『グランドフィナーレ』 相反するものが同列に置かれること

世界的に有名な音楽家であったフレッド(マイケル・ケイン)は、引退後のバカンスをアルプスの高級リゾートホテルで過ごしている。そこにはフレッドの友人の映画監督ミック(ハーヴェイ・カイテル)もいて、ミックは若い仲間たちと一緒に次の作品の脚本を練っている。
中心となるのはフレッドとミックのエピソードだが、そのほかにも高級リゾートホテルに集う様々な人々の姿も描かれる。次回作の役づくりに滞在している俳優(ポール・ダノ)や、サッカー界の元スーパースター、修行中の仏教僧、会話をすることのない夫婦、客を相手に商売をしている売春婦などが登場する(ミックのミューズとしてジェーン・フォンダも)。それぞれのエピソードは断片的なもので、それらがまとまって何らかの意味を構成するというわけではない。ただ、アルプスの山々の風景とトーマス・マンが『魔の山』を執筆したという高級ホテルでの優雅な日々は、それだけでなかなか魅力的だった。
高級ホテルが舞台ということで、登場人物は裕福な人が多く、自然と悠々自適の老人の姿が多くなる。フレッドはすでにリタイアして英国王室からの仕事の依頼も断ってしまうし、ミックは『人生最後の日』という自らの遺言となる作品を構想中だ。そんなわけでこの映画は老人たちの話ではあるのだが、原題は「Youth」となっている。
なぜ「Youth」なのかと言えば、老人たちは次々と記憶を失っていき、若いときの記憶ばかりが甦ってくるからかもしれない。あるいは男たちがいつまで経っても子供っぽい部分を残しているからかもしれない。フレッドとミックは毎日尿の量を愚痴りあうほど身体にガタがきているのだが、スパで全裸のミス・ユニバースと出会ったときには人生最後の恋とばかりにはしゃいだりするのだ(ミス・ユニバースの裸は服を着ているほうがかえって卑猥に見えるくらい自然だった)。
前作『グレート・ビューティー/追憶のローマ』を観たときに感じたことだが、ソレンティーノという監督は70年生まれということで、映画監督として老年というわけでもないにも関わらず、妙に老成したような雰囲気の作品を生み出している。ただ、そんななかにも妙に若々しく感じる部分もあって、そのあたりのバランスがおもしろかったのだが、今回の『グランドフィナーレ』も老人たちを描きながら「Youth」と付けるあたりにそんなバランス感覚があるのかもしれない。
『グランドフィナーレ』にも前作以上に若々しい部分が感じられた(一部はバカバカしくもある)。フレッドはクラシカルな音楽の作曲家ということになっていて、映画の最後には「シンプル・ソング#3」という曲を女王の前で披露することになるが、劇中で使用される音楽はもっとポップなものだ。
冒頭に登場するThe Retrosettes Sister Bandなどはとてもシャレているし、フレッドの娘(レイチェル・ワイズ)から旦那を奪うことになるPaloma Faith(実在のポップスターらしい)には彼女自身のプロモーション・ヴィデオみたいなシーンまであってちょっと呆気にとられる。
この作品では「老い」と「若さ」が同居しているように、相反するものが同列に置かれているように感じられた。フレッドにマッサージを施す女の子は部屋に戻るとひとり熱心に踊っている。その姿はどこか高尚なものに描かれているだが、実は彼女は単にTVゲームで遊んでいるだけだ。また、フレッドは後半で亡くなったはずの妻と再会することになるが、この妻は在りし日の美しい姿ではなくゾンビめいている。『グレート・ビューティ』でもマザー・テレサ的な人物がほとんどミイラだったことを鑑みるに、そうしたものに何かしらの聖性を見出しているのかもしれない。
ちなみにソレンティーノは「私は、フェリーニ、マラドーナ、スコセッシ、そしてトーキング・ヘッズからインスピレーションを受けた」と語っているそうだ。フェリーニとマラドーナが同列に置かれるという、何とも統一感に欠ける並びがソレンティーノの感覚なのだろう。
『グランドフィナーレ』でもマラドーナのような風貌の元サッカー選手が登場する。現在は肥満で動けないのだが、そんな彼がかつての栄光を取り戻したかのようにテニスボールでリフティングを繰り返す場面がある。そのシーンは現実なのか夢なのかはわからない。そのほかにも劇中ではフレッドが牛の鳴き声とカウベルで音楽を奏でてみたり、仏教僧が空中浮遊してみたり、現実も虚構も境界を曖昧にして同列になっていくようだった。
![]() |

![]() |

![]() |

![]() |

![]() |

↑ この作品にはトーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが登場している。