『インフェルノ』 ラングドン教授/失敗篇

 ダン・ブラウン原作の『ダ・ヴィンチ・コード』『天使と悪魔』に続くシリーズ第3作目。
 監督は前2作と同様にロン・ハワードで、主役のロバート・ラングドン教授にはもちろんトム・ハンクス。共演には『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の主演ということで注目されているフェリシティ・ジョーンズ
 
ロン・ハワード 『インフェルノ』 ラングドン教授(トム・ハンクス)はシエナ(フェリシティ・ジョーンズ)と一緒にフィレンツェを駆け抜ける。


 ラングドン教授(トム・ハンクス)は頭に傷を負ってフィレンツェの病院で目覚める。自分がなぜそんな場所にいるのか思い出せないラングドンは混乱するが、そのうちやってきた警官にも命を狙われる。その場は女医のシエナ(フェリシティ・ジョーンズ)に助けられ、自分が巻き込まれている事態を探っていくと、ゾブリスト(ベン・フォスター)という男の存在にたどり着く。

 ゾブリストの主張はこうである。このままいけば100年後には人類は滅びる。そのためには人類を今すぐに半分に減らさなければならない。ゾブリストは中世に猛威をふるった黒死病(ペスト)のようなウィルスを世界に撒き散らす計画を立てる。何とも自分勝手にも思えるのだが、一応は人類愛に貫かれている。というのは、自分が居なくなったあとに人類が滅びてしまうよりは、自分も含めた半分を今すぐに間引きすることで人類の存続を図るからだ。
 とはいえ常識的にはそんなことは許されるわけもなく、ラングドン教授はその計画を阻止するために奮闘することになる。

 宗教象徴学者という肩書きのラングドン教授は前2作でも様々な謎を解き明かしてきたわけだが、今回のネタになっているのはダンテ『神曲』「地獄篇(インフェルノ)」だ。『神曲』は「地獄篇」のあとに「煉獄篇」「天国篇」と続くわけだが、一番読まれたとされているのが「地獄篇」で、本作のなかでも現在の地獄の概念を作り上げたのがダンテだったと紹介されている。
 ただダンテの謎というものが登場するわけではない。ゾブリストが残したボッティチェリの『地獄の見取り図』などに導かれ、フィレンツェの観光案内のように名所を駆け巡り、ゾブリストが隠したものにたどり着くだけとも言える。一応付け加えておけば、ラングドン教授は頭に受けた傷によって、現世に居ながらにして「地獄篇」に描かれた地獄絵図のような情景を目にすることにもなる(幻視は短いけれどそれなりのインパクトがあった)。
 ゾブリストの計画と関係のないダンテの『神曲』が選択されているのは、キリスト教を奉ずる国では「地獄篇」が大きな影響を与えているからということなのだろう。ちなみにあやしげな便利屋の総監(イルファン・カーンが軽妙な味)が若者をけなしたあとに、わざわざ「35歳にならないと」などと口走っているのは、「地獄篇」の冒頭で暗い森のなかに迷い込んだダンテが「人生の半ば」である35歳だったとされているからなのだろう。何の説明もなくそんな台詞が口にされるのは、キリスト教国では常識のレベルで理解されるということなのかだろうか。

『インフェルノ』 ボッティチェリの『地獄の見取り図』のなかに暗号が……。

 本作『インフェルノ』のなかで何も忘れることがないと自分の記憶力を誇っているラングドン教授だが、今回は頭に傷を負い記憶障害の状態にある。数日前からの記憶が消え、唐突に事態の只中へと迷い込むことになる。そのためにラングドンは今回いくつかの失敗もやらかす(ダンテのデスマスクは自分で盗んだくせにそれを忘れてしまっている)。
 さらに『メメント』などでもあったけれど記憶障害のために、ラングドンは自分に接触してくる人物が敵なのか味方なのかがわからない。命を狙っているのか、彼を利用しようとする輩なのか、親切な援助者なのか、それがわからないから誰も信用できない。また事態の全容を見通せていないから謎を解いたとしても、それを誰に知らせればいいのかもわからない。謎解きに驚きはないけれど、そんな五里霧中をさまようサスペンスとしてはなかなか楽しかったと思う。

