言葉のほうが嘘なのだろうとも感じられる。そんな意味では家族といえども(あるいは家族だからこそ)、言いたいことを伝えることは難しいようだ。
 大事なことは語られることはないし、語ったとしても本音ではないかもしれないし、本音を言ったところで自分の伝えたいことは相手には伝わらないのかもしれない。そんな感覚が支配しているのだ。

◆伝えたいこと/聞きたくないこと
 自らの死を伝えるために戻ってきたルイだが、ルイが不在となった家に残された家族には別の事情もある。それまで一緒に居た人間が消えてしまうわけで、家族の間には何かしらの動揺が生じただろう。後半、特に中心に据えられてくるのはアントワーヌの存在だ。家を出て成功した弟と、家に残った厄介者の兄。そんな関係が前面に出てくる。
 多分、アントワーヌはルイの帰郷の理由を理解している。ルイがもうすぐ死ぬかもしれないという悲劇の主人公となれば、ますますアントワーヌの居場所はない。ルイは自分勝手に出て行ったくせに、都合よく帰ってきては家族の中心になり、自分をコケにする。そんなアントワーヌのルイに対する劣等感が最後の騒動へと発展することになる。
 激高してルイに殴りかからんとするアントワーヌの瞳は涙で濡れている。哀れに何かを懇願するような瞳と相対したルイは何も言わないことを選ぶ。その瞳にルイは言葉では語り尽くすことのできないものを感じたようにも思えた。

 『たかが世界の終わり』は最初から家族のディスコミュニケーションに貫かれているわけで、言葉では言い尽くせないことを描いている。だから私がそれを言葉で説明しようとするのは無粋と言えば無粋だけれど、それを承知でもう少し続ければこんなふうになるかもしれない。
 ルイには何らかの理由で死期が迫っている。それを家族に報告するというのは特別なことでもないし、むしろ義務と言ってもいいことだろう。それでも電話で恋人相手に「誰も泣かないかもしれない」などと心配していたように、どこかで自己憐憫があるだろうし、家族からの同情も期待しているわけで、それは結局自分勝手な都合にすぎない。アントワーヌの瞳のなかにそんなことをルイは感じていたようにも思う。
 ルイにはルイの都合があるかもしれないけれど、アントワーヌにはアントワーヌの都合がある。ルイには伝えたいことがあっても、アントワーヌは聞きたくないわけで、相手にそれを押付けるわけにはいかない。ルイはそんなことを察したからこそ、何も言わないことを選んだし、声をかけようとするカトリーヌをも仕草で制することになる。家族でもわかりあえないものがある。ただ、その「わかりあえない」という一点だけは共有できたというのは何とも哀しい話ではないだろうか。

 手法として奇抜なところはまったくなく、その意味でドランの成長が感じられるとも言えるし、外連味が失われたとも言えるかもしれない。そのあたりはどちらなのかは決めかねるところだろうか。役者陣の演技は繊細だったけれど、会話が長々と続く展開は舞台劇の映画化とはいえしんどい部分もあるだろうと思う。
 それでもやはり音楽の選曲は凝っていて、この作品で唯一の愉快なシーンでは「恋のマイアヒ」が登場するのは意図的にハズしているのだろうけど、冒頭とエンディングの曲はこの作品の雰囲気をよく示している。



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Date: 2017.02.13 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『マリアンヌ』 正統派でクラシカルな作品?

