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『ハドソン川の奇跡』 過不足なく逸脱なく

 クリント・イーストウッド監督の最新作。
 「ハドソン川の奇跡」と呼ばれた2009年1月15日に起きた「USエアウェイズ1549便不時着水事故」についての映画化。
 原題は「Sully」で、1549便の機長だったチェズレイ・サレンバーガーの愛称を指す。

クリント・イーストウッド 『ハドソン川の奇跡』 事故では奇跡的に155人全員が生還する。主演はトム・ハンクス。

 日本でもそれなりに話題になった現実の事故に基づいた作品である。日本では乗客・乗員全員が無事だったという“奇跡”の部分が伝えられただけだったように思うのだが、実際には奇跡を起こしたはずのサリー機長は国家運輸安全委員会によって調査されることになったようだ。ハドソン川への不時着は乗客を危険にさらすもので、空港へ戻ることが可能だったのではないかと疑いをかけられることになる。巷では英雄として称えられたサリー機長だが、調査の過程では容疑者のような扱いになる。

 国家運輸安全委員会の質問事項にはたとえば「飲酒をしていたか」というものもある。(*1)これはヒューマン・エラーがなかったかを確認するためにあらかじめ用意された質問なのだろうが、疑われる側となってみればあまり気持ちのいいものではない。サリー機長(トム・ハンクス)は「9日間飲酒はしていない」と答えるのだが、委員会での調査は自分の選択に対する疑問を生むことになる。しかも委員会のコンピューター・シミュレーションでは1549便は空港へ戻ることが成功したという結果もあり、サリー機長は追い込まれていくことになる。

(*1) ちなみにロバート・ゼメキスの『フライト』は、機長がアル中だったというフィクションを交えているけれど、「ハドソン川の奇跡」を参考にしているのだとか(『映画秘宝』に町山智浩が記している)。

『ハドソン川の奇跡』 低空飛行の旅客機は9.11を思わせて恐ろしい部分がある。

 『ハドソン川の奇跡』は脚本の構成がよくできていたと思う。実際の事故では、バードストライクが生じてからハドソン川に不時着するまで208秒しか経過していない。それをいくら引き延ばしても作品にするには短すぎる。それでもこの作品では事故のシーンは3回に分けて別の視点から描くことで、一時は容疑者扱いされたサリー機長の失地回復のドラマを生み出している。

 冒頭から唐突に始まるシーンは、実は事故後にPTSDに苦しむサリー機長の悪夢で、操縦不能となった1549便がニューヨークの街並みへと突っ込んでいくという最悪の事態を迎える。この事故が起きたのは2009年であり、9.11から8年後のこと。それ以降、航空機が低空で飛んでいくというのは、不穏なものを感じさせる映像の最たるものとなっている(最近では『イレブン・ミニッツ』にもそうした場面があった)。
 次にはサリー機長の回想をきっかけにして、事故が乗客の目線で追われていく。平穏な旅が突然緊急事態に襲われ、あっという間に不時着し、真冬の寒さのなかで何とか救出されるまでが描かれる。ここではあり得たかもしれない悪夢と現実に起きた出来事が並べられる。それに加えてコンピューターのシミュレーションより別の結果も示され、サリー機長の判断が本当の正しいものだったのかという疑問が呈される。
 そして最後は国家運輸安全委員会に呼び出され、衆目のなかで録音テープを聴く場面。ここではコックピット内に焦点が当てられる。国家運輸安全委員会の論点はヒューマン・エラーがあったか否かだが、シミュレーションではそうした人的要因が排除されている。バードストライクの次の瞬間に空港に戻るという対応はどのマニュアルにも記されていないことで、現実にはあり得ない絵空事だ。サリー機長の長年の経験があったればこそ、マニュアルでは到底対応できない事態にも対処することができたのであり、サリー機長とジェフ副機長(アーロン・エッカート)は突然の緊急事態に慌てることもなく最善の選択をしたことが誰の目にも明らかになる。

