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『ローリング』 クズどもへ 水戸より愛を込めて

 『パビリオン山椒魚』『亀虫』などの冨永昌敬の作品。
 キネマ旬報ベスト・テンでは、日本映画ベスト・テンの第10位に選ばれている。
 昨年6月に劇場公開され、今月になってソフトがリリースされた。

冨永昌敬 『ローリング』 貫一(三浦貴大)とみはり(柳英里紗)。ショートパンツの柳英里紗がエロかった。


 権藤(川瀬陽太)はかつて水戸で教師をしていたのだが、女子更衣室の盗撮がバレて教師を辞めて東京へと逃げていた。その後、諸事情で東京にも居られなくなった権藤は、キャバクラ嬢のみはり(柳英里紗)と共に水戸へと帰ってくる。

 権藤は教え子の裸を盗撮するようなクズだから、水戸に戻っても居場所があるわけでない。かつての女子生徒たちに追いまわされたりもするのだけれど、意外にも早く地元の生活に馴染んでしまう。というのは権藤もしみじみと語るように、水戸の仲間たちもアホばかりだからだろう。
 歓楽街におしぼりを配達している貫一(三浦貴大)は権藤の元教え子。彼はみはりのことを奪うことになるが、教師への敬意などないとばかりに権藤を小突いたりもするし、権藤は権藤で自分がやったことを「恥ずかしい行い」などと言いつつも罪悪感をさほど感じずに元教え子たちとも付き合っている。教え子たちをアホだと語る権藤自身が一番破廉恥な人間なのだ。
 
 この作品は水戸を舞台にしている。水戸は私もそれなりに知っているところなので、とても懐かしく観た。水戸芸術館のタワー(一応上まで昇ることができるがたいしたものは見えない)や千波湖なども登場するのだが、退屈な地方都市といった風情に収まっているところはやはり水戸らしい。
 中心の舞台となる水戸・大工町は歓楽街だというのだが、私自身はよく知らない(呑み歩くような年齢ではなかったので)。何となくいかがわしい雰囲気はあったかもしれない。ただ、大工町には「水戸パンテオン」という映画館があって、地元の映画ファンは駅から結構離れた場所にあるその映画館までわざわざ通ったはず。(*1)
 監督・脚本の冨永昌敬は水戸短編映像祭が出発点だったとのことで、その関係で水戸を舞台にしてこの作品が誕生したとのこと。地方都市が舞台になれば必ずそこから抜け出したいという若者が登場しそうだが、『ローリング』の登場人物たちは仲間内でそれなりに楽しくやっている。クセのある登場人物が妙におかしくて、ヤクザまがいの連中とのやりとりとか、権藤と隣の巨乳の奥さんとのカラミには笑った。

(*1) 「渋谷パンテオン」ではなく「水戸パンテオン」である。同じ系列の映画館だったのだろうか。どちらもなくなってしまったけれど……。

 ※ 一部、ネタバレもあり!

『ローリング』 真ん中が自らを破廉恥漢だと名乗る権藤(川瀬陽太)。川瀬陽太のダメっぷりが素晴らしかった。

『ローリング』 水戸の仲間たちのマヌケっぷりは笑える。

 公式ホームページによれば、題名の“ローリング”というのは、工場で丸められる“おしぼり”からイメージされているとのこと。工場から配達されるおしぼりは、回収されてキレイになって再び戻ってくる。タイトルバックでカメラがパンしていくあたりにも円環的なイメージを感じさせる。また、冒頭の権藤のナレーションによれば、クズ教師の今の姿は巣の中の雛ということで、さらには輪廻へとつながっていくのだ。
 輪廻は因果応報という考え方に基づいている。悪い行いは自分に返ってくる(自業自得)わけで、権藤のようなクズはいつまでも輪廻のサイクルから逃れることはできないだろう。権藤の最後の言葉は「教え子たちよ、ありがとう。また一からやり直しです」となっているわけで、何度も何度もローリングしていくのだ(生まれ変わって雛となったというのは嘘だったわけだけれど←マウスオーバーでネタバレ)。
 こうした円環のイメージは同じところをぐるぐると回っているようなもので、退屈な地方都市から出ようともせずにグダグダし、成長することもない仲間たちの姿とも重なり合ってくる。かといってそんな権藤や仲間たちを突き放したり非難しているわけではない。権藤のした悪事もタレントとなった元教え子の朋美(井端珠里)には感謝されるわけで、六道輪廻を経巡るわれわれのような他愛ない存在を暖かく見守っているような印象でもあるのだ。

 そんな物語はともかくとしても独特のナレーションで始まるこの作品は、特筆すべき渡邊琢磨の音楽と冨永昌敬の冴えた演出が相まって観るべき価値のある作品になっていると思う。魅力のない県としてしか話題にならない場所から、こんな魅力的な作品が生まれてくるとは思ってもみなかったことで嬉しい発見だった。

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Date: 2016.01.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『サウルの息子』 見たくないものを見ようとすると……

 カンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品。
 監督・脚本はハンガリーの新鋭ネメシュ・ラースロー


 舞台はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。ユダヤ人を効率よく殺すための工場としてあったその収容所では、ゾンダーコマンドと呼ばれるユダヤ人が死体処理の仕事をしていた。ハンガリー系ユダヤ人のサウル(ルーリグ・ゲーザ)はゾンダーコマンドとしての仕事に従事しているのだが、ガス室からかろうじて生還した少年を見付ける。その少年はすぐに死んでしまうのだが、サウルは少年の遺体を葬るために奔走することになる。

ネメシュ・ラースロー 『サウルの息子』 サウル(ルーリグ・ゲーザ)にだけ焦点が当たり、周囲はかなりぼやけている。

 この作品ではカメラはサウルから離れることはない。この手法はダルデンヌ兄弟のそれを思わせなくもないのだが、『サウルの息子』ではスクリーンに映るのはサウルの顔ばかりで周囲はひどくぼやけている。被写界深度の極端に浅いカメラを使っているようで、中心にいるサウル以外には焦点が合っていないのだ。
 しかも画面サイズはスタンダード(1.33:1)だから、中心にサウルの顔がクローズアップで映ると余白はとても狭くなる。しかし、その限られた余白に映し出されるものが衝撃的だ。ガス室で殺されたユダヤ人はゾンダーコマンドに床を引きずられて運ばれていく。ここでは死体は“部品”と呼ばれ、物として扱われるのだ。そして、焼却炉へと移動させるために部品(=死体)は山のように積み上げられる。余白にぼんやりと映し出されるのはそうした目を覆うような出来事だ。

 なぜこんな手法が選択されなければならなかったのかと言えば、サウル自身の視野もそうした状態にあるということだろう。極端に見たくないものがあれば人間は感覚を遮断するのだ。ゾンダーコマンドとして働くことになったサウルは、同胞であるユダヤ人をガス室へ送り、死体を焼却して残った灰を川へと捨てる。普通の感覚でそんなことができるわけがないのだ。
 『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』という本では、“生きる屍”となってしまったユダヤ人のことが書かれている。ユダヤ人はただちに殺される場合もあれば、そこで働かされる場合もあり、そのなかの一部の人は“生きる屍”と化していた。人間には耐えなければならないこともあるわけだけれど、耐え抜いて収容所を生きることは人間性すら失わせるような場合もあるということだ。
 その本のなかのゾンダーコマンドの生き残りの証言によれば、その仕事は死体から金歯を抜き取り、女性の髪を切り取り、死体の開口部に貴重品を隠していないかまで調べあげたのだという……。そんな仕事だから「この作業をやると、一日目に気が狂うか、さもなければそれに慣れるか」だったと言う。この場合の「慣れる」というのは、それが普通のことになるという意味ではないわけで、慣れた人はどこか人としての感覚を遮断しているのだ。そうしなければ生きていけなかったからだ。この作品でサウルとともに観客が体験することになる過酷な環境も、その刺激を低減させるぼんやりとしたものとなっていて、それはサウルの感覚を意識しているのだろうと思う。

 サウルは少年を息子だと言うのだが、その証拠はない。ただ少年を手厚く葬ることに執着する。周囲のゾンダーコマンドたちはナチスへの武装蜂起にわずかな希望を見出しているわけだが、サウルの場合のアウシュヴィッツへの適応の仕方が違う。サウルはゾンダーコマンドとして生きることで失ってしまった人間性を、少年をユダヤ人らしく葬ることで取り戻そうとしているのだ。
 とにかく衝撃的な作品だった。ガス室のなかから聞こえる悲鳴とも言えないような壮絶な音は、作品タイトルが出る瞬間に消えるのだが、その静寂が痛いほどだった。一方でサウルの視覚はその刺激を遮断している。それでも映画館の観客としては余白に何が映し出されるのかを探ろうとする。そこでは見ようとするものが見えないという状態が延々と続いていくわけで、意識が朦朧としてくるような瞬間も……。

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Date: 2016.01.30 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)

『ザ・ウォーク』 身体が自然に反応する、そんな映画

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズや『フォレスト・ガンプ/一期一会』ロバート・ゼメキス監督の最新作。
 今回は試写会にて一足先に鑑賞させていただいたのだが、劇場公開は本日23日から。
 主役のフィリップ・プティにはフランス語の堪能なジョセフ・ゴードン=レヴィット。サーカスの団長にはベン・キングスレーが扮している。

