『私の男』 近親相姦という顰蹙を買いそうな題材だが……

 桜庭一樹が直木賞を受賞した同名小説の映画化。
 監督は『海炭市叙景』などの熊切和嘉
 主演には浅野忠信二階堂ふみ。中学生から結婚間近の女までをごく自然に演じ、かなりきわどい役を乗りこなしている二階堂ふみはやっぱりすごい。モスクワ映画祭で主演男優賞を獲得した浅野忠信は、銀座の街を赤い傘を差しながらサンダルで歩くという落ちぶれた姿がよかった。『さよなら歌舞伎町』でもエロかった河井青葉は、この映画でも後ろから攻められている(背中の傷を見せるために)。
 昨年6月に劇場公開され、今月DVDが発売された。

熊切和嘉 『私の男』 主役の浅野忠信と二階堂ふみ。殺人を犯したふたりは逃亡生活に入る。


 奥尻島を襲った津波で家族を喪った少女・花(山田望叶)は、避難所で遠い親戚である淳悟(浅野忠信)に拾われる。ここからふたりの生活が始まる。津波の記憶にPTSDに襲われる花に対し、淳悟は「俺はお前のものだ」と囁き、その小さな手をそっと握る。

 震災で孤児になった少女を助ける行為は、「あしながおじさん」的な善意を感じさせる。淳悟も震災で家族を亡くしており、「家族が欲しいんです」という彼の言葉に嘘はないだろう。しかし彼をよく知る大塩(藤竜也)には「あんたには家族のつくり方なんてわからんよ」と否定されるような一面も持つ。
 家族を知らない淳悟と花のふたりが一緒に暮らしていくということは、ごく一般的な家族の結びつきとは違うものとなる。映画のなかで詳しい説明があるわけではないが、このふたりは実は本当の父娘である。同じ血が流れているということをふたりは感じているし、そのことが互いをかけがえのない存在にしている。そして普通の家族を知らないふたりには、小さな手を握り締めたやさしさがやがて愛撫へと変っていくことを阻む障壁はとても低い。
 インセスト・タブーを侵犯する行為は、たとえば『オイディプス王』では行為者たちがそれを知らなかったから成立したわけで、その事実が判明したときオイディプス王は盲になって荒野をさまよう。そのくらい忌まわしいタブーとされているわけで、それを認識しながら侵犯する行為はさらに背徳的だと言える。

 『私の男』は冷たい冬の海から流氷に這い上がる花(二階堂ふみ)の笑みから始まる。この笑みは中盤に描かれる出来事で明らかにされる。淳悟と花の関係を知ってしまった世話焼きの大塩は、その関係を「神様が許さない」と咎めるが、花は「私は許す、何したって。あれは私の全部だ。」と絶叫する。そう言い切った満足感があの笑みだ。
 そんなわけで養父に手篭めにされたとも見える花だけれど、彼女は単なる被害者ではない。淳悟はもしかすると少女好きの変態なのかもしれないが、花はそんな男が育ててしまった社会性の欠如した一種のバケモノである(その後の淳悟はダメな男になっていく)。

『私の男』 陸に接岸する流氷が広がる。撮影はさぞかし大変だったろうと思う。

 最初の殺人は流氷の上で行われる。流氷は陸地と海の境界に位置している。花は一度は津波に襲われながらも、海から陸地へと這い上がってきた。そしてこの映画の冒頭でも、大塩を流氷の上に放置して、自分は海を渡って流氷の上に這い上がり、再び陸地まで戻ってきた。流氷は生と死の境目にあるもので、花はそうした境界をうろつきつつ“生”のほうへ戻ってくる(戸籍上の父の「生きろ」という言葉に促されて)。
 そうした境界線はほかにもあって、それは社会という枠組みの境目だろう。花と淳悟はその枠組みから外れたところにいる。ただ完全にその枠組みから逃れては生きることはできない。ギリギリのところで踏みとどまるしかない。だから社会的なタブーからも完全に自由になれるわけでもなく、ふたりが交わるシーンで血の雨が降るのはそうした後ろめたさからだろう。ラストのふたりだけの世界は、そんなギリギリのところで“生”のほうに踏み止まったふたりの妥協としてあるわけだし、最後の瞬間に鈍い輝きを増す、そんな輝きだったのかもしれない(あの先にふたりの未来はないわけだから)。

