『ファニーとアレクサンデル』 イングマール・ベルイマンについてあれこれ
長い間、イングマール・ベルイマンの最後の作品とされてきた『ファニーとアレクサンデル』(本当の遺作はその約20年後に撮られた『サラバンド』)の5時間版のDVDが近くのTSUTAYAでも登場した。
この作品は3時間版と5時間版があり、5時間版はテレビ用として製作されたもので、劇場公開は3時間版とのこと。ただ日本ではベルイマンの人気が高かったため、5時間版が公開された(日本公開は1985年)。
私は前に3時間版のビデオは観ているのだが、5時間版は今回が初めて。3時間版の記憶が薄れているので、両者の差がどのあたりにあるのかはよくわからない。約2時間も違うのだから色々と3時間版ではカットされているはずだけれど……。第1部はクリスマス・イブのエクダール一家が描かれるのだが、このあたりはエクダール家の様々な面々をゆったりとした流れで紹介していて、3時間版では色々とカットされているのかもしれない。また、亡霊オスカルの登場回数は5時間版のほうが多かったような気がする。

少年アレクサンデル(バッティル・ギューヴェ)の目を通して描かれるエクダール一家のドラマ。エクダール一家はアレクサンデルの父オスカルを中心に劇場を経営しながら、豊かで満ち足りた日々を送っていた。しかし、オスカルは芝居の稽古中に倒れて亡くなってしまう。葬式が盛大に執り行われ、しばらく経ったころ、葬儀の際に式を仕切った主教(ヤン・マルムシェー)がアレクサンデルの新しい父としてやってくる。
◆ベルイマンの集大成であり自伝的な物語
冒頭では「悩むより楽しめ」という言葉が提示される。ベルイマン作品にしては意外な感もある。ごく一般的なベルイマンのイメージとしては、題材はいつも重苦しく、主人公たちは苦悩しているという印象があるからだ。「神の不在」を扱った3部作『鏡の中にある如く』『冬の光』『沈黙』や、男女や親子の愛憎関係を描いて痛ましかった『ある結婚の風景』『秋のソナタ』あたりは到底楽しめるようなものではない。
しかし、『ファニーとアレクサンデル』は人生すべてを肯定的に描いていて楽しい作品になっていると思う(後半には児童虐待みたいな部分もあるが)。ベルイマンの自らの映画作品の集大成としてそうした題材を選んだのであり、この作品は彼の自伝的な要素も含んだものになっている。5時間と聞けばさすがに尻込みしそうだが、『仮面/ペルソナ』みたいな難解さはまったくないし(*1)、観始めれば長尺ということも忘れてしまうほど魅力的な作品だ。
後半のイサク・ヤコビ(『サラバンド』でも主役だったエルランド・ヨセフソンが演じる)が長々と語るおとぎ話はまさに人生そのものだが、このおとぎ話はベルイマンが祖母から聞かされたものとのこと。『ベルイマンは語る』
という本でも、これとほとんど同じ話が収録されている。
主人公のアレクサンデルの風貌はベルイマンによく似ている。アレクサンデルはベルイマンの少年時代がモデルなのだろう。そして後半に義父として登場する主教は、ベルイマンの父親がモデルとなっているように見える。しかし『ベルイマン (Century Books―人と思想) 』
という本によると、ベルイマン自身は「アレクサンデルよりもむしろ主教の中に、自分のイメージがたくさんある」と語っている。
ベルイマンは牧師の息子として生まれ、アレクサンデルと同じように父や父が担う宗教的なものに反発しつつ自己を形成していった。この作品のなかでは、最後に主教の側の目線になって「アレクサンデルが怖い」と言わせているのは、老年に達して(製作時には64歳)父親側の気持ちにも理解を示していたということだろう。(*2)
主教のなかにベルイマンの分身がいるとすれば、エクダール家の三兄弟もどれもそれぞれにベルイマンの分身のようにも思えてくる。長男のオスカルは劇場主として演劇を愛している。これはベルイマンが自らの仕事は演劇のほうだと考えていたことと一致しているかもしれない。映画監督として世界的に著名なベルイマンだが、映画のほうは仕事というよりも自己表現だと考えていたようだ。
次男カールはアルコール依存でいつも妻を罵倒さざるを得ない。それでいて妻に頼らざるを得ない弱みを見せるときもある。こうしたキャラは『ある結婚の風景』などでもたびたび登場してくる、ベルイマン作品では馴染みのあるキャラクターだ(『冬の光』の牧師にもそうしたところがあると思う)。
そして三男のグスタフは妻がいながらも、召使いのマイにも子供を産ませ、妻と愛人との間で行き来しつつも人生を楽しむ術を持っている。ベルイマンは五度の結婚をしたらしいし、浮気が得意だったのかどうかはわからないけれど、過去に付き合った女優たちは別れてからも彼の映画に出ている。
『リヴ&イングマール ある愛の風景』でかつての恋人ベルイマンについて語っていたリヴ・ウルマンは、別れたあとにも遺作『サラバンド』の主役を演じていた。『叫びとささやき』では、かつてのベルイマンのミューズであるハリエット・アンデション(『不良少女モニカ』)とその後のベルイマンの恋人リヴ・ウルマンが共演しているわけだから、グスタフみたいな部分もベルイマンにはあったのかもしれない。エピローグではグスタフが長い演説をすることになるが、この部分には冒頭の「悩むより楽しめ」という人生を肯定するメッセージに満ちていて感動的だった。
(*1) 私は英語字幕版の『仮面/ペルソナ』しか観ることができていないので、余計に理解できていないのだが、日本語字幕があっても難解だとか……。
(*2) 主教のような宗教的人間が、エクダール家のような俗世の人たちに屈服したというような見方もできるのかもしれない。アレクサンデルは神の存在を否定しているけれど、第5部が「悪魔たち」という題名になっているのは、神はいなくても悪魔は存在するということだろうか?

