『さようなら』 人の死を見つめるアンドロイドは何を思う?
原作はアンドロイドと人間が共演するという平田オリザの演劇だが、もともとは15分しかなかった題材を監督・脚本の深田晃司(『ほとりの朔子』)が膨らませた作品となっている。

原発事故で国土を放射能に汚染された近未来の日本。政府は国を棄てることを決定する。国民は次々と海外へ避難していく。避難の優先順位では後回しにされる外国人であるターニャ(ブライアリー・ロング)は、以前から患っていた病もあり、アンドロイドのレオナの世話になって生きている。いつまでも回ってこない順番を待ちながら、ターニャとレオナは人のいなくなった日本に留まり続ける。
平田オリザの原作にあったものは、死にゆく人間とアンロイドとの対話という部分だけとのこと。原発事故で日本という国自体も死に絶えていくのは映画独自の展開。海外の様子はまったく描かれないために“世界の終わり”の雰囲気も漂う。ターニャが暮らす家の窓からはゆるやかな丘の風景が見え、『ニーチェの馬』の窓からの寂しい風景を思わせなくもない。
日本政府は“棄国”という選択をし、日本人は難民となって海外に受け入れ先を求めることになる。一気に全員が行けるわけもないから、順番を決定する必要がある。偉い人が決めた優先順位は優生思想に基づいていて、犯罪者や外国人は後回しにされる。そんななかでも残された人たちはパニックになることはほとんどないのだが、誰もが静かに狂っているという印象。ターニャの友人(村田牧子)は燃えさかる火に飛び込んで自殺する。
また、ターニャとの彼氏(新井浩文)とのエピソードでは差別の問題が取り上げられる。在日コリアンの男と南アフリカ出身のターニャ。ターニャはアパルトヘイト廃止後の黒人による白人の虐殺から逃げてきた難民だったのだ。間近に迫った日本の終末を前にターニャは過去を告白するが、彼氏はそれを受け入れることができない。虐げられる側にあった在日コリアンの男としては、最初に手を出したほうが悪いという気持ちを拭うことができないのだろう。ちょっと気になるのは、こうしたエピソードが最後のアンドロイドと人間との対話に結びついていかないように思えるところだろうか。

