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『後妻業の女』 社会的な啓発としては有用かと

 監督は『愛の流刑地』などの鶴橋康夫
 原作は直木賞作家・黒川博行『後妻業』

鶴橋康夫 『後妻業の女』 なかなか豪華な役者陣。大竹しのぶの衣装の派手さは大阪が舞台だからか。

 ちょっと前に夫に青酸化合物を飲ませて殺害したという「京都連続不審死事件」が世間を賑わせた。この映画の原作『後妻業』は、その事件よりも先に書かれていたということで、事件を予言していたとして一部では話題になったものらしい。
 「後妻業」とは資産家男性の後添えに座り、その遺産をいただくお仕事のこと。遺産目当ての結婚ならば昔からないわけではない。ただこの映画の小夜子とか、例の事件の犯人などはそれを生業としていて、旦那を次々と乗り換えつつ遺産を巻き上げるということを繰り返していくわけでかなりあくどい。
 また、この映画版は『後妻業の女』という題名となっていて、伊丹十三監督の『マルサの女』みたいな路線を思わせなくもないのだが、『マルサの女』にはお国のためという立派な理由があるわけだが、『後妻業の女』は単なる犯罪者である。主人公に共感することは難しいし、笑える部分よりも醜悪なものを感じる人も多いかも……。ちなみに「醜悪」と感じられるのは、いい年をした大人が(酸いも甘いも知ったはずの老人たちも)欲に目が眩んであまりにみっともないからだろうか。

 そんなわけで大竹しのぶ演じる小夜子という女は、旦那を乗り換えつつ私腹を肥やしていくわけだが、そのことに罪悪感はまったくない。「老い先短いジジイの最後の楽しみとなっているのに何が悪い」と開き直るくらいの厚顔無恥な女なのだ。小夜子には男をたらしこむ天性の才能があるし、頭の回転も早い。場所や相手によって態度を変え、いざとなれば修羅場を潜り抜ける度胸もある。だが、それだけでは「後妻業」は成り立たない。
 ターゲットを選別することが重要だし、知恵を授ける者がいなければならないからだ。そうした後ろ盾が結婚相談所所長の柏木(豊川悦司)だ。柏木は結婚相談所でターゲットを物色し、裏で小夜子のような後妻業の女たちを操る。なかでも小夜子はそのエースなのだ。 

 ※ 以下、ネタバレあり!


『後妻業の女』 大竹しのぶと尾野真千子が大立ち回りを演じる。

 原作者・黒川博行は直木賞受賞者で人気もあるらしく、今度はその直木賞受賞作『破門』も映画化されるらしい。そんなわけでおもしろい小説を書く人なのだろうと思うのだが、この『後妻業』に関して言えばあまり主人公のキャラに愛着を抱いていないんじゃないかという気もした。
 原作では小夜子は最後にあっけなく殺されてしまう。改心することもなければ、救われたりすることもない。悪党が滅びるのは当然といった感じなのだ(オレオレ詐欺を題材にした『勁草』という小説もそんな印象)。原作者にとっては「後妻業」という悪事について広く世間に知らしめるのがひとつの目的で、罪のない高齢者やその家族の啓発のために作品を書いたのであって、役目を終えた小夜子をそれ以上のさばらせるわけにはいかないという事情があったのかもしれない。

 ただ映画版では大竹しのぶが演じている小夜子という主人公をそんなにあっさり退場させてしまっては観客に申しわけが立たないし、後妻業の手練手管の情報提供だけでは味気ないわけで、原作から一部は改変されている。
 そのひとつは父親・耕造(津川雅彦)を殺された朋美(尾野真千子)と小夜子との対決だろう。原作にはなかったこの場面では、尾野真千子大竹しのぶが居酒屋のなかで大暴れをやらかす。父親を殺された娘の恨みが直接的に炸裂する場面なのだが、いかんせん大竹しのぶが大物だからか、尾野真千子のビンタの腕の振りは遠慮がちで、登場人物の恨みよりも業界の力関係が透けて見えるようなものになってしまっていた。
 それから原作では小夜子の弟だった博というキャラを、映画版では息子に変更している。これによって「小夜子と博」と「耕造と娘ふたり」という二組の親子関係が対照的に据えられることになる。
 耕造の長女・尚子(長谷川京子)は生来の人の良さから、耕造の生前を振り返って反省する。ふたりの娘が父親・耕造のことを構わずに放っておいたことが、小夜子のような女にひっかかる原因となってしまったのかもしれず、自分たちの親との向き合い方が間違っていたのかもしれない。そんなふうに小夜子よりも自分たちを責めるのだ。一方のわがまま息子の博(風間俊介)は、小夜子が自分を放っておいたのが悪いと難癖をつけ、いつまでも親の金にたかろうとする。
 そんなわけで親子の関係を仄めかしてちょっとだけ感動的なものにしてみたりもするのだけれど、結局はそんな面倒くさい感情に小夜子が振り回されるわけもないわけで、幾分か消化不良な印象は否めなかった。とりあえず社会的な啓発という役目は果たしているとは思うのだけれど……。

