『葛城事件』 あなた、それでも人間ですか?

 監督・脚本の赤堀雅秋は演劇界の人。劇団「THE SHAMPOO HAT」の全公演の作・演出しているとのこと。今回の作品は『その夜の侍』に続く2本目の映画で、自身の劇団で公演したものを映画化したもの。
 この作品は附属池田小事件の加害者とその家族がモデルとなっているようだ。ただあくまでモデルであり、そのほかの事件も取り入れられているとのことで、劇中で起こる通り魔事件のときの白いジャケットなんかは秋葉原通り魔事件を思わせる。

赤堀雅秋 『葛城事件』 葛城一家の集合写真。こんな時代もあったはずなのだが……。

 冒頭である若い男に死刑が言い渡される。男はなぜか勝ち誇った笑顔を見せ、その視線の先には苦虫を噛み潰したような葛城清(三浦友和)という主人公がいる。清の顔は怒りに震えているようにも見え、事前の情報を知らなかった私は、葛城清という男を事件の被害者家族なのかと思ってしまった。清の側に正義があり、それが踏みにじられたのかと勘違いしたのだ。
 しかし実際には葛城清は死刑囚の父親である。つまりは殺人鬼の親であり、被害者感情からしても世間一般の感覚からしても非難を浴びても当然の人物である。それでも清は「俺が一体、何をした?」と開き直る。たしかに清は人を殺しているわけではないし、罪に問われるようなことはしていないと言うこともできる。しかし一方で、彼が全ての元凶であるようにも思える。

 この映画は事件に至るまで(過去)とその後(現在)を行き来しながら進んでいく。
 過去のパートでは葛城家がいかにして殺人鬼を生み出してしまったかという点が追われる。家長の葛城清はマイホームを建て、一国一城の主として家族を守ると息巻く。そこには希望があったはずだったが、清は自分の考える家族のあるべき姿を押し付けすぎ、それは家族に抑圧的に働く。妻・伸子(南果歩)は夫の顔色を窺ってばかりいるし、息子たちは家長である清からの評価で測られることになり、従順な兄・保(新井浩文)は褒められるが、兄と比べられる弟・稔(若葉竜也)は屈折した性格になっていく。
 現在のパートでは死刑廃止運動家の星野順子(田中麗奈)という女を絡ませ、獄中の稔と地域社会で蔑まれる清の姿を追う。星野によれば、死刑は更生の機会を奪ってしまうため人間に絶望してしまったことになると言う。そして星野はまだ人間をあきらめたくないという一心で稔と獄中結婚し、義理の父となる清とも交際をし、少しでも稔のことを知ろうと努力する。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『葛城事件』 葛城清(三浦友和)は料理屋で店員に文句を垂れるが、周囲はそれを誰も止めることができない。

『葛城事件』 星野順子(田中麗奈)は死刑囚となった稔に会いにくる。

 葛城清はどこで間違ったのだろうか。抑圧的な父親は現実にも少なくはないだろうし、兄弟が比べられることだって珍しくはない。何かしらのボタンの掛け違いがあったのかもしれないけれど、それがどこだったのかははっきりしない。清だって庭に柿の木を植えて息子たちの成長を楽しみにするような父親だったわけで、葛城家に起きた間違いはもしかしたら自分の家にだって起きたことなのかもしれないのだ。
 事件後の清の態度を見ると、卑屈さとそれを隠そうとする尊大さには殺人鬼となった稔と似通ったところがあるようにも思える。しかし、そんな人間でも信じるという特異な女・星野によってふたりは多少なりとも揺さぶられる。それでもその結果がどうなったかと言えば、星野の惨敗というところだろうか。稔とは最後の面会で気持ちを通わせたことで一瞬希望を感じさせつつも、そのあとの清の行動は星野を絶望へと叩き落すのだ。自らの信念に迷いのなかった星野でも、さすがに死刑廃止論を引っ込めてしまったかもしれない。

 前作の『その夜の侍』は被害者家族と加害者という関係を扱っていて重苦しい作品だが、本作もかなり重い。通り魔殺人を起こす稔に関しても共感はできないが、その父親・清が撒き散らすトラブルの種は周囲の人間だけでなく、われわれ観客も嫌な気分にさせること間違いない。『その夜の侍』では主人公が食べるプリンが最後にうまく使われていたが、今回の『葛城事件』では葛城家の主食であるコンビニ弁当が効果的だった。どう見ても幸福な食卓の風景とは見えないのだ。ラストは清がそんな粗末なものを食べつつもぶざまに生きていく姿で終わる。
 葛城清を演じた三浦友和の何ともいやらしい感じも素晴らしかったのだが、星野を演じた田中麗奈が印象に残った。星野は清からも「偽善者」とか「どこの新興宗教だ?」とか厭味を言われつつ、決して信念を曲げることはない。ただその佇まいはどこか世間とはかけ離れているところがあって、いつもリクルートスーツのような出で立ちで堅苦しく、自分の家族を捨ててまで死刑反対の運動に突き進むところに異様さをにじませる。田中麗奈はデビュー作『がんばっていきまっしょい』以来、明るい笑顔のイメージばかりだったのだけれど、この作品では能面を張り付けたようなぎこちない表情を見せていて、これまでのイメージとはちょっと違う。

