『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』 そのうちカルト映画になる?
監督は『記憶の棘』のジョナサン・クレイザー。
主演のスカーレット・ヨハンソンのヌードでちょっとは話題となった作品。目当てがそれだとちょっと肩透かしかもしれないのだけれど、独創的な映像表現を持った作品となっている。

主人公の女(スカーレット・ヨハンソン)は、車に乗って男に声をかける。女は自らを餌とすることで、男を引き寄せるハンターだ。会話のなかで素性を探り、失踪しても気付かれないような孤独な男だけを選んで自らの家に連れ込む。そして、女は服を一枚ずつ脱いで男を誘うと、男はいつの間にか黒い沼のような世界へと引き込まれていく。
題材としては、先日取り上げた『ザ・ホスト 美しき侵略者』のようなボディ・スナッチものだ。主人公の女は、外見は魅力的だが中身はエイリアンである(作品中にその具体的な説明はないが)。
冒頭、抽象度の高い映像が続く。暗闇のなかに1点の光が誕生する。そこから生起する映像は宇宙の果てのようにも、生命体の内部のようにも見える。浮かび上がってくる人の瞳のようだから、エイリアンが人を乗っ取る場面なのかもしれない。
エイリアンが人間を拉致していく世界は、『マトリックス』のような仮想空間のようなものとして描かれている。女が街へと放たれる前の場面はすべてが白い世界だし、男を呼び込む場所はすべてが黒く塗りつぶされた世界だ。
監督のジョナサン・クレイザーの創りだした映像世界は、抽象的な空間を別世界に見立て、妖しい雰囲気を生み出している。加えて、エイリアンの言葉のようでもあり、太鼓と笛の能の音楽にも思える劇伴も、その世界観を引き出していて素晴らしい(音楽はミカ・レヴィ)。
※ 以下、ネタバレもあり。

『寄生獣』のパラサイトたちは、本能として「この種(人間)を食い殺せ」という指令を受けていたわけだが、『アンダー・ザ・スキン』の女はその容姿で男を捕えることを指令として受けている。その指令を出しているのがライダーたちで、ライダーたちの中身はエイリアンなのだろう。そうでなければ男たちばかりを捕える必要はないのだから。(*1)
この映画で独特なのは、ボディ・スナッチといっても『寄生獣』のように脳を占拠したり、『ザ・ホスト』のように人格の主導権を奪うといったものではなく、エイリアンが人間の皮だけを欲しているということだろうか。エイリアンは捕えた男を黒い沼に沈め、ふやかした上で中身をすべて抜き取る。そしてその皮のなかに別の“何者か”が入り込むことになる。
ジョナサン・クレイザーの前作『記憶の棘』
では、ある男の“生まれ変わり”と信じていた少年が登場する。彼は映画の後半で、その存在意義であるはずの“生まれ変わり”を疑うような事態に直面することになる。この『アンダー・ザ・スキン』でも、そうしたアイデンティティ・クライシスが描かれる。主人公の女は男を捕えるハンターとしての役割に疑問を抱いたのかもしれないし、自分に与えられた女という役割に興味を抱いたのかもしれない。
そのきっかけは曖昧だが、崩れた顔を持つ男に出会ったことが影響しているのだろう。その男は世間から隠れるように生きているが、他の男にはない純粋なものを持っている。崩れた顔を一皮剥けば、中身は美しい何かがあるのかもしれないのだ。
女は何度も鏡で自分の目の中を覗き込む。そこには鏡に映ったものとは別の“何者か”がいるからであり、その意味で彼女は人間の皮のなかに囚われている。蝿がガラス戸に阻まれて外界から隔てられていたように、彼女も囚われの身なのだ。
その題名にも予告されていることだし、途中では皮を剥ぐシーンもあるにもかかわらず、エイリアンがその姿を現すところには驚かされた。また、スカーレット・ヨハンソンというエイリアンが誕生する白い空間、男たちが捕えられる黒い空間、そんな黒と白の使い方も絶妙だった。女の白い皮に潜む黒い“何者か”が姿を現し、白い雪景色を背景にそれは燃え尽きて黒い煙となる、そんなイメージのつながりも素晴らしかった。わけがわからない部分も含めて何度も観たくなるような要因を備えているし、そのうちカルトな人気を獲得しそうな作品だと思う。
(*1) 映画のあとに同名の原作本を読んだのだが、映画は原作のアイディアを借りただけとも言えるくらい改変がなされている。原作はもっと具体的な描写があるが、それを忠実に再現すると陳腐になるはずで、映像作品に適した改変だったと思う。




