『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』 そのうちカルト映画になる?

 監督は『記憶の棘』のジョナサン・クレイザー
 主演のスカーレット・ヨハンソンのヌードでちょっとは話題となった作品。目当てがそれだとちょっと肩透かしかもしれないのだけれど、独創的な映像表現を持った作品となっている。

ジョナサン・クレイザー 『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』 主演のスカーレット・ヨハンソン。ほとんどひとり舞台だった。


 主人公の女(スカーレット・ヨハンソン)は、車に乗って男に声をかける。女は自らを餌とすることで、男を引き寄せるハンターだ。会話のなかで素性を探り、失踪しても気付かれないような孤独な男だけを選んで自らの家に連れ込む。そして、女は服を一枚ずつ脱いで男を誘うと、男はいつの間にか黒い沼のような世界へと引き込まれていく。

 題材としては、先日取り上げた『ザ・ホスト 美しき侵略者』のようなボディ・スナッチものだ。主人公の女は、外見は魅力的だが中身はエイリアンである(作品中にその具体的な説明はないが)。
 冒頭、抽象度の高い映像が続く。暗闇のなかに1点の光が誕生する。そこから生起する映像は宇宙の果てのようにも、生命体の内部のようにも見える。浮かび上がってくる人の瞳のようだから、エイリアンが人を乗っ取る場面なのかもしれない。
 エイリアンが人間を拉致していく世界は、『マトリックス』のような仮想空間のようなものとして描かれている。女が街へと放たれる前の場面はすべてが白い世界だし、男を呼び込む場所はすべてが黒く塗りつぶされた世界だ。
 監督のジョナサン・クレイザーの創りだした映像世界は、抽象的な空間を別世界に見立て、妖しい雰囲気を生み出している。加えて、エイリアンの言葉のようでもあり、太鼓と笛の能の音楽にも思える劇伴も、その世界観を引き出していて素晴らしい(音楽はミカ・レヴィ)。

 ※ 以下、ネタバレもあり。


『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』 スカーレット・ヨハンソンは男を誘い、黒い空間に呼び込む。

 『寄生獣』のパラサイトたちは、本能として「この種(人間)を食い殺せ」という指令を受けていたわけだが、『アンダー・ザ・スキン』の女はその容姿で男を捕えることを指令として受けている。その指令を出しているのがライダーたちで、ライダーたちの中身はエイリアンなのだろう。そうでなければ男たちばかりを捕える必要はないのだから。(*1)
 この映画で独特なのは、ボディ・スナッチといっても『寄生獣』のように脳を占拠したり、『ザ・ホスト』のように人格の主導権を奪うといったものではなく、エイリアンが人間の皮だけを欲しているということだろうか。エイリアンは捕えた男を黒い沼に沈め、ふやかした上で中身をすべて抜き取る。そしてその皮のなかに別の“何者か”が入り込むことになる。

 ジョナサン・クレイザーの前作『記憶の棘』では、ある男の“生まれ変わり”と信じていた少年が登場する。彼は映画の後半で、その存在意義であるはずの“生まれ変わり”を疑うような事態に直面することになる。この『アンダー・ザ・スキン』でも、そうしたアイデンティティ・クライシスが描かれる。主人公の女は男を捕えるハンターとしての役割に疑問を抱いたのかもしれないし、自分に与えられた女という役割に興味を抱いたのかもしれない。
 そのきっかけは曖昧だが、崩れた顔を持つ男に出会ったことが影響しているのだろう。その男は世間から隠れるように生きているが、他の男にはない純粋なものを持っている。崩れた顔を一皮剥けば、中身は美しい何かがあるのかもしれないのだ。
 女は何度も鏡で自分の目の中を覗き込む。そこには鏡に映ったものとは別の“何者か”がいるからであり、その意味で彼女は人間の皮のなかに囚われている。蝿がガラス戸に阻まれて外界から隔てられていたように、彼女も囚われの身なのだ。

 その題名にも予告されていることだし、途中では皮を剥ぐシーンもあるにもかかわらず、エイリアンがその姿を現すところには驚かされた。また、スカーレット・ヨハンソンというエイリアンが誕生する白い空間、男たちが捕えられる黒い空間、そんな黒と白の使い方も絶妙だった。女の白い皮に潜む黒い“何者か”が姿を現し、白い雪景色を背景にそれは燃え尽きて黒い煙となる、そんなイメージのつながりも素晴らしかった。わけがわからない部分も含めて何度も観たくなるような要因を備えているし、そのうちカルトな人気を獲得しそうな作品だと思う。

(*1) 映画のあとに同名の原作本を読んだのだが、映画は原作のアイディアを借りただけとも言えるくらい改変がなされている。原作はもっと具体的な描写があるが、それを忠実に再現すると陳腐になるはずで、映像作品に適した改変だったと思う。