 豪華なキャスト陣で印象に残ったのが樋井明日香。以前に取り上げた『SHARING』では劇中劇の一人舞台を熱演していたのが記憶に新しいのだが、今回の役柄は新米ホステスで柏木を演じる豊川悦司とベッドシーンを演じている。とても脱ぎっぷりがよかったし、なぜか豊川の顔をペロリとなめ上げるところなど新米ホステスが無理して頑張った感があってよかったと思う。

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Date: 2016.08.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『イレブン・ミニッツ』 イレブンの意味あるいは無意味

 『出発』『アンナと過ごした4日間』『エッセンシャル・キリング』などのイエジー・スコリモフスキ監督の最新作。
 
イエジー・スコリモフスキ 『イレブン・ミニッツ』 様々な場面がモザイク状に配置されたポスター。映画の中身もそんな感じ。

 5時に始まり5時11分に終わる物語。予告編でもそんなふうに宣言されているから、何か起きそうな予感は漂っている。それでも11分で何ができるのかと言えば、たいしたことはできないだろう。たとえばパウロ・コエーリョの小説『11分間』によれば、前戯とかピロートークとか一切の余分なものを省いたセックスの正味の時間が11分間なんだとか。とりあえず込み入った物語を綴るには短すぎる時間とは言えるかもしれない。
 『イレブン・ミニッツ』は11分間に起きる出来事を多数の人物の視点から描く群像劇で、無関係なエピソードの集積によって成り立っている。最新作の出演を餌に別のことまで要求しそうな映画監督(リチャード・ドーマー)と、彼が用意したホテルの1111号室にオーディションに来た女優(パウリナ・ハプコ)。嫉妬深い女優の夫(ボイチェフ・メツファルドフスキ)は心配を隠せない様子でホテル内をうろつく。ホテル近くではホットドッグを売る男(アンジェイ・ヒラ)と、その息子のバイク便の男(ダビド・オグロドニク)やホットドッグ屋の常連の犬を連れた女(イフィ・ウデ)などもいる。登場人物は場所と時間を共有していることぐらいで何もつながりはない。そして11分後に何かが起きる。
 よくありそうな題材ではある。けれども11分の話だけに登場人物についての情報は限られている。女優の夫がなぜ顔に傷を負っているのかは不明だし、質屋に強盗に入る青年の背景もわからなければ、その質屋が自殺していることにも説明はない。それぞれの登場人物は共通の目的意識があるわけでもなく、たまたま5時11分にホテルの周辺へと集合してくる。

 人は物事に何かしら意味付けをしてしまうものだ。この作品の11という数字を見ると、つい想起してしまいがちな出来事をわれわれは知っているわけだけれど、イエジー監督のインタビューの言葉をそのまま受けとればそうした意図はないようだ。10には「十戒」という意味付けをしてしまうし、12には「12使徒」などを思い浮かべる。13はキリストが処刑された日として忌み嫌われる。そうした意味付けを避けた結果として11という数字があるのだという。そういう意味では最後に起きる出来事も無意味に徹しているとも言える。
 それでもやはり観客としては散りばめられる不穏な事象に何かの前兆を読み取ろうとしてしまう。一部の登場人物にだけ見えてしまう空に浮かぶ黒い染み、「お前はもう何も改めることができない」という言葉、突然鏡に激突する鳥、なぜか壁を遡っていく水(『出発』では時間を逆回転させていたが、このシーンは一体何だろうか)。そうしたあれこれは世界の終わりすら呼び込みそうな雰囲気を感じさせる。
 そしてまた劇中の音も不安を駆り立てる。教会の鐘や街の喧騒、救急車のサイレンや何かしらの警告音、低空で飛んで行く飛行機の音。そしてパヴェウ・ムィキェティンの担当した音楽も次第に速度を増すようにしてカタストロフの到来を予告する。緊張感を増してラストへと突き進んで行く演出はさすがに見応えがある。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『イレブン・ミニッツ』 いやらしい笑みを見せる映画監督とオーディションに来た女優。パウリナ・ハプコがとてもきれいでエロい。