 また、今回は二組のカップルの恋愛ものといった感じもあって、その一組はラングドンとかつての恋人で、もう一組はかなりのネタバレなので一応伏せておく。ただ、そうした恋愛話がかえってスピーディーな展開を寸断しているような感じもした。
 ラングドンはかつての恋人と飛行機のなかで向き合ったとき、話好きなのに肝心なことは話さないと非難される。宗教などの薀蓄となればいくらでも滑らかに言葉が出てくるのに、肝心なこと(つまりは今向き合っているふたりのこと)に関しては言うべきことがない。そんなラングドンだったからふたりは別れ、それぞれの道を歩んだということらしい。そんなわけで今回はラングドンの活躍よりも失敗ばかりが目立つ作品だったかもしれない。

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Date: 2016.10.29 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (10)

『淵に立つ』 過去の出来事の残響が……

 監督・脚本・編集は『ほとりの朔子』『さようなら』深田晃司
 公式ホームページによれば題名の「淵に立つ」とは平田オリザの言葉で、「人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇を覗き込む」危険な行為で、「人間の心の奥底の暗闇をじっと凝視するような作品になって欲しい」という監督の想いが込められているとのこと。

深田晃司 『淵に立つ』 八坂草太郎(浅野忠信)はある日突然やってくる。直立不動の姿も何かあやしいような……。


 金属加工工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)は、妻・章江(筒井真理子)と娘・蛍と暮らしている。ある日、何の予告もなしに八坂草太郎(浅野忠信)という男が現れる。八坂は利雄の古い友達で、最近まで刑務所に服役していたのだという。利雄は八坂に借りがあるのか、仕事を与え部屋まで提供して一緒に生活することになる。

 白いシャツに身をまとい姿勢を正した八坂は、刑務所での暮らしの癖が抜けない。それでも物腰は丁寧で蛍に対してオルガンを教えてやる親切さもあってか次第に鈴岡家に馴染んでいき、次第に章江とも接近していくことになる。
 八坂が何を目的として鈴岡家にやってきたのかは謎だ。本当に静かな生活をしたかっただけなのかもしれないし、利雄に対する復讐だったのかもしれない。結局のところよくわからない。いつも白を身にまとっていた八坂だが、その下に忍ばせていた真っ赤なシャツが露わになるとき良からぬ出来事が生じることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!

『淵に立つ』 前半部の幸せの1ページ。川の字に寝ることはその象徴なのかもしれないが、これは余計な一人がいるわけで、後半には別の形でこの場面は繰り返される。

◆決定的な出来事のあとで……
 この作品では決定的な出来事は描かれない。八坂の去ったあとに真っ赤な血を流した蛍が横たわる姿があるという帰結だけが示される。しかし、その出来事によってこの映画は明確に前半と後半に分けられる。後半はその出来事の8年後である。章江は病的なほど潔癖症となりくたびれた様子で姿を見せる(筒井真理子は前半部では妖しい浅野忠信によろめく色気を感じさせたのに、後半には体型まで変える熱演だった)。その後に登場する蛍の変わり果てた姿にも驚かされることになる。ここで奇妙なのは利雄の様子で、利雄は前半よりもなぜか生き生きとしている。
 利雄は八坂が8年前に起こした出来事は、夫婦の罪に対する罰だと感じている。利雄は八坂が服役することになった過去の殺人事件の共犯者でもあり、章江は八坂と(精神的な?)不倫関係にあったから、その罰として夫婦に下されたのが蛍の障害なのだと利雄は考えている。すでに罰は下ったわけで、利雄は八坂の影からは逃れている。
 一方の章江はそうではない。もともとプロテスタントとして八坂に手を差し延べることに意義を見出していたようだが、その出来事のあと章江は信仰心を捨て去ったように見える。信仰心などなかった利雄のほうが「罪と罰」という考えに安堵し、逆に章江はそれを受け入れられない。というよりも章江は八坂に心を奪われる瞬間はあったにしても最後は八坂を拒んでいたわけだから、犯した罪に対して与えられた罰があまりに理不尽なものに思えたのかもしれない。これは言い換えれば自らの罪を認めていないということにもなり、だからこそ章江はその後も八坂の影に怯えることになる。
 ちなみに母親を食べてしまう蜘蛛の子供たちのエピソードにも、ふたりの理解には相違がある。章江の場合は自己を犠牲にした母蜘蛛は救われることになるが、利雄の場合はその母蜘蛛も元はと言えば子供のときに母親を食ってくるわけでどちらも救われないことになる。このあたりの違いもその後の出来事に対する対処の違いとして生じてくるのだろう。