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Date: 2016.06.28 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『エクス・マキナ』 ロボットも人間も内側のことはわからない

 監督は『ザ・ビーチ』の原作者で、最近は『わたしを離さないで』など脚本家として活躍していたアレックス・ガーランド。今回が初の監督作品だが、欧米では結構評判となっていた作品で、第88回アカデミー賞視覚効果賞を受賞した。

アレックス・ガーランド 『エクス・マキナ』 アリシア・ヴィキャンデル演じるエヴァは人工知能を搭載されたロボットだった。


 IT企業で働くケイレブ(ドーナル・グリーソン)は社内での抽選に当たり、滅多に会えない社長と過ごす権利を獲得する。ヘリコプターで山奥の別荘まで送迎されたケイレブは、そこで社長のネイサン(オスカー・アイザック)から今回の滞在の目的を知らされる。検索エンジン「ブルーブック」を開発したネイサンの次の目標は人工知能で、検索エンジンで集めたありとあらゆる情報を取り込んだ人工知能を開発する。ケイレブはまだ誰にも知られていない人工知能のテストを任されるのだ。

 人工知能を取り扱った映画は最近でも『オートマタ』とか『her/世界でひとつの彼女』とか『チャッピー』など様々あって珍しいものではないけれど、ほかの作品の人工知能がいかにも機械という姿だったり、PCのOSという目に見えないものだったりするのに比べ、この『エクス・マキナ』のロボット・エヴァはビジュアル的にインパクトがあったと思う(エヴァを演じたアリシア・ヴィキャンデルのお人形さんのように整った顔立ちが無機質な役柄にとても合っていた)。
 インパクトとは言っても、身体の一部がスケルトン構造になっているというだけのアイディア勝負だ(マンガ『コブラ』のクリスタル・ボーイ風)。人間のような顔をもっているけれど、身体にはしっかりと機械仕掛けという証拠を見せている。それでもワンピースを着てカツラをつけたりすれば女の子にも見えてしまう。このビジュアルはその後の展開にも大いに関係するわけで、視覚的にもアイディアとしてもなかなか秀逸だった。

 ※ 以下、ややネタバレあり!

『エクス・マキナ』 エヴァとケイレブはガラスに隔てられながらもテストを行う。

 物語は二転三転していく。ケイレブはエヴァに対してチューリング・テストを行う。このテストは人工知能が人間と同じように知的か否かを調べようとするもの。ケイレブはガラス張りの部屋に閉じ込められているエヴァと向かい合って会話をし始めるのだが、その返答は人間を相手にしているようにしか思えない。
 だからチューリング・テストの結果としてはエヴァは合格ということになるわけだが、テストを仕掛けたネイサンには別の目的もある。人工知能エヴァと人間であるケイレブとの間で恋愛は可能なのかという、ネイサンの下世話な興味も混じっているのだ。ネイサンにはキョウコという口を利かないメイドがいて、キョウコは実はよくできたロボットなのだが、キョウコにしてもエヴァにしても性交渉は可能なのだという。つまりほとんど人間の女性と何も変わらないわけで、そうなれば恋愛だって可能だろうというわけだ。もしケイレブがエヴァを愛したとすれば、より一層人間に近い人工知能が完成したことになるとネイサンは考えたのかもしれない。

 エヴァに惹かれていくケイレブと、ネイサンを信用するなと訴えるエヴァと、ふたりの実験対象者を神のような視点から見守るネイサン。そんな3人の腹の探り合いは緊迫感があった。しかもその後にさらにひねりを加えてくる展開はなかなかスリリングで楽しめると思う。
 最後にはネイサンの別荘を抜け出して街の交差点に現れるエヴァだが、個人的にはその未来に恐ろしいものはあまり感じなかった。ネイサンから逃げ出すためには手段を選ばなかったエヴァとはいえ、人間を敵に回すようなことはしないだろう。外見的には人間のなかに紛れ込むことは可能なはずだから、監禁状態から抜け出した女の子の新しいスタートのように希望さえも感じてしまうのだ。しかしその反面では、うぶなケイレブが騙されたのと同じでエヴァの考えていることなど何も理解していないだけなのかもしれないとも思う。

 あまり物語とは関係ない部分だけれど、キョウコとネイサンのダンスシーンはちょっと見物(下の動画)。古臭い感じのダンスをふたりが真剣に踊りきるのが妙におかしい。キョウコを演じたソノヤ・ミズノは日系英国人のバレリーナだとか。
 キョウコはいかにもモデル的なスレンダーな体型で、これにはその生みの親であるネイサンの好み(使い古しのほかのロボットもみんなモデル体型だった)が反映している。一方、エヴァが完成体になったときの裸はちょっとロリータっぽい。これはネイサンが検索エンジンのログから盗み出してきたケイレブの趣味に合わせたものとなっている。現実でもそうした情報は筒抜けになっているわけで、知らない間に検索エンジンに人間の行動がコントロールされているということはすでに起こっていることらしい……。



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Date: 2016.06.24 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『クリーピー 偽りの隣人』 境界に危ないものが棲みつく