 『私の男』に歓喜させられたのは、このラストシーンがギドクの『うつせみ』のそれとよく似ているからだ。以下はキム・ギドクのファンとして……。
 花は生きるために生活力のある男のもとへ嫁ぐことになるが、心のなかではいつも淳悟とつながっている。『うつせみ』で夫との結婚生活に戻った女が、夫ではなく幻想の男を見つめているところと被っているのだ。そして『私の男』の花が最後に淳悟に語りかける言葉がミュートされているのは、『うつせみ』でそれまで一言もしゃべらなかった女が最後に言葉を発する逆を狙ったのかと妄想した。
 監督の熊切和嘉がそれを意識しているかどうかは知らない。『海炭市叙景』はとても真っ当ないい作品だったが、一方で『私の男』と同時に発売された『鬼畜大宴会』は大いに顰蹙を買うような作品となっている。(*1)『私の男』もタブーに切り込んでいったあたりは顰蹙を買う部分もあるだろうし、いつも顰蹙ものの作品となってしまうギドクを意識している可能性もないこともないような……。
 ギドクが『メビウス』で来日したころの雑誌のインタビューでは、『私の男』や原作者・桜庭一樹の名前への言及があって、ギドクがこの作品に自分に近いものを感じていたということなのだろうと思う。(*2)

(*1) PFFで準グランプリとなった『鬼畜大宴会』は、連合赤軍のリンチ殺人事件をスプラッターでパロディにするという作品。大学の卒業制作ということもあって、悪ふざけの部分も多分に感じられる。顰蹙を買うのが狙いだったところもあるようで、実際にこの映画を見せると「中途半端な付き合いだったヤツは本当にみんなサーっと引いていった」んだとか。さもありなん。

(*2) このページを読むと原作者はギドクのファンということで、原作のほうがギドクの世界に惹きつけられているのかもしれない。

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Date: 2015.02.28 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『花とアリス殺人事件』 鈴木杏と蒼井優が演じたあのキャラがアニメーションに

 岩井俊二監督の『ヴァンパイア』以来の最新作。
 この作品は2004年の『花とアリス』の前日譚で、岩井俊二監督初の長編アニメーション作品である。10年前の実写作品の出演者が、同じ役柄の声を担当している。

 ちなみにエンドロール後に岩井俊二の最新作の予告編が流れるので、ファンの方は要注意かも。なぜか一度劇場内の電気が消えてしばらくすると始まるらしく、観客もすでに出口へ向かうころで、劇場係員の追い出しの声も響くなか、いつの間にかに映像が流れていた(意図的にタイミングをズラしているのだろうか)。そんなわけでタイトルすら見逃したのだが、黒木華が主演だったような……。

岩井俊二 『花とアリス殺人事件』 花とアリスのキャラはアニメとなって再登場。

 アニメに詳しいわけではないが勝手なことを言うと、実写とアニメとで異なるのは、アニメは作品世界をゼロから創りあげることができることかもしれない。しかし、他方では現実世界を忠実に再現しようというアニメの方向性もあって、この『花とアリス殺人事件』ではロトスコープという手法が使われているという。
 この手法は、実写で撮影したものをトレースしてアニメーションにするというもの。ディズニーの『白雪姫』(1937年)くらいからある手法で珍しいものでもないのかもしれないけれど、『花とアリス殺人事件』の風景描写などは妙にリアルな部分があり、それでいて水彩画のようでもあって不思議な感覚だった。

 実写で撮影された『花とアリス』に対して、『花とアリス殺人事件』がアニメ作品とならなければならなかった理由は、前作の前日譚を描くという制約からだろうか。当然出演者たちは10年分歳をとるわけだから、今さら中校生役をやるのは無理があるし、かと言って別の役者を当てれば『花とアリス』らしくはなくなってしまう。そのくらい『花とアリス』はふたりの女優の存在に多くを負っている作品ということだろう。
 そんなわけでアニメ版の花とアリスのキャラは、もちろん実写版の鈴木杏蒼井優をイメージしている。ほかのキャラもそうで、たとえばバレエ教室で写真を撮っていた風子ちゃんも実写版の間延びした感じをそのまま受け継いでいる(なぜか平泉成のキャラだけはまったく似ていなかったけれど、声はいかにもわかりやすい平泉成の声だった)。
 アニメ化のもうひとつの理由は、岩井俊二が漫画やアニメに思い入れがあるということかもしれない。前作でも手塚治虫作品があちこちに引用されていたり、漫画家の名前が駅名や学校名に登場していたわけだし……。もともと実写版ですら花の泣き顔とか、アリスの嘘みたいな作り笑いとかマンガチックなところがあったわけで、前作の世界はそれほど違和感なくアニメの世界へ移行されている。


 有栖川徹子(アリス)は転校生として石ノ森学園中学校へやってくる。そのころクラスでは「ユダが、四人のユダに殺された」という噂で持ちきりだった。そして、アリスの家の隣にある“花屋敷”に引きこもっている同級生・荒井花が、ユダ殺害の事実について知っていることがわかり、アリスは“花屋敷”に乗り込むことになる。

