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『シークレット・オブ・モンスター』 耳に残るはスコット・ウォーカーの音楽

 ジャン=ポール・サルトル「一指導者の幼年時代」という中篇(新潮文庫『水入らず』所収)に着想を得たという作品。
 監督・脚本は役者として『ファニーゲームU.S.A.』『マーサ、あるいはマーシー・メイ』に出演していたというブラディ・コーベット

ブラディ・コーベット 『シークレット・オブ・モンスター』 主要な4人の人物。美しい少年(トム・スウィート)は女の子に間違えられる。


 時は第一次世界大戦後のフランス。そこにアメリカからある家族がやってくる。父親(リアム・カニンガム)は政府高官でヴェルサイユ条約の締結に関わる仕事をしていて留守がちだ。妻(ベレニス・ベジョ)は一人息子に手を焼いている。少女のような風貌のプレスコット(トム・スウィート)は、教会に集う信者たちに向かって石を投げつけたりする奇妙な行動をし始める。

 冒頭から大音量で響くスコット・ウォーカー(『ポーラ X』の音楽を担当していた人)の音楽が極めて印象的。この冒頭の曲は公式ホームページでも聴くことができるが、何かただならぬことが起きそうな雰囲気を漂わせて不安感を煽る。それでいていつまでも聴いていたいような癖になるものがある。
 主人公の美しい少年プレスコットは成長して独裁者となるわけだが、この作品では幼年時代のいくつかのエピソードによってプレスコットがモンスターであることが示される。ただスコット・ウォーカーの不穏な音楽にぴったり合うほどのモンスターとは言えず、わがままなお坊ちゃまというレベルで末恐ろしいほどのものはあまり感じられない。この作品が観客を不安する何かがあるとすれば、それは音楽の力に拠るものが大きいような気もして、音楽が響かない部分はかえって平板にも感じられた。

 ※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!


『シークレット・オブ・モンスター』 フォトジェニックだが結構わがままな少年である。

 ラストにいよいよ秘密が明らかにされることになるのだが、そのエピソードはとても短く、カメラの動きも混沌としていて何だかよくわからないままに終わる。というのは最後に独裁者として登場するのは、脇役として登場していたロバート・パティンソンだからだ。勘の鋭い人は察するのかもしれないけれど、私にはすぐには理解不能だった。
 あとになって冷静に考えてみると、某サイトに出ていたレビュー「ラストシーンで全てを理解できる」の解釈が正しいのだろう。つまりは少年の母親(ベレニス・ベジョ)は不倫をしていて、プレスコットの本当の父親はロバート・パティンソンが演じているチャールズだったということになる。ラストの独裁者はプレスコットの成長した姿であり、父親であるチャールズと瓜二つだからロバート・パティンソンが演じていたということになる。
 それにしてもこの結末では独裁者を生み出したのは家庭環境の問題にすぎないということになるわけで、隠されていた秘密が暴かれてもかえって興醒めかもしれない。

 サルトルの原作は単なる着想でしかないわけだけれど、原題「THE CHILDHOOD OF A LEADER」はサルトルの原作から採られているわけで無関係とは言えないのだろう。そのサルトルの原作では主人公の紆余曲折ある精神的遍歴が追われていくことになるのだが、主人公はある工場の指導者の息子で、やがてその工場の指導者へなることを決意する。工場の指導者とはいえ彼はやはり支配階級に属していて、主人公は彼に服従することになる工場の職工たちの期待に沿うような指導者になろうとする。ちなみに文庫版には中村真一郎のこんな解説が書かれている。

 サルトルは、この作品の中で、無限の可能性を持って生まれた人間が、ある宿命をみずから仮構することで(したがって、大部分の可能性を流産させることで)、いわゆる大人になる、その過程を描いている。主人公は、「自己にとっての自己」(対自)ではなく、「他人に見られるままの自己」(即自)を選ぶことで、支配階級の人間となる。ある意味では、これはファシズムの心理の分析だといえる。


 サルトルの用語をきちんと理解しているわけではないのだけれど、独裁者が台頭することになるのは独裁者を求める大衆がいるからということになるのだろう。それが「ファシズムの心理」と呼ばれているものだ。ひとりの人間の狂気が独裁者を生むのではなく、それを熱狂的に支持する大衆がいたということのほうが重要なのだ。サルトルの原作の主人公は服従する側の期待に乗っかることを決意しているのだから。
 それからすると『シークレット・オブ・モンスター』のプレスコットの秘密が家族のいざこざにすぎないというオチは、あまりに小さくまとまってしまったような気もする。

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Date: 2016.11.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 リトマス試験紙として

 『ビフォア・サンライズ』『6才のボクが、大人になるまで。』などのリチャード・リンクレイターの最新作。

リチャード・リンクレイター 『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 賑やかな面々。これでも全米屈指の野球選手たちなのだ。

