『毛皮のヴィーナス』と『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』 打たれるべきか、打つべきか
サディストの男が登場する『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』と、“マゾ”という言葉の語源とされるザッヘル=マゾッホ原作の『毛皮のヴィーナス』のSM2編。両作品とも今月DVDがリリースされた。

『毛皮のヴィーナス』
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』では、サディスト男が女にプレゼントする本がなぜか『テス』だった。『テス』の映画版では、ナスターシャ・キンスキーが散々虐げられるわけで、サディスト好みの小説だったのかもしれない。そんなふうにナスターシャ・キンスキーをいじめ抜いたロマン・ポランスキーの最新作は、一転してマゾッホの『毛皮のヴィーナス』である。
登場人物はふたりだけ。劇作家のトマとオーディションに現れた女。トマは『毛皮のヴィーナス』を翻案した劇の主役ワンダを探している。オーディションに2時間も遅れてやってきた知性の欠片すらなさそうな女もワンダと名乗る。強引にオーディションに付き合わされるトマだったが、ワンダが一度演技を始めるとトマが思い描いていたワンダの姿があり、たちまち惹きつけられることになる。トマは劇中のマゾヒスト・セヴェリンを演じ、ワンダはその支配者を演じることになり、ふたりだけの芝居は続いていく。
ワンダ役のポランスキーの奥様エマニュエル・セニエと、ポランスキーによく似ているトマ役マチュー・アマルリックの組み合わせは、ポランスキーとセニエの関係を思わせなくもない。終わり方はセニエだけでなく女性崇拝を強く打ち出すようでもあった。最後に取り憑かれたように踊り出すセニエの姿が見所。
ふたり芝居にも関わらず、何ともおもしろい。マゾッホの登場人物を描きつつも、それを演じるワンダを名乗る女と劇作家の関係を重ね、さらに役者ふたりの姿を通して現実のポランスキー夫妻の関係にも重層的に言及しているように思えるからだろうか。




『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』
ひょんなことからイケメン起業家と出会ったアナスタシア(ダコタ・ジョンソン)は、その男からデートに誘われる。実はこの男クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)はサディストであり、その性的趣味に付き合えるパートナーを探している。普通っぽいアナのどこにパートナーの素質を見出したのかはわからないが、グレイはアナに性的パートナーとなる契約を提案する。
ダコタ・ジョンソンはいかにも普通の女の子に見えるのだが、実際にはハリウッドのサラブレッド。母はメラニー・グリフィス、父親はドン・ジョンソン。いきなりの主演作というのも肯ける。お母さんのメラニー・グリフィスも『ボディ・ダブル』なんかで脱いでいたわけで、ダコタ・ジョンソンも初主演作でも潔い脱ぎっぷり。お母さんはどちらかと言えばセクシーなイメージだったけれど、娘さんはスレンダーでかわいらしい。相手役のジェイミー・ドーナンも初めて見る顔で、新鮮味がある組み合わせだったと思う。
うぶな女子学生が大金持ちにデートに誘われヘリなんかに乗せてもらったりしたら、誰だって参ってしまうわけで、あとになって「SM」とか言われてもよく知らないし、イケメンだから「まあいいか」といった軽い感じで、いけない世界に足を踏み入れてしまう。
劇場公開時にはあまりに味気ないボカシが画面を飛び交い、かなり不評だったというこの作品。さすがに反省したのか、DVDではそんなことはなかった。ただ、ボカシを入れるほどすごいカラミかと言えばそんなことはなくて、あくまでも一般客が見る程度のソフトなSMに収まっている。鞭とかロープとか道具も登場するけれど、危険な匂いはまったくなく、グレイはサディストと呼べるのかちょっと疑問も……。
※以下に続く。ネタバレもあり!