ロバート・ゼメキス 『ザ・ウォーク』 フィリップ・プティを演じるジョセフ・ゴードン=レヴィット。

 1974年にワールド・トレード・センター(ツインタワー)で綱渡りをしたフィリップ・プティの物語。実は彼の話はすでに『マン・オン・ワイヤー』というドキュメンタリーになっているとのこと。ただ、プティの偉業の映像は残されていない(写真のみ残っている)ため、本人の証言などで作品を構成しているものと思われる(観ていないから推測だけど)。この『ザ・ウォーク』では、そんな滅多にない出来事をかなり忠実に再現し、観客にも地上400メートルの空中を体験させてくれる作品となっている。
 最近は3D作品も多いので、3Dの必然性があまりないように感じられる作品もなくもないのだけれど、『ザ・ウォーク』の場合は3D版がお薦めだと思う。この作品の場合、3Dでの奥行きの表現は“高さ”を感じさせるものとして機能している。綱の張られた空中と地面との距離がよりリアルなものとして感じられるので、プティが綱の上を歩き出す姿を真上から捉えたショットには足がすくむ思いがした。
 とにかくラストの綱渡りのシーンでは手に汗を握ることは間違いない。ここだけでも劇場で観るだけの価値がある。試写会の会場では入り口でわざわざ“おしぼり”が配られていたのだが、まんざら冗談でもなく“おしぼり”は必要かもしれない。そのくらいの嫌な感じの汗をかくのだ。
 ハラハラドキドキのサスペンスを見たい人にはたまらない映画だ。サスペンスとは“宙吊り”という意味だが、この『ザ・ウォーク』はいつ主人公が宙吊りになるのかという緊張感でいっぱいで、『ゼロ・グラビティ』みたいに直接身体に効いてくるような映画だったと思う。何度か観客を座席から飛び上がらせる演出があって、誰もが身体を動かして向かってくる物体を避けることになるだろう。あんなに身体がビクついたのは久しぶりだった……。

『ザ・ウォーク』 映画だとわかっていても生きた心地がしない。

 綱渡り師の物語と聞いて何となく思い出したのが、カール・ワレンダという人物の話。有名な綱渡り師であったカール・ワレンダは、こんな言葉を残している。

 私が生きていることを実感できるのは、綱渡りをしているときだけだ。
 それ以外の生活は、ただの待ち時間に過ぎない。


 カール・ワレンダはその綱渡りの最中に落下して亡くなることになるのだが、綱渡り以外は“待ち時間”と言えるような“何か”を誰もが持っているだろうか。そんなふうにまとめると人生訓としてなかなか興味深い。
 しかし『ザ・ウォーク』のフィリップ・プティ(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)はちょっと違う。誰かのお膳立てを待っていたら何も始まらないとばかりに行動的な人物なのだ。ツインタワーにワイヤーをかけるにはどうしたらいいか、補助ワイヤーはどうすればいいか、警備の目をかいくぐるにはどうすればいいか、それらの問題をツインタワー開業前までに解決するためにはどうすればいいか。物事を現実的に解決し、自らの狂気じみた夢の達成へと向けて進んでいく。綱渡りの晴れ舞台はそれほど長いものではないが、その準備のためには多くの時間を要する。プティにとっては夢の達成まで“待ち時間”などというものはなかったのかもしれない。

 先ほどは「晴れ舞台はそれほど長いものではない」と書いたのだが、プティの実際の綱渡りは45分にも渡ったのだという。準備の時間ほど長くはないけれど、地上400メートルに命綱なしでと考えると恐ろしく長い時間とも言える。
 作品内の晴れ舞台はそこまで長くはないけれど、プティが綱の上で警官たちをおちょくるように芸を披露するあたりでは、「早くやめてくれ!」と願うような気持ちにもなる。緊張感が耐え難くて生きた心地がしないからだ。
 プティは冒頭から映画の語り部として登場している。つまり生き残って物語を語っているはずなのだが、それすらも信用できなくなる。語り部のプティは、実際には落としてしまった衣装であるタートルネックを身につけて、自由の女神像のたいまつ部分という通常ではあり得ない場所から観客に向けて語りかけてくる。もしかすると死んでしまった彼の幽霊が語り部なのかとも思えてくるのだ。
 プティを支えていた恋人アニー(シャルロット・ルボン)が去っていったのもわからなくもない。プティの偉業の成功をただ待つばかりというのは生きた心地がしないだろう。映画のなかではアニーも夢を追うために去ったという話になっているのだが、恋人が常に不安定で死に近い場所にいるのが耐えがたかったんじゃないだろうか。プティのやったことは信じられないくらい危険なことだからだ。

 それまでは“書類棚”とか呼ばれていたツインタワーは、フィリップ・プティの偉業によってニューヨーカーに愛される建物となったのだという。プティは偉業へのご褒美としてツインタワー屋上へのフリーパスを進呈される。その有効期限欄には“永遠”と記されているのだが、それが“永遠”に続かなかったのは誰もが知っている。今、この作品が作られ、ツインタワーを見事にCGで甦らせたのには、9・11のことが念頭にあるのは言うまでもないのだろう。

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Date: 2016.01.23 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (18)

ギドクの最新作 『殺されたミンジュ』 メッセージあるいは美学

 キム・ギドクの最新作。この作品はギドクの第20作目で、製作総指揮から脚本・撮影・編集までひとりでこなしている。原題は「ONE ON ONE」
 ちなみに“ミンジュ”というのは韓国語では“民主”を意味するとのこと。
 出演陣には『俳優は俳優だ』にも顔を出していたマ・ドンソク『春夏秋冬そして春』の秋の場面に出ていたキム・ヨンミンなど。キム・ヨンミンはなぜか8役もこなしている。