 カーステレオから流れる能天気でご機嫌な音楽。運転するジェイク(ブレイク・ジェナー)がフロントグラス越しに目をやるのは女の子のお尻。野球部に推薦入学したジェイクはこれから始まる大学生活に胸躍らせる。この作品は大学生活が始まるまでの3日間の話だ。
 リチャード・リンクレイターは“時間”をテーマにした作品も多く、『6才のボクが、大人になるまで。』では12年間という時が経過して少年が大人になるまでが描かれるが、この『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』では特別な3日間が丹念に追われていく。ジェイクは野球部の寮に入り、チームメイトたちと一緒に音楽とお酒と女の子という楽しいばかりの時間を過ごす。ジェイクにはまだ悩みもなければ葛藤もない。練習も授業も始まる前で、彼らのすることは青春時代を思う存分楽しむだけなのだ。
 時は1980年。それをリアルタイムで切り取っていく。ここには現在から過去を振り返るという視点はないわけだけれど、それでも「永遠に続けばいい」というような特別な“時間”を感じさせる。というのもチームメイトの一人が去り際に放つ「今を楽しめ。永くは続かないんだ」という思いは、どこかで誰もが感じているからかもしれない。とか言いつつもやっていることはほとんどバカ騒ぎで、「後悔しないために」と女の子を説得してやらせることはキャットファイトだったりもするのだけれど、リンクレイターはそんな“時間”を慈しむように撮っている。

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 ジェイク(ブレイク・ジェナー)はビバリー(ゾーイ・ドゥイッチ)という女の子と親しくなって……。

 リンクレイターが当時実際に聴いていたというヒット曲もあって、とにかく楽しい作品であることに間違いはない。(*1)ただ、なぜだか素直には褒められないような気もするのは、彼らがあまりにもうらやましすぎるからだろうか。
 この作品では野球部はスクールカーストの頂点である。劇中には頂点にいる若者たちばかりが登場して、それを横目に妬んでいるようなその他大勢の底辺の連中は出てこない。屈折しているのが青春で、そんなところに二度と戻りたくないという人間からすると彼らはまぶしすぎるのだ。
 ビバリー(ゾーイ・ドゥイッチ)が「ジム・モリソン生存説」を聞かせることでジェイクを弁別していたように、この映画は観客にとってのリトマス試験紙としての役目を果たすかもしれない。この映画を素直に楽しめる人はジェイクと同じような頂点に近い人間なのだろう。
 他方の底辺の人間だって、この作品で描かれるような特別な時間を過ごしたかったはずなのだけれど、それにはなかなか手が届かない。となるとそれを「すっぱいブドウ」だと決め込んで忘れ去ろうとする。いつの間にかに仲間と特別な時間を過ごすことよりももっと大事なことがあるのではないかと勘違いするようになり、こうした作品を薄っぺらいと感じたりして単純に楽しめなくなる。多分にそんなことはあるんじゃないかという気はする。

 ビバリーを演じていたゾーイ・ドゥイッチはリー・トンプソンの娘さんだそうだ。80年代に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズで人気者となったリー・トンプソンの娘さんがこんな役を演じているわけで、変なところで時間の経過を感じさせる作品でもあった。

(*1) ザ・ナックの「マイ・シャローナ」以下の曲名リストは公式ホームページに。劇中では曲は流れないものの、ニール・ヤングのアルバム『ディケイド~輝ける10年』を巡っていざこざが生じるというエピソードもちょっとニヤリとさせる。


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  ↑ これはサウンドトラック。
Date: 2016.11.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『溺れるナイフ』 「遠くへ行きたい」という願いを叶えてくれる人

 『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』などの山戸結希監督の最新作。
 原作はジョージ朝倉の同名マンガ。

山戸結希 『溺れるナイフ』 航一朗(菅田将暉)と夏芽(小松菜奈)。ビジュアル的には青春ラブストーリーなのだけれど……。


 東京でモデルの仕事をしていた望月夏芽(小松菜奈)は、親の都合で田舎の家に引っ越すことになる。夏芽たちを歓迎する集まりの退屈さに家を出た夏芽は、立入禁止の海に入り込んでいくと、そこで長谷川航一朗(菅田将暉)と出会う。

 観てきた人の感想を見ると、この作品はあまり評判がよくない。というのは人気マンガの原作の映画化ということで原作ファンから嫌われてしまったということもあるのだろうし、登場人物の見た目のイメージが10代の青春ラブストーリーなのに、中身はそれとはかけ離れていたからかもしれない。
 私自身は原作マンガを読んでいないので原作との違いはわからないけれど、映画を観る限りこの作品の主人公・航一朗のキャラクターは明らかに『火まつり』(柳町光男監督)で北大路欣也が演じた達男の造形を受け継いでいる。どちらの作品も火祭りが重要なモチーフになっていることも共通しているし、『火まつり』の達男が神様のことを親しみを込め“神さん”と呼ぶように、『溺れるナイフ』の航一朗も“神さん”と呼ぶ。達男が神様にかわいがられタブーを恐れることがないように、航一朗も「この町のモンは、全部俺の好きにしてええんじゃ」と豪語し傍若無人に振舞う。
 それから『溺れるナイフ』の登場人物の「広能」とか「大友」のように『仁義なき戦い』シリーズから採られたかのような名前だし、その方言は広島弁っぽい。『火まつり』とか『仁義なき戦い』あたりに影響を受けた原作者が書いた物語だとすれば、そんな甘ったるいラブストーリーになるはずもないのかもしれない。