 とにかく過不足がない映画だった。サスペンスを盛り上げようとすれば色々と方法はありそうなものだが、乗客がパニックになって騒ぎたてることがなくとも、劇半に頼ることがなくとも、最後まで緊張感を維持している。また過度にお涙頂戴に流れるわけでもなく、トム・ハンクスの演技は抑制されたものでも静かな感動を呼び起こすのに十分だったと思う。サリー機長の失地回復のあとにジェフ副機長のウィットに富んだ一言でちょっと場を和ませるあたりもさりげなくうまい。
 サリー機長の対応がプロフェッショナルなものだったのと同じように、イーストウッドの撮り方もプロフェッショナルで文句もつけようがない。的確すぎて96分というイーストウッド作品のなかで最も上映時間が短い作品となったこともあり、まったく逸脱というものが感じられないくらいで、こうやってブログで感想を記す側としてはあまり膨らませどころがないのが困ったところだろうか(誰もが似たり寄ったりの感想になりそう)。

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Date: 2016.09.27 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (10)

『ある天文学者の恋文』 永遠の愛のつくり方

 『ニュー・シネマ・パラダイス』『鑑定士と顔のない依頼人』などのジュゼッペ・トルナトーレ監督の最新作。
 音楽はいつものようにエンニオ・モリコーネ
 原題は「CORRESPONDENCE」で、「文通」とか「通信」といった意味とのこと。

ジュゼッペ・トルナトーレ 『ある天文学者の恋文』 エイミー(オルガ・キュリレンコ)は亡くなったはずのエド(ジェレミー・アイアンズ)からメッセージを受け取る。


 不倫関係にある天文学者エド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子のエイミー(オルガ・キュリレンコ)。ふたりは愛しあっていたものの、エドには家庭があり頻繁に会うことはできない。それでもメールやスカイプなどでのやりとりがふたりをつないでいる。
 ある日、エイミーは突然エドの死を知らされる。しかしその後にもメールや手紙、メッセージ付きの花などエドからの連絡は続いている。いったいどういうことなのか? エイミーは真相を探るためにエドの暮らしていたエディンバラへと向かう。


 ※ 以下、色々とネタバレあり!

 天文学にたずさわるふたりの恋愛ということもあって、並行宇宙だとかその他の難しげな理論も顔を出す。死者からの便りということでSF的な展開を感じさせなくもないし、前作『鑑定士と顔のない依頼人』のようにミステリー仕立ての部分もあるのだけれど、意外にもシンプルな恋愛ものになっていたと思う。
 エイミーの論文は「死せる星との対話」という題名だった。今、この瞬間に夜空に輝く光は地球に届くまで長い時間を旅してきたものであり、現在の姿ではない。天文学者の仕事はすでに消滅しているかもしれない星との対話のようなもの。これはもちろんエドとエイミーとのやりとりのことをも指していて、エドは病で亡くなっていたことが明らかになる。
 遺書というのは死者からの手紙だが、それは通常一度限りのものになる。しかし、この映画でエドが用意した手紙やメールは一度だけではなくいつまでも続いていく。もともとエドは勘のいい人物で、エイミーの行動を予測して魔術師のような先回りを演出して彼女を喜ばせたりしていた。エドはすべての可能性を考え、分岐する世界のそれぞれに適合するようなメッセージを残していたということになる(きちんと中止や再開までもが予定に組み込まれている)。
 
『ある天文学者の恋文』 オルガ・キュリレンコの一人芝居のように進む。

 『君の名は。』(実はまだ観ていない)が大ヒット中の新海誠監督のデビュー作『ほしのこえ』では、遠く離れた主人公ふたりの距離感が強調される。戦争で宇宙の彼方へ行くことになった少年だが、通信手段はメールしかない。しかもメールが届くのには8年半もの時間がかかる。そのころ相手がどうしているかなんてまったく予想もつかないだろう(それでも心のなかではつながっているというのがミソなのだろう)。
 しかし、この『ある天文学者の恋文』ではそうした距離は感じられない。映画のなかに登場する「かに星雲」は7000光年の彼方にあるのだという。たとえ光の速さで進んだとしても7000年かかるというわけで、人間がたどり着けるような場所ではない。「この世」と「あの世」の距離はそれ以上にはてしないものだろう。それにも関わらずこの映画ではいかにもタイミングよくメールが届き、エイミーを癒してみたり将来への指針を与えたりもする。エイミーはいつでもエドに見守られているような感覚になるだろう。
 もちろんエドは魔術師ではないし、神様でもない。タネを明かしてしまえば、エドが生前に自分が信頼する人間にメッセージを託していたということになる。エドがどれだけのメッセージを用意していたのかはわからないけれど、エイミーの今後の人生の節目にメッセージが届くとすればエイミーにとってはエドの存在は永遠みたいなものになるのかもしれない。