◆アンドロイドの時間と人間の時間
冒頭ではターニャがソファで眠る場面を長回しで捉えている。開かれた窓からは風が入り込み、雲が流れていくからか外の光が様々に変化していく、その様子をじっくりと見せている。そして最後にはアンドロイド・レオナがターニャの死を看取ることになる。ターニャが静かに息絶えて、日が暮れて部屋が真っ暗になってもレオナは動くことすらない。さらに機能を停止して動かない肉体が長い長い時間をかけ、骨と化すまでの様子をレオナは延々と見つめ続ける。
この作品で効果的に使われている長回しはアンドロイドの時間なのだろうと思う。人間は退屈すぎて窓の外を延々と見つめたりはしないし、人が朽ちていく様子を不眠不休で見つめ続けることもできないからだ。
仏教絵画には「九相図」というものがあるが、これは死んだ人間が腐っていき骨になるまでの過程を順に描いたもの。この映画でのそれはあまりグロテスクな感じにはなっていないけれど、人の死の過程を映像化したものとして興味深かった。「メメント・モリ(死を想え)」という言葉もあるが、九相図は仏教の修行として死を見つめるために描かれたわけで、ターニャの死を経験したレオナはそれによって何かを学んだのだろうか?
◆アンドロイドに“心”があるのか?
アンドロイドのレオナを演じるのはジェミノイドFというロボット。テレビ番組『マツコとマツコ』に登場していたマツコロイドを製作した石黒浩教授がジェミノイドFも製作している。ジェミノイドFはとても人間らしい風貌をしているが、動きや声は遠隔操作をしているとのこと。SF映画などに登場するアンドロイド(たとえば『ブレードランナー』のレプリカント)とは違うのだ。石黒教授の研究は人間のように動くロボットを作ることで、「人間とは何か」のほうを探るのが目的なのだとか。
この作品のアンドロイド・レオナはターニャの世話係で、ターニャとごく自然に会話をする。ターニャのややたどたどしい日本語を聞き返すときの感じもごく自然で、ターニャとレオナは友人のようにも見えてくる。さらにレオナはターニャの心情を考慮したように、谷川俊太郎やカール・ブッセなどの詩を詠んだりもする。一方、ターニャは妙に目を見開いて能面のような顔をしている瞬間もあったりして(演出? ブライアリー・ロングの素の表情?)、ターニャのほうが非人間的な存在に見えたりもする。そんなわけで映画を観ているうちに、どっちが人間でどっちがアンドロイドなのかという感覚もあいまいなものになる。
では人間とアンドロイドの差はないのかといえばそんなことはない(その違いを研究するのがジェミノイドFを作った石黒教授なのだろう)。映画のなかではアンドロイドは人から感情や美意識を学ぶと語られている。ターニャは子供のころからレオナと一緒に過ごし、レオナはターニャから感情や美意識を学んできた。ターニャの好みを記憶し、感情を計算して詩を詠むこともできるけれど、そこには機械的な反応があるだけで“心”があるわけではない。
ターニャはレオナに「自分と話しているようなもの」だとも語る。レオナはターニャが忘れてしまった過去のすべてを記録していて、そのデータベースに基づいて反応しているからだ。アンドロイドのレオナが“心”を持つことはない。とはいえ、そばにいる人間の側はそう考えないこともある。人間の言葉を受け取ってスムーズに返してくる機械に対して別の感情を抱くこともある。
そんなわけで映画の展開からすれば、ターニャの死を見つめ続けたレオナがそこで死について学んだように見えたとしても、それは人間の側の思い込みなのだろうと思う。ただ、映画では最後に飛躍した展開がある。フリーズしたようにターニャを見つめていたレオナが突然動き出す。人間の側から何の働きかけもないままに、レオナが行動を起こすのだ。
レオナはターニャが見たがっていた竹の花を見に行く。竹の花は滅多に咲かないらしく、人がその姿を見ることは難しい。そんな竹の花をレオナが見つめるところがラストシーンだ。死んだターニャの想いをレオナが叶えたことになるわけで、ここではレオナに“心”が生まれているように感じられるのだ。
この作品を上映した劇場には、石黒教授のインタビュー記事が貼られていた(『トーキングヘッズ』という雑誌の記事らしい)。そこでは最後のアンドロイドの挙動には違和感を覚えたと石黒教授は語っている。研究者からすればあり得ない展開ということになるのだろうと思う(私もちょっと驚いた)。もちろん最後のエピソードがアンドロイドの見た夢として解釈することもできなくもないわけだけれど、夢見るアンドロイドはもうほとんど人間みたいなものとも思える。そんなわけでこの映画はエンターテインメントとは違うけれど、観終わったあとに色々と考えさせるところのある映画だったと思う。


原発事故で国土を放射能に汚染された近未来の日本。政府は国を棄てることを決定する。国民は次々と海外へ避難していく。避難の優先順位では後回しにされる外国人であるターニャ(ブライアリー・ロング)は、以前から患っていた病もあり、アンドロイドのレオナの世話になって生きている。いつまでも回ってこない順番を待ちながら、ターニャとレオナは人のいなくなった日本に留まり続ける。
平田オリザの原作にあったものは、死にゆく人間とアンロイドとの対話という部分だけとのこと。原発事故で日本という国自体も死に絶えていくのは映画独自の展開。海外の様子はまったく描かれないために“世界の終わり”の雰囲気も漂う。ターニャが暮らす家の窓からはゆるやかな丘の風景が見え、『ニーチェの馬』の窓からの寂しい風景を思わせなくもない。
日本政府は“棄国”という選択をし、日本人は難民となって海外に受け入れ先を求めることになる。一気に全員が行けるわけもないから、順番を決定する必要がある。偉い人が決めた優先順位は優生思想に基づいていて、犯罪者や外国人は後回しにされる。そんななかでも残された人たちはパニックになることはほとんどないのだが、誰もが静かに狂っているという印象。ターニャの友人(村田牧子)は燃えさかる火に飛び込んで自殺する。
また、ターニャとの彼氏(新井浩文)とのエピソードでは差別の問題が取り上げられる。在日コリアンの男と南アフリカ出身のターニャ。ターニャはアパルトヘイト廃止後の黒人による白人の虐殺から逃げてきた難民だったのだ。間近に迫った日本の終末を前にターニャは過去を告白するが、彼氏はそれを受け入れることができない。虐げられる側にあった在日コリアンの男としては、最初に手を出したほうが悪いという気持ちを拭うことができないのだろう。ちょっと気になるのは、こうしたエピソードが最後のアンドロイドと人間との対話に結びついていかないように思えるところだろうか。