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『ザ・ウォーク』などのロバート・ゼメキス監督の最新作。
 主演にはブラット・ピットとマリオン・コティヤール。
 原題は「Allied」。これは「同類の」とか「連合国側の」といった意味らしい。
 邦題はこの作品のヒロインの名前だが、かつての『わが青春のマリアンヌ』に引っ張られているのかもしれない。『わが青春のマリアンヌ』は、アルフィーの歌とか松本零士のマンガとかに影響を与えたとか言われる作品。

ロバート・ゼメキス 『マリアンヌ』 タキシードとドレスが似合うふたりはいかにもクラシカルな雰囲気を漂わせる。


 1942年、モロッコのカサブランカ。そこにスパイとして潜入したマックス(ブラッド・ピット)は、作戦において妻役を演じることになるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と落ち合う。作戦の目的はドイツ大使の殺害だ。敵陣のなかに入り込んで、ターゲットを殺すという難問にふたりは挑むことになる。

 前半部でマックスとマリアンヌは作戦のために偽りの夫婦を演じる。成功率は低く、共に生きて帰れる可能性はほとんどない。ふたりは誰もが羨む美男美女で、明日には死ぬかもしれないという状況が、作戦前にふたりを結びつけることになる。
 このあたりが意外と丁寧で、マリアンヌが二重スパイと疑われる後半部にも活きてくる。前半では死と賭した作戦のパートナーという大事な存在を試すための駆け引きもある。銃撃の練習では、マリアンヌはマックスが銃にかけた安全装置に戸惑ってしまう。試されたマリアンヌはその後の昼食で、わざとらしく胸元を開けてマックスの欲望の安全装置をチェックしようとする。
 そうした値踏みを経てもそれぞれが優秀なスパイであることを認め合うことになり、作戦は見事に成功することになる。ただ、スパイにおいて優秀であることは人間としてはどうなのかは考えものとも言える。スパイは人を騙していくことが必須なわけで、優秀なスパイほど嘘をつくのが上手い人間ということにもなるからだ。
 作戦を成功させたふたりはその高揚感のなかで本当に結婚するのだが、子供を授かり幸せな家庭を築いていた矢先に、マリアンヌがドイツ軍のスパイであるとの疑惑が浮上する。マリアンヌは元々優秀なスパイだけに、その本心を見抜くことは夫であるマックスにとっても難しく、マックスは疑心暗鬼に駆られることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『マリアンヌ』 マリアンヌ(マリオン・コティヤール)とマックス(ブラッド・ピット)の偽夫婦は、作戦成功後に実際に結婚することになる。ちょっとセットっぽい感じが気になる。

 『マリアンヌ』は悲劇的な終わり方を迎えることになるわけで、ある意味では予想通りの展開と言えるけれど、わかっていても泣かされるものがある。それでもあとから冷静になって考えると疑問もある。マリアンヌはどこからマックスを騙していたのだろうか。
 マックスの上官によれば、ドイツ大使はヒトラーによって処刑命令が出されていたとのことで、つまり殺しても問題ない人物だったということだ。つまりドイツ軍のスパイであるマリアンヌはあの作戦を成功することで、マックスに取り入ることが目標だったということになる。となればマックスは始めから騙されていたわけで、子供を殺すと脅されていたなどという話はどこまでが本当だったのかとも怪しくなってくるようにも思える。
 マックスはマリアンヌの愛は本当だと考えて彼女を連れて逃げようとするわけだけれど、マリアンヌは優秀なスパイだけにどこまでが真実なのかはわからないはずなのだ。それでもこの作品を観ていると最後のブラット・ピットのわざとらしいくらいの泣き顔にも共感してしまうというのは、観客もうまく騙されているということなのかもしれない。

 たとえばふたりが初めて結ばれる砂嵐のなかでの情事では、狭い車のなかで交わるふたりの姿を捉えていたカメラがいつの間にかリア・ウインドウをすり抜けて外に出ているという技巧を見せている。いかにもさりげなくやっているのだが、CGでうまくつなげているということなのだろう。さらにこの作品のブラット・ピットが妙に若いのも気になる。ブラット・ピットが若返ったということがもしかしたらあるのかもしれないが、CG技術によって補正されているとかいう噂もあるのだとか。
 そんなゼメキス作品だから観客も色々と騙されているのかもしれない。細かい部分ではブラット・ピットが無敵すぎるとかツッコミどころ満載なのに、なぜかクラシカルな作品のようにも感じられてしまうのだから。
Date: 2017.02.12 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『男と女』 “息抜き”以上はダメよ