 何ともロマンチックな話だけれど、その設定を整えるためにかなりご都合主義な部分も見受けられる。エドの周囲の人物があまりに協力的で、エイミーを恨んでも当然のエドの娘までもが親切にしてくれるのは美談すぎて気味が悪い。エイミーの抱えるトラウマも、エドがその後を心配して「見守りシステム」を作り上げるための原因として必要とされたのだろう。ただそのトラウマによって臨時仕事としてスタントをこなしていたりもして、星空を見上げるロマンチストの部分と火だるまになってみたりする破滅的な部分が妙にちぐはぐに感じられた。
 とはいえエイミーを演じるオルガ・キュリレンコはとても美しい。エド役のジェレミー・アイアンズは冒頭に登場して以降は録画された動画のなかにしか出番はなく、あとはオルガ・キュリレンコの一人芝居のように進んでいく。だからかどうかはわからないけれど、あまり必然性がない場面でも意外にオルガ・キュリレンコのサービスカットも多い。オルガ・キュリレンコが気になる人にはお薦めかと。

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Date: 2016.09.25 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』 プップクプーを飲んでプリプリプーを

 スティーヴン・スピルバーグの最新作。
 原作はロアルド・ダール『オ・ヤサシ巨人BFG』
 『ブリッジ・オブ・スパイ』では信念を持つスパイを演じてアカデミー賞助演男優賞を獲得したマーク・ライアンスが表情豊かにBFGを演じている。

スティーヴン・スピルバーグ 『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』 何だか『E.T.』の名場面を思わせないでもない。


 孤児院に暮らすソフィー(ルビー・バーンヒル)は不眠症で、夜中にこっそり本を読んでいると、外の物音に気づく。そこには見たこともないような巨人がいる。それを目撃してしまったソフィーは巨人たちの国へと連れ去られてしまうのだが……。

 この映画は脚本を担当したメリッサ・マシスンに捧げられている。メリッサ・マシスンはあの『E.T.』の脚本を書いた人物で、この作品もソフィーという10歳の少女と巨人(人間とは違う生き物)との出会いを描いている。
 ソフィーをさらったBFG(=ビッグ・フレンドリー・ジャイアント)は巨人たちの秘密を守るために目撃者であるソフィーをさらったのだが、意外にも心根はやさしい。巨人たちの国にはBFG以外にも個性豊かな巨人たちがいる。この巨人たちは人間を丸呑みして食べてしまうような粗暴な輩で、巨人たちのなかでは小さいBFGは彼らにいじめられている。ソフィーは巨人たちが人間狩りを始めることを知り、ある人物の助けを借りることをBFGに提案する。

『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』 中央のチビがBFG。ほかの巨人はかなりデカくてなかなか個性豊か。

 ハラハラドキドキのスリルはほどほどだし、『E.T.』のような感動の涙もないけれど、ナンセンスな楽しさがある映画だった。そもそも「ビッグなジャイアント」というのは冗長だろうし、BFGは巨人たちの間では一番小さくて「チビ」などと呼ばれている。ほかの巨人たちの名前はニクスキー(英語名:ブッチャーボーイ)とか、チダラリン(ブラッドボトラー)とか、ダラリー(ミートドリッパー)などとダジャレっぽい。
 巨人たちにとっておいしい食べ物であるソフィーが「人間豆」と呼ばれているのは「human being」が間違って「human bean」になってしまったものらしい。この映画にはそうした言葉遊びみたいなものがいっぱいあるようだ(ネイティブだったらもっとおもしろいのかもしれない)。BFGは言葉を教わる機会がなかったらしく、しょっちゅう「言いまつがい」をしてソフィーに指摘されてばかりいるというのもおかしい。
 ソフィーが助けを借りることになるのは女王で、その客人であるBFGへの女王のおもてなしの場面がとても楽しい。人間界への危機が迫っているかもしれないのに、意外にのんきに豪華な朝食を食べているのも妙なのだけれど、みんなで“プップクプー(巨人国の炭酸)”を飲んで“プリプリプー(おなら)”を連発するというナンセンスが見所だろうか。ここでは女王やその飼い犬たちもマナー違反をやらかすことになるわけだけれど、しっかり者のソフィーは失敗からは逃れて澄ました顔をしていたような……。
 ラストで巨人の国と人間界と離れて暮らすことになるBFGとソフィーだが、BFGにはアリンコの話し声も聞こえるほどの聴力があり、ふたりは離れていても通じ合っている。ちょっと心温まる終わり方だった。BFGの主食である「おばけきゅうり」はゲテモノで、ゴーヤーはしばらく食べたくなくなるかもしれない。