 “花屋敷”の引きこもり少女のエピソードは、実写版でも風子ちゃんによってちょっとだけ語られていた部分で、それを改めて描き直しながら花とアリスの出会いについて語られていく。学生時代の話ということでいじめにつながるクラス内の勢力争いとかもあるし、岩井俊二の少女趣味的な部分はもちろん満載だが、一方でユダ殺害のエピソードのようなマニアックというかちょっとズレた感覚もある。アリスが天然自然なところも、花が瞬間的に悪企み(?)を思いつく頭の回転の速さを見せ、前作を楽しんだ人にとってはやはり観逃せない1本だ。

こちらは実写版『花とアリス』の一場面。これとまったく同じ場面が再現される。

 途中にアリスとおじいさんの脱線的なエピソードがあるが、ここは黒澤明『生きる』をコピーしている。喫茶店に入ったふたりの向こう側で、何やら若者たちがパーティで騒いでいる場面あたりからがそうで、喫茶店内の階段とかもそっくりコピーしていて、最後にはおじいさんがブランコに乗るシーンがある。
 なぜ岩井俊二が黒澤明をコピーするのかなと思っていたら、このページにはおもしろいことが書かれていた。岩井俊二の少女性、これは岩井俊二が少女の生態をよく理解しているということではなく、岩井俊二そのものが「おじさんであり少女でもある」といったことであり、それは『生きる』志村喬が演じた主人公に被ってくるという。たしかに、死が間近だからといって人助けのために奔走する『生きる』の志村喬はあり得ないほどウブだった。彼が唄う「ゴンドラの唄」はこんなふう。

いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを


 それにしてもこのコピーぶりは徹底しているところがあり、実写で撮ったとしたらまさかそんなことはしないわけで、岩井俊二は過去の名作をアニメに移すこと自体を楽しんでいるようだ。実際に『花とアリス殺人事件』では、10年前の『花とアリス』をもう一度アニメという形式で撮り直すことに腐心しているようにも見えるのだ。
 アリスが父親と鎌倉で過ごす場面(どちらも橋の上で電話が鳴る)とか、ふたりが制服を見せ合う場面(上の写真は実写版)などは、実写と寸分違わぬ構図のアニメとなっている。何よりも感動的だったのは、実写版の冒頭部分をアニメ版のラストに持ってきたことだ。実写版で「hana & alice」というタイトルバックになった、あの横移動の場面をまったくそのままアニメに移行しているのだ。
 あの場面をラストに据えているのは、実写版のそれが素晴らしかったということもあるだろうが、前作の撮影監督であった篠田昇への想いということもあるのだろう。篠田昇は2004年に亡くなってしまったわけで、岩井俊二とのコンビでは『花とアリス』が最後の作品だ。岩井俊二は『花とアリス殺人事件』の脚本が完成したその日に、篠田昇の訃報に接したという。『花とアリス殺人事件』の絵づくりも現実をそのままアニメにするというよりは、篠田昇のカメラが捉えた光の再現を狙っているようであり、窓から射し込む光の感じなど見事にアニメーションとして表現されていたと思う。

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Date: 2015.02.22 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『フォックスキャッチャー』 大富豪はなぜ金メダリストを殺したのか?

 アメリカの大富豪が犯した殺人事件という実話をもとにした映画。
 監督は『カポーティ』『マネーボール』ベネット・ミラーで、アカデミー賞の監督賞にもノミネートされているし、カンヌ国際映画祭では見事監督賞を受賞した。
 キャストにはスティーヴ・カレル、チャニング・テイタム、マーク・ラファロなど。アカデミー賞ではスティーヴ・カレルが主演男優賞、マーク・ラファロが助演男優賞に共にノミネートされた。

ベネット・ミラー 『フォックスキャッチャー』 3人の男の静かな心理劇。


 ロス五輪(1985年)のレスリング金メダリストのマーク・シュルツ(チャニング・テイタム)は、次のオリンピックまであと1年というころ、デュポン財閥から突然呼び出される。財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)はマークのレスリングに支援を申し出る。「アメリカはきみに栄誉を与えていない。ふたりで偉大なことを成し遂げよう」と……。

 デュポン財閥はアメリカでも3本の指に入る勢力なのだそうだ。広大な敷地に大邸宅、自家用ヘリやジェット機まであって金で手に入らないものは何もない。誰でもがそんな金持ちになりたいものだと思うが、たまたまそんな家に生まれついた人にとってはそれほど愉快でもないらしい。
 時代は冷戦期。ソ連が国を挙げてスポーツを後押ししていることに対し、デュポン家の御曹司ジョンは愛国心を燃やす。ただ、ジョンのしていることはレスリングや愛国心より先に母親に認めてもらいたいということであり、誰かに必要とされたいということだったのかもしれない。母親が馬をコレクションするように、ジョンは「フォックスキャッチャー」というレスリング・チームに優秀な人材を集めようとする。しかし世の中には金で買えるものばかりではないわけで、ジョンの憂鬱は次第に狂気へと向かっていく。