 ラストの出来事は『ファイナル・デスティネーション』的な派手なものとなっていて、妙にエンターテインメント作品に寄せていっているようにも感じられる。最初のほうで『ダイ・ハード』のポスターが登場しているし、そのパロディめいた場面もあるのは監督のご愛嬌だろうか。
 この作品はスマホ動画とかWebカメラや監視カメラの映像など様々な映像が取り入れられている。なかには犬から見た視点もあって、極端な低い位置からの抑角はあまり見慣れない視点を生み出していておもしろい。
 ちなみに一部の登場人物が見ていた空の黒い染みは、劇中でそれが示されるわけではない。つまりは登場人物の気の迷いかもしれないし、視覚異常だったのかもしれないのだ。監視カメラには黒い染みが捉えられるわけだが、それはモニターの不具合と解釈されている。
 ラストではモニターのなかに映されたカタストロフの場面は次第に分割されていき、モニターのなかのひとつのドットの不具合(黒い染み)となっていく。それまで見ていたカタストロフは多くのドットのなかのひとつとなったわけで、作品そのものも一気に相対化される。そのほかのドットには別の時間があり、別のカタストロフがあるということなのかもしれない。ただ監督が意味付けを拒否していることから考えれば、ほかのドットには何でもない平穏な時間が流れているだけなのだろう。今回たまたま見ることとなったカタストロフは別段世界の終わりを意味するわけではなく、ごく狭い範囲の悲劇でしかなかったわけだし……。

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イエジー・スコリモフスキの作品
Date: 2016.08.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『ゴーストバスターズ』 女はつらいよ?

 80年代にそのテーマ曲と共に大ヒットした作品のリブート版。
 アメリカではこの作品を巡って外野が騒がしかったようだ。キャスト陣が旧作のビル・マーレイ以下のオリジナルから新たに女性陣へと変更になったことが原因らしい。それだけ旧シリーズが人気だったということなのだろう。そんなファンたちを追ったドキュメンタリー『ゴーストヘッド ~熱狂的ファンたちの今~』なんかまであるらしい。
 オリジナル信奉者が新作をけなすのは仕方がないとしても、今回の騒動はそれ以外のヘイトスピーチ的な盛り上がり方だったようで、予告編が公開されただけでブーイングの嵐になったのだとか。巻き込まれた人も気の毒だし、作品の中身とはまったく関係ないところで評判が落ちるのは作品にとっても気の毒なこと。

ポール・フェイグ 『ゴーストバスターズ』 

 新キャラを演じる4人の女性(クリステン・ウィグメリッサ・マッカーシーケイト・マッキノンレスリー・ジョーンズ)はコメディアンだそうで、それなりに軽妙なやりとりもあるのだけれど、あまり見慣れない顔だからか人物紹介めいた前半はちょっと低調。結構下ネタを放り込んでくるのだが盛り上りは欠ける。監督ポール・フェイグは、ほかの作品ではもっと品のないネタをやってもいるようなのだが、どうやら大ヒット作のリブートということで遠慮があったのか、いまひとつ弾けきれていないようだ。
 ただ、幽霊がわんさかと登場してくる後半はそれなりに楽しめる作品になっていると思う。『エクソシスト』や『ゴースト/ニューヨークの幻』とかの映画ネタも散りばめられているし、懐かしいマシュマロマンや緑の食いしん坊スライマーとかも登場して賑やかだった。ホルツマン(ケイト・マッキノン)の二丁拳銃型プロトン・ガンでの大活躍も愉快。
 ただ一番の見所は秘書のケヴィンを演じたクリス・ヘムズワースだろう。とにかく何をやらせてもダメな男で、ダメなことにまったく気づいてほどアホなところがご愛嬌といったキャラ。エンディングロールのほとんどがクリス・ヘムズワースの踊りによって占められていたところからすると、製作陣もそのキャラがお気に入りだったということなのだろう。

 旧作では街の人気者となってみんなの応援を受けながら幽霊退治に励んでいたゴーストバスターズたちだが、今回の新作『ゴーストバスターズ』では裏方に回るような形になっている。市長(アンディ・ガルシア)は彼女たちの力は認めているけれど、公には非科学的だから認めることはできないとして本音と建前を使い分けているからだ。
 80年代ではヒーローはヒーローらしく存在したのかもしれないのだけれど、今はそうではないのかもしれない。この作品ではスーパーマンとバットマンという両巨頭の名前も登場していたけれど、今回のゴーストバスターズはバットマン的に闇に紛れて仕事をすることになる(もっとも一部市民はそれに気づいているわけだけれど)。そう言えば『バットマン vs スーパーマン』でも、スーパーマンすらも市民から非難を浴びていたわけで、ヒーローが能天気に活躍できる時代ではないということなのかもしれない。

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Date: 2016.08.25 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『ジャングル・ブック』 CG技術ってすごいのねと感心する