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Date: 2016.09.22 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『怒り』 闘うには相手が悪い

 監督・脚本は『悪人』『許されざる者』などの李相日
 原作は『悪人』の吉田修一で、6年ぶりの李監督とのタッグとなる。
 音楽は坂本龍一

李相日 『怒り』 【千葉篇】の愛子(宮﨑あおい)と田代(松山ケンイチ)。

 八王子で夫婦が惨殺される事件が発生する。その事件の現場には被害者の血で書かれた「怒り」という文字が……。犯人の山神のことはすぐに特定されるものの、山神は捜査網を掻い潜って逃げてしまう。

 その1年後、物語は3つの場所を舞台に進行する。
 【千葉篇】では、漁港に現れた田代(松山ケンイチ)という男が漁協組合の槙(渡辺謙)のもとでバイトをすることになり、田代は槙の娘・愛子(宮﨑あおい)と親しくなる。
 【東京篇】では、優馬(妻夫木聡)はゲイたちが集う発展場で直人(綾野剛)と出会う。
 【沖縄篇】では、友人と無人島散策に来た泉(広瀬すず)が廃墟で暮らしているバックパッカーの田中(森山未來)と知り合う。

 それぞれの場所に現れた男(田代、直人、田中)は素性が明らかにされていない。もしかするとそのなかの一人は山神なのではないか。観客にそんな疑念を抱かせるように作られている。これは原作から引き継がれた一種のトリックで、観客は素性の知れない3人を殺人犯なのかという疑いの目で追っていくことになる。
 原作小説は当然ながら山神の顔そのものを提示することはできない。手配写真が出たとしても、読者にはそれが誰を示すのかはわからない。しかし映画版『怒り』では手配写真そのもの登場する。すぐに誰が犯人かわかりそうなものだが、3人のうちの誰にでも見えるような処理がされている(最初の写真は整形前のもので田代に似ているとは言えるかもしれない)。しかも過去の山神を演じているのは実際の犯人役の役者だけではなかったのではないだろうか。疑いのかかる3人を演じる役者が、顔を見せずにいくつかの場面を演じ分けていたように見えた。だから観客としては余計に誰が山神なのかと疑心暗鬼に駆られることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『怒り』 【東京篇】の優馬(妻夫木聡)直人(綾野剛)。

『怒り』 【沖縄篇】の泉(広瀬すず)と田中(森山未來)。

 しかしこの作品は犯人探しのミステリーというわけではない。タイトルが示すように「怒り」がテーマになっている。
 【沖縄篇】が一番わかりやすい。というのも泉は米兵にレイプされてしまうからだ。泉を「死ぬほど嫌な気持ち」にさせたこの出来事に怒りを覚えない人はいないだろう。【東京篇】ではゲイに対する理解のなさに、直人は「理解しようとしない人にわからせるのは難しい」といったことを諦めと共に語る。【千葉篇】の愛子は東京で風俗嬢として働いていた。田舎ではそうした噂はすぐに広まるわけで、父親の槙は世間がそんなことを許さないと語る。付け加えれば愛子には知的障害もあり、狭い漁港の町でそういう女性が幸せに生きていくことができるのだろうかと槙は心配に駆られている。