◆過去の出来事の残響
 冒頭のメトロノームの音や食事の際の音が印象的に聞こえてくるほどに静かに進んでいく作品だ。それにも関わらず衝撃的なことが描かれていく。というのも決定的な出来事を描くことが避けられているから静かな展開をしているようにも見えるのだが、それでいて心のなかに蠢くものははかり知れない。これは突発的な出来事そのものよりも、それがもたらす影響のほうに主眼があるということでもある。
 思えば前半部で夫婦のよそよそしい関係には、すでに利雄が共犯となった過去の殺人事件の残響のようなものが感じられないだろうか。利雄は八坂に後ろめたさを感じ、家庭での幸福を素直に享受することをためらっていたのかもしれないし、利雄が八坂に「おれを甘やかすなよ」と語るのは罰を求めているようにも聞こえてくるからだ。

 過去の殺人事件にしても、蛍が犠牲となる決定的な出来事も直接には描かれない。それでも登場人物は過去の出来事がもたらす残響のなかにいる。しかし、ラストの出来事だけは直接的に描かれている(一部に幻想を交えているけれど)。
 寝たきりの母親が「死なせてくれ」と懇願したという八坂の息子・孝司(太賀)の言葉に導かれるように、章江は蛍と心中を図ることになる。ここだけは出来事の真っ最中を描いているのだ。しかし出来事の渦中に映画はそのまま終わってしまい、その帰結が明らかにされることはない。観客は利雄の荒い息遣いを聞きながら、その出来事の只中に置き去りにされることになる。利雄と章江が過去の出来事の残響に囚われていたように、最後の出来事の残響は観客を囚われの身にするだろう。

 情に訴えかけることのない冷徹な描き方が素晴らしかったと思う。最後に突き放されるように終わったことで、カタルシスを感じることもなければこの作品を理解した気にもなれないのだけれど、いつまでも何かが引っかかったように頭を離れない。

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Date: 2016.10.23 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『ダゲレオタイプの女』 溝口的怪談と小津的階段

 『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』などの黒沢清監督の最新作。
 今回は監督以外のキャスト・スタッフはすべて外国人で、全編フランス語の作品となっている。

黒沢清 『ダゲレオタイプの女』 マリー(コンスタンス・ルソー)はジャン(タハール・ラヒム)によって拘束器具に固定される。


 ジャン(タハール・ラヒム)はパリ郊外の屋敷で写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の助手として働き始める。ステファンはダゲレオタイプという古い形式の写真に魅せられている。露光時間が長いダゲレオタイプは、モデルに長時間の拘束という苦痛を強いることになり、モデルである娘のマリー(コンスタンス・ルソー)は次第に恐怖を感じるようになる。

 『アンジェリカの微笑み』にもあったように、死者の最期の姿を写真に留めるということが19世紀にはよくあったようで、この『ダゲレオタイプの女』でも幼くして亡くなった子供をダゲレオタイプで撮影するエピソードがある。この方式は露光時間がかなり長いようで、その間、モデルはまばたきすらできないわけで遺体を撮影するのは理に適っているとも言える。
 逆に生きているモデルがそれをするとなるとかえって無理がかかる。この作品では、マリーは身体を固定する拘束器具で動きを封じられたまま長時間の撮影に耐えることになる。死体と同じように動かぬままで過ごすことはモデルにとって魂を抜き取られるような感覚だったのかもしれない。マリーが亡くなった子供の撮影を見ると少々取り乱すことになるのは、自分が死に近づいているような感覚に襲われたからかもしれない。実際に出来上がったダゲレオタイプの写真はモデルの姿を永遠に閉じ込めたような質感を持っていて、撮影する父親ステファンはさらなる完璧さを要求するようになっていく。
 助手として働くうちにマリーに惹かれていったジャンは、次第に狂気じみてくるステファンからマリーを助けようと画策することになる。


 ※ 以下、ネタバレもあり!