 黒沢清監督の最新作。
 原作は日本ミステリー文学大賞新人賞に輝いた前川裕の小説『クリーピー』だが、かなり改変されている模様。
 「クリーピー」とは「ぞっとする」とか「身の毛がよだつ」という意味。

黒沢清 『クリーピー 偽りの隣人』 西野家の玄関前。高倉(西島秀俊)が妻と一緒に挨拶に伺うと妖しげな風が……。


 犯罪心理学を学んでいた刑事・高倉(西島秀俊)は、犯人の気持ちを理解しているつもりになって大きな失敗をしてしまう。その後、高倉は犯罪心理学者として大学で教鞭をとることになり、妻・康子(竹内結子)と共に新居に移り新しい生活を始める。しかし、隣の西野家には奇妙な男(香川照之)がいて……。

 この作品でも黒沢演出はいかにも何かが起こりそうという雰囲気を醸し出している。隣家に挨拶に出かけると急に風が吹き荒れたり、ある事件の生存者・早紀(川口春奈)のインタビューでは、光あふれるガラスばりの大学の部屋が次第に真っ暗になったりもする。ラストあたりではいつものように異空間を飛んで行くようなドライブ・シーンもあったりして、いかにも黒沢映画らしい演出が楽しめる作品になっていると思う。さらにいつもながら何かしらやってくれる香川照之は今回も健在で、いかにも安定した薄気味悪さを見せてくれる。

 黒沢作品は境界というものを意識させるものが多い。前作の『岸辺の旅』では境界とはこの世とあの世の境界であったし、『リアル~完全なる首長竜の日~』では夢と現実の境界だった。今回の作品に関しても『キネマ旬報』のインタビューを読むと、黒沢監督は「境界に危ないものが棲みつく」ということを語っている。
 また『黒沢清、21世紀の映画を語る』という本では、『宇宙戦争』『グエムル』など川が描かれる映画を参照しつつ、川というものが「三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。」と記している。川というものが境界に位置することが明確に意識されている。
 そして『クリーピー 偽りの隣人』では、川を類推させるようなものが登場する。それは住宅街のなかを切り裂くように走る線路だ。早紀だけが残された一家失踪事件現場ではすぐ近くに電車が走っていくし、主人公・高倉が引っ越した家の近くにも高架線が通っている。加えて言えば、崩壊寸前の危うい状態にある家族を描いた『トウキョウソナタ』の主人公の家も線路沿いにあったわけで、線路というものも何かしらの境界線として意識されているのかもしれない。

 この作品には幽霊や超自然現象が登場するわけではない。あくまでも人間しか出てこないのだが、その人間のなかにはちょっと常人とはかけ離れた人物もいる。高倉が研究する犯罪心理学においては、犯人の類型として「秩序型」「無秩序型」があり、さらにそのふたつの「混合型」があるという。「秩序型」「無秩序型」に関してはこれまでの研究により詳細な分析が可能だが、未だに「混合型」に関してはお手上げの状態。そして高倉の隣人・西野もその「混合型」の人間だ。常人のはかり知れない行動をする彼は、まさしく境界にいる存在なのだろう。そして西野の家の奥には外側から窺い知ることができない妖しい部屋が潜んでいる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!



『クリーピー 偽りの隣人』 高倉(西島秀俊)と隣人の西野(香川照之)。後ろには高架線が走っているのが見える。

 この映画ではかつての未解決事件と隣人・西野が結びついてくる。西野の娘(藤野涼子)が言うところによれば、西野は「全然知らない人」。なぜ知らない人が父親のフリをしているのかと言えば、隣家はすでにその男に乗っ取られているからだ(この原作自体が北九州一家監禁殺人事件をモデルにしている)。
 劇中では父親はすでに殺され、母親は薬を打たれ、娘は心理的に西野のコントロール下にある。なぜ隣家が乗っ取られたのかはわからないのだけれど、ひとりで家を守る高倉の妻・康子が次第にいかにも妖しい西野に近づいていくことからも、ごく普通の家族には何かしら付け入る隙があるものなのだろうとも思う。

 かつての共同体では隣近所の人となりくらいはわかっていたはずだが、今では隣に誰が住んでいるのかも知らない。高倉のもうひとつの隣家・田中家も愛想がよくないし近所付き合いも遠慮がちで、家のなかでは要介護の誰かの叫び声が聞こえる。昔ならば共同体のなかで処理されていたかもしれないそうした物事は、今では家庭のなかに閉じ込められる。内に閉じ込められた家族は問題を抱えていても、外に助けを乞うわけにもいかない状況にある。そんななかでその閉じ込められた内側に潜り込むことができた西野のような男は、秘密を共有した新しい家族として受け入れられることもある。ちょっと通常では想像できないような状況なのだけれど、人の心理をうまくコントロールする術に長けた人物によればそうしたことが可能になるらしい。そんな意味では幽霊なんかよりも怖いかもしれない。

 ただ、家族のなかに付け込む隙があるとすれば、康子が西野に引き込まれたのも家族の問題があったはずなのだけれど、この映画では西野が康子を陥れる描写がほとんど抜けているので、康子が勝手に罠にはまってしまったようにも見えた。
 夫である高倉は早紀には「あなたには心がない」と指摘され、康子からもあきらめられているのだが、それは単純に元刑事の悪癖であり、夫婦喧嘩によくある売り言葉に買い言葉にも感じられる。しかし最後の康子の絶叫から鑑みるに、高倉の心には康子をあれほどまで追い込むような異様な部分があったのかもしれないのだが、そのあたりがあまり感じられないためラストは唐突だったようにも思えた。野暮な説明などしないほうがいいということなのだろうとは思うのだけれど……。