 夏芽は航一朗に出会った途端に彼に惹かれることになるわけだけれど、そこに介在しているのは恋愛の要素ばかりではない。のちに夏芽は航一朗の気を惹くために写真集や映画の仕事をしてみたりもすることになるけれど、夏芽の心の奥底には広能晶吾(志磨遼平)という写真家が指摘するような「遠くへ行きたい」という願いがある。夏芽が航一朗に惹かれるのも、夏芽にとって彼は最も遠くへ連れてってくれることを感じさせる存在だったからだろう。
 立入禁止の海で初めて航一朗と出会った場面(ここではほかの場面の青い海と違って、限りなく真っ黒な海が広がっているのが印象に残る)。夏芽は鳥居を潜って神様の住む聖域へと入り込んでいく。鳥居の先は異界である。この世ならぬ場所で、この世ならぬ存在(航一朗)に出会ったからこそ、夏芽は「遠くへ行きたい」という願いを叶えてくれる何かを航一朗に感じて一瞬で恋に落ちる。
 夏芽にとってそれは恋であると同時に戦いでもある。航一朗に負けるようでは遠くには行けないだろうし、航一朗と一緒にさらに「遠くへ行きたい」という気持ちも感じている。そんなアンビバレントな感情なのであって、よくあるラブストーリーとはちょっと毛色が違う作品なのだと思う。

『溺れるナイフ』 航一朗(菅田将暉)は火祭りでダイナミックな舞を披露する。

 山戸結希監督の作品は『おとぎ話みたい』の自意識過剰なモノローグとか『5つ数えれば君の夢』の10代の女の子が絶対に言いそうにない小難しい台詞が印象的だった。この作品では山戸監督独自の饒舌な台詞はタイトルバックくらいで抑えられ、長回しで役者を追い続け1回限りでやり直しのきかない青春の瞬間を捉えることを狙っている。だから役者のアドリブのたどたどしい感じが伝わってくるし、台詞をとちってもそれがそのまま使われている。大友(重岡大毅)が体調を崩した夏芽を見舞ったときのやりとりなどはどこまで決められていたものなのかはわからないけれど、やっているうちに意図せざるものが撮れてしまったみたいに思わせる一瞬のキスなどちょっとドキッとする。

 ラストの二度目の火祭りのエピソードは、現実ではなくて夏芽の出演した映画のもの。そんなふうに原作を読んでいない者としては解釈した。ある出来事で全能感を失うこととなったふたりだが、夏芽は自分の過去をモデルにした映画に出演することで、過去の呪縛から逃れることになる。航一朗は航一朗で神様への舞を一心不乱に踊ることで吹っ切れていたようにも思える。
 原作マンガでは二度目のことも現実として描かれているようで、このあたりは原作を圧縮しすぎている感じがしないでもないし、劇中音楽の選曲には首をかしげる部分があるのだけれど、それでも原作ファン以外なら楽しめる部分は多いと思う。

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Date: 2016.11.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『孤独のススメ』 孤独な堅物男が変わるとき

 ディーデリク・エビンゲという新鋭監督の撮ったオランダ映画。
 ちなみに原題は「Matterhorn」。最後に登場するスイスの山のことで、邦題はちょっと内容とズレている。
 この作品はロッテルダム国際映画祭ほかで観客賞を受賞しており、今年4月に日本でも劇場公開され、今月になってソフトがリリースされた。

ディーデリク・エビンゲ 『孤独のススメ』 フレッド(トン・カス)はテオ(ロネ・ファント・ホフ)と余興でこづかい稼ぎ。テオはヤギの鳴きマネを披露する。

 妻を亡くし、息子とは音信不通のフレッド(トン・カス)は、孤独で単調な毎日を過ごしている。6時ぴったりに祈りを捧げて食事を採り、日曜の礼拝にも欠かさず出席する。そんなフレッドの家にテオ(ロネ・ファント・ホフ)という男が舞い込んでくるところから物語は始まる。
 テオは言ってみれば白痴みたいな存在で、ほとんどしゃべることもなく、フレッドの言うことは忠実に守る。なぜかヤギの鳴きマネがうまく、それで子供たちに喜ばれたりもする。そんなテオとの共同生活によって堅物だったフレッドが少しずつ変わっていく。
 テオのような純粋なキャラクターはともすればあくどいものになりそうだけれど、テオは単なる薄汚いおじさんというのがうまいところだろうか。しかもヤギのマネで子供たちに喜ばれるという描写も、それほどおもしろいとも思えないわけで、ヒゲ面のおじさんが子供たちにすり寄っていく姿は微妙……。とぼけたユーモアを感じなくもないし、子供たちがテオの純粋さを見抜いているのかもしれない。

 『孤独のススメ』はLGBT映画祭などでも賞を受賞している。というのはテオとフレッドの関係がそんなふうに見えなくもないからだろう。テオはフレッドの亡くなった妻の服などを着てみたりしているうちに、フレッドが語っていた結婚というものが素晴らしいものと考えたものかもしれない。そのうちふたりは教会でふたりだけの結婚式を挙げることになるのだが、ふたりは性的関係があるわけではない。
 音信不通となっているヨハンという息子は同性愛者であり、それが原因でフレッドはヨハンを追い出したまま今まで許すことができないでいる。そのことがフレッドとテオの人間的なつながりを生むきっかけでもあり、フレッドはテオと触れ合うことで息子ヨハンのことを受け入れる準備が整うことになる。
 冒頭からバッハの調べがフレッドの単調な生活の音楽となっているわけだが、ラストにヨハンが「This Is My Life」を情感豊かに歌い上げて一気に涙を誘う。「This Is My Life」の歌詞もヨハンの人生そのもののようで、ヨハンとフレッドの視線が交わる場面が何とも感動的だった。いくつもの映画祭で観客賞を受賞したということも納得。

 よくわからなかったのはあちこちでハエが飛び回っているところ。フレッドの家は神経質なくらいに清潔なのに、浮浪者気味のテオがいるからか何度もハエの羽音が……。フレッドとテオを巡って三角関係のようになる隣人カンプス(ポーギー・フランセ)の家にも、ハエ取り機みたいなものまで設置されているし、オランダはハエが多いのだろうか?