 事実をもとにした『フォックスキャッチャー』だが、まだ存命の人物からは批判の声が挙がっているようだ。事実を捻じ曲げて伝えているというのが、その批判の論点だ。実際にそうなのかもしれない。事件はジョン・デュポンの精神的な病が引き起こしたということに尽きるのかもしれないからだ。しかし、映画では事実を忠実に再現するというよりも、事件のあらましを借りながらも、男たちの様々な葛藤が蠢く、静かながらも目が離せない心理劇となっている。

『フォックスキャッチャー』 ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)にとってはマーク(チャニング・テイタム)は獲物のひとつ。

 冒頭近く、マークとデイヴ(マーク・ラファロ)の兄弟がレスリングをする場面がある。この部分が映画全体を象徴しているように思えた。
 マークとデイヴがふたりだけで練習を始める。デイヴはマークのトレーナーでもあり、マークの身体の調子を確かめるように筋肉をほぐしていく。いたわるようなストレッチはどこか艶かしいのだが、それはそのまま激しい乱取り稽古へと移行する。
 この段階ではまだふたりの背景はよくわからないものの、複雑な感情が蠢いていることはわかる。マークは乱取り中に熱くなり、反側技まで繰り出すものの、デイヴは頭突きで鼻血を流しながらも怒りもせずに、レスリングの技だけでマークをマットにねじ伏せる(デイヴもロス五輪の金メダリストである)。
 この間、ふたりはほとんど会話もない。ただ身体のぶつけ合うことがその代わりになっている。マークにとってデイブは憧れでもあると同時に、決して越えられない壁だ。そしてデイヴにとってマークは、自分が父代わりとして育ててきた愛おしい存在だ。ふたりの間には愛情があり、嫉妬があり、敵対心がある。それを身体のぶつかり合いだけで示しているのだ。
 この映画は言葉で何かを説明することは少ない。のちに事件へのきっかけになったかもしれない場面(デイヴがジョンを押し留めるところ)でも、ふたりの会話は示されず、扉越しの身振りだけで表現されることになる。そのあたりがこの作品が静かな怖さを醸し出すことに成功している要因かもしれない。

 マークとデイヴの間に割って入るのがジョンであり、彼はまずマークを口説き落とす。ジョンは名目上レスリングのコーチになっているが、実際には単なるパトロンである。ジョンは憂鬱な気分を紛らす遊び相手が欲しかっただけにも見え、ふたりが夜にレスリングの練習をするあたりは同性愛的なものを仄めかしている。
 『フォックスキャッチャー』では女性はほとんど排除されている。ジョンの母親は唯一存在感があるが、この母親は離婚して話題なることもない父の代わりとして、母でありながら父のような存在だ(“承認欲求”というのは通常父性に向かうはず)。またマークの周囲にも女の姿はない。男たちばかりの物語になっているわけで、同性愛的なものを感じるのは意図的なものだ。(*1)
 後半はジョンの鬱屈も静かに進み、いつ爆発するのかとハラハラさせる。ではなぜジョンが殺したのが最初にチームに誘ったマークではなく、デイヴだったのかと言えば、デイヴが一番活きのいい獲物だったからだろう。
 チーム名の由来にもなっているキツネ狩りは、“ブラッド・スポーツ”と呼ばれる貴族の遊戯であり見せ物であったのだとか。「フォックスキャッチャー」というチームの設立自体、母親への対抗心が始まりであったわけで、見せ物として虚勢を張るには一番いい獲物が必要とされ、そのためにはジョン自身が駄目にしてしまったマークではなく、全てにおいて勝者であるデイヴでなければならなかったということだろう。

 スティーヴ・カレルの佇まいがこの映画のキモだ。睥睨するようなそっくり返った態度は傲慢さを感じさせるが、唯一の友達だと思っていた人物が金で買われていたということを告白するあたりには大富豪の孤独を見せる。それでいて自分でも金の力を過信し、思う通りにならないことがあることなど決して信じることができないという狂気をも見事に体現していたと思う。
 『マジック・マイク』でも肉体美を披露したチャニング・テイタムは、この映画でもレスリングシーンをその身体能力の高さで難なくこなしている。チャニング・テイタム演じるマークが篭絡されて駄目になっていくあたりがとてもよかったと思う(ソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を思い出した)。それからヒゲ面でちょっと髪も薄いけれど、レスリングでも人間性でも誰にも負けないというデイヴは、いつもは色男を演じるマーク・ラファロが扮していて、内に秘める自信のようなものに説得力を感じた。

(*1) 実際にはジョン・デュポンは一度結婚しているとのこと。当時を知るマーク・シュルツ本人が事実と異なると批判しているのも、同性愛的な暗示に関してである。

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Date: 2015.02.20 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (8)

『リトル・フォレスト 冬・春』 神様に奉納するもののリスト

 原作は五十嵐大介の同名マンガ。『重力ピエロ』などの森淳一が監督。
 出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、桐島かれん。
 『リトル・フォレスト 夏・秋』の続き。構成は前作のときと同じ。いち子(橋本愛)のナレーションから始まり、小森(リトル・フォレスト)の美しい「冬と春」が描写される。今回もそれぞれの季節の食材を活かした料理が数多く登場する。

『リトル・フォレスト 冬・春』 主役の橋本愛はまたも出ずっぱり。フォトジェニック!