 ラドヤード・キプリングの同名小説が原作のディズニー作品。
 監督は『アイアンマン』シリーズのジョン・ファヴロー

ジョン・ファヴロー 『ジャングル・ブック』 少年モーグリ以外はすべてCGというのだからちょっとビックリする。
 
 過去に何度も映画化されてきた『ジャングル・ブック』という題材だが、今回の作品は少年以外のすべてをCGで作り上げた実写版となっている。劇中に登場する多くの動物たちがCGであることもスゴいのだが、ジャングルそのものがCGで描かれていることに驚いた。ジャングルは実写で撮影し、そこに動物たちをCGで付け加えたと言われても信じてしまうんじゃないかと思う(木々の間から太陽の光が射し込んでくるあたりもとてもよく再現されていた)。
 どうせだったら少年のこともCGで描いてしまえばいいのかもしれないけれど、そうなるといわゆる「不気味の谷現象」にぶつかってしまうのかもしれない。動物やジャングルに関してのCGには違和感を覚えないけれど、やはり人間をCGで生み出しても質感が違うのか人間そのものを映したものとは違う不気味なものに感じられてしまう。だとすれば少年だけを実写でほかのすべてをCGという手法は、リアリティの追求という点では見事に成功していたということだろう。とにかくトラが優雅に歩いてくる様なんかいかにも自然に見えたし、少年と絡むことになるオオカミやクマもまったく違和感がなく全体として統一感がある映像はとても素晴らしかった。

 ジャングルで育ったモーグリ少年(ニール・セティ)は、人間嫌いの悪役トラのシア・カーンと敵対したり、大蛇カーに誘惑されたりもしながらも、オオカミたち家族に見守られ、後見人みたいな黒ヒョウとか、友達みたいなクマとふれあいつつジャングルを生き抜いていく。
 人間がジャングルのなかにおいて異物だということはシア・カーンが一番よくわかっていたことで、モーグリはシア・カーンとの戦いにおいて人間たちの道具である赤い花(火)を用いることで勝利を収める。ただ、その道具のおかげでジャングルは火の海と化すわけで人間がやはり一番やっかいな存在だと示しているのだろう。
 ジャングルにおいて道具を使うことが禁止されていたのは、動物たちが道具を使えないからではなく、掟で決められていたからということになっている。この掟はジャングルという自然を守るためのものだったということだろう。人間は道具を使うことで支配者になったつもりになっているわけだけれど、自然を不可逆的に変えてしまうほど愚かな存在でもあるわけで、ほかの動物たちにとっては傍迷惑な輩なのだろう。そんなことをほのめかしつつも最後はディズニーらしいエンターテインメント作品としてまとまっていて、キプリングの原作とはあまり関係ないけれど、夏休みで家族連れが観る作品としては楽しめるんじゃないだろうか。

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Date: 2016.08.21 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『野のなななのか』 過去を受け継ぎ、未来を作る

 大林宣彦監督の最新作。前作『この空の花』の姉妹編とも位置づけられる作品。
 2014年5月に劇場公開された作品で、先月末にようやくソフトがリリースされた。
 題名の「なななのか」とは「四十九日」のこと。仏教では命日から7日ごとに法要を行うわけだが、最初の七日を「初七日(しょなのか)」と言い、7回目の七日を「七七日(なななのか)」と言うのだとか。

大林宣彦 『野のなななのか』 清水信子(常盤貴子)と山中綾野(安達祐実)。信子は綾野の生まれ変わり。

 92歳で大往生を遂げた鈴木光男(品川徹)。光男が暮らしていた「星降る文化堂」はかつての病院を改築したもので、迷路のようなつくりになっている。その暗い内部には赤いランプなど赤い小道具や印象的に使われている。光男の手にはなぜか血のような赤い色がこびりついているし、光男が描く絵画にも不自然な赤い色が使われている。光男の手がなぜ血で塗られることになったのか。そして、光男を慕う清水信子(常盤貴子)という女は鈴木家にとってどんな関係の人物なのか。

 一応おおまかにまとめるとこんなふうになるのかもしれないのだが、この作品はそう単純に要約できる代物ではない。大御所の大林宣彦だからできるかなり自由なつくりになっていて、前作『この空の花』と同様にいろんなものが放り込まれているからだ。
 まず、芦別で終戦を迎えた光男たち世代の過去が次第に掘り下げられていく。戦争の記憶を描くのは『この空の花』と同じだが、舞台は長岡から芦別へと変わる。芦別には芦別の戦争の物語があるのだ。(*1)他方で、光男と一緒に暮らしていたカンナ(寺島咲)をはじめとする孫たちの世代の話も並行する(そのなかには舞台である芦別の産業についての紹介や観光PRめいた部分もある)。
 また、光男が亡くなったのは3月11日14時46分となっていて、ちょうど東日本大震災の2年後と設定され、「3.11のその後」というテーマも盛り込まれる。さらには孫の一人である春彦(松重豊)は泊原発の職員で、原発問題に関しても言及されたりして、とにかく盛りだくさんな2時間51分となっている。
 音楽隊が登場して始まり、後半では光男が「ではここでぼくの過去を物語って進ぜよう」と語りかける手法は演劇的とも言えるけれど、背景となる芦別の映像は不自然にはめ込まれたような凝った映画的な表現になっていて飽きさせない。矢継ぎ早に繰り出される台詞の量に圧倒されるかもしれないけれど、テンポのいい台詞のやりとりは心地よいものに感じられた。前作を楽しんだ人には間違いなくお薦めの作品だし、今回も大林監督の力技に圧倒される作品になっていると思う。