『ダゲレオタイプの女』 ダゲレオタイプの写真はこんな感じ。とても生々しい。

 主人公のジャンがステファンの屋敷に足を踏み入れ、カメラがゆっくりと動き出すと妖しい空気が漂い始める。扉が音もなくひとりでに開き、目に見えない何かがそこを通り抜けていくかのように感じられたかと思うと、いつの間にかに薄暗い階段の上に青いドレスをまとった女性の姿が現れる。いかにも黒沢作品らしい雰囲気を感じさせる始まりになっている。
 蓮實重彦「小津と溝口の宿命的な融合」と指摘しているように、この作品は溝口健二『雨月物語』のような怪談話であり、小津安二郎『風の中の牝鶏』の有名な階段場面を再現した映画となっていて、ファンではなくともまさに「必見」の作品となっている。

 怪談話であるからには幽霊が登場しなくてはならないわけで、マリーはある事故によって瀕死の重傷を負い、一度消えたあとに姿を現す。マリーが一度消える場所は川のそばとなっている。民俗学者によれば川岸など水辺の境界地は“この世”と“あの世”の境界を意味するという。マリーがいささか不自然にも車でその場所まで運ばれてから姿を消すのは、そうした境界というものが意識されているからで、マリーはその場所で幽霊となって姿を現すことになる。
 ちなみにジャンはその後にわざわざその場所を確認に出向いている(一度目は夜だったため)。するとその場所には川が流れ、すぐ上には高架線が走っていて電車の音が響いている。『クリーピー 偽りの隣人』のときに記したことだが、モンスターのような登場人物たちは境界に棲みつくものであり、実際に『クリーピー』のなかでも舞台のすぐそばには川を類推させる線路が走っていた。『ダゲレオタイプの女』という作品にも明確に境界が示されているわけで、“この世”と“あの世”が交じり合うような世界が描かれていくことになる。
 そうした世界を描いた作品としては『岸辺の旅』があり、『岸辺の旅』では“この世”に残された妻が幽霊となった夫と過ごすことで、最後にはその死を了解することになる。一方、『ダゲレオタイプの女』のジャンはマリーの死を認めたくないようだし、マリーも自らの死に気づいていないのかもしれない。生と死も曖昧となったような旅がしばらく続くことになるわけだが、それも長くは続かない。『岸辺の旅』がハッピーエンディングだとすれば『ダゲレオタイプの女』はその逆で、ジャンのラストの泣き笑いの表情はちょっと切ない。

 前半の妖しい雰囲気に比べ、後半に屋敷の売買のためにジャンが策を弄したりするという展開はちょっと首を捻るところがあったし、ステファンが恐れる妻ドゥニーズの幽霊はなぜかまったく怖いところがなくて、けれん味には欠けたような気もする。また、黒沢映画の名物みたいなスクリーン・プロセスで撮影されたドライブシーンもあったようなのだけれど、夜の場面(瀕死のマリーを運んで病院へ向かう場面)だったからかスクリーン・プロセスで撮影されたものとは気づかなかった。私がぼんやりしていただけなのか、いつものスタッフではなかったからいつものスタイルとなっていなかったのか……。
 とはいえ、黒沢清の映画で『ロゼッタ』『息子のまなざし』オリヴィエ・グルメ『預言者』『ある過去の行方』タハール・ラヒムの共演を見ることができたのは、それだけで価値があろうというもの。コンスタンス・ルソーの儚い感じもよかった。

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Date: 2016.10.18 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『永い言い訳』 “他者”とは誰のこと?

 『ゆれる』『夢売るふたり』などの西川美和監督の最新作。
 原作は西川美和自身の書いた同名小説で、これは直木賞候補にも選ばれた作品。

西川美和 『永い言い訳』 主演は本木雅弘だが、脇役も結構豪華。竹原ピストルの存在感がいい。


 テレビのバラエティ番組にも出演したりもする人気小説家の幸夫(本木雅弘)は、ある日突然、妻・夏子(深津絵里)を事故で亡くすことになる。その知らせを受けたとき、幸夫は妻の居ぬ間に自宅に愛人(黒木華)を連れ込んでいたところであり、世間の同情をよそに幸夫は涙を流すこともなかったのだが……。