 今回は冬から始まるわけだが、冬には季節の食材というものも限られてくる。冬の寒さが重要となる凍み大根なんかも登場するけれど、あとは保存が効く食材をうまく活用している。じゃがいもがそのいい例で、保存用のじゃがいものためには雪がふる前に準備が必要になる。
 まず畑が雪解け水で水浸しにならないように農業用ビニールをかけておく。雪が融けたらビニールを裂いて種芋を植え、暖かくなって芽が出ても芽の数を調整したり(小さくなりすぎないように)して、ようやく一冬を越せるようなじゃがいものストックができる。冬を越すためには、その1年前の雪が降る前に準備をしておかなければならないのだ。
 田舎の生活では、冬のあとには春が来るし、その後再び冬が巡ってくること揺るぎはない。都会の会社勤めなら職場環境は変わるだろうし、1年後のことはよくわからないかもしれない。田舎では変らない生活がある。だから1年先のことを考えてじゃがいも作りに励むことができる。そこに居を構え生活していく者にとっては、季節はそれぞれ別の相貌を表すけれど、つながっていくものもあるわけで、田舎の生活は繰り返される季節のサイクルと密接に結びついている。
 母親・福子の手紙のなかには“円”だとか“螺旋”だとかいう言葉が記されていた。福子もいち子と同様に色々なことに失敗し、それでもまた同じことを失敗してみたりもし、結局同じところを“円”のように回っているようにも感じるけれど、実はそれは“螺旋”なんじゃないかと考えるのだ。かなり抽象的だが、これも季節が巡ることと似たようなものなのかもしれない。前作のときも書いたことだけれど、それぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりでもあるということだ。“円”のように同じところを回っているようでもあるけれど、“螺旋”ならば少しずつどこかへ向かっているわけで、そうやって季節のサイクルを繰り返すことで、時は流れていくということだ。

『リトル・フォレスト 冬・春』 手にしているのはじゃがいもパン。結局ふたりはそれぞれのレシピを持つことになる。

 「秋」篇の最後では、いち子の失踪した母親・福子(桐島かれん)からの手紙が届いた。「冬」篇と「春」篇ではそのあたりが掘り下げられるのかと推測していたが、ちょっと違ったようだ。結局、最後まで一皿ごとの料理の紹介というスタイルは崩さず、後日談はデザートということになっている。
 それでも心地いい場面ばかりだった『リトル・フォレスト 夏・秋』から比べると、『リトル・フォレスト 冬・春』は幾分いち子の内面にも踏み込んでいる。いち子は周囲の友人に「人と向き合っていない」とか「大事なことから逃げている」などと非難されることになるからだ。ただその具体的な対象が何かはよくわからない。誰と向き合っていないのか、大事なこととは何かという点になると曖昧なのだ。田舎を出て行った母親との関係があるのかもしれないけれど、はっきりと明示されるわけではない。
 だから「大事なことから逃げている」というのは、もしかしたらこの映画そのものとも言えるのかもしれない。いち子は突然村を去ることを決め、後日談として描かれる5年後に旦那と一緒に村に帰ってくる。いち子が自らの問題をどのように解決して、村で生きる決意をしたのかはまったく描かれないのだ。
 ただ「傷ついた人の再生」といったテーマは、なぜか日本映画にはありふれているわけで、むしろそういった食傷気味な部分はあえて避けているのかもしれない(だからとても口当たりがいい)。福子がパン・ア・ラ・ポム・ド・テール(じゃがいもパン)のレシピをいち子に教えようとしないのも、福子には福子のレシピがあり、いち子にはいち子のレシピがあるという信念であり、自分の問題には自分の解決法を見つけ出せという意味とも考えられるからだ。

 いち子の歩んだ道程は、ユウ太(三浦貴大)の跡を辿っている。ユウ太も一度村を出た上で、村で生きることを決意して戻ってくる。いち子は街の生活から逃げるように小森に戻っていた。この4部作で描かれる1年は傷ついたいち子の充電期間だったわけで、いち子は積極的な選択として村を選び直すために、「春」篇の最後で再び村を去らなければならない(田舎は都会で傷ついた人を癒す場所ではないということか)。
 いち子は5年の月日を経て小森に帰ってくるわけだが、決意を持って戻ってきた人にとって小森は神様から与えられた楽園のようなもの。だから最後には、いち子は神様に捧げる踊りである“神楽”を舞うことになる。そんなふうに考えると、季節ごとに見目麗しく提示され数え上げられていく料理も、神様に奉納するもののリストとしてあるようにも思えてきた。そんな意味では、田舎礼賛のための四季と料理のカタログのような映画で、それはとても心地いい感覚に溢れている。(*1)料理好きの人ならば、何かこの映画をヒントに何か作ってみたくなるだろうし、田舎暮らしに憧れを抱く人もいるだろうと思う。個人的には“ばっけみそ(ふきみそ)”がとても美味しそうだった。

(*1) 前作のときには単純な「田舎礼賛ではないかも」と推測していたのだが、ここでも予想は外れた。一応は「都会の人の癒しの場所ではない」とクギも刺しているわけだけれど。

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Date: 2015.02.15 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』 「映画が歌っている」とは?