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の原作


SMの世界に詳しいわけではないので、ここから先はドゥルーズの『マゾッホとサド』を参考にしてみたいと思う。通常、何げなく「SM」とか「サド=マゾヒズム」といった感じでふたつのものを組み合わせて使ってしまう。しかしドゥルーズによれば、マゾヒズムはサディズムの裏返しではないのだとか。サディストは鞭打たれたいと願う人をいじめようとは決して思わないわけで、サディストの相手がマゾヒストというわけではないのだ。
逆にマゾの場合も、マゾヒストはサディストを拷問者に選ぶわけではない。『毛皮のヴィーナス』のワンダも、トマ=セヴェリンをいじめたいというサディストではない。トマ=セヴェリンがワンダに支配されたいと願い、ワンダを教育して拷問者へと仕立て上げていくのだ。ドゥルーズによればマゾッホが描いているのは、「拷問者を養成し、説得し、この上なく奇妙な企てのためにそれと盟約を結ばずにはいられない犠牲者」の姿であるとのこと。
上記の引用にあるように、マゾヒズムには契約がつきもの。一方でサディズムにおいては契約なんてものはまったくない。マルキ・ド・サドの描いたサディストたちは何でもありで、鞭打つ相手を慮ったりはしない。殺人も含め、おぞましい近親相姦だとか、食人や食糞、ありとあらゆるいかがわしい行為をやりつくすわけで、契約に縛られるようなものではないからだ。
映画版『毛皮のヴィーナス』でも契約書が交わされているわけだが、なぜか『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』でもサディスト=グレイが契約を申し出ている。これはやはりサディストとしては奇妙な存在だろう(アナに対して教育者として振舞っているし)。
またドゥルーズによれば、マゾヒズムに特徴的なのは“宙吊り”の状態にあるという。サディズムにおいては、性的行為は反復し速度を早めていく。他方のマゾヒズムにおいて“宙吊り”の状態であるというのは、そのプレイ中にそうした姿勢にされることでもあるわけだが、それ以上に性的快楽の到来が最大限に引き延ばされるということだ。マゾヒストは拷問者に縛られ鞭打たれることによって快楽は先延ばしされ、未決定状態に置かれることが重要なのだ。
そんな意味では『グレイ』の終わり方も結末を先延ばしにしている。この作品はシリーズ化され、あと2作品の映画化が予定されているとのこと。アナとグレイは1作目の最後で別れてしまうのだけれど、これものちのちの快楽を先延ばしするための戦略とも思えるわけで、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』という作品の本質はマゾヒズムにあるのかもしれない。
『グレイ』はもともと『トワイライト』シリーズの2次創作として生まれたものとのこと。作者の主婦は当然アナに自己を投影しているわけで、マゾッ気のある女性が空想でサディスト男を創りあげて書いた作品だからこそ、マゾヒズムに特有の契約関係が出てきたり、サディスト=グレイが妙に優しかったりということが生じているのだろう。
まあエロティックな小説や映画を消費する側としてはそんなことはどうだっていいのかも。「愛してはいけない」なんて台詞を吐く男にそれほど興味を抱けるものかはわからないけれど、そんな台詞も最後の最後になって「愛してる」と言わせるための“宙吊り”のように思えてくる。