主演のスカーレット・ヨハンソンのヌードでちょっとは話題となった作品。目当てがそれだとちょっと肩透かしかもしれないのだけれど、独創的な映像表現を持った作品となっている。

主人公の女(スカーレット・ヨハンソン)は、車に乗って男に声をかける。女は自らを餌とすることで、男を引き寄せるハンターだ。会話のなかで素性を探り、失踪しても気付かれないような孤独な男だけを選んで自らの家に連れ込む。そして、女は服を一枚ずつ脱いで男を誘うと、男はいつの間にか黒い沼のような世界へと引き込まれていく。
題材としては、先日取り上げた『ザ・ホスト 美しき侵略者』のようなボディ・スナッチものだ。主人公の女は、外見は魅力的だが中身はエイリアンである(作品中にその具体的な説明はないが)。
冒頭、抽象度の高い映像が続く。暗闇のなかに1点の光が誕生する。そこから生起する映像は宇宙の果てのようにも、生命体の内部のようにも見える。浮かび上がってくる人の瞳のようだから、エイリアンが人を乗っ取る場面なのかもしれない。
エイリアンが人間を拉致していく世界は、『マトリックス』のような仮想空間のようなものとして描かれている。女が街へと放たれる前の場面はすべてが白い世界だし、男を呼び込む場所はすべてが黒く塗りつぶされた世界だ。
監督のジョナサン・クレイザーの創りだした映像世界は、抽象的な空間を別世界に見立て、妖しい雰囲気を生み出している。加えて、エイリアンの言葉のようでもあり、太鼓と笛の能の音楽にも思える劇伴も、その世界観を引き出していて素晴らしい(音楽はミカ・レヴィ)。
※ 以下、ネタバレもあり。

『寄生獣』のパラサイトたちは、本能として「この種(人間)を食い殺せ」という指令を受けていたわけだが、『アンダー・ザ・スキン』の女はその容姿で男を捕えることを指令として受けている。その指令を出しているのがライダーたちで、ライダーたちの中身はエイリアンなのだろう。そうでなければ男たちばかりを捕える必要はないのだから。(*1)
この映画で独特なのは、ボディ・スナッチといっても『寄生獣』のように脳を占拠したり、『ザ・ホスト』のように人格の主導権を奪うといったものではなく、エイリアンが人間の皮だけを欲しているということだろうか。エイリアンは捕えた男を黒い沼に沈め、ふやかした上で中身をすべて抜き取る。そしてその皮のなかに別の“何者か”が入り込むことになる。
ジョナサン・クレイザーの前作『記憶の棘』

そのきっかけは曖昧だが、崩れた顔を持つ男に出会ったことが影響しているのだろう。その男は世間から隠れるように生きているが、他の男にはない純粋なものを持っている。崩れた顔を一皮剥けば、中身は美しい何かがあるのかもしれないのだ。
女は何度も鏡で自分の目の中を覗き込む。そこには鏡に映ったものとは別の“何者か”がいるからであり、その意味で彼女は人間の皮のなかに囚われている。蝿がガラス戸に阻まれて外界から隔てられていたように、彼女も囚われの身なのだ。
その題名にも予告されていることだし、途中では皮を剥ぐシーンもあるにもかかわらず、エイリアンがその姿を現すところには驚かされた。また、スカーレット・ヨハンソンというエイリアンが誕生する白い空間、男たちが捕えられる黒い空間、そんな黒と白の使い方も絶妙だった。女の白い皮に潜む黒い“何者か”が姿を現し、白い雪景色を背景にそれは燃え尽きて黒い煙となる、そんなイメージのつながりも素晴らしかった。わけがわからない部分も含めて何度も観たくなるような要因を備えているし、そのうちカルトな人気を獲得しそうな作品だと思う。
(*1) 映画のあとに同名の原作本を読んだのだが、映画は原作のアイディアを借りただけとも言えるくらい改変がなされている。原作はもっと具体的な描写があるが、それを忠実に再現すると陳腐になるはずで、映像作品に適した改変だったと思う。
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