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黒沢清、21世紀の映画を語る


キネマ旬報 2016年6月下旬号 No.1718


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Date: 2016.06.20 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス』 ハリウッド映画の様式を異化すること

 映画監督ロバート・アルトマンに関する本。
 著者の小野智恵が京都大学へ提出した博士論文がもとになっているとのこと。

ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス: ニュー・シネマ時代のスタイル



序 すべては即興なのか?
第1章 オーヴァーラッピング・ダイアローグからオーヴァーラッピング・ナラティヴへ
第2章 モチヴェーションの曖昧な主人公
第3章 ズーム・インが無効にする奥行きという錯覚
第4章 ポスト・ノワールに迷い込んだ古典的ハリウッド映画
結 インディペンデント・ムーヴメントの父?


 中心となる4つの章にはそれぞれ副題がつけられている。「中心性⇔「遍」・中心性」、「明瞭性⇔不・明瞭性」、「深奥性⇔反・深奥性」、「一致性/連続性⇔半・一致性/非・連続性」の4つだ。著者によれば、規範としての古典期のハリウッド映画様式がもつ特質が「中心性、明瞭性、深奥性、一致性/連続性」という言葉で示される。それに対してアルトマン作品はそれらとは対立するような様式となる。
 たとえばそれまでのハリウッド映画が「中心性」を基本にするのに対して、アルトマン映画は「「遍」・中心性」という特質を持つ。アルトマン作品には群像劇が多いが、その極端な例が『ナッシュビル』だ。この作品では主人公が24人もいる。しかもそれらが共通の目的を持っているわけでもない。画面上の様々な主人公が入り乱れるときには、会話が重なり合い、その中心があちこちへと移動する(これを可能にしたのが新しい録音システムなんだとか)。遍くところに中心が存在するのがアルトマンの映画なのだ。

 そんなアルトマン作品を批評家たちはどう評価したのかと言えば、それまでのハリウッド映画と異なることは感じていたものの、その意味合いをはかりかねてもいたようだ。アルトマンに特徴的なのは「ぼんやりした場面、重なる台詞、不規則なズーム・ショット、障害物の多いカメラ・アングル」など様々なのだが、批評家たちはそれらをひっくるめて「即興性」という言葉で示している。しかし著者はそれに疑問を投げかける。アルトマン作品は古典期のハリウッド映画様式を異化するものだったのではないかというのが著者の視点である。

『ロング・グッドバイ』 フィリップ・マーロウ役のエリオット・グールド

 第4章では『ロング・グッドバイ』に関して詳細に論じられている。この本のなかではある批評家の言葉を借りて、ラストに対する違和感が表明されるのだが、私自身も『ロング・グッドバイ』を観たとき同じように感じた。というのは映画のラストがレイモンド・チャンドラーの原作と異なるからだけでなく、妙にあっけなかったからだ。その違和感の要因は何なのか?
 古典期のハリウッド映画では、「顔と内面の一致性」というものが約束事としてあるのだという。主人公の顔=内面であり、たとえば主人公の顔が不自然に隠されているとするとすれば、それは主人公の内面もまた観客に隠されていることになる。
 一方で『ロング・グッドバイ』ではそうした約束事は成り立たない。主人公マーロウ(エリオット・グールド)が取調室のなかで刑事に尋問を受ける場面では、カメラは隣室からマジックミラー越しにマーロウの表情を捉えるのだが、そのマジックミラーは汚れていてマーロウの顔は隠されている。ハリウッド映画のナラティヴに則れば、マーロウの内面は観客から隠されていることになる。しかし、その後の物語の展開を見る限り、マーロウ自身巻き込まれた事件に関して何も知らないことがわかる。つまりはマーロウの内面は隠されていたわけではなかったわけで、アルトマンのナラティヴはそれまでの古典期のハリウッド映画と同様に捉えてしまうと見誤ることになる。いつものナラティヴを予想していると裏切られる部分もあり、それは観客の困惑にもつながる。
 著者はいくつかそうした例(メロディの使われ方や因果性のない暴力)を追うことになるが、古典期のハリウッド映画が「一致性/連続性」を持つのに対して、『ロング・グッドバイ』は「半・一致性/非・連続性」という特質を持つことが明らかにされる。最初にこの作品を観たときの私の違和感は、「規範たる先例の表現方法を侵害する、風変わりな表現方法による、見慣れぬナラティヴ機能に対する違和感」ということになるのだ。完全にスッキリしたというわけではないけれど納得させられるところがある。
 アルトマン作品の独自のアプローチだけでなく、古典期のハリウッド作品の特徴に関しても整理されていて、色々と示唆に富む部分も多かったと思う。