『毛皮のヴィーナス』
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』では、サディスト男が女にプレゼントする本がなぜか『テス』だった。『テス』の映画版では、ナスターシャ・キンスキーが散々虐げられるわけで、サディスト好みの小説だったのかもしれない。そんなふうにナスターシャ・キンスキーをいじめ抜いたロマン・ポランスキーの最新作は、一転してマゾッホの『毛皮のヴィーナス』である。
登場人物はふたりだけ。劇作家のトマとオーディションに現れた女。トマは『毛皮のヴィーナス』を翻案した劇の主役ワンダを探している。オーディションに2時間も遅れてやってきた知性の欠片すらなさそうな女もワンダと名乗る。強引にオーディションに付き合わされるトマだったが、ワンダが一度演技を始めるとトマが思い描いていたワンダの姿があり、たちまち惹きつけられることになる。トマは劇中のマゾヒスト・セヴェリンを演じ、ワンダはその支配者を演じることになり、ふたりだけの芝居は続いていく。
ワンダ役のポランスキーの奥様エマニュエル・セニエと、ポランスキーによく似ているトマ役マチュー・アマルリックの組み合わせは、ポランスキーとセニエの関係を思わせなくもない。終わり方はセニエだけでなく女性崇拝を強く打ち出すようでもあった。最後に取り憑かれたように踊り出すセニエの姿が見所。
ふたり芝居にも関わらず、何ともおもしろい。マゾッホの登場人物を描きつつも、それを演じるワンダを名乗る女と劇作家の関係を重ね、さらに役者ふたりの姿を通して現実のポランスキー夫妻の関係にも重層的に言及しているように思えるからだろうか。
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『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』
ひょんなことからイケメン起業家と出会ったアナスタシア(ダコタ・ジョンソン)は、その男からデートに誘われる。実はこの男クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)はサディストであり、その性的趣味に付き合えるパートナーを探している。普通っぽいアナのどこにパートナーの素質を見出したのかはわからないが、グレイはアナに性的パートナーとなる契約を提案する。
ダコタ・ジョンソンはいかにも普通の女の子に見えるのだが、実際にはハリウッドのサラブレッド。母はメラニー・グリフィス、父親はドン・ジョンソン。いきなりの主演作というのも肯ける。お母さんのメラニー・グリフィスも『ボディ・ダブル』なんかで脱いでいたわけで、ダコタ・ジョンソンも初主演作でも潔い脱ぎっぷり。お母さんはどちらかと言えばセクシーなイメージだったけれど、娘さんはスレンダーでかわいらしい。相手役のジェイミー・ドーナンも初めて見る顔で、新鮮味がある組み合わせだったと思う。
うぶな女子学生が大金持ちにデートに誘われヘリなんかに乗せてもらったりしたら、誰だって参ってしまうわけで、あとになって「SM」とか言われてもよく知らないし、イケメンだから「まあいいか」といった軽い感じで、いけない世界に足を踏み入れてしまう。
劇場公開時にはあまりに味気ないボカシが画面を飛び交い、かなり不評だったというこの作品。さすがに反省したのか、DVDではそんなことはなかった。ただ、ボカシを入れるほどすごいカラミかと言えばそんなことはなくて、あくまでも一般客が見る程度のソフトなSMに収まっている。鞭とかロープとか道具も登場するけれど、危険な匂いはまったくなく、グレイはサディストと呼べるのかちょっと疑問も……。
※以下に続く。ネタバレもあり!
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SMの世界に詳しいわけではないので、ここから先はドゥルーズの『マゾッホとサド』を参考にしてみたいと思う。通常、何げなく「SM」とか「サド=マゾヒズム」といった感じでふたつのものを組み合わせて使ってしまう。しかしドゥルーズによれば、マゾヒズムはサディズムの裏返しではないのだとか。サディストは鞭打たれたいと願う人をいじめようとは決して思わないわけで、サディストの相手がマゾヒストというわけではないのだ。
逆にマゾの場合も、マゾヒストはサディストを拷問者に選ぶわけではない。『毛皮のヴィーナス』のワンダも、トマ=セヴェリンをいじめたいというサディストではない。トマ=セヴェリンがワンダに支配されたいと願い、ワンダを教育して拷問者へと仕立て上げていくのだ。ドゥルーズによればマゾッホが描いているのは、「拷問者を養成し、説得し、この上なく奇妙な企てのためにそれと盟約を結ばずにはいられない犠牲者」の姿であるとのこと。
上記の引用にあるように、マゾヒズムには契約がつきもの。一方でサディズムにおいては契約なんてものはまったくない。マルキ・ド・サドの描いたサディストたちは何でもありで、鞭打つ相手を慮ったりはしない。殺人も含め、おぞましい近親相姦だとか、食人や食糞、ありとあらゆるいかがわしい行為をやりつくすわけで、契約に縛られるようなものではないからだ。
映画版『毛皮のヴィーナス』でも契約書が交わされているわけだが、なぜか『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』でもサディスト=グレイが契約を申し出ている。これはやはりサディストとしては奇妙な存在だろう(アナに対して教育者として振舞っているし)。
またドゥルーズによれば、マゾヒズムに特徴的なのは“宙吊り”の状態にあるという。サディズムにおいては、性的行為は反復し速度を早めていく。他方のマゾヒズムにおいて“宙吊り”の状態であるというのは、そのプレイ中にそうした姿勢にされることでもあるわけだが、それ以上に性的快楽の到来が最大限に引き延ばされるということだ。マゾヒストは拷問者に縛られ鞭打たれることによって快楽は先延ばしされ、未決定状態に置かれることが重要なのだ。
そんな意味では『グレイ』の終わり方も結末を先延ばしにしている。この作品はシリーズ化され、あと2作品の映画化が予定されているとのこと。アナとグレイは1作目の最後で別れてしまうのだけれど、これものちのちの快楽を先延ばしするための戦略とも思えるわけで、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』という作品の本質はマゾヒズムにあるのかもしれない。
『グレイ』はもともと『トワイライト』シリーズの2次創作として生まれたものとのこと。作者の主婦は当然アナに自己を投影しているわけで、マゾッ気のある女性が空想でサディスト男を創りあげて書いた作品だからこそ、マゾヒズムに特有の契約関係が出てきたり、サディスト=グレイが妙に優しかったりということが生じているのだろう。
まあエロティックな小説や映画を消費する側としてはそんなことはどうだっていいのかも。「愛してはいけない」なんて台詞を吐く男にそれほど興味を抱けるものかはわからないけれど、そんな台詞も最後の最後になって「愛してる」と言わせるための“宙吊り”のように思えてくる。
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