 冒頭、リビングで美容師である夏子が幸夫の髪をカットしている。話題は幸夫の名前について。衣笠幸夫(きぬがささちお)という、国民栄誉賞まで獲得した人物(鉄人・衣笠祥雄)と同じ読み方の名前を持つことの辛さが、旧姓田中だった夏子にわかるわけがない、そんな愚痴だ。これからバス旅行へ向かうという夏子の都合を気にすることもなく、愛人に会うための身支度を整えさせる。幸夫は自分のことにしか興味がないダメ人間なのだ。
 しかし、それと同時に憎めない奴でもある。罪滅ぼしのつもりなのかはわからないけれど、同じように事故で伴侶を亡くした陽一(竹原ピストル)の子供たちのことを知ると、自ら助けを申し出るような部分もある。幸夫は仕事で自宅を留守にしがちな陽一の代わりに子供たちの面倒を見るようになる。

 前作『夢売るふたり』のときにも記したのだけれど、この作品も物事の様々な側面を捉えるような曖昧さやややこしさがある。メディアに登場する作家・津村啓としての幸夫は冷静で文化人面をしているけれど、酒を飲んで暴れる姿を見ている周囲の人間にとっては子供じみた嫌な奴に映るだろうし、それでいてなぜか一貫性を欠くように突然人助けをしてみたりもする。
 そんなふうに人物造形は単純ではないし、幸夫の行動の意味合いにも別の見方が示される。幸夫の人助けは自分では善行のつもりかもしれないのだが、マネージャーの岸本(池松壮亮)に言わせれば逃避でしかなく自分のダメさを帳消しにする免罪符ということにもなるのだ。
 同様に人間関係も揺れ動いていく。妻を亡くした悲しさを率直に表現できる陽一のことを好ましく思い、その愚直さに幸夫はある意味羨望を感じているわけだけれど、それも変化していく。亡くなってしまった妻への想いに執着するばかりに、その後も成長し続ける子供たちに対する関心が疎かになっている陽一を幸夫が諭してみたりもする。
 そんなわけで展開はまっすぐというわけではないし、行きつ戻りつしたり蛇行してみたりする。幸夫が最後にたどり着いたのが「人生は他者だ」という気づきだ。

『永い言い訳』 灯役の白鳥玉季。この子は厄介な女の子で、わがままで兄貴の真平をも困らせる。

 幸夫は自分にしか興味がなかった。そういう人間には広がりがないわけで、小説家としては致命的なのかもしれないし、生活を共にしていた夏子にとってもありがたくはないだろう。この作品では夏子の死をきっかけにして、幸夫は様々な“他者”と接していくことになる。屈折した小説家とは正反対の愚直な陽一もそうしたひとりだし、その娘の灯(白鳥玉季)もそうだろう。灯はわがままだしアレルギー持ちでとにかく手がかかる。そうした“他者”と触れ合うことで、幸夫は人間としては少しずつ真っ当になっていく。

 そして一番の“他者”は誰かと言えば、亡くなった妻ということだろうと思う。夏子はメールの幸夫宛の下書きに「もう愛していない、ひとかけらも」と記していた。この言葉の意味するところを確認したくても、その相手である夏子はもう居ない。こうした文面をやむにやまれぬ気持ちで下書きにこっそりしたためていたのは、幸夫に対しての三行半(みくだりはん)だったのかもしれない。多分、幸夫はそんなふうに受け取っていたのだと思う。しかし一方でこれは下書きに過ぎないわけで、もしかすると「もう(私を)愛していない、ひとかけらも?」と夏子が愛を確認する言葉だったのかもしれない。
 その答えは永遠にわからないという意味で、夏子は“他者”として立ち現れてくるということなのだろう。もちろん死んだあとになって言い訳をしてみてもどうしようもないのかもしれない。それでも死んでしまってからのほうがその存在がより一層重要なものとなるということはあるのだ。幸夫は一応その言い訳を本の形でまとめることになり、夏子の遺品を整理したりもして区切りをつけるわけだけれど、『永い言い訳』というタイトル自体にも今後もその言い訳は続いていくということが込められているのだろう。