(*1) このレビューをアップしたのは8月15日。つまりは終戦記念日だが、芦別の人たちにとってはまだ戦争は終わっていなかったらしい。

『野のなななのか』 安達祐実は出番は少ないけれどとても印象に残る役柄。妙にかわいらしいシーン。

『野のなななのか』 光男(品川徹)が過去を語る場面。背景ははめ込んだ映像だろうか?

 この映画は「人は常に誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んでゆく」という考えで成り立っている(つまりは輪廻転生)。信子はかつて光男が慕っていた山中綾野(安達祐実)という女性の生まれ変わりという設定だ。信子は綾野という女性の何かを受け継いでいるわけで、似たような運命を辿ることになる。それを“縛り”と考えるのか、“つながり”と考えるのか、そんなことも映画のなかでは語られている。
 また、最後の場面では小佐田みちこ(野口陽花里)という脇役の少女が「わたしは誰? 誰だろね」という言葉を投げかけている。この少女の母親は、みちこを産んだときにそれが原因で亡くなっている。小佐田みちこという少女が芦別に生きているのは、母親をはじめとした長い長い命のつながりがあったからだ。さらにみちこは別の誰かの生まれ代わりでもある。「わたしは誰?」という問いかけは、みちこが誰からバトンを受け継いでいるのかということが強く意識されているのだ。

 そして、この作品は前作同様に戦争の記憶を受け継ぐことをテーマにしている。それは光男の世代から孫たちの世代に受け継がれていくわけだが、同時に輪廻転生の考えに基づいて、過去の誰かの死を現在のわれわれが受け継いでいるということにもつながっていくのだろう。
 信子は綾野の生まれ変わりであり、途中までは綾野と似たような道を辿る。しかし信子は生まれ変わりであることを拒否するような行動に出る(光男の家から出て行く)。綾野は戦争の犠牲となって死んでいったわけだけれど、信子はその運命を拒否したということなのかもしれない。
 戦争の記憶を受け継ぐということは、失敗から学ぶということでもあるはずだ(前作の「まだ戦争には間に合う」という言葉もそれを意味していたはず)。何かを受け継ぐということは“縛り”なのかもしれないけれど、先人の過去から学ぶことで、“縛り”から逃れて何かを未来につなげていくことが可能になる。ここには過去を受け継ぎつつ、未来を作っていこうという大林監督の願いが込められているのだろう。

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Date: 2016.08.15 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『秘密 THE TOP SECRET』 映画のあとはマンガをお楽しみください?

 『るろうに剣心』シリーズの大友啓史の監督作品。
 脚本には高橋泉、大友啓史、LEE SORK JUN、KIM SUN MEE。
 原作は清水玲子の同名人気コミック。
 キャストは生田斗真、岡田将生、吉川晃司、松坂桃李、 大森南朋、栗山千明、椎名桔平など。

大友啓史 『秘密 THE TOP SECRET』 絹子を演じるのは織田梨沙。ふてぶてしい表情がよかったと思う(台詞がないスキャン映像と現実の場面との落差は否めないけれど)。

 人の脳をスキャンすることで、見ていた記憶を映像化してしまうという画期的な捜査手法が開発されたという設定の作品。「人の記憶を勝手に覗いていいのか」という問題もあるのだが、この『秘密 THE TOP SECRET』の設定では脳をスキャンするときは頭蓋骨を切り取って脳を露出させ機械を埋め込む作業がいるために、死んだ人にしか使えないものらしい。
 だから冒頭から『ハンニバル』的な結構なえげつない場面が展開されたりもするので、グロいのが苦手な人はちょっと要注意かも。スキャンする映像も被害者が殺される場面だったり、殺人鬼が大量殺人を行っている瞬間とかが再現されることになるわけで陰惨な描写が続く。スキャン映像を見る側も頭にオウムのヘッドギアみたいな機器を装着させるのは、そうした映像を見た人があまりにおぞましくて狂っていくあたりをオウムの洗脳のイメージと重ねているのかもしれない。