キム・ギドク最新作 『殺されたミンジュ』 待ちに待った監督第20作目。オウム真理教強制捜査のときの装備を思わせる風貌の男。


 5月9日、ミンジュという女子高生が男たちに殺される。男たちは役割を分担し協力してミンジュを追いつめ、ためらうこともなく彼女の命を奪う。
 その後しばらくして下手人のひとりが謎の集団に拉致される。迷彩服に身をまとったその集団は「去年の5月9日、何をしたかすべて書け」と迫る。こうして謎の集団はミンジュ殺害に関った7人をひとりひとり拷問して悪事を白状させていく。

 ミンジュを殺した男たちは、快楽殺人者でもなければミンジュに恨みを抱いていたわけでもない。男たちは仕事としてミンジュを殺しただけである。上の者に指図されたから、その指示に唯々諾々と従ったのだ。指示を出した者に責任があるのは当然だが、下手人に何の責任もないのかと言えばそんなことはないはずで、謎の集団シャドーズは正義の鉄拳を振るい、事件に関わった7人を糾弾していく。

◆責任の所在
 “ミンジュ”という名前に託された「民主主義」は、国民に主権があるということだ。そして、その反対には「独裁制」がある。独裁者がすべてを取り仕切っていれば責任の所在は明らかだ。たとえば北朝鮮という国ならば誰でもその責任者の名前を知っている。一方、民主主義では国民に主権があるのが建前なわけで、責任の所在が見えにくくもなるのかもしれない。
 『殺されたミンジュ』では、民主主義であるはずの韓国社会で、上の命令に従順に従うばかりの無責任な個人が制度そのものをダメにしている様子を描いていく。主権者であるはずの国民がそれぞれの意見を引っ込めて命令に従うばかりでは、上の者に支配されているのと変わらないわけで、そんな体制が独裁制とどこが違うのか。そんな疑問をギドクは投げかけるのだ。

 『殺されたミンジュ』の韓国社会では、あちこちに小さな独裁者が顔を出す。シャドーズのメンバーたちはそうした小さな独裁者に苦しめられる側にいる。そして、小さな独裁者に対抗しなければ社会がダメになってしまうと憤るのがシャドーズのリーダー(マ・ドンソク)なのだ。彼は支配する側にも問題はあるが、それを許す側にも問題があると考えるのだ。
 リーダーの憤りが一番よく表れているのが、暴力を振るう恋人から離れられない女のエピソードだろう。(*1)DVにおいては暴力を振るったあとに急にやさしくなる時(ハネムーン期)がある。女はハネムーン期を思い、「我慢しているといいこともある」と小さな独裁者である恋人を許してしまう。リーダーにそれが許せないのは、個人が忍耐することで、独裁者がさらに幅を利かせることになるからだ。

(*1) 暴力的な恋人の男をキム・ヨンミンが演じている。キム・ヨンミンはシャドーズたちを苦しめる小さな独裁者たちの8役をこなしている。最初にシャドーズに拷問されるのがキム・ヨンミンだからちょっとわかりにくいのだが、キム・ヨンミンの演じる役は全て権力側に属している。

◆制度圏(権力側)と非制度圏
 ミンジュを殺した実行犯7人は社会的な成功者で権力側にいる。それに対してシャドーズはドロップアウトした側にいる。これをギドクの言葉で言えば「非制度圏」の人間ということになる。シャドーズのリーダーはネットの掲示板などを通して正義を行使するメンバーを集めたのだが、表向きの活動意義と現実の活動は次第に乖離していく。悪党を拷問して悪事を自白させる過程は、メンバーたちにシャドーズの正義に疑問を抱かせるのには十分で、リーダーは次第に孤立し、シャドーズ内部の独裁者となっていく。
 権力側とシャドーズとは何が違うのか? シャドーズの面々は活動時にコスプレのごとく衣装を変えている。最初は海兵隊の姿だったが、次はヤクザ風の面々に化け、アメリカ軍や国家情報院の姿になったりする。作品内では「本物と偽物」の違いが何度も話題になるが、どちらにもあまり差はないのだ。シャドーズがコスプレによって外見を整えてしまうとその違いはほとんどなくなり、やっていることも似通ってくる。双方が茶番劇を繰り広げているようにも見えてくるのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『殺されたミンジュ』 キム・ヨンミン演じるミンジュ殺害の実行犯は拷問を受ける。

