ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作 『雪の轍』 改心すれば風景すら一変して見えてくる
物語の下敷きとなっているのはチェーホフの短編「妻」「善人たち」など。

舞台は世界遺産カッパドキアにあるホテル・オセロ。ロビーからは世界遺産の奇岩の風景を臨むことができ、雪を迎える前の時季で客足は少ないものの、流浪のバイカーや日本人観光客もいる。オーナーであるアイドゥン(ハルク・ビルギナー)は親から遺産としてホテルやその他の不動産を受け継ぎ、妻のニハルや出戻りの姉ネジルと暮らしている。
ある日、アイドゥンが使用人と街へ出ると、ある少年が走行中の彼らの車に石を投げつけ、危うく事故を起こしそうになる。少年はアイドゥンが家主となっている家の住人だ。家賃滞納のため法律に基づきテレビなどを差し押さえた際、父親のイスマイルが執行官に殴られたことに少年は腹を立てていたのだった。
この『雪の轍』は投石事件をきっかけにして起きる、長い長い会話劇である。上映時間は196分という長尺で、その大部分が登場人物たちの会話で占められている。それでもこの作品が観客の心を離さないのは、語られるテーマがロシア文学から採られた切実な問題を孕むからだろうか。とにかくなぜか惹きこまれてしまうのだ。
まずは家主のアイドゥンと店子イスマイルとの間にトラブルが生じる。困窮状態にあるイスマイルたちにとっては、アイドゥンや彼の弁護士たちのやり方は非情すぎるものだが、アイドゥンにとっては契約を履行しないイスマイルは面倒な存在だろう。
出戻りで退屈な日々を過ごしているネジラ(デメット・アクバァ)は、そんなアイドゥンに「悪への無抵抗」という考えについて問い質す(ネジラの念頭にあるのは離婚した自らの境遇に関してだが、家賃を滞納し続ける店子たちのことも片隅にある)。アイドゥンは悪に対抗しなければ、悪がはびこるばかりだと反論する。ヒトラーという悪に対して、ユダヤ人が自ら収容所へ向かえば、ヒトラーが恥じ入って改心するのか否か。アイドゥンはその答えは明らかだろうと言う。
アイドゥンは妻ニハル(メリサ・ソゼン)とうわべだけを繕う疎遠な関係だ。アイドゥンは彼女が虚しい生活を慰めるために始めた慈善活動を快く思っていない。ニハルの周りに集まってくる連中が詐欺師のように思えるからだ。暖炉の火を前にして交わされるふたりの会話は、すでに何度も繰り返されたことの再現であり、ニハルは聞きたくないアイドゥンの言葉を遮る。
それでもアイドゥンのニハルへ向ける目はとても優しい。アイドゥンの態度は「お前にもそのうちわかるだろう。今はおれに任せとけ」といったパターナリズム(家父長的温情主義)であって、それはニハルを“籠の鳥”のように扱うことだ。ニハルはアイドゥンのことを高潔な人だと認めつつ、だからこそアイドゥンは誰も彼もが嫌いで、周囲の人に窮屈な思いをさせると非難する。

姉のネジラはアイドゥンと激しくやりあった後、アイドゥンの前には現れなくなり、作品から姿を消してしまう。だからニハルとの関係も、アイドゥンがイスタンブールへ旅立つと宣言したときに決定的な終わりを迎えるのかと推測した。
しかしアイドゥンとニハルは、互いに自らの非を認めざるを得ない出来事に遭遇する。ニハルはアイドゥンが冷たくあしらったイスマイルたちに慈善の手を差し伸べようとするのだが、イスマイルはその善意を完全に足蹴にする(ドストエフスキー『白痴』の一場面を髣髴とさせるこの場面は、この作品のクライマックスとも言えるかもしれない)。イスマイルは家が買えるほどの金を受け取らず、あろうことか暖炉の火にくべて灰にしてしまうのだ。
一方でアイドゥンも自分の目利きを否定される。アイドゥンが詐欺師と疑っていた男は、意外にもまともな人間だったのだ。そして、アイドゥンの改心前に描かれるのは、狩りに出掛けたアイドゥンがたまたま見付けたウサギを仕留める場面だ。弾を受けて息も絶え絶えのウサギの姿が痛ましい。
実は、その前に「悪への無抵抗」の議論があったとき、アイドゥンは野生馬を購入している。カッパドキアは「美しい馬の地」を意味するのだそうで、その草原には野生馬が群れをなして走っている。そのなかの一頭を生け捕って、縄で首を締め上げ、地面に這いつくばらせて人間に従わせるように訓練するのだ。
野生の弱肉強食のルールでは人間は生きにくい。野生馬は悪ではないけれど天然自然なわけで、荒れ狂うように暴れる馬をそのまま飼うことはできない。飼い慣らすには人間社会のルールにはめ込む必要がある。悪へ対抗しなければならないというアイドゥンの議論も、イスマイルたちとのトラブルにおいては、法律で決まったルールを守らせるということだろう。アイドゥンは情けよりも社会のルールを優先している。ただ、それはその方が楽だからかもしれない。偏屈なところのあるアイドゥンは考えもせずに、それまでのルールや習慣に固執するのだ。
そんなアイドゥンが改心したのは、自分の原理原則が正しいと信じてきたにも関わらず、自分の行動が一貫したものではないと悟ったからかもしれない。「社会ルールの遵守(≒悪への対抗)」がアイドゥンの凝り固まった原理原則だとすれば、暴れる馬を飼い馴らすのはまあ腑に落ちるとしても、どう見ても弱い存在であるウサギを撃ち殺すことはどこから導かれるのか。もちろんそんな行動は導かれるはずもない。アイドゥンの行動はデタラメなのだ。
人間なんてそんなものなのかもしれない。だから、イスマイルとのトラブルにおいても、「社会ルールの遵守」に固執するのではなく、イスマイルの窮状に耳を傾けることも可能だったはずなのだ。アイドゥンには気が向いたら馬を買って、飽きると逃がしてしまうような余裕があるのだから。そんなわけでアイドゥンは大切な気づきを経て、妻の前で我を折って謝罪することを厭わないだろう。
前言を撤回してホテルへ舞い戻ったアイドゥンは、妻への正直な気持ちをモノローグで謳い上げる。そこにシューベルトのピアノソナタ第20番の旋律が重なってくる。映像と音が見事にマッチした、詩情溢れる場面だったと思う(『昔々、アナトリアで』にもそうした部分があった)。ふたりが再会するとき、ホテルは一面の雪に覆われ、それまでの風景とは違う幻想的な姿を見せていてとても美しい。
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