 人の記憶を映像化するというシステムが本当に開発されたらスゴいことだけれど、映画の回想シーンというものはすべてがそんな映像なわけで、この作品では一応スキャンした映像にはぼんやりした感じのエフェクトがなされていたりもする。
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のドキュメンタリー映画監督が映像に「客観性などない」と語っていたように、死者の脳をスキャンした映像は死者の主観的な記憶が再現されることになり、恐怖によって見える幻覚すらも映像化されてしまう。だから未だに捜査の証拠としては認められていないのだという。幻想が映像化されるのならば、当然のごとく夢だって映像化されるわけで、そんな展開もあり得たのかもしれない。あれこれとおもしろそうな題材は揃っているにも関わらず、脚本の出来がどうにもよくないために混乱していたように感じられた。
 物語の中心となるのは連続殺人鬼の貝沼(吉川晃司)と薪室長(生田斗真)の関係にあるのだが、そこになぜか絹子というサイコパスの事件も絡んでくる。原作ではどうやら別のエピソードだったらしいのに、映画では無理やり結びつけようとしたために、長くて人が殺されるばかりのまとまりに欠けるものになってしまったようだ。
 映画版だけを観た人にとってはよくわからない部分も多かったと思う。薪室長がなぜかタートルネックめいたものをシャツの下に着ているのだが、結局最後まで説明はない。最後の場面ではそのタートルネックを脱いでいて、何か変化があったはずなのだが知らんぷりを決めこんでいるのだ。
 マンガがとてもおもしろいから、そっちでそのあたりは補ってくださいということなのだろうか。たしかにマンガの宣伝としては効果ありだと思うのだが、色々と評判を下げることになった人も多いんじゃないだろうか。ちなみにマンガは新シリーズとして現在も連載中だとか。

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新シリーズ 『秘密 season0』
Date: 2016.08.08 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『めぐりあう日』 親と子のつながりを感じる時とは

 監督・脚本は『冬の小鳥』ウニー・ルコント
 原題「Je vous souhaite d’etre follement aimee」は、フランス語で「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」という意味。これはアンドレ・ブルトン『狂気の愛』という著作からの引用で、ブルトンが娘に当てた手紙として書かれたものらしい。

ウニー・ルコント 『めぐりあう日』 エリザを演じるセリーヌ・サレット。

 ウニー・ルコントの前作『冬の小鳥』という作品は、親に捨てられて孤児院に入れられた韓国人の少女が海外の里親へともらわれていくまでを描いている。この作品は韓国生まれのフランス育ちだというウニー・ルコント監督自身がモデルとなっている。産みの親を知らない女性を主人公とした新作『めぐりあう日』も、ウニー・ルコントの人生に近しいところから生まれた作品だと言えるだろう。
 『めぐりあう日』の主人公エリザ(セリーヌ・サレット)は孤児院で育ち、その後養子になり、今では夫と8歳になる息子までいる。産みの親を知らないエリザは、自分が生まれた街であるダンケルクに引っ越してまで産みの親を探そうとする。しかし、法律は母親の側の事情を考慮し、その情報は保護されエリザは産みの親を見つけることはできない。

 エリザが産みの親探しをするきっかけは劇中で詳しく説明されることはない。とはいえ自分の出自を知りたいと思うのは当然のことであるのかもしれないし、息子の存在が行動のきっかけと推測されもする。エリザはいわゆる白人で、彼女の夫(=息子の父親)も白人なのだが、息子にはアラブ系の血が混じっていることが示唆される。昨今のテロであるとか、最近の『ディーパンの闘い』などでもフランスでは移民の問題が取り上げられることは多いわけで、産みの母にもそれなりの事情があってのことだと何となく理解できなくもないからだ。

『めぐりあう日』 アネット(アンヌ・ブノワ)はエリザと触れ合うことで何かを感じる。

◆何が親と子の血のつながりを感じさせるのか?
 たまたま出会った実の親子は、顔などわからなくても互いの関係を認識するのか?
 テレビ番組で似たような疑問を犬を使って実験していたものがあった。幼くして里子に出された子犬が、その親と道端でばったり会ったとしたらどうなるかというものだった。その番組では子犬が急に異様なまでの喜び方を示し、たまたま会った犬が自分の親であると理解しているように見える場合もあった(そうでない場合もあった)。犬が何によって親子関係を認識したのかはわからない。もしかすると犬のするどい嗅覚がそれを可能にしたのかもしれないのだが、動物的な勘が失われた人間はどうだろうか。