◆印象的な幻視のシーンなど諸々
冒頭のシーンで早くもベルイマンの世界に引き込まれるようだ。誰も居ない大邸宅のなかでアレクサンデルがひとり登場する。時計の針の音が響く静けさのなか、アレクサンデルは白昼夢を見る。白い彫像が動き出し、死神が大鎌を引きずっていく……。
こうした幻想のシーンは多くはないけれど、それだけに効果的に使われている。イサクのおとぎ話のあとにアレクサンデルが見る幻想もインパクトがある(カラー版の『第七の封印』のよう)。それから隠れ家では神が登場する場面もある。これはこけおどしだと判明するわけだけれど、これまで散々「神の不在」を描いてきたベルイマンだけに気が効いた冗談だったと思う。
アレクサンデルはなぜか亡霊を見ることができるのだが、それを怖がってもいる。このあたりは『シックス・センス』のようでもあり、白塗りの亡霊たちは怖いというよりはユーモラスな部分もある。また、亡霊となり息子を見守るオスカルに、アレクサンデルは「見てるだけなら早く天国へ行きなよ」みたいな暴言を吐くのだが、ここでの父親の立場は「神の沈黙」と似たようなものなのかもしれない。オスカルは沈黙しているわけではないが、結局役に立たないという意味で「神の不在」と同じことだからだ。存在は感じるけれど、単に見ているだけというのも腹立たしいのだろう。
最後は幸福感に満ちた終わり方だが、同時に主教の亡霊も姿を現しているところは、『夏の遊び』を思い出させる。“生の充溢”のただなかにも常に死の影が存在しているのだ。
舞台設定としては、クリスマスの場面では赤を基調にした絵づくりがなされている(『叫びとささやき』を思わせる)。また、光溢れる夏の場面では、白を基調にした別荘が舞台となる(誰もが白い服を着ている)。後半の主教館は牢獄のようで寒々しく、そこから逃げ出したアレクサンデルたちが身を寄せる隠れ家は迷路のようで妖しい雰囲気を醸し出している。撮影監督のスヴェン・ニクヴィストはそれぞれの舞台を鮮やかに捉えていて素晴らしい。
とりとめのない書き方になったが、書きたくても触れられなかった部分はほかにも多々ある。とにかくベルイマン作品には惹かれるものがたくさんあるということは確かだ。