 『月光の囁き』『害虫』『どろろ』などの映画監督・塩田明彦の映画美学校での講義をもとにした本。
 映画監督の映画論であるから、実作者の視点から映画が捉えられるわけで指摘はとても具体的。さらにこの講義の生徒たちは俳優志望であり、俳優の動かし方や演出のつけ方などに主眼をおいた構成になっているところがユニークなところ。(*1)講義は名作映画の一場面を観ながら、それについて解説するという形式で、この本にもそれらの連続写真が掲載されていて非常にわかりやすい。
 題名はトリュフォーがヒッチコックをインタビューした、あの『映画術』からとられている。

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか



第1回「動線」:『西鶴一代女』『乱れる』『裸のキッス』
第2回「顔」:『月光の囁き』『サイコ』『パリの灯は遠く』『顔のない眼』
第3回「視線と表情」:『散り行く花』『秋刀魚の味』『許されざる者』『曽根崎心中』『スリ』『少女ムシェット』
第4回「動き」:『工場の出口』『雪合戦』『ザ・ミッション 非情の掟』『座頭市物語』『大菩薩峠』『ドラゴン・イン 新龍門客棧』
第5回「古典ハリウッド映画」:『復讐は俺に任せろ』『ビッグ・ガン』『はなればなれに』『シェルブールの雨傘』
第6回「音楽」:『緋牡丹博徒 花札勝負』『男はつらいよ フーテンの寅』『曽根崎心中』『この子の七つのお祝いに』『遊び』
第7回「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」:『マジェスティック』『ミニー&モスコウィッツ』『こわれゆく女』『恋人たちは濡れた』『悶絶!! どんでん返し』


 この本を読むと、もしかすると作品そのものを観るよりも、その映画がわかった気になるかもしれない。塩田は実作者であって映画評論家ではないから、ときに「僕の感覚」だと言い訳してみたり、「こんな適当なことを話していいのか」などと逡巡してみたりするのだが、その思い込みのような部分にこそ鋭い指摘がなされている。講義をもとにしているから文章は平易で親しみやすいけれど、素人がただ漫然と映画を観ていただけでは気がつかないような発見がある。リストに挙げられている映画とともに繰り返し参照したくなる本になっていると思う。

 この講義で二度に渡って取り上げられている増村保造監督の『曽根崎心中』は、私も以前どこかの名画座あたりで観た。とにかく異様に高いテンションで引き込まれるようにして観たことは覚えている。(*2)
 『曽根崎心中』の台詞回しは、リアリティとはかけ離れている。登場人物の誰もが朗々としゃべるからだ。「曽根崎心中」は人形浄瑠璃をもとにしているわけで、浄瑠璃の節回しなどに影響されているのかもしれないが、塩田はそうした台詞で綴られる映画を「音楽」として論じている。サウンドトラックなど映画に使用される音楽について論じるのではなく、『曽根崎心中』という映画そのものに「音楽を感じる瞬間」があり、「映画が歌っている」という感覚があるということだ。

増村の『曽根崎心中』の特徴は、この独特のグルーヴ感です。ひたすら似たような台詞を反復していって、執拗に繰り返して繰り返して、独特のグルーヴ感を出していく。
    (略)
たとえば誰かが「お前を殺したい!」と言って、ぐっと溜めてから次の……ってことはやらなくて、「殺したい! 殺す! 殺したるでえ!」まで言わせる。そういう極端な芝居をさせるんです。(p.206)


 そうした繰り返しが何を生むのかと塩田は考え、「魔術的な次元」が開くと表現しているのだが、私が最初にこの映画を観たときに“異様なテンション”と感じたのも、このあたりにあるような気もする。
 それから『曽根崎心中』で主役を演じる梶芽衣子の目の演技に関しては、「視線と表情」(第3回)でも論じられている。ここではまず小津安二郎『秋刀魚の味』の岩下志麻の表情が分析される。小津は目の演技を嫌ったようで、小津映画の登場人物は能面のような表情になるわけだが、増村の『曽根崎心中』はその対極にある。