 自分の遺伝子なんて残したくないと言い切ってしまうダメ男の幸夫には共感してしまうし泣かせるところもあるのだけれど、その幸夫を演じるのは本木雅弘という誰もが知る二枚目で、必要以上に幸夫のアップが多かったように感じられるのはちょっと気になった。そんな本木雅弘がわざわざアイドル時代の仲間とは連絡すら取っていないなどと語っていたようだが、これは本木のほうが幸夫のキャラに寄せていっているのか、もとからそうだったのか、どちらなのだろうか。とりあえずは本木雅弘の世間的なイメージをうまく利用している点で、『そして父になる』(是枝裕和監督)の福山雅治の使い方とよく似ている。

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Date: 2016.10.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (11)

『少女』 因果関係には納得したとしても……

 原作は『告白』『贖罪』など様々な作品が映画化されている湊かなえ
 監督は『繕い裁つ人』などの三島有紀子

湊かなえ原作 『少女』 敦子(山本美月)と由紀(本田翼)というふたりの主人公。

 冒頭から少女たちがなぜか入水自殺をするイメージが描かれ、誰かの遺書が読み上げられる。この映画の少女たちは“死”というものに魅せられているようだ。彼女たちが「死ねばいいのに」という台詞を易々と他人に投げつけるのは、どこかで自分が“死”に魅せられていることの証左なのかもしれない。
 敦子(山本美月)は剣道日本一の称号を手にしていたのだが、一度の敗北によっていじめに遭い自らの死を望んでいる。もうひとりの主人公である由紀(本田翼)は、友達の死体を見たという転校生・紫織(佐藤玲)の出現によって「人の死ぬ瞬間を見たい」と考えるようになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


三島有紀子 『少女』 転校生・紫織(佐藤玲)は友達の自殺を発見してしまう。それを聞いたふたりは……。

 ラストで様々な伏線を回収してカタルシスを与えることを目的としたためか、どうにもそこに行くまでの転がり方がぎごちない。「因果応報」がキーワードとなっているにも関わらず、途中の展開には因果関係というものが感じられなかった。
 たとえば、由紀が人の死の瞬間を見たいがために難病の子供ばかりがいる小児科病棟へ行くのはわかるけれど、敦子が老人ホームへボランティアに行くのは体育の単位の代わりという説明になっているだけで積極的な理由はない(原作では敦子も「人の死の瞬間を見たい」という願望を抱くらしい)。何だかよくわからないまま夏休み中にふたりがそれぞれの日々を送る描写が続く。
 ふたりは幼いころからの親友だが、夏休みのふたりにはちょっと距離がある。これは転校生・紫織がふたりの間に入ったことがきっかけにも見える。しかし後に明らかになることだが、由紀の書いた小説『ヨルの綱渡り』もふたりの距離感の原因となっている。この小説は由紀が敦子をモデルとして記したもので、それを教師の小倉(児嶋一哉)が盗んで雑誌に発表してしまうというエピソードが最初に登場する。敦子は小説のネタにされたことをあまり快くは感じていなかったようなのだが、映画のなかではそんな敦子の気持ちは感じられない。
 後半に、その小説が自殺を願う闇のなかにいる敦子を励ますために書かれたものであることが判明する。それによってふたりのわだかまりも解消することになるのだが、敦子が小説のネタにされたと思い込んでいたということが示されるのはわだかまりが解消される直前でしかない。もしかすると由紀と敦子の関係を悪意に満ちたものとして観客をミスリードするためだったのかもしれないのだが、『ヨルの綱渡り』が敦子に捧げられたものと明らかになる部分を感動的に描くつもりだったとすれば、わだかまりの原因を示さなければその解消が感動として受け止められないのではないだろうか。

 ほかの様々な要素もバラバラに並べられているように感じられ、最後にそれらが結びついたとしても因果関係に納得はしたとしてもそれだけに過ぎないだろう。意図的に語り落としている部分があったとしても、それが謎として機能しているというよりは、単に説明不足のように感じられてしまうのだ。
 だからか二度繰り返される敦子が由紀の手を取って走っていく場面はこの作品のキモになるはずなのに、ふたりが走り出すときの感情にまったく迫ってくるものがなかったように思う。二度目などはそれなりに重要な役柄である高雄孝夫(稲垣吾郎)が窮地にあるというのに、それを放って走り出してしまうし……。もちろん観客としての私が、日常のあいさつで「ごきげんよう」などと発する女子高生の繊細さを理解できない鈍感な人間という可能性はあるのだけれど……。

