『シークレット・オブ・モンスター』 耳に残るはスコット・ウォーカーの音楽
監督・脚本は役者として『ファニーゲームU.S.A.』『マーサ、あるいはマーシー・メイ』に出演していたというブラディ・コーベット。

時は第一次世界大戦後のフランス。そこにアメリカからある家族がやってくる。父親(リアム・カニンガム)は政府高官でヴェルサイユ条約の締結に関わる仕事をしていて留守がちだ。妻(ベレニス・ベジョ)は一人息子に手を焼いている。少女のような風貌のプレスコット(トム・スウィート)は、教会に集う信者たちに向かって石を投げつけたりする奇妙な行動をし始める。
冒頭から大音量で響くスコット・ウォーカー(『ポーラ X』の音楽を担当していた人)の音楽が極めて印象的。この冒頭の曲は公式ホームページでも聴くことができるが、何かただならぬことが起きそうな雰囲気を漂わせて不安感を煽る。それでいていつまでも聴いていたいような癖になるものがある。
主人公の美しい少年プレスコットは成長して独裁者となるわけだが、この作品では幼年時代のいくつかのエピソードによってプレスコットがモンスターであることが示される。ただスコット・ウォーカーの不穏な音楽にぴったり合うほどのモンスターとは言えず、わがままなお坊ちゃまというレベルで末恐ろしいほどのものはあまり感じられない。この作品が観客を不安する何かがあるとすれば、それは音楽の力に拠るものが大きいような気もして、音楽が響かない部分はかえって平板にも感じられた。
※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!

ラストにいよいよ秘密が明らかにされることになるのだが、そのエピソードはとても短く、カメラの動きも混沌としていて何だかよくわからないままに終わる。というのは最後に独裁者として登場するのは、脇役として登場していたロバート・パティンソンだからだ。勘の鋭い人は察するのかもしれないけれど、私にはすぐには理解不能だった。
あとになって冷静に考えてみると、某サイトに出ていたレビュー「ラストシーンで全てを理解できる」の解釈が正しいのだろう。つまりは少年の母親(ベレニス・ベジョ)は不倫をしていて、プレスコットの本当の父親はロバート・パティンソンが演じているチャールズだったということになる。ラストの独裁者はプレスコットの成長した姿であり、父親であるチャールズと瓜二つだからロバート・パティンソンが演じていたということになる。
それにしてもこの結末では独裁者を生み出したのは家庭環境の問題にすぎないということになるわけで、隠されていた秘密が暴かれてもかえって興醒めかもしれない。
サルトルの原作は単なる着想でしかないわけだけれど、原題「THE CHILDHOOD OF A LEADER」はサルトルの原作から採られているわけで無関係とは言えないのだろう。そのサルトルの原作では主人公の紆余曲折ある精神的遍歴が追われていくことになるのだが、主人公はある工場の指導者の息子で、やがてその工場の指導者へなることを決意する。工場の指導者とはいえ彼はやはり支配階級に属していて、主人公は彼に服従することになる工場の職工たちの期待に沿うような指導者になろうとする。ちなみに文庫版には中村真一郎のこんな解説が書かれている。
サルトルは、この作品の中で、無限の可能性を持って生まれた人間が、ある宿命をみずから仮構することで(したがって、大部分の可能性を流産させることで)、いわゆる大人になる、その過程を描いている。主人公は、「自己にとっての自己」(対自)ではなく、「他人に見られるままの自己」(即自)を選ぶことで、支配階級の人間となる。ある意味では、これはファシズムの心理の分析だといえる。
サルトルの用語をきちんと理解しているわけではないのだけれど、独裁者が台頭することになるのは独裁者を求める大衆がいるからということになるのだろう。それが「ファシズムの心理」と呼ばれているものだ。ひとりの人間の狂気が独裁者を生むのではなく、それを熱狂的に支持する大衆がいたということのほうが重要なのだ。サルトルの原作の主人公は服従する側の期待に乗っかることを決意しているのだから。
それからすると『シークレット・オブ・モンスター』のプレスコットの秘密が家族のいざこざにすぎないというオチは、あまりに小さくまとまってしまったような気もする。
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