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Date: 2016.11.15 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『ミュージアム』 誰が罪人?

 『るろうに剣心』や『秘密 THE TOP SECRET』などの大友啓史監督の最新作。
 原作は巴亮介の同名マンガ。

大友啓史 『ミュージアム』 カエル男とそれを追う刑事沢村(小栗旬)。


 雨の日だけに現れる連続殺人犯。犯人は雨ガッパの下にカエルのマスクを被っている。事件の現場にはカエル男のメモが残されている。刑事の沢村(小栗旬)はカエル男を探っていくと、次のターゲットとなるのは沢村の妻・遥(尾野真千子)であることが判明する。

 犯人のカエル男は「ドッグフードの刑」ではある女性を犬に喰わせ、「母の痛みを知りましょうの刑」では母親にパラサイトしているオタクの肉をそぎ落とすという狂気じみたことをしている。この被害者の共通点は「少女樹脂詰め殺人事件」の裁判員となっていたことで、カエル男はその事件を裁いた人間たちを私刑(リンチ)していることが判明する。
 沢村の妻もその裁判員の一人で、すぐにも保護しなければいけない対象なのだが、沢村が刑事の仕事にのめり込むあまりにまったく家庭を顧みずにいたことで子供を連れて出て行ってしまったあとだった。

 カエルの扮装をした男が連続殺人を犯していくというあり得ない設定だし、ツッコミどころも多い。それでも次はどんな殺され方をするのかという悪趣味な興味で観客を引っ張っていくし、雨は降り続けるどんよりした世界とカエル男の造形はよくできていたと思う。
 出演陣は誰もがオーバーアクト気味な印象だが、もとから設定が設定だけにそんなものかもしれない。そんななかカエル男を演じた妻夫木聡がかえって自然に見えたのは、カエル男の存在自体が化け物みたいなものだろうか。カエル男の最期は『悪魔の毒々モンスター』みたいだった。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『ミュージアム』 ダークなイメージはやはり『セブン』を意識しているのだろう。

 連続殺人の被害者たちが何かしらの罪を負わされてカエル男に殺されるというのは、いかにも『セブン』とよく似ている。『セブン』の被害者たちはカトリックの「7つの大罪」という考えに基づいて、憤怒・嫉妬・高慢・肉欲・怠惰・強欲・大食という罪のために殺されたことになっている。
 『ミュージアム』の場合は罪が先にあるわけではなく、ターゲットが決まっていてカエル男が勝手に罪を設定しているだけだからデタラメである。それでも「母の痛みを知りましょうの刑」「均等の愛の刑」とか家族関係の問題が多く(ペットも家族とすれば「ドッグフードの刑」も)、最後のターゲットとされる遥の罪も刑事である沢村の仕事を理解していないということで「お仕事見学の刑」となる。

 沢村はカエル男の罠にはまりえげつない悪夢を見させられることになるのだが、最後の最後の部分では生き残った息子の将太(五十嵐陽向)がカエル男と同じ光線過敏症という病気になっているかもしれないことがほのめかされる。これは悪意にさらされることによって生じる心因性のものだと説明される。
 カエル男は両親を惨殺されたという過去が明らかにされている。それでは将太がどこで悪意にさらされたのか? もちろんカエル男と接触して悪意にさらされたとも言えるのかもしれない。しかしいつも一緒にいたのは母親であるはずで、遥が悪意を発していたのではないかとも思わせなくもない。
 カエル男と遥と沢村が対峙したとき、遥は「私を殺して」と言い張っていたのは、カエル男との約束があったからなのだろうが、それ以上に自分に対してやましいことがあったのではないかと邪推してしまう。もしかすると遥は仕事にかまけて沢村が家に寄り付かない間に、その沢村のことを悪し様に語るようなことがあったのかもしれない。そのことが息子の将太のストレスになっていたと考えるのは深読みしすぎだろうか。

 最初は家庭を顧みない夫が罪人だったわけだけれど、次第に理解のない妻という方向へと罪が移動していくようで、そのあたりがとても日本的とも思えた。『セブン』においては神との関係での罪がはかられるのだとすれば尺度はある程度決まっているのだろう。一方で『ミュージアム』の沢村と遥は立場としては同等なはずで、夫には夫の言い分があるし、妻には妻の言い分がある。尺度はそれぞれの立場によって変わってくる。だからこそどちらも罪人になる可能性があるのかもしれず、常に互いのパートナーの顔色を窺っていなければならないのかもしれない。神の顔色を窺うのも大変だろうけれど、こちらも楽ではないという気もする。

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Date: 2016.11.13 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『湯を沸かすほどの熱い愛』 ぬくもり程度では納得できない

 監督・脚本は『チチを撮りに』の中野量太。『チチを撮りに』は、最初は自主制作としてスタートしたものの、映画祭などで評判がよかったために劇場公開された作品とのこと。
 今回の『湯を沸かすほどの熱い愛』が商業映画デビュー作ということになる。

