『葛城事件』 あなた、それでも人間ですか?
この作品は附属池田小事件の加害者とその家族がモデルとなっているようだ。ただあくまでモデルであり、そのほかの事件も取り入れられているとのことで、劇中で起こる通り魔事件のときの白いジャケットなんかは秋葉原通り魔事件を思わせる。

冒頭である若い男に死刑が言い渡される。男はなぜか勝ち誇った笑顔を見せ、その視線の先には苦虫を噛み潰したような葛城清(三浦友和)という主人公がいる。清の顔は怒りに震えているようにも見え、事前の情報を知らなかった私は、葛城清という男を事件の被害者家族なのかと思ってしまった。清の側に正義があり、それが踏みにじられたのかと勘違いしたのだ。
しかし実際には葛城清は死刑囚の父親である。つまりは殺人鬼の親であり、被害者感情からしても世間一般の感覚からしても非難を浴びても当然の人物である。それでも清は「俺が一体、何をした?」と開き直る。たしかに清は人を殺しているわけではないし、罪に問われるようなことはしていないと言うこともできる。しかし一方で、彼が全ての元凶であるようにも思える。
この映画は事件に至るまで(過去)とその後(現在)を行き来しながら進んでいく。
過去のパートでは葛城家がいかにして殺人鬼を生み出してしまったかという点が追われる。家長の葛城清はマイホームを建て、一国一城の主として家族を守ると息巻く。そこには希望があったはずだったが、清は自分の考える家族のあるべき姿を押し付けすぎ、それは家族に抑圧的に働く。妻・伸子(南果歩)は夫の顔色を窺ってばかりいるし、息子たちは家長である清からの評価で測られることになり、従順な兄・保(新井浩文)は褒められるが、兄と比べられる弟・稔(若葉竜也)は屈折した性格になっていく。
現在のパートでは死刑廃止運動家の星野順子(田中麗奈)という女を絡ませ、獄中の稔と地域社会で蔑まれる清の姿を追う。星野によれば、死刑は更生の機会を奪ってしまうため人間に絶望してしまったことになると言う。そして星野はまだ人間をあきらめたくないという一心で稔と獄中結婚し、義理の父となる清とも交際をし、少しでも稔のことを知ろうと努力する。
※ 以下、ネタバレもあり!


葛城清はどこで間違ったのだろうか。抑圧的な父親は現実にも少なくはないだろうし、兄弟が比べられることだって珍しくはない。何かしらのボタンの掛け違いがあったのかもしれないけれど、それがどこだったのかははっきりしない。清だって庭に柿の木を植えて息子たちの成長を楽しみにするような父親だったわけで、葛城家に起きた間違いはもしかしたら自分の家にだって起きたことなのかもしれないのだ。
事件後の清の態度を見ると、卑屈さとそれを隠そうとする尊大さには殺人鬼となった稔と似通ったところがあるようにも思える。しかし、そんな人間でも信じるという特異な女・星野によってふたりは多少なりとも揺さぶられる。それでもその結果がどうなったかと言えば、星野の惨敗というところだろうか。稔とは最後の面会で気持ちを通わせたことで一瞬希望を感じさせつつも、そのあとの清の行動は星野を絶望へと叩き落すのだ。自らの信念に迷いのなかった星野でも、さすがに死刑廃止論を引っ込めてしまったかもしれない。
前作の『その夜の侍』は被害者家族と加害者という関係を扱っていて重苦しい作品だが、本作もかなり重い。通り魔殺人を起こす稔に関しても共感はできないが、その父親・清が撒き散らすトラブルの種は周囲の人間だけでなく、われわれ観客も嫌な気分にさせること間違いない。『その夜の侍』では主人公が食べるプリンが最後にうまく使われていたが、今回の『葛城事件』では葛城家の主食であるコンビニ弁当が効果的だった。どう見ても幸福な食卓の風景とは見えないのだ。ラストは清がそんな粗末なものを食べつつもぶざまに生きていく姿で終わる。
葛城清を演じた三浦友和の何ともいやらしい感じも素晴らしかったのだが、星野を演じた田中麗奈が印象に残った。星野は清からも「偽善者」とか「どこの新興宗教だ?」とか厭味を言われつつ、決して信念を曲げることはない。ただその佇まいはどこか世間とはかけ離れているところがあって、いつもリクルートスーツのような出で立ちで堅苦しく、自分の家族を捨ててまで死刑反対の運動に突き進むところに異様さをにじませる。田中麗奈はデビュー作『がんばっていきまっしょい』以来、明るい笑顔のイメージばかりだったのだけれど、この作品では能面を張り付けたようなぎこちない表情を見せていて、これまでのイメージとはちょっと違う。
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