 著者の小野智恵に関してはまったく知らないのだが、指導教官には映画学者の加藤幹郎の名前も挙がっているところからすると、優秀な研究者なのだろうと推察する(京大だと言うし)。
 加藤幹郎の本は、最近なぜか新装版の『映画ジャンル論』『映画とは何か 映画学講義』を本屋で見かけたりもするので手に入りやすくなっている。上記の2冊は学問的でちょっと堅苦しいけれど、『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』という本はこんな解釈の仕方もあるのかと驚かされたし、とても説得力のある議論が展開されているので興味のある人は手にとってみても損はないんじゃないだろうか。

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その他のロバート・アルトマン作品


映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義


映画とは何か 映画学講義


ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)


Date: 2016.06.16 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『裸足の季節』 じゃじゃ馬娘たちの闘い

 監督のデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンはトルコ出身の女性。この作品がデビュー作だが、フランス代表としてアカデミー賞の外国語映画賞にまでノミネートされるほどの評価を獲得した。
 原題は「MUSTANG」で、「野生の馬」のこと。公式サイトの監督の発言によれば「溌剌として扱いにくい5人姉妹を象徴」しているとのこと。

デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン 『裸足の季節』 ベッドの上でじゃれ合う5人姉妹。

 舞台は黒海沿岸のトルコの小さな村。5人姉妹は男の子たちと一緒になって学校帰りに海でじゃれ合って遊ぶ。それだけならよくある(かもしれない)青春の1ページなのだが、イスラム世界のトルコではそうしたことはあまり好ましくないこととされる。彼女たちを育ててくれた祖母は、はしたない真似をしたとして彼女たちを叱りつけ、姉妹は外出を禁じられて家に閉じ込められてしまう。
 それからその家は花嫁修業の場と化す。姉妹の両親が亡くなって以来、祖母を支えてきたのは、生きている間に5人を嫁にやるという想い。姉妹たちは上から順番に結婚を迫られることに……。

 トルコでは男尊女卑が当たり前の状態であるようだ。この映画でも食卓は男女が別々になっていたりもするし、男女が平等だとは考えられていない。普段は彼女たちに厳しい祖母だが、「傷物になったら結婚できない」として強権的に検査をさせるような叔父からは姉妹を守る立場でもある。叔父が姉妹たちに厳しく当たるときには、祖母は姉妹の側につく。叔父に禁止されていたサッカー観戦も、祖母の涙ぐましい奮闘によってバレずに命拾いしたわけで、祖母は姉妹たちの味方なのだ。
 しかし一方で祖母は古い因習から自由であるわけではない。女にとって結婚することが幸せという考えを当然のものとして押し付けるし、姉妹が「クソ色」と呼ぶ淀んだ色の衣装を強要したりもする。姉妹を閉じ込める家のなかでは祖母が有害と判断したパソコンや携帯電話は取り上げられ、同時に「民衆を導く自由の女神」の絵が捨てられるところからすると、トルコでは「自由」という考え自体もいかがわしいものなのかもしれない。

『裸足の季節』 5人姉妹を演じたのはほとんどが素人だったとか。

『裸足の季節』 次女セルマ(トゥーバ・スングルオウル)は結婚式当日になって涙を見せるのだが……。

 籠の鳥となってしまった5人姉妹だが、それまでは祖母に隠れて楽しんでいた部分もあるようだ。姉妹たちの制服の着こなしはちょっと不良っぽくも見えるし、みんなが腰にまで届くような長い髪をなびかせている。イスラム世界の戒律も国によって違うのだろうと推測するのだけれど、たとえば女性が肌を一切見せなかったイラン映画の『カンダハール』とか、女性にとっては生きづらい社会だろうと思わせたサウジアラビア映画の『少女は自転車にのって』などと比べると、この作品の舞台であるトルコは比較的自由に見える(そもそもあまり宗教的なものを感じさせない)。
 長女ソナイ(イライダ・アクドアン)は駄々をこねて好きな男性と結婚することになるのだけれど、その彼氏とは後ろでしているから未だに処女のままと言ってみせるのにはちょっとビックリする。特に前半はソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』を想起させる少女趣味なイメージなのだけれど、ところどころにえげつないものをさらりと放り込んでいるのがおもしろい。
 主役でありナレーターでもあるのは末娘のラーレ(ギュネシ・シェンソイ)。姉たちが体験するシビアな現実を目の当たりにしてラーレが起こす行動は希望を感じさせる。ラーレが過去を振り返るようにして挟むナレーションがあるからか、5人が揃ってベッドのなかでじゃれ合っていたころを想い出させ、どことなく物悲しさも残る作品だった。

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Date: 2016.06.13 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

森達也の最新ドキュメンタリー 『FAKE』 誰が誰を騙したのか?