中野量太 『湯を沸かすほどの熱い愛』 双葉という肝っ玉母ちゃん(?)を演じるのは宮沢りえ。


 幸野双葉(宮沢りえ)は娘の安澄(杉咲花)とふたりだけの生活。実は1年ほど前に夫が姿を消し、経営する銭湯も休業状態なのだ。そんなある日、双葉はバイト先で突然倒れる。病院で診察を受けると末期がんとの宣告を受け、一度は茫然とする。しかし双葉は絶望することもなく、残された日々でやらなければならないこと考える。

 よくある「余命宣告もの」である。日本映画にはなぜこうした題材が多いのだろうか。(*1)そんなふうにいぶかしむほどにこの種の作品は多い。これだけ多いとかえって食傷気味で敬遠されそうでもある。実際にこのブログで取り上げたことのある「余命宣告もの」は、『トイレのピエタ』くらいだろうか。奇しくも『湯を沸かすほどの熱い愛』でも重要な役柄を演じる杉咲花が準主役で、脇役として宮沢りえも顔を出す。
 そんなわけで『湯を沸かすほどの熱い愛』という作品もお涙頂戴といった湿っぽい感じになるのを懸念していたのだが、そこはうまく回避していた。主人公の双葉は子供たちには病気のことは一言も告げずに、やるべきミッションを達成していくのだ。
 そうしたことを家族は見てきているから、病気がわかってからも最後まで前向きに双葉の死にも立ち向かうことになる。もちろん色々と泣かせるところはあるのだけれど、やるべきことはやりきったという達成感のほうが強く残る。

(*1) 余命宣告ものの映画が多いのは、実際にがんで亡くなる人が多いという現実から生じているのだろう。この作品にもちょっとだけ顔を出しているりりィは昨日がんで亡くなったそうだ。ちょっと前の『リップヴァンウィンクルの花嫁』でも重要な役柄を演じていたのに……。

◆死ぬまでにこなすべきミッション
 宮沢りえが演じる双葉という主人公は、世間並みの母親からはズレている。娘の安澄に自分を「お母ちゃん」と呼ばせているあたりは野暮ったいし、対人関係ではおせっかいで押し付けがましい。人から嫌われないように相手の気持ちを慮るような態度とも縁がなさそうだ。
 双葉は『死ぬまでにしたい10のこと』のように、自分の欲望に正直になるのではない。多分、そちらのほうが普通なのではないかと思うのだが、双葉は誰かのためにやらなければならないことを数え上げてそれをこなしていくのだ。
 まず旦那の一浩(オダギリジョー)を連れ戻し家業である銭湯「幸の湯」を建て直す。学校でいじめに遭っている安澄にはその対処法を授け、一浩の連れ子である鮎子(伊東蒼)をしゃぶしゃぶの儀式で家族として迎い入れる。たまたま出会ったヒッチハイカー(松坂桃李)にはご丁寧にも目標を設定して奮起を促す。そんなふうにして新しく生まれ変わった「幸の湯」と、そこに集う人たちに今後の道筋をつけていくことになる。


 ※ 以下、ネタバレあり!

『湯を沸かすほどの熱い愛』 新しい幸野家の面々。オダギリジョーはダメ男役がはまっていた。

『湯を沸かすほどの熱い愛』 安澄(杉咲花)は復活した「幸の湯」で番台に座る。

◆双葉の極端な対処法
 いじめから目を逸らそうとする安澄に対し、双葉は「逃げちゃダメ」と諭す。安澄は「何にもわかってない」と反発するのだが、双葉は半ば強引に安澄を学校へと追いやる。
 ここでのいじめに立ち向かうことが大事だという方法論はかなり危険を伴う。逃げ場を失ったことでさらに追い込まれて自殺などというケースなども起こりうるからで、通常ならば逃げ場を与えることが対処法とされているのではないだろうか。
 たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ(14歳)はいつも「逃げちゃダメだ」を繰り返していた。同じ言葉でもこちらは「逃げること」の効用を理解している。「逃げること」で一時は楽になるし、それで解決することもあるかもしれない。だからシンジは何度も逃げ出してもいる。それでもほかにエヴァに乗れる人は限られているわけで、自ら納得した上で「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせていたわけだ。ほかの誰かが「逃げるな」と説教しているわけではない。
 そこから考えると双葉のやり方がいかにも極端で無茶があることだとわかるだろう。それでも余命宣告を受けた双葉には時間がないわけで、のんびり時が解決してくれることを待つわけにはいかない。だから双葉の劇薬の役目を果たす必要があったということだろう。

◆「逃げること」の遺伝子
 双葉は「立ち向かうこと」を教えるわけだけれど、それには生い立ちに理由があるのかもしれない。というのも新しい幸野家のメンバーには「逃げること」の遺伝子がまとわりついているからだ。
 旦那の一浩は家業を放って逃げ出していたし、鮎子の母も鮎子を一浩に押し付けて出て行ってしまった。そして安澄の本当の母親は双葉ではなく、自らの障害を理由にして子育てから逃げてしまった女性だったのだ。さらにはダメ押しで双葉自身も母親から捨てられていたことも明らかになる。
 幸野家は頼りないけれど憎めない一浩が生み出してしまった、そんな女性たちの集合体なのだ。幸野家の人々は「逃げること」の遺伝子を受け継いでいるかもしれず、だからこそ双葉は「逃げること」を拒否して「立ち向かうこと」を選んだのかもしれない。
 双葉は一浩にはお玉で一撃を喰らわすし、安澄の母・君江(篠原ゆき子)にも無言でビンタをお見舞いし、さらには自分の母親(りりィ)の家にも石を投げつけるほど、「逃げること」に対しては感情的になるのだ。そういう双葉の姿勢があったからこそ、「逃げちゃダメ」という言葉も単なる処世訓以上の強さで家族のみんなに影響を与えていくことになったのだろう。

