『ナイトクローラー』 人の血を求めるヴァンパイアの一種
監督・脚本は『落下の王国』や『ボーン・レガシー』の脚本を務めていたダン・ギルロイで、今回が初監督作品。
主人公ルーにはジェイク・ギレンホール。いつもなら二枚目のギレンホールだが、痩せこけて不気味な雰囲気を漂わせている。テレビ局のディレクターを演じるレネ・ルッソは監督ダン・ギルロイの奥様だとか。

最近では、素人が携帯のカメラで撮影した事件や出来事がニュース映像として流されることも多い。そうした映像が視聴者に求められているということなのだろう。とは言っても、突発的な事故がテレビ局のカメラが現場に到着するまで待っていてくれるわけではないわけで、アメリカではそんな凄惨な映像を狙って夜通し街を徘徊するような職業が存在するらしい。彼らの多くはフリーランスで、撮れた映像の衝撃度合いで金額を交渉する。
買う側のテレビ局も視聴率を稼ぐために必死だから、さらに衝撃的な映像を求める(アメリカの一部のテレビでは、警告を出しつつ凄惨な映像を流すらしい)。フリーランスの“ナイトクローラー”たちは会社組織に属していないために、歯止めをかけるものがない。アクセルだけの車みたいなもので、会社組織のようにブレーキ役をする者はいないわけで、彼らは報道の領域を踏み越えていくことになる。
もともと主人公のルー(ジェイク・ギレンホール)は法を守るという意識は薄い。夜を徘徊してコソ泥をするのが彼のなりわいだったわけで、警備員に見つかれば殴り倒して時計を奪うことくらいのことはやってのけるのだ。“ナイトクローラー”という職業は交通事故で瀕死の人にカメラを向けたりもするわけで、彼らの命よりも血にまみれた凄惨な絵を撮ることが優先される。見栄えをよくするためにちょっとだけ死体を移動させてみたり、強盗犯の情報を知っていてもそれを自分のために利用するのも厭わない。
ルーが倫理感に欠けるのは、彼がテレビとネットの情報のなかで生きてきた人間だからだ。彼にとっては現実世界よりも映像としてフレームに切り取られたもののほうがリアルに見えるのだ。倒錯的かもしれないけれど、近所で目撃した事件をニュースとして見ることで初めて事実として認識するということは誰でもやっているわけで、それほどルーのことを異常だとも言い切れない。
※ 以下、ネタバレもあり。

悪いやつらが最後に破滅していくのが勧善懲悪を旨とするハリウッド映画だが、『ナイトクローラー』はルーのサクセスストーリーになっているのがおもしろい。ネットで聞きかじった成功哲学によって武装したルーは、実際に仕事の覚えが早く、警察無線の符丁なども学んで、誰よりも早く真っ赤なダッジチャレンジャーで現場へ急行することを実践していく。ルーは努力家なのだ。地元のテレビ局のニナ(レネ・ルッソ)からは視聴者が望む映像を学んで、確実に成功を手中に収めていく。
ルーにはほとんど葛藤もないし、怒りを表すこともない。はした金で雇っていた助手(リズ・アーメッド)が欲を出してルーとギャラ交渉をしたときも、彼を動かす方法を考えているし、あわよくば邪魔者としてうまく片付ける方途も探っている。
そんなルーが一度だけ狂気の片鱗を見せるのが、鏡の前で歪んだ顔で絶叫する場面。この場面は作品全体からすると幾分浮いている感じで、いつものルーは冷静に状況判断をしている(ちなみに『キネマ旬報』によれば、この場面はギレンホールのアドリブだったようだ)。計算高く人の道に外れたことをやっているわけで逆に怖いとも言える。
もしかするとこの映画ではルーは人間としては描かれていないのかもしれない。冒頭とラストには大きな月が顔を覗かせている。そんな夜に痩せて落ち窪んだギレンホールの目が暗闇のなかであやしく光る。どこか怪奇映画の雰囲気もあり、事件を追っていない場面での彼の歩き方はほとんどゾンビめいている。ルーを焚き付けてエスカレートさせていくニナとの場面では、ふたりの姿はヴァンパイアに見えるのだ(ニナのどぎついメイクもあってそんなふうに見えるのかも)。人の血を求めているという意味では、“ナイトクローラー”もヴァンパイアも似た種族と言えるわけだし……。
最後にはルーがお膳立てした舞台設定のもとに、突発的な事件がカメラの前で生じることになる。観客としては何だかんだ言ってもドキドキしながらその瞬間を待ってしまうわけで、やはり衝撃映像というのは世間が求めてしまう見せ物なのかもしれない。そんな欲望が“ナイトクローラー”という職業を支えているということになるわけだが。
新たな設備投資で新事業を展開していく際のルーの演説がすごい。「自分がしないことは君たちにはやらせない」と偉そうに言うのだが、これはもちろん悪い冗談でしかない。エンドクレジットの音楽も妙にポップな印象で、皮肉が効いていたと思う。