 エリザの母親探しは法律に阻まれて頓挫してしまうものの、エリザと息子はダンケルクという街で暮らしているために、実は母親アネット(アンヌ・ブノワ)と知らないうちにすれ違っているのだ。息子は小学校で働いているアネットと出会っているし、エリザは理学療法士として腰を痛めて治療に来たアネットと接触することになる。エリザはアネットの腰の治療のために彼女をきつく抱きかかえるような施術をする。それはただの治療に過ぎないのだが、アネットはそのときほかの人にハグされるのとは違うものを感じたのかもしれない。
 ハグすることで親子の関係を感じるあたりはなかなか感動的だった。また、映画の最後にいささか唐突に引用されるブルトンの言葉には、監督・脚本のウニー・ルコントのエリザのような人たちに対する想いが感じられる。そして、そのエリザの境遇は監督自身の境遇を思わせるわけで、ウニー・ルコント自身がその言葉に救われたところがあるのだろうし、多少勇み足だったとしてもわからないではない。

◆子供の態度と大人の対応
 どんな事情があったにせよ自分が親から捨てられたという事実を容易に受け入れることは難しい。エリザも自分から親を探していたにも関わらず、アネットがそれを認めた途端にそれを拒否しようとする。
 こうした屈折した感情は前作『冬の小鳥』の少女も示していたものかもしれないのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは自分が直面した事態を忘れようとしたのか、男を自宅に連れ込んで一晩のアバンチュールみたいなことを楽しむほどには恵まれているわけで、その分切実さには欠けていた気もする。
 『冬の小鳥』で主役を演じたキム・セロンの態度は世界に対しての拒否感を強烈に示していたのだけれど、『めぐりあう日』のエリザは成長してある程度やり過ごすことを学んでいる。大人としての対応ということなのだろうだけど……。

 チラシなどのエリザが遠くを見つめる目はシャーロット・ランプリングの主演映画みたいに見えないでもない。ダルデンヌ兄弟の『少年と自転車』そっくりのシーンも登場するし、母親アネットのイメージは『秘密と嘘』ブレンダ・ブレッシンみたいにも見え、どこかで見たようなイメージが結構多かったような気もする。

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Date: 2016.08.06 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (2)

『シン・ゴジラ』 ゴジラがスクラップしたものとは?

 国内産の『ゴジラ』シリーズとしては第29作目となる最新作。
 総監督・脚本は庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣となっている。
 キャストは豪華で長谷川博己竹野内豊石原さとみなどなど。なぜか塚本晋也や原一男など映画監督も顔を出す。
 『ゴジラ』については第1作と、先日テレビで放映していた2014年の『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワード監督)くらいしか観ていないので、これまでの多くの作品との違いは正直わからない。今回は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督ということで……。

総監督:庵野秀明 『シン・ゴジラ』 「ニッポン対ゴジラ」というのがキャチフレーズ。


 ある日、東京湾で大量の水蒸気が噴出する事態が発生し、近くの海底トンネルでは崩落事故が発生する。異常事態に官邸スタッフが集められ対策会議が開かれる。「海底火山の噴火だろう」と推定する多くの人に混じり、矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博己)は「巨大不明生物」の仕業という説を展開するものの突飛すぎる話で相手にされない。しかし、その後「巨大不明生物」らしき何かが川を遡っていく姿がテレビカメラに捉えられる。

 第1作目の『ゴジラ』(1954年)は、人間が作り出した核兵器(水爆)がゴジラという怪獣を生み出してしまったという意味合いが込められていたわけだが、『シン・ゴジラ』はその第1作とは別世界の話だ。本屋に山積みとなっていた『シン・ゴジラ e-MOOK』樋口真嗣のインタビューによれば、これまでのゴシラは常に第1作を前提にしていたようで、それとは無関係のまったく新しいゴジラは初めてとのこと。題名の『シン・ゴジラ』というのは「新しい」という意味が込められているということだろう。(*1)
 たとえば2014年のギャレス・エドワーズ版のゴジラは何らかの意志や目的を持っているように感じられるのに対し、この『シン・ゴジラ』におけるゴジラは何を考えているのか皆目見当がつかない。ゴジラは何の前触れもなければ説明もなく突如やってくるのだ。これはゴジラが自然災害みたいなものとされているからだろう。そして、その災害とは否応なく3.11のそれを思わせるように描かれている。
 この映画はいわゆる怪獣映画というよりも、これまでに経験したことのない不測の事態に遭遇したときのシミュレーションをした作品となっているのだ。「巨大不明生物」の東京上陸という未曾有の事態に総理大臣以下官邸スタッフがどのように対応するか。これは3.11に官邸内で実際に起きていたであろう事態を想像させるし、騒然とする国内だけでなく外国からの干渉なども含めてとてもリアルな作品となっている。そして、やはり新しいゴジラの姿には驚かされる部分も多かったし、この夏見逃すのはもったいない作品だと思う。

(*1) 題名が似ていなくもない製作中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のことも気になる。『シン・ゴジラ』ではエヴァの音楽が使用されるし、ゴジラの形状にもエヴァっぽいものを感じさせる部分がある。


 ※ 以下、ネタバレもあり!