増村保造 『曽根崎心中』 梶芽衣子演じる主人公は虚空を見つめている。

 『曽根崎心中』の梶芽衣子は終始目を見開いている。何かを凝視しているというのではなく、最初から最後まで何も見ていない。塩田は梶芽衣子が見ているのは“死”そのものだと語る。確かに心中の場面では、ふたりは向き合って最期のときを迎えるのだが、互いにあさってのほうを向いて両親への想いを口にしたりする。相手を想うというよりも、もはや死んで極楽浄土へと生まれ変わることを見据えている。女の意地を貫き通し、死んであの世で夫婦になるのを望む、そんな「死にたくてしょうがない」稀有なヒロインということで、この映画の梶芽衣子が「異常に体温が高い」という指摘も頷ける。

 そのほかにも『乱れる』を題材に成瀬巳喜男の動線設計を論じる箇所や、『座頭市物語』における三隅研次の演出した動きについて、『復讐は俺に任せろ』でのフリッツ・ラングの今や失われたハリウッド映画の話法など、「なるほど」と納得させられることばかりだった。
 塩田明彦の監督作品はほとんど観ているのだが、去年の『抱きしめたい -真実の物語-』は障害を持つ女性の恋愛で泣かされる話ではあったのだが(一方で前向きでもあった)、いまひとつピンと来なかったというのが正直なところ。ただ、この本を読むと自分がいかに映画を観ていないかということも知らされるわけで、改めて『抱きしめたい』を観直してみれば、塩田監督の演出において新たな発見もあるかもしれない……。

(*1) 映画において最初に撮りたいものは面白い動き、面白い出来事ではあるけれど、最後に頼りにしてすがりつくのは俳優であるという告白もある。

(*2) 今回、久しぶりにDVDで観た。新宿TSUTAYAにはレンタルがあるが、回転率が高く何度か無駄足を踏むことになった。セルDVDはもう中古しかないようだ(しかも高価)。


曽根崎心中 【初DVD化】


塩田明彦の作品
Date: 2015.02.11 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

リドリー・スコット 『エクソダス:神と王』 奇跡という自然現象

 リドリー・スコット監督が描く「出エジプト記」。
 主役のモーゼ役にはクリスチャン・ベール。ラムセスにはジョエル・エドガートン。ほかにはジョン・タトゥーロベン・キングスレーシガニー・ウィーバーなども顔を出す。
 原題は「Exodus:Gods and Kings」。ユダヤ教は一神教だが、ここでの“神”が複数なのはエジプトの神との対決を意識してだろうか?

リドリー・スコット 『エクソダス:神と王』  有名なあのシーンは津波として表現される。

 題材は旧約聖書の「出エジプト記」だが、セシル・B・デミルの『十戒』(1956年)のリメイクが狙いだろう。『エクソダス:神と王』が元ネタ『十戒』と違っているのは、神が行った奇跡が自然現象として説明されていることだ。
 『十戒』でも描かれていた“十の奇跡”は、エジプト王・ラムセスに奴隷であるヘブライ人(ユダヤ人)たちの解放を迫るためのものだ。ヘブライ人の神は偉大だから、その気になればエジプトに災いをもたらすことができる。その証明のために、ナイル川を血に染め、カエルや虻やイナゴを大量発生させ、最後には子供の命までを奪う。しかもそれらの被害はヘブライ人には及ばず、エジプトの民だけが酷い目に遭うことになる。
 たとえば、ナイルが血で染まるのは、ワニが狂ったように動物を喰い散らかしたからと理由づけされ、カエルや虻の発生もそうした連鎖反応としてある。子供たちが突然死するところ以外は、ほとんど天変地異の一種とも言えるのだ。
 そして自然現象に人間ごときが手出しできないのと同じように、モーゼはほとんど何もしていない。神の奇跡が進行しているとき、モーゼはただ「見ていろ」と言われ傍観しているだけなのだ。紅海が割れるあの有名な場面は、『十戒』のモーゼは杖を差し出し自らの意志で奇跡を起こしたように見えるけれど、『エクソダス』では隕石(?)落下による津波として表現されている。
 モーゼは道案内をするくらいで積極的に何かをなしたように見えないのだ。唯一の例外は「十戒」の言葉を石板に彫りつけたことだという……。しかもモーゼ以外には神の姿は見えないため、傍目からは狂人の妄想が子供の姿をした神を生んでいるようにも映るのだ。つまり狂人の妄想をきっかけにした、あり得ないほどの偶然の連続がユダヤ人を解放へと導いたとも解釈できるのだ。もちろんそれはユダヤ教を貶める意図ではなくて、神話のように語られる奇跡的な出来事が、今を遡ること約3300年前に実際に生じた、現在と地続きのものとして描くためだろう。
 そんな『エクソダス』のスペクタクルシーンはさすがに技術的な進歩により格段にリアルなものがあった。ただ、そればっかりという印象も否めないわけで、モーゼやラムセスなど人間たちのドラマは霞んでしまい、端的に言えばいささか退屈だった。
 リドリー・スコットの前作『悪の法則』では、“死”という絶対に越えられない深淵を感じたが、この映画でも“神=自然現象”を前にした人間の存在はとてつもなく小さい。そんな感覚は、この『エクソダス』という作品が、自死した弟のトニー・スコットに捧げられているということとも関係しているのかもしれないなどとも勝手に思う。(*1)