◆ドジョウとライギョ
 リーダーが権力側に対抗するのには理由がある。ミンジュはリーダーの娘だったのだ(もしかすると妹かも)。彼にとって、シャドーズの仕事は“正義”ではなく“私怨”である。そのことを理解しているから、リーダーはシャドーズの活動をメンバーに強要できなくなる。一方の権力側の7人はミンジュ殺害の理由をまったく知らない。ただ、国家的な戦略ということで命令に従ったのだ。「国家のため」という名目だけしかなかったからこそ、仕事ができたのかもしれない(女子高生を殺さなければならない正当な理由があると思えないが)。
 リーダーはシャドーズとしての仕事の最後に「ドジョウとライギョ」の話をする。ドジョウはドジョウだけで水槽に飼われているとすぐに死んでしまう。しかし、ライギョと一緒に飼われると、ドジョウはライギョから逃げ回ることで健康になり長生きする。敵がいたほうがエネルギーが増大するということだろう。ここでは権力側は必要悪のようなものとして認められているわけで、シャドーズの末路はいかにも苦いものとなる。とはいえ、リーダーが望んだのは「復讐の連鎖」でも、「権力の転覆」でもないわけで、リーダーにとってそうなることは予想できていたことであり、だからこそ余計に後味は苦いものだった。

◆メッセージあるいは美学
 この作品のラストは『春夏秋冬そして春』のそれを思い出させた。『春夏秋冬そして春』では、ギドク自身が演じた主人公が運び上げた仏像が下界のすべてを見下ろすようにして終わる。それは一種の悟りの風景のようだった。『殺されたミンジュ』では、達観したように下界を見下ろす位置にいたリーダーは、惨たらしく権力側のひとりに殺されることになる。その姿はギドク自身が『春夏秋冬そして春』の悟りの位置から叩き落され、地上に戻ったかのような印象でもある。
 最近の『レッド・ファミリー』では南北問題を取り上げ、『鰻の男』では食の安全という問題から始まって東アジアの国々同士の偏見を扱っていた。そして『殺されたミンジュ』も現実的な社会の問題を扱っている。ギドクは『アリラン』で自らを改めて見直した結果、より幅広く現実的な社会へも関心を向けているようだ。

 それにしてもこの作品は雑だし、ヘタでもある。洗練からほど遠いのだ。撮りたい作品がたくさんあることは素晴らしいことだが、クオリティを度外視しているようにも思えなくもない。弟子に監督を任せ脚本や製作だけの作品が続いたのも、今回のように撮影まで自分でこなしてしまうのも、作品を効率よく発表するためなのだろう。
 前作の『メビウス』は奇想天外な展開に圧倒されたけれど、「観念的な骨組みばかりが目立ってしまった」ようにも感じられた。『殺されたミンジュ』も、ギドクが訴えるメッセージは拝聴すべきものがあるとは思うのだが、そのメッセージばかりに頼りすぎで映像に艶っぽいところがまったくないのが残念だった。かつての『魚と寝る女』『春夏秋冬そして春』『うつせみ』あたりは審美的な方向にも重点があったと思うのだが、ギドクはそうした方向には興味を失ってしまったのだろうか。

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↑ 6月にはこんなのが出るらしい。『魚と寝る女』まで入っている。
Date: 2016.01.21 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (7)

『ミヒャエル・ハネケの映画術』 ハネケのインタビュー集を読む

 昨年11月に発売されたミヒャエル・ハネケのインタビュー集である。
 プロフィールから始まってテレビ作品や演劇時代のこと、それから映画監督となってからの作品それぞれに関して、ハネケは作品のイメージとは違ってなかなか饒舌に語っている。
 ハネケは“耳の人間”と自称しているのが興味深かった。ハネケ作品にはほぼ劇伴は使われていないが、作品内の音やリズムには非常に気を使っているようだ。静かな場面が続くのにだらけないのは、そうしたリズムによるのかもしれない。
 心底イヤな気持ちにさせるということで名高い作品『ファニーゲーム』に関しては、それがパゾリーニ『ソドムの市』と比較されたのを喜びながらも、ハネケ自身は『ソドムの市』を1回しか観てないと答えているところがおもしろい。どちらの作品も観客を挑発するという目的を見事に達成しているわけだけれど、ハネケもそうした映画を繰り返し観ようとは思わないようだ。私も『ファニーゲーム』を1回しか観ていないし、セルフリメイクである『ファニーゲーム U.S.A.』も観るのも遠慮しているのだが、そうした態度は『ファニーゲーム』みたいな作品の正しい受け止め方ということなのかもしれない。

『ミヒャエル・ハネケの映画術―彼自身によるハネケ』



◆『隠された記憶』の罠
 この本と合わせて初めて観た初期の作品『セブンス・コンチネント』『71フラグメンツ』には、テレビ放映の映像が効果的に使われていた。また、『ベニーズ・ビデオ』では少年が犯した殺人が描かれるが、その一部始終はビデオに録画されていて少年の両親はそれを見せられることになる。
 こんなふうにハネケ作品では作品内の現実のなかに、撮影された映像が入り混じり、見ている映像のレベルの違いを意識させるものとなっている。『ベニーズ・ビデオ』ではビデオに撮られた映像は画質が粗いものだったから、観客はそれを作品内の現実において再生されているビデオ映像だということを間違えることはなかった。しかし、その後の『隠された記憶』では、作品内の現実と撮影されたビデオ映像に画質の違いをなくすことで観客を騙すこと成功している。
 『隠された記憶』の冒頭の監視カメラのような映像は、実は犯人が送りつけてきたビデオである。観客は作品内の現実を見ているつもりだったのに、録画された映像を見ていたことに気づかされる。その後も犯人は様々な場面を隠し撮りするようにして主人公に送りつけるので、観客は今見ている映像が作品内の現実なのか、犯人が撮影したビデオ映像なのかを疑うようになっていく。
 ハネケは『隠された記憶』のラストに関してこんなふうに答えている。