 ラストに関しては10人が10人納得するというものではない。人と人のつながりを確認するのにはハグするというのが一番わかりやすい。たとえば『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』はそういった場面で泣かせるのだが、この『湯を沸かすほどの熱い愛』はそんなぬくもり程度では納得できないとでも言うように極端なほうへと突っ走る。これは逃げないで双葉の死に立ち向かったということだし、双葉の熱い愛は家族に十分に受け継がれたことを示していたと思う。

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Date: 2016.11.12 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『ジュリエッタ』 言えなかったこととは何か?

 『オール・アバウト・マイ・マザー』『私が、生きる肌』などのペドロ・アルモドバルの最新作。
 原作はノーベル文学賞受賞者のアリス・マンローの短編作品。

ペドロ・アルモドバル 『ジュリエッタ』 年老いたジュリエッタ(エマ・スアレス)と若い頃のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)。


 マドリードでひとり暮らしをしているジュリエッタ(エマ・スアレス)は、恋人のロレンソとポルトガルで老いることを決断したところ。しかし、街角で会った知人に12年前に消えてしまった娘の話を聞くと、突然、ポルトガル行きを断念し……。

 ジェリエッタはすでに中年を迎えていて残りの人生は別天地で過ごそうと考えている。しかし娘の消息を知るとその計画を中止する。恋人のロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)は理解ある男でジュリエッタの過去に関して追求することはないのだが、彼に隠している何かがあるということだけはわかる。やがてジュリエッタはかつて自分が暮らしていた場所へと戻り、「今まで言えなかったすべてを話すわ」という言葉と共に娘へ宛てて日記を書き始める。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『ジュリエッタ』 色使いが強烈! ジュリエッタはこんな雰囲気でも古典の先生。

 理解ある恋人との生活をふいにしてまですることが、娘アンティアへの日記を書くことだというのだから余程の秘密が語られるのではないかと推測させる。それから若い頃のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)が登場し、娘の父親ショアン(ダニエル・グラオ)と出会うところから回想へと移行していく。彼女の半生はそれなりに波乱に満ちているのだが、娘に告白するべき秘密らしきことはない。「言えなかったすべて」というのは、一体何のことだったのだろうか?

 問題となるのはアンティアの父親ショアンが漁に出て嵐に遭って死んでしまうところだろう。これは事故死なのだが、アンティアは父親の死の原因が母親ジュリエッタにあると考えている。後にわかることだが、お手伝いの女がアンティアに何かしらを吹き込んでジュリエッタを悪者に仕立てたのかもしれない。それでもジュリエッタ自身はそうしたことには気づいていないために、アンティアがなぜ姿を消したのかがわからない。秘密があるとすれば娘のアンティアのほうなのだから、ジュリエッタの日記には告白することなどあるはずもなく、ただ自分の過去を振り返るだけということになる。
 ちなみにチラシでは若い女性が年老いた女性を労わるような構図になっているのだが、これは母と娘のふたりではなくてどちらもジュリエッタである。手前が年老いたジュリエッタ(エマ・スアレス)で、後ろにいるのが若い頃のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)だ。ここには娘の存在はないわけで、結局は過去を振り返り、過去の自分に慰められているだけにも思える。
 アルモドバルの作品では母と娘の関係は重要な要素となってくるわけだけれど、『ジュリエッタ』では娘のことは単なるきっかけにしか見えなかった。最後は今後の明るい展開を予想させるけれど、メインディッシュ前にディナーが終了してしまった感じで、胃がもたれるくらいのアルモドバルの諸作品と比べるとちょっと食い足りない。

 ジュリエッタにギリシャ神話の講義をさせ、魔女めいたお手伝いの女(ロッシ・デ・パルマ)が予言らしき言葉をもらして宿命のようなものをほのめかしたり、なぜか自殺する男に遭遇して罪悪感に駆られたりもする。しかし、そうした主題が中途半端に浮かんでは消えていくばかりでまとまりに欠けたように思えた。強烈な色使いは健在だし、カッコいい女優陣の活躍は楽しめるのだけれど……。

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Date: 2016.11.09 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『ザ・ギフト』 やってはいけないことをやってしまう男

 『ブラック・スキャンダル』でも役者としていい味を出していたジョエル・エドガートンの監督としてデビュー作。
 ジョエル・エドガートンは『奪還者』や現在公開中の『ジェーン』(ナタリー・ポートマン主演)の脚本も手がけているらしくなかなかの才人である。

ジョエル・エドガートン 『ザ・ギフト』 サイモンとロビンの夫妻を見つめるゴード(ジョエル・エドガートン)。


 サイモン(ジェイソン・ベイトマン)とロビン(レベッカ・ホール)はサイモンの故郷に戻り新居を構える。久しぶりに戻った故郷でサイモンとロビンはサイモンの同級生と名乗るゴード(ジョエル・エドガートン)と出会う。その場は社交辞令的にあいさつを交わしたものの、サイモンはゴードのことをよく覚えていない。しかし、ゴードはサイモンの新居に贈り物を届けるようになり……。