 何かしら「怒り」は感じてはいても、それと闘うのはどうしたって無理な話なのだ。沖縄の基地問題は一人が声を挙げても如何ともしがたいだろうし、ゲイに対する無理解や世間の噂を敵に回しても勝ち目はない。だからこそ「怒り」を感じたとしても闘うことはできず、自分のことが知られていない場所へ身を隠すことになる。
 身を隠した男はそこで誰かと親しくなり、「信頼」というテーマが顔を出す。ただ素性の知れない男をどこまで信頼できるのかは難しい問題で、観客であるわれわれも3人の男を疑って見ているように、登場人物たちも男を信頼しきれずに裏切ることになってしまう。
 3人の男のうち2人は、理由があって自分が知られていない場所で息を潜めるように暮らしていたことが明らかになる。しかし周囲の人間はその2人を信じきることができなかったわけで、真相が明らかになって涙に暮れることになる。一方で犯人の男のことを信じてしまったがゆえに悲劇が起きることにもなる。
 とても重いテーマである。人は誰も人のことを裏切りたいわけではないのだろうと思う。けれども信じきれない場合もあるわけで、素性が知れないというだけで大事な人を裏切ってしまうあたりは泣かせるものがあった。

 まったく関係のない3つの場所の話だが、編集がとてもスムーズですんなりと物語に入っていくことができたと思う。【千葉篇】で槙と愛子の聴いた音楽に合わせて【東京篇】のゲイ・パーティーにつながり、その帰りに優馬が病床の母親と旅行の話をすると【沖縄篇】の透き通るような海のシーンへとつながっていく。そういった様々な編集技法が駆使されていて、真相が明らかになるまで一気に引っ張っていく力があったと思う。
 そして、その力の原動力となっていたのは役者陣の熱演だろう。ゲイ役の妻夫木聡綾野剛は新宿2丁目の雰囲気に溶け込んでいた(発展場はギャスパー・ノエの世界のようだった)。漁協のオヤジに扮した渡辺謙は漁協風のキャップが妙に似合っていたし、愛子を演じた宮﨑あおいは意外にもはまって見えた。原作では愛子はぽっちゃり体型だったはずで、宮﨑あおいとはまったく似ても似つかないはずなのだが、愛子の無垢な部分をしっかりと捉えていたのだろう。
 さらに一番酷い目に遭わされる泉を演じたのが広瀬すずだったのも驚きだった。レイプの場面はお茶を濁したような描き方になるのかと推測していたのだが、かなり容赦ない描写で製作陣と広瀬すずの本気度が伝わってきたような気もした。その分重苦しさの度合いも並大抵ではなかった。

 原作にかなり忠実な脚本で、犯人の唐突な暴れっぷりが原作を逸脱していくところなのかもしれないのだが、原作既読者には忠実すぎてもの足りなさも残るかも……。観終わってそんなことも感じていたのだが、今になっても何となく気分が晴れないような気もするのは、映像化された作品として『怒り』のテーマと向き合ったからなのかもしれないとも思う。広瀬すずの最後の絶叫には何が込められていたのだろうか?

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Date: 2016.09.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (13)

『だれかの木琴』 住まいのセキュリティは万全だが心のほうは?

 監督は『サード』『絵の中のぼくの村』(ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞)などの東陽一
 原作は『つやのよる』『愛してる、愛してない』の原作も書いている井上荒野

東陽一 『だれかの木琴』 海斗(池松壮亮)と小夜子(常盤貴子)のふたり。


 新居に引っ越してきた親海小夜子(常盤貴子)は、知らない土地の美容院で山田海斗(池松壮亮)という美容師と出会う。海斗は顧客獲得のための営業のつもりで小夜子にメールを送るのだが、小夜子は次第に海斗に執着するような行動を見せるようになっていく。

 小夜子には警備機器会社に勤める夫・光太郎(勝村政信)と、中学生の娘・かんな(木村美言)がいる。この家族は新居も手に入れて何不自由のない暮らしがある。その新居には光太郎が勤務する会社の最新セキュリティシステムが導入されていて、外部からの侵入に対して鉄壁の防御をしている。それでも家族の心のなかを守ってくれるわけではなく、小夜子の心には海斗という存在が忍び込んでくる。
 営業メールに返信するくらいは問題ないけれど、ほとんど髪も伸びていないのに美容室へ出かけるのはおかしな兆候だし、会話の情報から海斗の家を調べたりするようになるとちょっと怖い。海斗には唯(佐津川愛美)という恋人もいるし、小夜子とは一回り以上も年齢が離れている。つまりは海斗と小夜子の関係は、美容師とその顧客という以上の間柄にはなりそうもない。それでも小夜子はうつろな目をしたまま海斗の家に現れたりして、海斗と唯を怖がらせたりすることをやめることができない。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『だれかの木琴』 小夜子は雨の中海斗の家へと向かう。常盤貴子は最後まで硬い表情を崩さない。

『だれかの木琴』 何度か登場する踏み切りのシーン。『もう頬づえはつかない』でもそんなシーンがあった。何かしらの境界を示しているのか?