 ただし、映像の正体についての疑念は二つの方向に働きます。現実だと思っていたものがビデオ録画だったということがあるとしたら、当然、その逆も可能です。

 
 ラストの映像は真犯人の姿を映しているのかもしれない。ただ、それが隠しカメラのような映像であるために、観客はその撮影を画策した犯人がほかにいるのではないかとも疑ってしまう。ここでは作品内の現実とビデオ映像のレベルが曖昧なものになってしまっている。ハネケは『ファニーゲーム』においては、作品内の現実そのものを巻き戻してしまう禁じ手まで披露しているし、その登場人物には映画という虚構が「現実と同じくらい現実だ」とまで語らせているわけで、『隠された記憶』のレベルの曖昧化は意図されたものだ。
 われわれは映画を観ているとき、その映像が誰の視点からなのかとはあまり考えない(POV方式のものは別だが)。『隠された記憶』では主人公が歩き回る様子を追っていく場面もあるわけで、それは作品内の現実として捉えられている(それが誰かの視点からの映像だとすると、それは誰なのかわからなくなる)。たとえば、スーパーマンが宇宙を飛ぶ姿が映像として捉えられたとき、それを見ているのは誰なのかとは考えないのと同じだ。わざわざ神の視点など持ち出さなくても、視点人物のない非人称の映像として当たり前のように観客には受け入れられている。
 しかし『隠された記憶』の場合はそうした前提が混乱してくる。それまで繰り返し騙されている観客は、見ている映像を疑ってかかっているため、ラストの映像に関してもそれを撮影している犯人を想像してしまうのだ。ハネケの術中にまんまとはまってしまっているというわけだ。

『隠された記憶』のラストシーン。

◆『愛、アムール』の意外なラストについて
 『白いリボン』のレビューでは「むきだしの真実は人を不快にさせる」と書いたのだが、その後の『愛、アムール』では意外にも幻想が老いた主人公の救いになっているように見えた。それ以前の作品にも『セブンス・コンチネント』ではオーストラリアへの移住のイメージが、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』のラストにも「ここではないどこかへ」と向かうイメージがあり、それらには希望を感じさせる部分もあったかもしれない。とはいえ『愛、アムール』のラストの幻想は例外的なものであったようで、この本のインタビュアーも「幸福な瞬間とは言わないにしても、少なくとも登場人物たちが人生のよい面を楽しめる瞬間を描くことができるようになったかのようです」という言葉をハネケに投げかけている。それに対してハネケはこんなふうに応えている。

 デビュー以来、幸せな瞬間を映すことに一切反対する気はありませんでした。ですが、私の印象では「メインストリーム」の映画があまりにそれを濫用してきたために、駄作に堕することなくそれらを撮影することが難しいように思われたのです。本当のことを言えば、駄作にならずにポジティヴな物事を映す力は、人が手にしている芸術的な力に比例して増大するのだと思います。


 カンヌ映画祭で二年連続してパルムドールを獲得した後のインタビューだからだろうか、その言葉は自信に満ちている。

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Date: 2016.01.16 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『ブリッジ・オブ・スパイ』 冷戦時代の知られざるヒーロー

 スティーヴン・スピルバーグ監督の最新作。前作『リンカーン』と同じように歴史的な出来事を題材としている。また、脚本にはコーエン兄弟も名前を連ねている。

スティーヴン・スピルバーグ 『ブリッジ・オブ・スパイ』 ルドルフ・アベル(マーク・ライアンス)とジェームズ・ドノバン(トム・ハンクス)。ソ連のスパイを演じたマーク・ライアンスがとてもよい。


 冷戦時代、アメリカとソ連は互いに核兵器で威嚇し合って身動きがとれない状態。そんなときに暗躍していたのがそれぞれのスパイたちだった。優秀な弁護士であるジェームズ・ドノバン(トム・ハンクス)は保険分野を専門に扱っていたが、彼に持ちかけられたのがソ連側のスパイを弁護するという仕事だった。