(*1) エンディング・ロールの撮影・第二班には別のスコットの名前があった。ルーク・スコットというのがその名前で、リドリーの息子であるのだとか(確かな情報かどうかは不明だが)。


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Date: 2015.02.05 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『イロイロ ぬくもりの記憶』 シンガポールの家族事情について

 カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞したシンガポール映画。監督・脚本はアンソニー・チェン
 原題の「爸媽不在家」「父と母のいない家」を意味するとのこと。ちなみに題名の“イロイロ”とは地名で、アンソニー・チェンのメイドだった人の出身地。
 アン・リー監督はこの作品について「アート性の強い映画が多い中、誠実で正直な映像のあり方が突出している」と誉めている。
『イロイロ ぬくもりの記憶』 ジャールーはメイドのテレサと仲良しになる。

 学校で問題を起こしてばかりの一人息子ジャールー(コー・ジア・ルー)に手を焼いた両親は、住み込みのメイドを雇うことになる。フィリピンからやってきたテレサ(アンジェリ・バヤニ)は、子供部屋でジャールーと寝起きを共にすることになる。

 ジャールーは落ち着きがなくて、暴れん坊で手が掛かりそうだし、手懐けるのも難しそう。ジャールー自身もテレサの存在に戸惑い、最初は意地悪をしてみたりもする。それでもテレサは祖国に帰るわけにはいかずに踏みとどまり、ふたりはいつも一緒にいるうちに次第に打ち解けていくようになる。
 この『イロイロ ぬくもりの記憶』がよかったのは、ハートウォーミングな触れ合いだけで終わるのではなく、シンガポールという国の家族が時代に翻弄されるあたりを描いているからだ。シンガポールは多民族国家で、この映画でも中国系の家族のなかに、フィリピンからメイドがやってくるところからスタートする。シンガポールでは共働きの家庭が多いらしく、メイドを雇う家庭もめずらしくはないのだとか。
 一方、メイドのテレサは、フィリピンにまだ1歳にもならない子供を残して出稼ぎに来ている。そして仕事が休める日曜日には、街に出てこっそりバイトをして金を稼がなければならない事情もあるらしい。それでもシンガポールで働くほうが金にはなるようで、シンガポールには出稼ぎのフィリピン人が多いようだ。そんなほとんど知らなかったシンガポールのお国事情も垣間見える。

『イロイロ ぬくもりの記憶』 母親役はヤオ・ヤンヤン。どのキャラクターも味がある。

 中盤にテレサがたまたま飛び降り自殺を目撃する場面がある(ここでのテレサの腕にはリストカットの跡があったようにも見える)。その理由は説明されないけれど、時代背景としては1997年のアジア通貨危機がある。この映画の後半は、そうした経済的な背景からジャールーの家族がゆっくりと崩壊していく過程が描かれていく。
 父親(チェン・ティエンウェン)は株に手を出して大損し、それまでの営業職もクビになり、バイトで警備員をしている。しかもそれを誰にも言うことができずに隠している。母親(ヤオ・ヤンヤン)の勤務する会社ではリストラが横行し、出稼ぎ労働者たちはどんどん切り捨てられていく。そんななかで二人目の子供を身ごもっている彼女は、将来に対する不安からか、自己啓発めいた詐欺にひっかかることになる(「希望はあなたのなかにある」というのが口説き文句)。結局、どちらもそれぞれに失敗して、経済的に破綻してしまい、メイドを雇う余裕はなくなることになる。
 おもしろいのはジャールーの趣味が、ロトくじの当選番号を記録することだということ(当選番号の規則性を見つけ出して、一度はくじを当てもする)。ジャールーは最後にロトくじに一発逆転の願いをかける。当たればメイドのテレサと別れずに済むからだ。しかし漫画『カイジ』シリーズでも散々説かれていたことだけれど、“運否天賦”に賭けるときは必ず負けることになるわけで、そんなところに願をかけてしまうのはほとんど破れかぶれであり、希望が社会のどこにも見当たらないということでもあるのだと思う。
 それでも最後には第二子も誕生したわけで、不思議にも家族が経済的に破綻したという暗さはあまりなかった。それというのも、ふたりの母親がそれぞれの子供を自らの手で育てることができないという状況は解消されることになるからだ。ジャールーの母親は、ジャールーがテレサと仲良くなることに嫉妬を感じてもいたわけで、これからはジャールーとも新しい子供ともさらに向き合うことになるだろうとも思わせるのだ。

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Date: 2015.02.03 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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