 ゴードの贈り物攻撃はそれだけでも不気味である。贈り物には必ず返礼がなされなければならないということは社会において根本的なものだからで、ゴードは贈り物の見返りに何を求めているのだろうかということが気になってくる。
 『ザ・ギフト』は典型的なサイコスリラーといった感じで始まる作品で、こうした作品では後半になるとモンスターが馬脚を露わして暴れ出しという展開になりそうなものだが、そんなふうには進まないのがうまいところ。エドガートン監督自身が手がけた脚本がよくできていて、結末には「なるほど」と唸ることになるだろうと思う。

『ザ・ギフト』 サイモン(ジェイソン・ベイトマン)とロビン(レベッカ・ホール)は新居に引っ越してくるのだが……。

 ゴードは迷惑な隣人であることは確かなのだが、それに対するロビンの神経質な反応もちょっと過敏でもある。ロビンの強迫観念がゴードをモンスターだと思い込ませているのかとも思わせる(ロビンはびくついていて物音などにも過剰に反応するものの、結局はほとんど何も起きない)。
 そんな強迫的なロビンの調査が見出すのは、旦那であるサイモンのほうがモンスターであったという事実だ。サイモンは人を蹴落としてでものし上がろうとする人間で、現在の仕事でも他人を追い落とすことで成功を勝ち取ろうとしている。ゴードはサイモンから酷い仕打ちを受け、人生を棒に振ったと考えているのだ。
 しかしサイモンがモンスターだと判明しただけでは終わらない。実は最後の贈り物はすでに仕掛けられているのだが、観客はもちろんのことサイモンもロビンもそれを知らない。

 ゴードは最初にサイモンに接触したときに聖書の言葉を示している。「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む」というもので、言ってみれば自業自得ということだろう。それでもそう言いつつもゴードは悔い改める機会をも与えている。ゴードが「いいことは悪いことから生まれる」という意味不明な言葉をサイモンに投げかけていたのは、過去にいじめはあったけれどサイモンが態度を改めゴードに謝罪するならば許すということだったのだろう。しかしサイモンはそれを無視することになる。
 ゴードがやったことは一番やってはいけないことのように見えて、実は何もしていないという意味ではスマートだった(不法侵入とかはしているけれど)。それでも最後の贈り物を受け取ったサイモンはことあるごとにイヤな気持ちになるだろうことは推測されるわけで、仕返しとしても決まっている。ゴードのことを気にかけていたロビンの胸のつかえも取れたであろうし、スッキリしないのはサイモンだけで意外に丸く収まったような気もする。

ザ・ギフト[Blu-ray]


Date: 2016.11.06 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『手紙は憶えている』 「忘却は救い」では済まないのだけれど

 『スウィート ヒアアフター』『白い沈黙』などのアトム・エゴヤンの最新作。
 脚本はベンジャミン・オーガスト

アトム・エゴヤン 『手紙は憶えている』 ゼヴ(クリストファー・プラマー)はマックス(マーティン・ランドー)から復讐についての指示を受ける。


 妻の葬儀が終わって一段落したころ、ゼヴ(クリストファー・プラマー)は友人マックス(マーティン・ランドー)から「約束を憶えているか」と尋ねられる。マックスはもの忘れの激しいゼヴに代わり、ゼヴが果たさなければならない復讐について手紙に記したのだという。ゼヴはその手紙に従って老人ホームを抜け出していくのだが……。

 90歳のゼヴは朝起きると妻のルースを探す。しかし、どこにもルースの姿はない。ルースはすでに亡くなっているのだが、ゼヴは認知症による記憶障害でそれを忘れてしまっているのだ。だからゼヴの1日はルースが亡くなったことの確認から始まる。
 そんな認知症の老人が復讐のために旅をすることになるわけだが、それには理由がある。ゼヴはユダヤ人だからだ。それは彼の腕に刻まれている囚人番号がはっきりと示している。マックスもアウシュヴィッツで一緒だったユダヤ人で、ゼヴは彼と“ルディ・コランダー”を名乗って生き延びている男を殺すことを約束しているのだ。

 ※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!!


『手紙は憶えている』 クリストファー・プラマーの熱演も見どころ。ピアノの演奏はピアニストを目指していたという本人のものだという。

◆ネタばらし!
 ゼヴは新しい記憶を次の日に持ち越すことはできない。そのために外部の記憶媒体に頼るほかない。誰かゼヴのことを知っている人がいればその人が教えてくれるかもしれないし、忘れてはいけないことをノートに記録しておくこともできる。この作品では友人マックスが記した手紙こそが外部の記憶媒体となっている。それがなければゼヴはいつまでも亡き妻の姿を探し求めるしかないのだが、その手紙のおかげでゼヴは毎朝自分の来歴と与えられた使命を確認することができる。
 1日しか記憶が保持できないという設定は『リピーテッド』とよく似ている。『リピーテッド』でも主人公の記憶障害に付け入ろうとする輩が登場したように、『手紙は憶えている』でもゼヴに都合のいい記憶を植え付けようという人物がいることは予想がつく。しかも予告編でも「ラスト5分の衝撃」などと煽っているわけで、結末に関しては予想が裏切られることもないだろうと思う。