 『A』『A2』森達也監督の最新ドキュメンタリー。
 今回の被写体は「ゴーストライター問題」で話題になった佐村河内守氏。
 観たのが公開初日だったからか、私は何とか最終回の上映に立ち見で滑り込んだという状況で、劇場はとにかく大賑わいだった。ユーロスペースは予約システムがないために、席がなくて帰ることになった人も多かったんじゃないだろうか(ネット予約システムの導入を希望!)。やはりマス・メディアで盛んに取り上げられた人物が被写体になっているからなのだろうか。

森達也の新作 『FAKE』 被写体はあの佐村河内守氏。飼い猫はただただ事態を見つめている。

 森達也監督はオウム真理教を題材とした『A』では、オウムに直接取材を申し込んで、世間を騒然とさせていたオウム内部に入り込んでいる。これはほかのマスコミでは誰一人考えもしなかったこと。荒木広報副部長の記者会見の場では、その他大勢のマスコミがカメラを向ける様子を、カメラを向けられるオウム側(つまりマスコミの反対側)から捉えている。このとき世間はオウムに対して当然のごとく非難の目を向けていたわけで、森監督の立ち位置の特異さを感じさせた。
 今回の被写体である佐村河内氏も「ゴーストライター問題」以来バッシングを受けてきた人物だ。森監督はなぜかそうした人の側に立つ。この国では誰かを持ち上げるときは皆一丸となるわけだが、問題が生じた途端に手の平を返したようになる。佐村河内氏も耳が聞こえない作曲家ということでベートーベンと比較されたりして話題になっていたそうだが、騒動が巻き起こった途端、もてはやしていたマスコミが突き落とす側に回る。
 森監督は全員が「右へならえ」となってしまう風潮が嫌なのだろう。だから大多数とは反対側に立って、少しでもそうした風潮に風穴を開けようとする。この作品は佐村河内氏の騒動後の謝罪会見以降から始まっているようだ(具体的な日時は示されないが)。森監督は佐村河内氏が奥様とペットの猫と暮らすマンションに出向き、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で佐村河内氏にカメラを向けることになる。

◆被写体との関係
 騒動のなかで焦点となっていたのは、佐村河内氏は「耳が聞こえるのではないか」ということと、「作曲などできないのではないか」ということ。この作品では森監督はそうした疑問を追求するというよりも、佐村河内氏の見解にとことん付き合うことになる。耳が聞こえないために会話は奥様の手話を介することになるし、聴覚障害に関しては別の聴覚障害者から佐村河内氏に有利な意見を取り付けたりもする。この森監督の姿勢があればこそ佐村河内氏はこの映画の被写体になることを承諾したのかもしれない。
 作品中にはテレビ番組のプロデューサーが佐村河内氏に出演を依頼する場面がある。しかし、それは彼をおもしろおかしくいじるだけのバラエティであったために断られることになる(その代わりに騒動のもうひとりの主役・新垣隆氏が笑い飛ばされる)。その意味では森監督と佐村河内氏の間には何らかの信頼関係があったはずで、森監督自身も「ふたりで心中するつもり」などと言ってもいる。こうしたふたりの関係性がラストの展開に大きく関わってくる。

◆ドキュメンタリーとフィクション
 この作品はドキュメンタリーだが、一部ではラストの部分にはヤラセがあるとも言われている(町山智浩の見解)。ヤラセという言い方は極端だが、もともと森達也は著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』などでもドキュメンタリーとフィクションの曖昧な部分について語っている。
 そもそも取材対象にカメラを向けたとき、すでにその被写体はカメラを前にしたよそ行きの顔になるはずで、いくら自宅マンションに潜り込んで撮影しようが被写体の日常の姿が捉えられるわけではない。ドキュメンタリーにも最初から作為的なものが混じっているのだ。
 その逆に「劇映画(=フィクション)は役者のドキュメンタリーである」という言い方もある。この言葉は『忘れられた皇軍』というドキュメンタリー作品も撮っている大島渚監督のもの。フィクションでは台詞が決められていて脚本に従って撮影がなされる。しかし、実際にそれを演じるのはわれわれと同じ人間であることに変わりはないわけで、カメラの前で役者が演技をするときにはどんなアクシデントが生じてもおかしくない。つまりはドキュメンタリーとフィクションは截然と分けられるものではないということなのだ。
 森監督はこのサイトのインタビューで「撮る側と撮られる側の相互作用」ということを語っている。この作品にはフィクションのように最初から決められた結末があったわけではないはずだ。佐村河内氏を信じるという森監督と、そうした期待を背負ってカメラの前に立つ佐村河内氏の相互作用がどこへ行き着くのかは撮影が終わるまで誰にもわからないのだ。

 ※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!

『FAKE』 佐村河内氏は音が聞こえなくても音楽を感じることはできるという証拠のために、リズムだけでトルコ行進曲をやってみせる。

◆衝撃のラスト12分間?
 ラストでは森監督は佐村河内氏に「音楽をやりましょう」とけしかけることになる(ここには作為があるが、これだけではヤラセとまでは言えない)。それに対して佐村河内氏がどう反応するか。もちろん佐村河内氏はそれを無視することもできたはずだ(脚本などないのだから)。あるいは作曲など無理だという告白をすることだってできたはずだ(そうなればもっと感動的だったかも)。しかし佐村河内氏は実際に作曲をやってみることを選択する(意地悪く言えば、その曲が本当に佐村河内氏のものなのかはわからない)。
 ここにはそれまで長時間の撮影をこなしてきたふたりの関係がある。佐村河内氏は森監督からの期待に背中を押され、自らの前にあるいくつかの選択肢の間で逡巡する。そうした追い込まれた状況のなかで生まれたのがラストの展開なのだ。その場面で佐村河内氏の足と森監督の足が同じ画面に捉えられるのは、ふたりの共犯関係を示しているのだろうと思う。