『シン・ゴジラ』 フルCGで作られたゴジラの勇姿。

 今回のゴジラは形態を次第に変えていく。何度かの進化を遂げ、ようやくこれまでのゴジラらしい形態へと姿を変える。最初は両性類の化け物のようなグロテスクかつユーモラスな姿で川を遡上していく(露払いとしてゴジラとは別の怪獣が先に登場したのかと勘違いするくらい別物)。川の水を押し戻すように進むそれはどうしても津波を思わせるし、その後の進化したゴジラが巻き起こす破壊活動は、原発事故への対処が遅れたことによる事態の悪化を思わせなくもない。
 総理大臣と官邸スタッフは会議を開いて何かを決めようとするわけだが、誰も事態を把握していない上に最終的な決定権を持つ者は決断することができない。もしかするとゴジラの進化の途中で攻撃を許可していたら事態の悪化は避けられていたかもしれないのだが、そのチャンスを逃してしまうのだ。最終的には国際社会の干渉を受け入れざる得ないほどに事態は大きくなり、アメリカはその脅威を消しさるために核兵器の投下を決断する。日本は自分たちの力でこの危機を乗り越えることができるのかというのが後半の見所となる。

◆ゴジラがスクラップしたものとは?
 今回の作品は「ニッポン対ゴジラ」ということが謳われていて、中心となるのは政治のリーダーたちの活躍だ。だから災害の被害者となる個人のことが描かれていないという意見も見受けられるようだ。
 たしかにそういう面もあるのかもしれないが、庵野監督の狙いは日本のシステムに対する批判のようにも思えた。今回は矢口以下の官邸スタッフやはぐれ者集団の知恵で何とかゴジラを撃退することになるわけだが、総理大臣以下の閣僚の多くはゴジラに餌食になる。
 しかし矢口はすべてが終わったあとで「せっかく壊した内閣だから」と旧体制を切り捨て、「スクラップ・アンド・ビルド」でこの国はやってきたのだからとまで言ってのける。不測の事態を前にして機能不全を起こして何も対応できなかった旧体制に対する苛立ちは明らかだろう。一方では矢口は「ヤシオリ作戦」に参加した面々など個々の力は信用してもいて、日本にはまだまだやれるだけの有望な人材はいるということも示している。
 ちなみにこの作品では矢口官房副長官ら官邸スタッフには異能で面白い顔ぶれが揃っているのだが、それ以外のごく小さな役にもネームバリューのある役者が使われている(全キャストは328人だとか)。たとえば自衛隊員にはピエール瀧斎藤工などが扮しているのだが、ヘルメットを被っているためにすぐにはよくわからない。ほかにもそういう例はいくらでも挙げることができるだろうし、冒頭の海底トンネル事故の場面では逃げ回る一般人として前田敦子が顔を出していたらしい(エンドロールを見るまで気がつかなかったけれど)。
 一度顔を出すだけの役にまでこうした役者を配するのは、日本の個々の力に対する信頼のようにも感じられた。小さな役でもよく見るとそれぞれが独自の存在感を持っているのだ。それに対してシステムは硬直化し、個々の力を吸い上げるどころかダメにしてしまっている。だから一度システムをスクラップして新たに仕切り直しをしなければこの国は危ない。そんな思いが込められているようにも感じられたのだ。庵野監督がゴジラにスクラップさせようとしたのは、個々人の生活基盤とかではなく日本のシステムのほうなのだろうと思う。

◆ゴジラの暴れっぷりとその後
 ゴジラが東京を徘徊する場面はほとんど棒立ちだとかも言われていて、確かにちょっと間が抜けて見える部分もあったのだが、一度覚醒してからの中盤の暴れっぷりは圧倒的なものがあった(ここだけでも劇場で観る価値があろうというもの)。
 庵野監督は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』とか『巨神兵東京に現わる』で世界をすべて破壊しつくすような場面を描いているわけで、今回の『シン・ゴジラ』にもそうした破壊衝動のようなものすら感じる。
 この作品では日本を「スクラップ・アンド・ビルド」する必要性を訴えたわけだが、作品内ではスクラップにするところまでしか描かれていない。同じことは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』にも言える。
 壊すだけ壊したけれどもどうやって立て直していくのかというところが難しいところとも言えるわけで、庵野監督自身が心身ともに追い込まれている部分もあるようだ。製作が難航しているらしい『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、その立て直す部分が描かれることになるのかもしれない。「次回作が早く観たい」とファンとして無責任に言ってしまいたい気持ちもあるのだけれど、首を長くして待つことにしたいと思う。

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Date: 2016.08.01 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (23)
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