 ここでネタは明らかにしてしまうと、(以下、要反転)ゼヴこそが探していた“ルディ・コランダー”だったということになる。実はゼヴはドイツ人であり、ナチスの親衛隊だったのだ。戦犯として捕らえられることを避けるためにユダヤ人に成り代わって逃亡していたのだ。
 このオチにはツッコミどころが多々あるだろう。たとえばアウシュヴィッツのことは憶えているにも関わらず、被害者の立場と加害者の立場を間違えてしまうことあるのかとか諸々。その意味では都合のいい部分もあることは確かなのだけれど、それでもなぜかラストには納得させるものがあったと思う。それにはゼヴがあまりにも耄碌したおじいちゃんで、その足取りの覚束なさに観客としても応援したくなってしまうということもあるかもしれないが、それだけでもなかったような気もする。アトム・エゴヤン『白い沈黙』『デビルズ・ノット』と、最近はちょっとコケていたので心配していたのだけれど、この作品は持ち直したんじゃないかと思う。

◆忘却は救い?
 太宰治「忘却は、人間の救ひである」(『お伽草紙』)と書いているが、ゼヴにはすべてを忘れてしまったことで安らかに生きている瞬間がある。劇中、道端で転んで入院させられたときには、手紙のことすら忘れてしまい子供と一緒になってアニメを見ながら声を出して笑っている。このときのゼヴは自分がドイツ人だとかユダヤ人だとかはまったく考えていないだろう。そうした属性から自由になったことでアニメに心から夢中になることができるのだ。
 属性から切り離されたゼヴは、ユダヤ人でもなければドイツ人でもない。アウシュヴィッツを生き延びてきたという来歴もない。そんなまっさらな人間としてゼヴは存在している。もちろん手紙を読む返すことで再びナチハンターとして目的を注入されることになるわけだけれど、ほかの様々な記憶が失われている分だけゼヴは人を縛り付けている属性からは自由になりニュートラルな立場にいる。
 ゼヴはそんな立場にいるからこそ純粋な判断をしている部分もある。劇中でゼヴがピアノを弾く場面があるが、一度目はメンデルスゾーンであり、二度目はワーグナーとなっている。ワーグナーはヒトラーが好んだドイツの作曲家であり、メンデルスゾーンはユダヤ系の作曲家だ。ゼヴにとっては人種のことなど関係なく、音楽としていいものはいいという判断をしているのだ。
 一方で3人目の“ルディ・コランダー”の子供として登場するナチ信奉者(ディーン・ノリス)は、ユダヤ人というだけですべてを拒否することになるのだろうし、復讐に執念を燃やすマックスも同様にナチスのことを決して許すことはないのだろうと思う。ゼヴと比べると、過去の記憶に囚われている人々の示す執念や頑なさには恐ろしいものを感じなくもない。
 もちろんホロコーストのことを忘れてしまえばいいというわけではない。ラストではゼヴはしっかりと過去を思い出し、自らの過去を悔いることになるだろう。

◆夢想家の立場から
 エゴヤンは『アララトの聖母』でも似たような題材を扱っている。(*1)『アララトの聖母』で描かれるのは、トルコによるアルメニア人虐殺だ。この作品は歴史を伝えることの重要性とその難しさも感じさせる。ゴーキーというアルメニア人の画家は、亡くなった母親の姿を絵に残すことで虐殺の被害者を忘却の彼方から救い出したと評されている。しかし、そのゴーキーは虐殺の記憶に苦しんだのか若くして自殺してしまう。「忘れるな、伝えろ」というメッセージを示しつつも、同時に複雑な想いも感じさせるのだ。
 過去の出来事とそれを受け取ることになる現在の登場人物とが複雑な構成で絡み合っていく『アララトの聖母』とは違い、『手紙は憶えている』はすべてが現在進行形で語られていく。というのはゼヴには過去が存在しないからだ。
 ゼヴはナチハンターとして行動するわけだが、あまり悲壮感はない。自動人形のように目的を遂行していくけれど、ゼヴは実際にはドイツ人なわけで、ナチに複雑な感情はあったとしても復讐心を抱いているわけではない。それでもゼヴがマックスに操られてしまうのは、ナチスが悪であるという常識的な判断は失われてはいなかったからかもしれない。

 ゼヴは記憶を失うことでニュートラルな立場にある。私はそんなふうにゼヴを見ていたわけだけれど、実際にはそんな人間はいない。それぞれが民族や国や歴史に縛られて生きているわけで、それを忘れることはできない。二度と不幸な歴史を繰り返さないためにも、悲劇の歴史を伝えていくことはもちろん重要なことだ。
 しかし、ジョン・レノンが「イマジン」で歌ったような夢想家ならば、そうした縛りから自由になることを想像するかもしれない。そもそもの始めから誰もがそうしたニュートラルな立場になれたとすれば、戦争にしても虐殺にしても生じなかったのではないか。そんなことをゼヴの姿から感じさせる瞬間があったようにも思う。

(*1) 今回久しぶりに観直したのだが、構成が複雑で到底要約して内容を伝えることは難しい。とりあえず声高にメッセージを訴えるだけの作品ではない。ちなみにクリストファー・プラマーも重要な役柄で出演している。


手紙は憶えている [DVD]


アララトの聖母 [DVD]


Date: 2016.11.03 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)
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