◆だれが異常なのか?
 ストーカーを描いた映画は少なくない。それらの最後はサイコスリラー的な方向へと進んでいくことが多いだろうが、この『だれかの木琴』はちょっと違う。
 確かに小夜子の行動は異常な部分があるだろう。しかし、この作品では小夜子の存在は特別なものとはされていないように思えた。もちろん小夜子の異常さは目立つのだが、そのほかの登場人物も少なからずおかしい部分が垣間見えてくるのだ。
 海斗は今では営業スマイルで取り繕っているが、過去には暴力的な事件を起こしている。小夜子を疎ましく思い旦那の光太郎にまでけんかをふっかける唯の行動だって突飛とも言えるし、趣味であり仕事でもあるらしいゴスロリの服装には何か異様なものを感じる人だっているかもしれない。光太郎だって街娼のような女と遊ぶ程度には破目を外すわけだし、唯一まともなのは中学生のかんなだけかもしれない。
 小夜子が電車のなかで目撃する印象的な風景がある。ひとりの女性が電車のなかで遺影を見つめているという場面だ。人前でのそうした姿は異様なはずだが、電車のシートに居並ぶ客たちのなかではまったく目立たない。誰もがケータイやスマホを目の前に掲げているわけで、遺影を掲げた女性は日常的な風景のなかにうまく溶け込んでしまっているのだ。そういう意味では小夜子の異常さも日常を大きく踏み外すほどではなく、ギリギリその範囲に収まっているとも言えるのだ(唯一踏み外したのは放火魔の男だろうか)。

◆「だれかの木琴」とは
 では小夜子の海斗への執着は何だったのか?
 多分恋ではなくて、夫の振り向かせるための手段だったのだろう(小夜子がそれを意識しているとは限らないけれど)。小夜子は欲求不満からかしばしば夢想に耽る。そのときの相手は決まって夫の光太郎だ。小夜子の白昼夢に海斗が登場しても、海斗は髪をなでるだけの役割で、小夜子の身体をまさぐっているのは光太郎なのだ。
 つまりは小夜子が執着しているのは海斗ではなく、夫の心だったと言えるのだろう。ただ、それだけでは十分な説明ではないのだろうとも思う。小夜子は海斗とのことが終わったあとには、別の対象を見つけることになるからだ。
 そのあたりの小夜子の状況を説明するものとして、かつて小夜子が聴いた「だれかの木琴」についてのエピソードがあるのだろう。調和のとれた音楽には「完璧さ」がある。小夜子はそうした音楽を求めている。と同時に、それがなかなか手に入らないために苛立ちも感じている。
 これは『ボヴァリー夫人』のエンマが抱えていた葛藤とも似ているだろうし、「足るを知る」という金言を弁えない人の振る舞いとも言えるかもしれない。だから小夜子は夫からの愛情を取り戻すだけでは飽き足らず、それ以外の余計なものまで欲しようとする。これは病と言えば病なのかもしれないけれど、誰もがそういう心情は持っているわけで小夜子が特別に愚かだというわけではないのだろうと思う。

 ラストの小夜子の表情は何ともあっけらかんとしている。たっぷり夢を見てすっきりしたかのようで、それまで観てきた映画がすべて小夜子の夢だったかのようにも感じられなくもない。それまでは何かに憑依されたような硬い表情をくずさなかった常盤貴子だが、最後はとても自然な笑顔だった。
 暗くなりそうな題材だけれどラストは能天気だった(サイコスリラーを期待していた人は裏切られたと感じるかも)。夫役の勝村政信が鈍感さを発揮したり、その夫と対峙する唯役の佐津川愛美も大騒ぎをしてみたりと賑やかな部分もあったからか、意外とどんよりした後味にはなっていないのが不思議なところ。

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東陽一の作品
Date: 2016.09.16 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』 からし種一粒ほどの信仰