その他のベルイマン作品

この作品は3時間版と5時間版があり、5時間版はテレビ用として製作されたもので、劇場公開は3時間版とのこと。ただ日本ではベルイマンの人気が高かったため、5時間版が公開された(日本公開は1985年)。
私は前に3時間版のビデオは観ているのだが、5時間版は今回が初めて。3時間版の記憶が薄れているので、両者の差がどのあたりにあるのかはよくわからない。約2時間も違うのだから色々と3時間版ではカットされているはずだけれど……。第1部はクリスマス・イブのエクダール一家が描かれるのだが、このあたりはエクダール家の様々な面々をゆったりとした流れで紹介していて、3時間版では色々とカットされているのかもしれない。また、亡霊オスカルの登場回数は5時間版のほうが多かったような気がする。

少年アレクサンデル(バッティル・ギューヴェ)の目を通して描かれるエクダール一家のドラマ。エクダール一家はアレクサンデルの父オスカルを中心に劇場を経営しながら、豊かで満ち足りた日々を送っていた。しかし、オスカルは芝居の稽古中に倒れて亡くなってしまう。葬式が盛大に執り行われ、しばらく経ったころ、葬儀の際に式を仕切った主教(ヤン・マルムシェー)がアレクサンデルの新しい父としてやってくる。
◆ベルイマンの集大成であり自伝的な物語
冒頭では「悩むより楽しめ」という言葉が提示される。ベルイマン作品にしては意外な感もある。ごく一般的なベルイマンのイメージとしては、題材はいつも重苦しく、主人公たちは苦悩しているという印象があるからだ。「神の不在」を扱った3部作『鏡の中にある如く』『冬の光』『沈黙』や、男女や親子の愛憎関係を描いて痛ましかった『ある結婚の風景』『秋のソナタ』あたりは到底楽しめるようなものではない。
しかし、『ファニーとアレクサンデル』は人生すべてを肯定的に描いていて楽しい作品になっていると思う(後半には児童虐待みたいな部分もあるが)。ベルイマンの自らの映画作品の集大成としてそうした題材を選んだのであり、この作品は彼の自伝的な要素も含んだものになっている。5時間と聞けばさすがに尻込みしそうだが、『仮面/ペルソナ』みたいな難解さはまったくないし(*1)、観始めれば長尺ということも忘れてしまうほど魅力的な作品だ。
後半のイサク・ヤコビ(『サラバンド』でも主役だったエルランド・ヨセフソンが演じる)が長々と語るおとぎ話はまさに人生そのものだが、このおとぎ話はベルイマンが祖母から聞かされたものとのこと。『ベルイマンは語る』

主人公のアレクサンデルの風貌はベルイマンによく似ている。アレクサンデルはベルイマンの少年時代がモデルなのだろう。そして後半に義父として登場する主教は、ベルイマンの父親がモデルとなっているように見える。しかし『ベルイマン (Century Books―人と思想) 』