 アメリカの弁護士がソ連のスパイを弁護するのは、アメリカという国の素晴らしさを世界へ向けてアピールするためだ。スパイとして捕えられた者であっても、アメリカであるならば正当な権利が得られる。ソ連のような共産主義よりも、自分たちの資本主義のほうが優れている。そんなアピールによって勢力争いを優位に進めようと画策していたわけだ。
 ただ、国というものが常に一枚岩の結束があるわけではない。ほかの考えの人も当然存在する。というよりも大半は「スパイなど殺してしまえ」という立場だ。ドノバンは弁護士事務所の上司に請われてその仕事を受けることになるが、家族は反対する。敵国ソ連の弁護をするということは、アメリカ人からすれば裏切り者に見えるわけで、家族の心配は的中しドノバンは国中の嫌われ者になる。
 実際に仕事を始めたものの、敵国のスパイを弁護するのは大変なこと。陪審員によって有罪は決定し、あとは裁判官の決定による量刑だが、ドノバンはそこで策を弄する。スパイを殺してしまうよりも、アメリカ人が敵国につかまったときの切り札として生かしておいたほうが国益になると裁判官を誘導する。その勘は当たり、スパイはソ連の捕虜とされていた男との交換に使われることになる。さらに東ドイツに捕われている学生の問題も持ち上がり、アメリカを代表した形になるドノバンはソ連と東ドイツの2カ国を相手に交渉をすることになる。

『ブリッジ・オブ・スパイ』 築かれたばかりのベルリンの壁。ドノバンはたったひとりでソ連と東ドイツとの交渉に。

 50年代のブルックリンとか、東ドイツがベルリンに壁を建設する場面など、限りなくリアルに撮られている(撮影はヤヌス・カミンスキー)。CGではあそこまでリアルな質感にはならないはずで、実際に街を作り上げているものと思われ、そのあたりはとても丁寧でほかの追随を許さないほどの出来栄えだった。
 そんなリアルな映画のなかで嘘くさいものと言えば、主人公ドノバンの存在そのものであって、彼がなぜあそこまで“不屈の男”であり得るのかは信じられないくらいだった。でもドノバンは実在の人物であり、彼が成した功績に嘘偽りはないはず。ドノバンは普通の人には信じられないくらいの信念の持ち主だったということなのだろう。
 ドノバンはなぜ弁護士としての職業倫理に忠実なのだろうか。CIAとのやりとりのなかで移民の集まりであるアメリカでは、憲法を守ることこそがアメリカ人をアメリカ人たらしめるものだと演説をぶっている。しかし、それを言葉通り守ることはなかなかできることではない。家族を危険に曝しても、あるいは国や会社の利益よりも、もっと大事なものがあるということなのだろう。それは職業倫理といったものを超えた何かであり、それが憲法の示す理念なのかもしれない。
 この『ブリッジ・オブ・スパイ』にはほかにも強固な信念を持つ人間がいて、それはソ連側のスパイとしてアメリカに捕えられるルドルフ・アベル(マーク・ライアンス)だ。アベルもソ連を売ることはしない。スパイは捕まったら殺されるのが当然というあきらめなのか、職業倫理によるものなのかはわからないけれど、どんな状況に置かれてもうろたえることがない。ドノバンに繰り返し「不安に感じないのか」と訊ねられても、アベルの答えは毎度「何かの役に立つか?」というもので、強がっているわけでもなく飄々としているのだ。そんな意味ではふたりはほとんど超人的な存在に見えた。
 2時間半ほどを一気に見せてしまう作品はさすがスピルバーグというところなのかもしれないが、ドノバンにしてもアデルにしてもヒーロー然としているようにも見え、アベルがプレゼントしたドノバンの肖像画のように美化された部分があるんじゃないかとも思ってしまう。

(*1) 町山智浩はこの作品と『リンカーン』『アミスタッド』を合わせてスピルバーグの弁護士三部作だと指摘している。リンカーンにしても『アミスタッド』のジョン・アダムズにしても弁護士出身の大統領だからその仕事ぶりを理解できなくもないのだが……。

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Date: 2016.01.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (14)

『消えた声が、その名を呼ぶ』 アルメニア人の苦難の歴史をトルコ系監督が描く

 『愛より強く』(ベルリン国際映画祭金熊賞)などのファティ・アキンの最新作。
 原題の「THE CUT」は主人公が負うことになる傷のことだろうか。

ファティ・アキン 『消えた声が、その名を呼ぶ』 ナザレット(タハール・ラヒム)には双子の娘(ルシネとアルシネ)との幸せな生活があったのだが……。

 この映画は歴史上のある出来事に関して描いている。この出来事はウィキペディアでは「アルメニア人虐殺」という項目として記されている。第一次世界大戦中のオスマン・トルコ帝国によるアルメニア人の計画的で組織的な虐殺というのが一般的な見方のようだが、トルコ側はこの出来事を偶発的な事件としているようだ。そんな意味ではトルコではタブー視されているとも言えるのだろうが、トルコ系のドイツ人であるファティ・アキンはそんな厄介な題材に取り組んで、自らのルーツとなる国の負の歴史を見つめていくことになる。
 「アルメニア人虐殺」を扱った映画はほとんどないようで、よく知られているものとしてはアトム・エゴヤン監督の『アララトの聖母』くらいだろう。エゴヤンはアルメニア系のカナダ人で、『アララトの聖母』では現代の映画監督が題材として「アルメニア人虐殺」を扱うことになり、歴史的な出来事である「アルメニア人虐殺」を発見することになる。一方の『消えた声が、その名を呼ぶ』は「アルメニア人虐殺」を現在形で描き、アルメニア人のその後の苦難が追われることになる。