 『素晴らしい一日』『愛してる、愛してない』イ・ユンギ監督の最新作。
 上映前に主演のコン・ユ『トガニ 幼き瞳の告発』の主演)からのメッセージあり。配給会社がコン・ユのファンを当てにしているということがよくわかる。実際、劇場内は女性客がほとんどだった。
 タイトルは『男と女』(原題は「A Man and a Woman」)。クロード・ルルーシュの名作とまったく同じタイトルだが、それに対抗意識を燃やしているというよりも、正統派のラブ・ストーリーを意図しているかららしい。

イ・ユンギ監督 『男と女』 物語の舞台はフィンランドから。北欧の光の感じが印象的。

 物語はフィンランドで始まる。そこで韓国人のふたりが出会う。女(チョン・ドヨン)には障害のある息子がいる。男(コン・ユ)には情緒不安定な妻とうつ病の娘がいる。ふたりにとって家庭はちょっと息苦しい場所になっていたのかもしれない。そんなふたりが吹雪のため山奥のキャンプ場に足止めされ、長い時間を過ごすうちに……。

 女はそれまで息子と離れて過ごしたことがなかったようだ。息子の障害には手がかかり、常に目を離すことができない状況だったからだ。女は久しぶりに息子と離れる時間を得ると、解放感を覚えることに自ら驚いてもいる。同時にそこに罪悪感すら抱いたかもしれない。
 いつも頭のなかは息子のことでいっぱいで、ほかのことが入る余地もなかったのだろう。常に母という役割を意識せざるを得ない状況から、突然自由になり、忘れていた女性としての自分を思い出したのかもしれない。そんな女の空っぽの心に入り込むのは、傍らにいる名前も知らない男だ。女は自然に男を求め、男もそれを受け入れることになる。
『男と女』 サンミン(チョン・ドヨン)とギホン(コン・ユ)のふたり。
◆不倫関係へと至る理由わけ
 フィンランドでの出来事は一度だけで終わるはずのものだった。ふたりにはそれぞれ家庭を持つ身だったからだ。しかし、韓国・ソウルに戻って仕事を始めていた女の前に突然男が姿を見せる。そこでふたりは初めて名乗り合うことになる。
 ふたりの関係はのちにサンミン(チョン・ドヨン)の旦那が語るように“息抜き”という側面が確かにあっただろうと思う。サンミンの旦那はテレビにも顔を出す精神科医で、家を留守にしがちで、障害のある息子の世話はサンミンに負担がかかることになるからだ。サンミンはフィンランドの山奥のサウナ小屋という異国の誰も知らない場所だからこそ、久しぶりに息を吐くことができたのだろう。
 一方、ギホン(コン・ユ)の家庭にも問題がある。夫を深く愛するあまりに狂言自殺まで図る妻と、その母親によく似た娘はうつ病を抱えている。これだけでも悩み多き家庭だが、ギホンの問題は別にある。ギホンは妻に押し切られて結婚をしたものと推測される。彼には曖昧で優柔不断なところがあり、それに自分でイラついてもいる。流されて生きている自分ではなく、自ら選択した生き方を求め、ギホンはサンミンとの関係を望んだということだろう(結局、妻と娘のほうを選び直すのもギホンの決断による)。
 
◆予想通りのラストだが……
 この作品を一言で説明すれば不倫の話ということになる。昨今とても評判のよくない題材だ。そんなものに理解を示そうものなら、こちらまで火の粉が飛んできそうな気もするのだが、ふたりが結ばれるのには説得力があったと思う。
 結末はある程度は予想ができるだろう。“息抜き”としてはいいけれど、本気になってはいけないというところに落ち着く。「先の見えない関係」とは劇中のサンミンの言葉だが、確かにそうで、たとえばサンミンとギホンがそれぞれの家庭を棄てて一緒になったとしたらハッピーエンドなのかと言えばそれも疑問だろう。