 山本美月に関しては相変わらずとてもキレイで、それを崩すこともなかったのだけれど、本田翼は目が据わったような表情が印象的。ただ本田翼の役柄には際どい場面もあり得たはずなのにうまくかわされてしまったような気もして、「人が死ぬ瞬間が見たい」などと言っておきながらもほとんど羽目を外すところがなかったのは肩透かしかも。

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Date: 2016.10.13 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『過激派オペラ』 SNSよりは暑苦しい

 劇団「毛皮族」主宰の江本純子の初監督作品。
 初日の舞台挨拶には江本監督以下、早織、中村有沙、桜井ユキ、森田涼花、佐久間麻由、後藤ユウミ、石橋穂乃香、今中菜津美、遠藤留奈、増田有華といった女優陣も登壇して華やかだった。
 そのほかにも趣里、高田聖子、安藤玉恵なども顔を出している。

江本純子 『過激派オペラ』 重信ナオコ(早織)は主演女優の岡高春(中村有沙)と同棲するようになり……。


 劇団「毛布教」を主宰した重信ナオコ(早織)は、初上演作「過激派オペラ」のためにオーディションを開催する。重信はオーディションに現れた岡高春(中村有沙)に心を奪われ、彼女を主演に据えて舞台稽古を開始する。

 監督を務める江本純子の劇団「毛皮族」はアングラ劇団のひとつに数えられるそうで、「テロエロ歌劇」などと解説されたりもするようだ。この初監督作品は江本監督の処女小説『股間』の映画化で、映画のなかの劇団「毛布教」は現実の劇団「毛皮族」をモデルにしているのだろう。ちなみに劇中には戸川純「好き好き大好き」という曲が使われていて、この選曲からもセンスが伝わるだろうか。

 冒頭から稽古場の床を転げ回るような女同士のカラミが展開する。それでも「エロ」というよりはプロレスのキャットファイトの類いのようにも見え、たとえば『アデル、ブルーは熱い色』みたいに濃密な女性同士のラブシーンを描くという印象ではない。『過激派オペラ』は、女たらしの演出家・重信が、その権威を利用して近づいてくる女優たちとのカラミを楽しんでしまうというコメディなのだと思う。重信は見た目も男っぽいが、やっていることも男のよう……。主演女優の岡高に「1回だけ、お願い」と泣きつくのは、哀れな男がいかにも言いそうな台詞で笑える。

『過激派オペラ』 初上演作「過激派オペラ」のときの舞台はこんな感じ。

 主人公の「重信」という名前は日本赤軍の重信房子から採られているのだろうし、初上演作「過激派オペラ」のなかではヘルメットにゲバ棒といった学生運動めいた格好も見せている。そしてそれを捉えた映像にも古臭いものを感じる(撮影は中村夏葉)。ただ、それを演じる若い女優たちは革命などとはまったく無関係で、騒ぐための口実としてそうした舞台設定が整えられているだけのように見える(映画のなかで演じられる「過激派オペラ」がどんな内容なのかはさっぱりわからないし)。演出家の重信にしても結局のところ仲間集めのために劇団をやっているところもあるようで、道具立ては古臭いけれど中身はそれほど古くはない。SNSの代わりに劇団があるということなのだろうと思う。ちょっとだけSNSよりは暑苦しいけれど……。
 舞台挨拶では演劇の「現在進行形」の部分を映画に取り入れられればといったことを口にしていた江本監督。劇中にはカサヴェテスの名前が登場したりもするし、即興的なものを取り入れているのだろうと思う(ベルイマンの『第七の封印』のDVDもちょっと顔を出したような)。ほとんど初めて見る顔ばかりの若い女優陣ばかりだったが、誰もが何かしら身体を張っている。そんな女優陣の熱量が如実に伝わってくる作品となっていたと思う。

股間


Date: 2016.10.03 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『オーバー・フェンス』 その瞬間のみ光輝く