 メキシコ出身のアレハンドロ・モンテベルデ
 メキシコの映画賞ルミナス賞では作品賞・最優秀監督賞・新人賞(ジェイコブ・サルバーティ)の3冠を達成した。

アレハンドロ・モンテベルデ 『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』 “リトル・ボーイ”と呼ばれるペッパー少年(ジェイコブ・サルバーティ)がとても愛らしい。


 成長障害なのか背が伸びず、みんなから“リトル・ボーイ”とからかわれるペッパー少年(ジェイコブ・サルバーティ)が主人公。ペッパーにとって父親(マイケル・ラパポート)は憧れであり、相棒のような存在だ。しかし、そんな相棒は戦争に行くことになり、フィリピンで日本軍に捕虜にされたという知らせが飛び込んでくる。

 ペッパーは素直すぎるくらい素直な子だ。奇術師ベン・イーグルのマジックのことも信じていたのだろうし、自分がそのアシスタントとして念力で空きビンを引き寄せる術を成功させたことで、自分にも同様の力があるのかもと思い込むことになる。そして、その力を使って遠い戦場にいる父親を自分たちの元へと連れ戻すことができないかと考えるのだ。
 ペッパーは父親奪還作戦を司祭に相談すると、司祭(トム・ウィルキンソン)は昔から受け継がれてきたリストをペッパーに授ける。そのリストには「飢えた人に食べ物を」「囚人を励ませ」といった道徳的なことが書かれているのだが、司祭はそれにひとつの項目を追加する。「ハシモトに親切を」というのがそれだ。ハシモトとはペッパーの村にいる唯一の日系人であり、つまりはアメリカの敵となる。だから、この言葉は聖書のなかにある「敵を愛せ」という教えを示している。司祭はそれらのリストをクリアすることで、もしかすると神様に願いが届くかもしれないと語る。果たしてペッパーの願いは成就されるのか?

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『リトル・ボーイ』 ペッパー少年は「からし種一粒ほどの信仰があれば山をも動かす」という聖書の言葉通り山を動かそうと念を送る。

 この映画は「信じること」についての物語となっている。父親とペッパーとの合言葉は「やれるって信じてるか?」「やれるさ」というものだった。夢見がちな男ふたりは、西部劇や海賊船などを舞台にした危機に遭遇するという幻想のなかで、必ずその合言葉で危機を乗り切ることになる。
 司祭はペッパーの念力の話を聞くと、それをバカにしたりはせずに目の前でペッパーに実演させる。もちろん奇術師のトリックがなければ離れたところにあるビンを引き寄せることはできない。しかし、司祭は自らの手でビンを移動させておいて、ペッパーの信じる力が司祭を動かしたという論理でもって、ペッパーに「信じること」の大切さを説くことになるのだ。
 日系人のハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガワ)は最初はペッパーのことを疎ましく思っている。ペッパーもハシモトを父親の敵として嫌っていたわけだけれど、ペッパーは父親を連れ戻すためにハシモトに親切にする。結局はペッパーの父親を思う気持ちにほだされる形になり、リストを達成するための手伝いをすることになる。そんな意味では「信じること」は直接物体を移動させたりする力なくても、何らかの形で周囲に影響を与え世の中を動かす力を持つかもしれないのだ。

 物語の結末は歴史が示す通りで、“リトル・ボーイ”と呼ばれたペッパーの願いは原子爆弾「リトル・ボーイ」の広島への投下という形になる。ここの部分は被爆国の人間としては何とも複雑ではあるけれど、ペッパー少年があまりにかわいらしいので許せるような気もする(ペッパーの悪夢のなかに贖罪の気持ちも描かれている)。
 ハシモトを演じたケイリー=ヒロユキ・タガワとか、現実的で堅実な母親を演じたエミリー・ワトソンとか脇役たちも好演だったと思う。

 監督のアレハンドロ・モンテベルデはメキシコ出身。その出自だから何がどう違うのかはわからないけれど、映画界ではメキシコ勢の勢力が増しているようにも感じられる。『レヴェナント:蘇えりし者』アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『パシフィック・リム』ギレルモ・デル・トロ『ゼロ・グラビティ』アルフォンソ・キュアロンあたりはすでに有名どころ。そのほかにも『或る終焉』ミッシェル・フランコは注目株だろうし、カルロス・レイガダス『闇のあとの光』はわけがわからなくてあっけにとられる作品だったがインパクトもあったと思う。そんなわけでメキシコ勢には妙に覇気が感じられる。今回の『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』は先達たちほどの個性は感じないけれど、ペッパー少年のけなげさがとても感動的で泣かされる話だった。