主人公ルーにはジェイク・ギレンホール。いつもなら二枚目のギレンホールだが、痩せこけて不気味な雰囲気を漂わせている。テレビ局のディレクターを演じるレネ・ルッソは監督ダン・ギルロイの奥様だとか。

最近では、素人が携帯のカメラで撮影した事件や出来事がニュース映像として流されることも多い。そうした映像が視聴者に求められているということなのだろう。とは言っても、突発的な事故がテレビ局のカメラが現場に到着するまで待っていてくれるわけではないわけで、アメリカではそんな凄惨な映像を狙って夜通し街を徘徊するような職業が存在するらしい。彼らの多くはフリーランスで、撮れた映像の衝撃度合いで金額を交渉する。
買う側のテレビ局も視聴率を稼ぐために必死だから、さらに衝撃的な映像を求める(アメリカの一部のテレビでは、警告を出しつつ凄惨な映像を流すらしい)。フリーランスの“ナイトクローラー”たちは会社組織に属していないために、歯止めをかけるものがない。アクセルだけの車みたいなもので、会社組織のようにブレーキ役をする者はいないわけで、彼らは報道の領域を踏み越えていくことになる。
もともと主人公のルー(ジェイク・ギレンホール)は法を守るという意識は薄い。夜を徘徊してコソ泥をするのが彼のなりわいだったわけで、警備員に見つかれば殴り倒して時計を奪うことくらいのことはやってのけるのだ。“ナイトクローラー”という職業は交通事故で瀕死の人にカメラを向けたりもするわけで、彼らの命よりも血にまみれた凄惨な絵を撮ることが優先される。見栄えをよくするためにちょっとだけ死体を移動させてみたり、強盗犯の情報を知っていてもそれを自分のために利用するのも厭わない。
ルーが倫理感に欠けるのは、彼がテレビとネットの情報のなかで生きてきた人間だからだ。彼にとっては現実世界よりも映像としてフレームに切り取られたもののほうがリアルに見えるのだ。倒錯的かもしれないけれど、近所で目撃した事件をニュースとして見ることで初めて事実として認識するということは誰でもやっているわけで、それほどルーのことを異常だとも言い切れない。
※ 以下、ネタバレもあり。

悪いやつらが最後に破滅していくのが勧善懲悪を旨とするハリウッド映画だが、『ナイトクローラー』はルーのサクセスストーリーになっているのがおもしろい。ネットで聞きかじった成功哲学によって武装したルーは、実際に仕事の覚えが早く、警察無線の符丁なども学んで、誰よりも早く真っ赤なダッジチャレンジャーで現場へ急行することを実践していく。ルーは努力家なのだ。地元のテレビ局のニナ(レネ・ルッソ)からは視聴者が望む映像を学んで、確実に成功を手中に収めていく。
ルーにはほとんど葛藤もないし、怒りを表すこともない。はした金で雇っていた助手(リズ・アーメッド)が欲を出してルーとギャラ交渉をしたときも、彼を動かす方法を考えているし、あわよくば邪魔者としてうまく片付ける方途も探っている。
そんなルーが一度だけ狂気の片鱗を見せるのが、鏡の前で歪んだ顔で絶叫する場面。この場面は作品全体からすると幾分浮いている感じで、いつものルーは冷静に状況判断をしている(ちなみに『キネマ旬報』によれば、この場面はギレンホールのアドリブだったようだ)。計算高く人の道に外れたことをやっているわけで逆に怖いとも言える。
もしかするとこの映画ではルーは人間としては描かれていないのかもしれない。冒頭とラストには大きな月が顔を覗かせている。そんな夜に痩せて落ち窪んだギレンホールの目が暗闇のなかであやしく光る。どこか怪奇映画の雰囲気もあり、事件を追っていない場面での彼の歩き方はほとんどゾンビめいている。ルーを焚き付けてエスカレートさせていくニナとの場面では、ふたりの姿はヴァンパイアに見えるのだ(ニナのどぎついメイクもあってそんなふうに見えるのかも)。人の血を求めているという意味では、“ナイトクローラー”もヴァンパイアも似た種族と言えるわけだし……。
最後にはルーがお膳立てした舞台設定のもとに、突発的な事件がカメラの前で生じることになる。観客としては何だかんだ言ってもドキドキしながらその瞬間を待ってしまうわけで、やはり衝撃映像というのは世間が求めてしまう見せ物なのかもしれない。そんな欲望が“ナイトクローラー”という職業を支えているということになるわけだが。
新たな設備投資で新事業を展開していく際のルーの演説がすごい。「自分がしないことは君たちにはやらせない」と偉そうに言うのだが、これはもちろん悪い冗談でしかない。エンドクレジットの音楽も妙にポップな印象で、皮肉が効いていたと思う。
![]() |

![]() |

スポンサーサイト