 佐藤泰志原作の『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続く「函館3部作」の最終章。
 監督は『どんてん生活』『リンダ リンダ リンダ』などの山下敦弘
 出演陣にはオダギリジョーや蒼井優以外にも個性的な面々が。舞台となる職業訓練校の仲間には松田翔太や満島真之介など。一番年上の勝間田を演じた鈴木常吉がいい味を出している。

山下敦弘 『オーバー・フェンス』 職業訓練校の面々。何だか塀のなかにいるようにも見える。


 離婚して地元に戻ることになった白岩(オダギリジョー)は、失業保険延長のために何となく職業訓練校に通っている。そんなある日、職業訓練校の仲間に誘われたキャバクラで風変わりなホステス(蒼井優)と出会う。

 主人公の白岩は空っぽな男だ。夜に遊び歩くでもなく、弁当を食べながらビールの350ミリ缶を2本だけ飲むという無味乾燥な生活を送っている。それでも外見は普通に見えるのか、なぜか職業訓練校の仲間には頼りにされたりするところもあったりもするのだが心は荒んでいる。誘われた飲み会では若い女の子たちに向かって「この先おもしろいことなんて何もないよ」みたいなことを口にして場を凍りつかせたりもする。
 そんな白岩が聡(さとし)という男のような名前のホステスと出会って再生していくというのがこの物語だ。蒼井優が演じる聡のキャラクターがとても魅力的だった。聡は唐突に道端で鳥の求愛ダンスをやってみせたりする風変わりなところのある女で、そのキャラが「魅力的」というと語弊があるかもしれない。聡は自ら「ぶっ壊れてるから」と語るほど不安定な女で、現実に出会ったとしたら遠慮したいような女性だからだ。
 しかしそんな女性を蒼井優がどう演じるかというのは、この作品の見所だろうと思う。映画のなかに登場する「こわれゆく女」は、ヘタすればとても見てられないようなものになる(思い浮かぶ例は色々とあるだろう)。蒼井優の聡にはそんなところは感じられなかったし、奇妙なダンスも『花とアリス』でも見せたバレエの素養があるからか、動きの細部にまで熱がこもっていたと思う。白岩はそんな聡に惹かれ、世捨て人のような生活から抜け出すことになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『オーバー・フェンス』 白岩(オダギリジョー)は聡というホステス(蒼井優)と出会う。

 ラストは「函館3部作」のなかでも奇妙に明るい。ただ、原作とは違って聡のキャラが情緒不安定な女となっているところもあって、ラストの明るさも未来に対する希望と受け取っていいのかちょっとわかりかねた。
 聡は外から帰ると沐浴しなければ気が済まないような何かしらの病を抱えていて、薬の世話にもなっている。唐突に怒り出す聡の不安定さは、白岩のペースを乱し翻弄していくことになる。白岩にとっての聡は、夜の動物園で鳥の羽が雪のように舞うようなマジカルな魅力を持っている。しかしその一方で、澄ました白岩も声を荒げてしまうほど厄介な女だ。
 それでも白岩に失うものはない。聡の誘いにも応じず檻のなかに留まった白頭鷲とは違い、ラストでフェンス越えのホームランを狙う白岩は、刑務所みたいな職業訓練校という檻から出て聡と生きることを選んだということなのだろう。(*1)ただ、聡があまりに気まぐれなため、その明るさも長続きしそうにないものにも思えたのだ。ちなみに白岩の元妻・洋子(優香)も精神を病んでいて、それが離婚のきっかけになっている。一度そうした失敗をしたにも関わらずそれを繰り返すのは酔狂では済まないような……。

 佐藤泰志原作の『そこのみにて光輝く』でも、朝陽が照らすラストの瞬間だけが輝いているように見えた(タイトルの「そこ」というのは、場所を示しているのと同時に「底」を示しているらしい)。『オーバー・フェンス』のラストもそうした一瞬の光だったのかもしれないのだが、それにしては底抜けに明るかったようにも感じられた。

(*1) これは『あんにょん由美香』などの松江哲明の指摘だが、山下敦弘監督は「視線を合わせない」人物配置の長回しが特徴的なのだとか。しかしこの『オーバー・フェンス』では白岩と聡の対話は「切り返しショット」で描かれている。白岩が聡と正面から向き合うことを示しているのだろう。

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Date: 2016.10.01 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (5)
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