 サンミンにとってギホンとの関係は“息抜き”以上の“何か”だったからこそ、彼女は家庭を壊すことになってしまう。再びフィンランドへと戻ったラストでは、涙に暮れることになるサンミンに寄り添うタクシー・ドライバーがいい味を出している。
 このドライバーを演じるのはカティ・オウティネンである。アキ・カウリスマキ作品の常連だ。フィンランドと言えば、映画ファンにとってはカウリスマキという名前が条件反射的に思い浮かぶわけで、カウリスマキ作品の顔であるカティ・オウティネンがラストを締めるというのは心憎い演出だったと思う。
 カウリスマキの最近作『ル・アーヴルの靴みがき』でも存在感を見せていたカティ・オウティネンだが、個人的に印象に残っているのは最初に観たカウリスマキ作品である『マッチ工場の少女』。その印象で幸薄い女性の象徴のように感じてしまうのだが、そんなカティ・オウティネンがサンミンの隣で多くは語らずにタバコを燻らせるラストが泣かせる。

◆チョン・ドヨンとコン・ユの共演
 チョン・ドヨン演じるサンミンは、フィンランドでの疲れた母親像から、ソウルでのキャリアウーマン的な魅力を醸し出す女へと変貌を遂げる。チョン・ドヨンは『素晴らしい一日』とも違う女性像を演じていて、作品ごとに違った顔を見せてくれるようだ。
 そして、そのサンミンにストーカーまがいに近づくギホンを演じるコン・ユはどことなく憎めないところがある。ギホンはわざわざ居所を調べて会いにきたくせに偶然を装ったりしつつ、それがあまりにもわざとらしいところが年上と思われるサンミンが気を許してしまう要因となっている。そんなふたりの関係がとても微笑ましいのだ。
 心の機微を繊細に描くイ・ユンギ作品にあって意外だったのは、ベッドシーンがとてもよかったということ。大人っぽい雰囲気で露出は少ないけれど、何と言うかとても艶っぽかった。コン・ユのファンでなくとも見どころの多い作品なんじゃないかと思う。

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Date: 2017.02.10 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『スノーデン』 国を裏切る愛国者

 『プラトーン』『JFK』などのオリバー・ストーン監督の最新作。
 アメリカの情報機関が世界中で通信傍受を行っていることを暴露して名前を知られるようになったエドワード・スノーデンが本作の主人公。スノーデンに関しては『シチズンフォー スノーデンの暴露』(ローラ・ポイトラス監督)というドキュメンタリーがあり、第87回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞している。

オリバー・ストーン 『スノーデン』 エドワード・スノーデンを演じるのはジョセフ・ゴードン=レヴィット。

 ドキュメンタリー作品である『シチズンフォー』はスノーデンが衝撃的な暴露をした現場が記録されている。インタビュアーを務めるジャーナリストのグレン・グリーンウォルドと、それを撮影するローラ・ポイトラス監督の前で、スノーデンはアメリカが国民すべてを監視していることについて語り出す。
 一方の『スノーデン』も香港のホテルで始まったインタビューから始まっているが、この作品はスノーデン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の過去を振り返ることで、彼がなぜアメリカを敵に回してまでも内部告発しなければならなかったのかという点に焦点が当てられている。

 スノーデンは元々愛国者である。国を守るために志願兵として軍隊に入っていることにもそれが表れているわけだが、訓練中に足にケガを負い除隊を余儀なくされ、別の形での国家への貢献のためにCIAの仕事に就くことになる。
 そのころに知り合ったリンゼイ・ミルズ(シャイリーン・ウッドリー)とのやりとりは、スノーデンが“賢い保守”ということを示している。リベラルなリンゼイが政府に対して批判的な言葉を発するのに対し、スノーデンは国を非難したくないと言い切っている。
 “賢い保守”は現実的で物事を理解しているという自負のために、夢見がちなリベラルのように無責任に政府を批判したりはしないのだろう。それでもスノーデンが政府の仕事の中枢に関わるような部分を垣間見ることになると、アメリカのために働くことが国民のためにも世界中の人のためにもならないということが明らかになってくる。