◆アンドロイドの時間と人間の時間
冒頭ではターニャがソファで眠る場面を長回しで捉えている。開かれた窓からは風が入り込み、雲が流れていくからか外の光が様々に変化していく、その様子をじっくりと見せている。そして最後にはアンドロイド・レオナがターニャの死を看取ることになる。ターニャが静かに息絶えて、日が暮れて部屋が真っ暗になってもレオナは動くことすらない。さらに機能を停止して動かない肉体が長い長い時間をかけ、骨と化すまでの様子をレオナは延々と見つめ続ける。
この作品で効果的に使われている長回しはアンドロイドの時間なのだろうと思う。人間は退屈すぎて窓の外を延々と見つめたりはしないし、人が朽ちていく様子を不眠不休で見つめ続けることもできないからだ。
仏教絵画には「九相図」というものがあるが、これは死んだ人間が腐っていき骨になるまでの過程を順に描いたもの。この映画でのそれはあまりグロテスクな感じにはなっていないけれど、人の死の過程を映像化したものとして興味深かった。「メメント・モリ(死を想え)」という言葉もあるが、九相図は仏教の修行として死を見つめるために描かれたわけで、ターニャの死を経験したレオナはそれによって何かを学んだのだろうか?
◆アンドロイドに“心”があるのか?
アンドロイドのレオナを演じるのはジェミノイドFというロボット。テレビ番組『マツコとマツコ』に登場していたマツコロイドを製作した石黒浩教授がジェミノイドFも製作している。ジェミノイドFはとても人間らしい風貌をしているが、動きや声は遠隔操作をしているとのこと。SF映画などに登場するアンドロイド(たとえば『ブレードランナー』のレプリカント)とは違うのだ。石黒教授の研究は人間のように動くロボットを作ることで、「人間とは何か」のほうを探るのが目的なのだとか。
この作品のアンドロイド・レオナはターニャの世話係で、ターニャとごく自然に会話をする。ターニャのややたどたどしい日本語を聞き返すときの感じもごく自然で、ターニャとレオナは友人のようにも見えてくる。さらにレオナはターニャの心情を考慮したように、谷川俊太郎やカール・ブッセなどの詩を詠んだりもする。一方、ターニャは妙に目を見開いて能面のような顔をしている瞬間もあったりして(演出? ブライアリー・ロングの素の表情?)、ターニャのほうが非人間的な存在に見えたりもする。そんなわけで映画を観ているうちに、どっちが人間でどっちがアンドロイドなのかという感覚もあいまいなものになる。
では人間とアンドロイドの差はないのかといえばそんなことはない(その違いを研究するのがジェミノイドFを作った石黒教授なのだろう)。映画のなかではアンドロイドは人から感情や美意識を学ぶと語られている。ターニャは子供のころからレオナと一緒に過ごし、レオナはターニャから感情や美意識を学んできた。ターニャの好みを記憶し、感情を計算して詩を詠むこともできるけれど、そこには機械的な反応があるだけで“心”があるわけではない。
ターニャはレオナに「自分と話しているようなもの」だとも語る。レオナはターニャが忘れてしまった過去のすべてを記録していて、そのデータベースに基づいて反応しているからだ。アンドロイドのレオナが“心”を持つことはない。とはいえ、そばにいる人間の側はそう考えないこともある。人間の言葉を受け取ってスムーズに返してくる機械に対して別の感情を抱くこともある。
そんなわけで映画の展開からすれば、ターニャの死を見つめ続けたレオナがそこで死について学んだように見えたとしても、それは人間の側の思い込みなのだろうと思う。ただ、映画では最後に飛躍した展開がある。フリーズしたようにターニャを見つめていたレオナが突然動き出す。人間の側から何の働きかけもないままに、レオナが行動を起こすのだ。
レオナはターニャが見たがっていた竹の花を見に行く。竹の花は滅多に咲かないらしく、人がその姿を見ることは難しい。そんな竹の花をレオナが見つめるところがラストシーンだ。死んだターニャの想いをレオナが叶えたことになるわけで、ここではレオナに“心”が生まれているように感じられるのだ。
この作品を上映した劇場には、石黒教授のインタビュー記事が貼られていた(『トーキングヘッズ』という雑誌の記事らしい)。そこでは最後のアンドロイドの挙動には違和感を覚えたと石黒教授は語っている。研究者からすればあり得ない展開ということになるのだろうと思う(私もちょっと驚いた)。もちろん最後のエピソードがアンドロイドの見た夢として解釈することもできなくもないわけだけれど、夢見るアンドロイドはもうほとんど人間みたいなものとも思える。そんなわけでこの映画はエンターテインメントとは違うけれど、観終わったあとに色々と考えさせるところのある映画だったと思う。
![]() |

スポンサーサイト