 しかし最後の最後の森監督の言葉は、そうした信頼関係をぶち壊すようなものだった。それまで佐村河内氏の側に立っていたはずの森達也は、突然根本的な疑問を投げかけるわけで、佐村河内氏はそれに答えることができない(もしかしたら聞こえないのかもしれないが)。『FAKE』というタイトルは世間を欺いた佐村河内氏を意味しているのかと推測していたのだが、実は騙していたのは森監督のほうであって、監督を信頼していた佐村河内氏は逆に騙されてしまったのかもしれないのだ。

 この作品を観る限り、個人的には佐村河内氏には嘘があるのだろうと思う。しかし同時に嘘ではない部分もある。そして、奥様にも嘘があるように見える。もちろん全部が嘘ということはなく、奥様が佐村河内氏を支える気持ちには嘘はないのだろうとも思う。
 それから佐村河内氏がリズムだけでトルコ行進曲をやってみせるシーンや、なぜか食事前に豆乳を一気飲みするという奇妙なシーンなど、佐村河内氏の素の部分が見ることができるところも多々ある。そうした部分では劇場では大きな笑いが起きた。作品の多くは嘘を取り繕う緊張感が支配していたように感じられるのだが、笑いが生じた部分だけは佐村河内氏もそうした緊張感から解放されていたのが観客にも伝わってきたからだろう。すべてがFAKEな人などいないということなのだ。

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ドキュメンタリーは嘘をつく


Date: 2016.06.08 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ヒメアノ~ル』 一寸の虫にも五分の魂、それでは殺人鬼には?

 原作は『ヒミズ』などの古谷実。
 監督は『さんかく』『銀の匙 Silver Spoon』などの吉田恵輔

吉田恵輔 『ヒメアノ~ル』 岡田(濱田岳)はユカ(佐津川愛美)と仲良くなって……。何だかとても初々しい。

『ヒメアノ~ル』 安藤(ムロツヨシ)はユカにフラれてこんな髪型に(これは原作通り)。もう恋なんてしないという宣言だとか。


 特に趣味なんかもなく退屈な日々を過ごしている岡田(濱田岳)は、ビル清掃会社のパートタイマー。底辺の生活で夢も希望もないのだが、同僚の安藤(ムロツヨシ)は「日々恋をしている」と言い放つ。安藤が想いを寄せるユカ(佐津川愛美)をひと目見ようと彼女が働くカフェに行くと、そこには岡田のかつての同級生・森田正一(森田剛)がいる。安藤によると森田は最近いつもユカの様子をうかがっているのだと言う……。

 恋の相談に乗ったら相談相手がその関係に巻き込まれるというのはよくあるパターン。この映画の安藤はどう控えめに見てもモテない男だし、そのこじらせ具合はギリギリのレベルに達している。とはいえ相談を受ける岡田のほうもまったく女には縁がなく、そんな岡田にかわいらしいユカが想いを寄せることなどあり得るはずもなく、端から自分は対象外と考えていたらしい。そんなだから突然降って湧いた幸せに岡田はそれが信じられない。
 ごく普通の日常生活というよりは、安藤の特異なキャラもあってかなりドタバタコメディっぽい雰囲気。そうした日常はずっと続くこともあるのかもしれないのだけれど、この作品では一気に転調する。中盤になって『ヒメアノ~ル』というタイトルがようやく登場すると、トップに名前が出てくるのは森田役の森田剛であり、真の物語はそこから始まるということが示される。

『ヒメアノ~ル』 殺人鬼・森田(森田剛)の様子。画面も急に暗くなる。

 そこまで脇役でしかなかった森田に焦点が当てられると、それまでののんびりとした空気は消え去り、暗く陰惨な場面が続くようになる。岡田とユカのベッドシーンと森田の殺人シーンがカットバックされるところで、日常とその陰に潜む暴力、そのふたつの流れが交錯することになる。四つん這いで岡田に攻め立てられるユカと、四つん這いで森田からの殴打を受けて失禁する女(山田真歩)が重ね合わせられる。ここでは平凡だけれど輝かしい日常が森田の暴力によって黒く塗り潰されていくようでもあった。

 原作の『ヒメアノ~ル』に関しては、以前別の映画のときにもちょっとだけ取り上げた。そのラストにかなり衝撃を受けたからだ。作者の古谷実はこんなことを書いてしまって大丈夫なんだろうかと勝手に心配になったりするくらいだった。
 この映画版では原作マンガで描かれたような森田の心の内側には迫れないため別のラストが用意されている。マンガでは殺人鬼の森田が自己憐憫的に自らを振り返ったように記憶しているが、映画版では殺人鬼を見つめる岡田を絡ませることでもっと観客にわかりやすい感情に落とし込んでいる。個人的にはマンガではその自己憐憫がおぞましい気もしたのだけれど、映画版は殺人鬼に同情してしまうようなつくりになっていると思う。
 タレントとしては知っていても映画では多分初めて見る森田剛はかなり危険な役どころ。たたずまいはダルい感じだが、やっていることはおぞましく、殺しに躊躇がないところが恐い。一方のコメディ班の3人も原作マンガのバカさ加減をとてもよく出していたと思う。『恋に至る病』にも顔を出していた佐津川愛美は顔立ちがいかにもかわいらしくてコメディに合っていたし、結構きわどい場面もあってちょっとドキッとさせる。