◆アメリカのやりたい放題
 テロを未然に防ぐためには情報収集が必要となることもあるのだろうし、監視対象となる者がいることも理解できる。テロ対策のためにはそれに役立つ特定の情報のみを取り出してくることが有効だ。スノーデンがCIA訓練センターで出会ったハンク・フォレスター(ニコラス・ケイジ)は、そうしたシステムを構築していたのだがCIAに採用されることはなかった。というのもテロ対策という名目ですべての情報を吸い上げてしまったほうが、アメリカにとって都合がいいという判断があったからだ。
 これによってアメリカは世界中すべての情報を監視することができる。電話による会話の内容から、メールやその添付ファイルまで、とにかくサイバースペースでやりとりされるあらゆる情報が覗かれていることになる。アメリカがその気になれば特定の個人を罠にはめ、その弱点をネタにして脅しをかけるなどやりたい放題が可能となる。
 『ドローン・オブ・ウォー』などで描かれているドローンでの空爆システムも、アメリカが世界中の情報を監視しているから可能となるシステムということだ。スノーデンは国のために働いていると考えていたわけだが、それは流用されて戦争の道具として使用されていたことになる。テロとは無関係の一般市民のプライバシーも丸見えだし、スノーデンの技術が戦争の道具としても使われていることにもなれば、彼が自分の国に反旗を翻すのも肯ける。

『スノーデン』 元上司リス・エヴァンス(コービン・オブライアン)の顔は極端な大きさで表現される。

◆愛国者として
 国家というのは巨大な存在だ。スノーデンはそれを敵に回す。それが端的に示されているのが、元上司リス・エヴァンス(コービン・オブライアン)とのテレビ電話のシーンだろう。
 映画の約束事として、スクリーンに映る人物の位置関係やそのサイズが登場人物の関係性を示すということがあるようだ(何かの本に書いてあった)。スクリーンの上段にいる男が、それより下段にいる男とやりとりをする場合、上段の位置にいる男は下段の位置にいる男よりも優位な立場にある。またスクリーンに映る人物のサイズにおいても同様で、スクリーン上で大きく示される人物はそれより小さく示される人物よりも優位にある。
 『スノーデン』では、テレビ電話の巨大モニターのなかに登場する元上司は、それを見つめるスノーデンにのしかかってくるほどの巨大な顔として表現される。スノーデンが感じている国家の力ということになるのだろうと思う。とにかくスノーデンの前に聳え立つような上司にはとても敵いそうにない。
 それでも“賢い保守”としてのスノーデンは国の悪事を知ってしまったからには、愛国者として内部告発をしなければならなかった。「国家とは何か」を一言で示すのは難しいけれど、とりあえず「国家は政府とはイコールではない」とは言えるだろう。だから愛国者だからこそ、スノーデンは政府を敵に回すことになる。

◆悪い冗談のような話
 監督のオリバー・ストーンはそんなスノーデンを共感を持って描いている。オリバー・ストーン自身が『プラトーン』で描かれたようなベトナム戦争を経験することによって、政府に対して批判的になったのと似たような経緯を辿っているからかもしれない。
 また、この作品ではオバマ前大統領も批判的に描かれていて、何も「米国第一(アメリカ・ファースト)」というのは新しい大統領だけではないらしい。というよりはアメリカ政府は国民ですら第一ではないようだし、他国など屁みたいなものなのかもしれない。
 スノーデンは日本の横田基地にも仕事に来ていて、日本のインフラも一気に潰せるようなウイルスをすでに仕込んでいるらしい。嘘みたいな話だし、まさかホントに実行するとは思えないが、脅しとしては十分に効果的に使えるネタだろう。悪い冗談だと思いたいくらいリアリティに欠ける話だけれど、国家のためという大義があればそんなことすら可能ということなのだろうか。