ベルイマンは牧師の息子として生まれ、アレクサンデルと同じように父や父が担う宗教的なものに反発しつつ自己を形成していった。この作品のなかでは、最後に主教の側の目線になって「アレクサンデルが怖い」と言わせているのは、老年に達して(製作時には64歳)父親側の気持ちにも理解を示していたということだろう。(*2)
主教のなかにベルイマンの分身がいるとすれば、エクダール家の三兄弟もどれもそれぞれにベルイマンの分身のようにも思えてくる。長男のオスカルは劇場主として演劇を愛している。これはベルイマンが自らの仕事は演劇のほうだと考えていたことと一致しているかもしれない。映画監督として世界的に著名なベルイマンだが、映画のほうは仕事というよりも自己表現だと考えていたようだ。
次男カールはアルコール依存でいつも妻を罵倒さざるを得ない。それでいて妻に頼らざるを得ない弱みを見せるときもある。こうしたキャラは『ある結婚の風景』などでもたびたび登場してくる、ベルイマン作品では馴染みのあるキャラクターだ(『冬の光』の牧師にもそうしたところがあると思う)。
そして三男のグスタフは妻がいながらも、召使いのマイにも子供を産ませ、妻と愛人との間で行き来しつつも人生を楽しむ術を持っている。ベルイマンは五度の結婚をしたらしいし、浮気が得意だったのかどうかはわからないけれど、過去に付き合った女優たちは別れてからも彼の映画に出ている。
『リヴ&イングマール ある愛の風景』でかつての恋人ベルイマンについて語っていたリヴ・ウルマンは、別れたあとにも遺作『サラバンド』の主役を演じていた。『叫びとささやき』では、かつてのベルイマンのミューズであるハリエット・アンデション(『不良少女モニカ』)とその後のベルイマンの恋人リヴ・ウルマンが共演しているわけだから、グスタフみたいな部分もベルイマンにはあったのかもしれない。エピローグではグスタフが長い演説をすることになるが、この部分には冒頭の「悩むより楽しめ」という人生を肯定するメッセージに満ちていて感動的だった。
(*1) 私は英語字幕版の『仮面/ペルソナ』しか観ることができていないので、余計に理解できていないのだが、日本語字幕があっても難解だとか……。
(*2) 主教のような宗教的人間が、エクダール家のような俗世の人たちに屈服したというような見方もできるのかもしれない。アレクサンデルは神の存在を否定しているけれど、第5部が「悪魔たち」という題名になっているのは、神はいなくても悪魔は存在するということだろうか?

◆印象的な幻視のシーンなど諸々
冒頭のシーンで早くもベルイマンの世界に引き込まれるようだ。誰も居ない大邸宅のなかでアレクサンデルがひとり登場する。時計の針の音が響く静けさのなか、アレクサンデルは白昼夢を見る。白い彫像が動き出し、死神が大鎌を引きずっていく……。
こうした幻想のシーンは多くはないけれど、それだけに効果的に使われている。イサクのおとぎ話のあとにアレクサンデルが見る幻想もインパクトがある(カラー版の『第七の封印』のよう)。それから隠れ家では神が登場する場面もある。これはこけおどしだと判明するわけだけれど、これまで散々「神の不在」を描いてきたベルイマンだけに気が効いた冗談だったと思う。
アレクサンデルはなぜか亡霊を見ることができるのだが、それを怖がってもいる。このあたりは『シックス・センス』のようでもあり、白塗りの亡霊たちは怖いというよりはユーモラスな部分もある。また、亡霊となり息子を見守るオスカルに、アレクサンデルは「見てるだけなら早く天国へ行きなよ」みたいな暴言を吐くのだが、ここでの父親の立場は「神の沈黙」と似たようなものなのかもしれない。オスカルは沈黙しているわけではないが、結局役に立たないという意味で「神の不在」と同じことだからだ。存在は感じるけれど、単に見ているだけというのも腹立たしいのだろう。
最後は幸福感に満ちた終わり方だが、同時に主教の亡霊も姿を現しているところは、『夏の遊び』を思い出させる。“生の充溢”のただなかにも常に死の影が存在しているのだ。
舞台設定としては、クリスマスの場面では赤を基調にした絵づくりがなされている(『叫びとささやき』を思わせる)。また、光溢れる夏の場面では、白を基調にした別荘が舞台となる(誰もが白い服を着ている)。後半の主教館は牢獄のようで寒々しく、そこから逃げ出したアレクサンデルたちが身を寄せる隠れ家は迷路のようで妖しい雰囲気を醸し出している。撮影監督のスヴェン・ニクヴィストはそれぞれの舞台を鮮やかに捉えていて素晴らしい。
とりとめのない書き方になったが、書きたくても触れられなかった部分はほかにも多々ある。とにかくベルイマン作品には惹かれるものがたくさんあるということは確かだ。
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