 この作品の視点は被害者側のアルメニア人のナザレット(タハール・ラヒム)にある。だからなぜ「アルメニア人虐殺」という出来事が起きたのかはよくわからない。イギリスとトルコが戦争状態にあり、オスマン・トルコ帝国内にいたアルメニア人たちも兵隊として狩り出されるという噂は語られているのだが、その噂が実行に移されるのはあまりに突然のことだ。
 鍛冶職人だったナザレットは、妻と双子の娘(ルシネとアルシネ)と暮らしていた集落から連れ出される。それ以降家族とは離ればなれにされ、きつい強制労働をさせられる日々が続く。そして「虐殺」という出来事も唐突に始まる。アルメニア人たちは縄につながれたまま、喉をナイフでかき切られるのだ。
 ただ「アルメニア人虐殺」という出来事は、たまたま声を失っただけで生き残ったナザレットの苦難の始まりとも言える。ナザレットはトルコ人たちから逃れるが、行く先々でアルメニア人の女子供が無残に殺された姿を目撃する。そして難民たちがキャンプを張っている場所へとたどり着くが、そこは地獄のようなところだった。

『消えた声が、その名を呼ぶ』 ナザレットを演じるタハール・ラヒムはほとんど出突っ張りで世界各地を旅する。

 ファティ・アキンはこの最新作を『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』と合わせて、「愛、死、悪についての三部作」としているようだ。とはいえ『消えた声が、その名を呼ぶ』はトルコの悪業を殊更に追求するものではない。イギリスに負けたトルコ軍が去って解放されたアルメニア人は、トルコ人たちに石を投げつけるのだが、ナザレットはそれをすることができないのだ。石を投げつけられているトルコ人たちも歴史に翻弄された人々に過ぎないということなのかもしれない。それ以上に焦点が当てられているのは、虐殺を生き延びたナザレットのその後の姿のほうだ。
 ナザレットは唯一の希望である娘たちを探して世界を旅することになる。トルコからレバノン、キューバ、そしてアメリカに渡ってさらに北上していく。(*1)ナザレットの行動はかなり行き当たりばったりだ。とにかく娘に会うために海外に渡り、生きるために働いたり盗んだりしながら前へと進んでいく(このあたりは『愛より強く』の主人公たちの愛の形が行き当たりばったりだったのとよく似ている)。

 世界を渡り歩くことになるナザレットは各地でアルメニア人の同胞とも出会う。オスマン・トルコ内で少数民族として生きていたアルメニア人の多くはトルコを離れ、世界中へ散っていったのだろう。ちなみに『アララトの聖母』を撮ったアルメニア系のエゴヤンは、エジプトのカイロで生まれてカナダに移住したとのことである。
 一方でトルコ系の移民の問題は『おじいちゃんの里帰り』(ヤセミン・サムデレリ監督)にコメディとして描かれていた。ドイツでは1960年代に労働力不足のためにトルコからの移住を受け入れていたようだ。ファティ・アキンがどのようにしてドイツに渡ったのかは知らないけれど、ファティ・アキンにとっても移民の問題は重要なもので、『そして、私たちは愛に帰る』では移民の問題に焦点が当てられている。
 言葉が通じない外国で頼りになるのは民族を同じくする者たちだ(ナザレットは声を失っているからしゃべることはできないのだが)。『消えた声が、その名を呼ぶ』のナザレットはそんな同胞たちに助けられ、最後には生き別れた娘と対面することになる。各地の同胞たちの親切がなければそんなことは不可能だったわけで、その結びつきはとても堅固なものがあるようだ。だからこそなのだと思うが、ナザレットがこの作品のなかで一番怒りをあらわにするのは、娘たちに対してひどい扱いをした同胞のアルメニア人に対してなのだ。

 タハール・ラヒム演じるナザレットはほとんど出突っ張りだが感情をあらわにする場面はあまりない。そんなふうに抑制された感情が、世界各地の風景に合わせて流されるアレクサンダー・ハッケのノイジーな音とよく合っていたように思う。ファティ・アキンはアレクサンダー・ハッケを中心に据えた音楽ドキュメンタリー(『クロッシング・ザ・ブリッジ』)も手がけているとのことで、そっちのほうもちょっと気になる。

(*1) 世界を旅したナザレットが一番危険な思いをしたのはアメリカに渡ってからで、アメリカ人は見知らぬナザレットを見つけると不安に駆られ猟銃を持ち出してくる。ノースダコタで出会う鉄道労働者たちも始末の悪い与太者という感じで、アメリカ人の印象はすこぶる悪いような……。

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Date: 2016.01.09 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (5)
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