シチズンフォー スノーデンの暴露 [DVD]


オリバー・ストーンの作品
Date: 2017.02.06 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『マグニフィセント・セブン』 崇高さよりもドンパチが楽しい

 黒澤明『七人の侍』とそのリメイク版である『荒野の七人』を原案とした作品。
 監督は『トレーニング デイ』『イコライザー』などのアントワーン・フークア
 キャストはデンゼル・ワシントン、クリス・プラット、イーサン・ホーク、ビンセント・ドノフリオ、イ・ビョンホン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、マーティン・センズメアーなど。

アントワーン・フークア 『マグニフィセント・セブン』 様々な人種の7人。リーダー的な存在はデンゼル・ワシントン演じるサム・チザム。

 『荒野の七人』の原題は「The Magnificent Seven」なのだそうだ。有名な作品だけれど原題は知らなかったのだが、これは本作とまったく同じタイトル。だから直接的には『荒野の七人』のリメイクということなのかもしれない。
 無法者に困り果てた村人が用心棒として人を雇うという大枠は同じだが、細かい部分では違っているところもある。特に本作の7人は様々な人種によって構成されているというところが目立つところだろう。というのも村人を助ける発起人になるサム・チザム(デンゼル・ワシントン)は黒人だし、そのほかにもメキシコ人や韓国人、さらにはインディアン(=ネイティブ・アメリカン)も面子に加わっている。
 時代は南北戦争後で、そのころにこうした人種混合チームが成り立つのかどうかはあやしいだろう。新しい大統領は「米国第一(アメリカ・ファースト)あるのみだ」とか言って国境を封鎖したりしたいようだが、結局のところアメリカを形作っているのは多くの移民たちなんだなあなどと感じさせる作品になっている(生き残る面子にも注目すべし)。

『マグニフィセント・セブン』 紅一点のエマ(ヘイリー・ベネット)だが、この人も「タマがない」村人に代わって立ち上がる男勝り。

 ツッコミどころがあるとすれば、なぜ7人が命を賭けてまで村を守るために戦わなければならないかという動機がはっきりしないことだろうか。旧作の『荒野の七人』は人集めの部分が短い割りには説得力があったような気もするので、本作のインディアンのレッド・ハーベスト(マーティン・センズメアー)は誘われもしないのにいつの間にかメンバー入りをしているのが不思議な気もする(活躍ぶりにはスッキリしたけれど)。
 さらには夫の敵討ちっぽい雰囲気を漂わせる紅一点のエマ(ヘイリー・ベネット)もそうだし、最後になってサム・チザムの目的も正義というよりは私怨だったことが判明することからすると、旧作のタイトル「The Magnificent Seven」をそのまま使っているのはちょっとズレているような気がしないでもない(あまり崇高な感じはしないから)。とはいえ単に娯楽作として見れば十分に楽しめる作品となっていたと思う。
 
 村を襲うことになる悪党たちのキャラはちょっと弱いけれど、敵の人数は倍増していてスケールアップしているし、ガトリング銃やダイナマイトなども登場して派手なドンパチをやらかしてくれる。とにかくラスト30分の攻防はとても見応えがあった。素早いカットをつないでいく間に、時折地面スレスレの低い位置からアクションを捉えたショットが挟み込まれるあたりがとても臨場感があった。
 エンド・クレジットで流れる旧作のメロディも感動的だし、尺八風の曲は黒澤明版に対する敬意の表れだろうか。西部劇に尺八の音というのも妙だけれど、意外とはまっていたと思う。

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Date: 2017.02.03 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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