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吉田恵輔の作品
Date: 2016.06.05 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『或る終焉』 衝撃的なラストよりも冒頭の違和感について

 『父の秘密』ミッシェル・フランコの最新作。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した作品。
 原題は「chronic」で、「慢性の」とか「長患いの」といった意味。
 
ミッシェル・フランコ 『或る終焉』 デヴィッド(ティム・ロス)はエイズで死が迫っている女性のケアをしている。

 主人公のデヴィッド(ティム・ロス)は終末期患者をケアする看護師だ。彼の患者に対する態度はとても真摯なものだ。徹底したプロ意識が感じられるし、患者に対する接し方は出しゃばらないけれど気配りにあふれている。そのため死を前にした患者にとってデヴィッドのケアは必要不可欠なものとなっている。
 ただその仕事に対する態度にはちょっと度を越したものがある。エイズで死んだ女性のことをまるで自分の妻のように思いつつケアをしていたらしく、その葬式の帰りにはバーで「妻が死んだ」と嘘をつくほどに入り込んでいるし、次の患者が建築家と知れば自分も建築について勉強してみたりもする。そうした熱意が何かしら異様なものを感じさせないでもないわけで、患者の家族にはデヴィッドが患者を独占しているようにも感じさせ誤解を生んでしまうことにもなる。

 この作品はデヴィッドの姿をごく客観的に丹念に追っていく。動くことのできない患者の入浴や、粗相してしまったときの始末などもデヴィッドは嫌な顔ひとつ見せずにこなしていく。彼がなぜそこまで看護に熱意を持っているわけは説明されないのだが、デヴィッドが持って生まれた資質からそれが生じるというわけでもないようだ。エイズで死んだ女性の家族が彼の仕事に敬意を示しても連れない態度だし、いつも通っているジムではタオルが清潔ではないことに難癖をつけたりもするような人なのだ(仕事では糞尿の始末も厭わないのに)。そんなわけでデヴィッドを看護の仕事に駆り立てるものは何なのかが謎として迫ってくる。

 ※ 以下、ネタバレもあり! 

『或る終焉』 デヴィッドには別れて暮らす娘がいた。

 この作品の冒頭部分に個人的には何かしらの違和感を覚えた(この冒頭は公開されていてこちらのサイトで観ることができる)。ここでは車のなかからある家を窺う様子が長回しで捉えられる。フロントガラスの向こうにある若い女性が現れ、車に乗って走り去る。その車の姿をカメラは追う。ここまでカメラはある登場人物の視点を代替している。つまり誰かが若い女性につきまとうような視点で描かれている。しかし、そう思った矢先にカメラはゆっくりパンをすると、女の姿を追っているデヴィッドを捉えてしまう。
 ここまでワンカットで撮影されているから、女性をつきまとう視線だと思われていた映像のなかに、そのつきまとう側の男の姿が映ってしまったようにも感じられる。覗きをしていた自分がなぜか自分の姿を見てしまうといった違和感があるのだ。たとえばこれが女性の車を追う視点で一度カットを割り、その後にデヴィッドが登場すれば特段なんてこともないシーンだとも思う。しかし、この場面はワンカットで撮影されているために、最初に登場するデヴィッドの姿が異物のように私には感じられたのだ。
 デヴィッドはこの映画の主人公であり、カメラはデヴィッドの傍を離れることはないのだが、彼は観客を物語に誘い込むための視点人物とはちょっと違う。彼はあくまで観客がひとつの謎として追うことになる対象なのだろう。デヴィッドは観客が共感を覚えるような人物ではないし、彼の主観と見えるシーンもないことはないけれど、どこかカメラは客観的にその姿を捉えていてその感情を推し量ることは難しいのだ。

 ちなみにデヴィッドが遠くから見守っていた若い女性は、彼の娘である。自分の娘に会うことがためらわれるのは、デヴィッドが離婚したからだけではなく何かしら後ろめたい気持ちを抱えているからだ。というのはデヴィッドにはダンという息子がいて、その安楽死にはデヴィッドが関わっている。そして彼はそのことに何かしらの責任を感じている。デヴィッドが終末期患者のケアにこだわるのはダンを安楽死させたことが要因となっているのだ。映画の後半ではマーサという患者に安楽死を求められるのだが、デヴィッドは一度はそれを断ることになる。

 前作『父の秘密』のレビューでは、妻の死をきっかけに内に閉じこもった父親が感じる「世界との不調和」といったことを書いたのだが、この『或る終焉』でも同じようなものを感じる。
 デヴィッドが息子の死をきっかけにして家族とも疎遠になり、ただひたすら仕事だけに励んでいるのはダンを安楽死させた罪滅ぼしのようにも思えるし、体調を維持するためにフィットネスに精を出すのは、世界と身体がフィットしていない(つまり調和が欠けている)からだろう。冒頭の映像に私がデヴィッドを異物のように感じたのは、デヴィッド自身が世界のなかで自らを異物のように感じていたからかもしれない。そんな意味ではラストの出来事は「世界との不調和」をさらに際立たせるものだったように思う。それがデヴィッドの意志によるものだったのか否かはわからないけれど……。

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Date: 2016.06.03 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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