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Date: 2016.09.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『セルフレス/覚醒した記憶』 SFとアクションと家族愛の感動を

 監督は『ザ・セル』などのターセム・シン
 主役には『デッドプール』のライアン・レイノルズ

ターセム・シン 『セルフレス/覚醒した記憶』 “脱皮”して新しい身体を手に入れる。手前がライアン・レイノルズ。


 「NYを創った男」と称えられるダミアン(ベン・キングズレー)は余命幾ばくもない。金で手に入る物はすべて揃っているダミアンだが、娘との関係はうまくいっていない。そのあたりでこの世に未練があったのか、ダミアンは“脱皮”というあやしげな方法を試してみることになる。“脱皮”は成功し、ダミアンは新しい身体を手に入れるのだが……。

 オルブライト(マシュー・グード)がこっそりと秘密のラボで行っているのは、古い身体を脱ぎ捨てて新しい身体に移行するというビジネス。新しい身体を手に入れてエドワードという名前で生活を始めた主人公は、若さを謳歌することになるわけだけれど、オルブライトから渡された薬を飲み忘れると幻影を見ることになる。
 その幻影に現れる場所を辿っていくと、そこでは主人公が手に入れた新しい身体の前の持ち主マーク(ライアン・レイノルズ)が住んでいたらしいことがわかる。ラボで培養された身体だと聞かされていた新しい身体は、実は妻と娘もいるマークという男性のものだったのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『セルフレス/覚醒した記憶』 マーク(ライアン・レイノルズ)は家族とともに組織に追われることになる。妻役のナタリー・マルティネスのハスキーすぎる声がちょっと気になる。

 別の人間の身体のなかにダミアンという人間の記憶を移行する。そして元の身体にある意識は薬で制御するというのが、オルブライトがやっているあやしいビジネスの実態だったのだ。記憶を転送する装置がMRIみたいでそっけないのも気になるけれど、科学的な説明もかなりおざなりで、とりあえず電気を流すと記憶が転送されるという何だかよくわからないシステムになっている。
 原題の「Self/less」からは「自己とは何か」みたいなものを感じさせなくもないのだけれど、そうしたテーマに深入りすることはない。『ザ・セル』などでは独自の凝った映像表現をしていたターセム・シン監督だが、この『セルフレス/覚醒した記憶』ではわかりやすいエンターテインメントに徹している。その分、独自性は感じられず、どこかで見たようなあれこれが目立つ作品となっていたと思う。

 マークは元軍人で、追っ手から逃亡するために戦うと、身体が覚えている殺人術があっという間に追っ手をなぎ倒す。これは『ボーン・アイデンティティー』シリーズで記憶を失ったジェイソン・ボーンが自然と敵を倒していくのとそっくり。
 マークが死んだと思っていた妻(ナタリー・マルティネス)にとっては、マークの身体が誰かに乗っ取られていることになるわけで「ボディ・スナッチもの」にも感じられる。ひとつの身体にふたつの魂というのは『ザ・ホスト 美しき侵略者』にもあったけれど、マークの意識は薬で抑えられているから『ザ・ホスト』みたいに身体のなかでふたつの意識が会話したりはしない。ただ、せっかく新しい身体を手に入れたのに主人公がやることは、マークの意志を引き継いだことばかりのような気もする。
 それからオルブライトと対決する場面のアレは、ロベール・アンリコ『追想』とそっくりだった。

 娘アナのために身体を売ったマークという男と、娘に謝ることができずに新しい身体を手に入れたダミアン。どちらも家族との関係が重要となっていて、その部分には感動させられるのだけれど、『ボーン・アイデンティティー』に引きずられてか中途半端なアクションに流れていくところが難点だろうか。
 ベン・キングズレーが演じたダミアンが住んでいるマンションはいかにも金ピカ。その趣味はともかくとしてすべてを手に入れた男の豪邸を感じさせるのだが、これはドナルド・トランプ氏のマンションを借りて撮影したのだとか。さずがにベン・キングズレーはその豪華さにも引けをとらない雰囲気がある。

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ターセム・シンの作品
Date: 2016.09.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)
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