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Date: 2014.12.29 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)

安藤サクラ主演 『百円の恋』 「一生懸命って素晴らしい」なんて……

 監督には『イン・ザ・ヒーロー』の武正晴。主役には『0.5ミリ』も公開中の安藤サクラ
 脚本は足立紳で、2012年に新設された第一回「松田優作賞」という脚本賞を受賞しているとのこと。

武正晴監督作品 『百円の恋』 主役の一子を演じる安藤サクラ。

 主人公の一子(安藤サクラ)を中心に、登場人物は負け組ばかりである。弁当屋を切り盛りする母親はともかく、影の薄い父親は仕事もせずに、いまだに「自分に自信がない」などと言ってみたりもする。一子がひとり暮らしのために始めた100円ショップの面々もことごとく負け組だ(脇役キャラがいい味を出している)。文句を垂れつつ何とか底辺に踏み留まるアルバイトたちはもちろんのこと、廃棄弁当を漁る浮浪者までもいる(浮浪者のほうがかえってイキイキしているのがおかしい)。
 そのなかでも一子のダメっぷりは際立っているかもしれない。格闘ゲームをやりながらのコーラとお菓子という生活で身体はダレきっているし、出戻りの姉には嫌味を言いつつも、自らは男性と付き合った経験もない三十路女である。一子は自分でもその価値が100円程度の女だとわかっている。だからこの映画で恋のようなものが描かれたとしても100円程度の価値しかない。貧しくてもつつましい恋というのならいいのだが、この映画の恋はひどくみすぼらしい。『百円の恋』はそんな一子が、恋ではなくボクシングによって、いかに変わっていくかというスポ根ものの映画なのだ。

 一子がボクシングに惹かれたのは、何かに一生懸命打ち込んでいる姿に羨望を覚えたから。三十路を過ぎて家を追い出されたダメ女としては、自分の境遇がどうしようもないということくらいはわかっていたのだ。
 同じころ引退間近だったボクサー・狩野(新井浩文)のデートの誘いを受け入れたのも、ダメな自分を変えたいという気持ちもあったのだろう。それは恋にはほど遠いものだったけれど、一子はボクシングをやることで変っていく。

『百円の恋』 一子はボクシングで贅肉を削ぎ落とすことで、自身もどこか変っていく。

 一子と狩野の関係はロマンスにはほど遠い。一子の羨望の対象でもあったはずの狩野は、一子のボクシングへの情熱を挫くようなことを言う。狩野は総じて斜に構えた態度で、一生懸命やっている者を否定する。どちらも負け組なのだけれど、そのダメさには違いもある。狩野はやってみた上で限界を知り、諦念に囚われているわけだが、一子は何もやらずに負け組だと自己認識していたわけだ。ただ、一子はまだスタートラインに立ったばかりで可能性はある。
 諦め切った狩野でも試合での一子の姿には感じるものがあったのだろうと思う。自分がボクシングに純粋に取り組んでいた時代を思い出したのかもしれない。狩野は一子の元に戻ってきたわけで、一子の姿に感化され、一生懸命に打ち込むことも悪くはないと考え直したのかもしれない(最後の場面はつつましくて微笑ましい)。そんなわけで、この映画は負け組のための応援歌なのだ。もしかしたらふたりの今後には、多少はマシなロマンスがあるかもしれない。そんなことも思わせる。

 一子を演じた安藤サクラの変貌ぶりが見所だ。あんなダメっぷりを見事に体現する女優はいない。それだけでも賞賛に値するが、試合のシーンでの身体の絞り方は別人のようだった(目は完全にイッている)。前半はダメなシーンがグダグダと続く。しかし、トレーニングを始め、贅肉が次第に削ぎ落とされ、ステップが軽やかになるに連れて、映画の調子も上がっていく。最後は狩野でなくても、一子を応援したくなるだろう。試合でのKOシーンは『ロッキー2』のダブルノックダウンのようにも見え、トレーニングシーンの高揚感も『ロッキー』シリーズを思わせた。
 脚本にそれほど奇抜な展開があるわけではない。それだけに一子の変貌していく様子をどのように見せるかが重要になるわけで、安藤サクラはそれをものの見事にやってみせた。「一生懸命って素晴らしい」というあまりに素朴すぎるテーマに説得力を持たせるのは至難の業だが、『百円の恋』は安藤サクラという魂が込められたことで、それに成功していると思う。

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安藤サクラの作品
Date: 2014.12.24 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (6)

キム・ギドクの最新作『ONE ON ONE(原題)』の予告編など

 今さらだが東京フィルメックスという映画祭で、キム・ギドクの新作『ONE ON ONE(原題)』が上映されていたとのこと(のちに『殺されたミンジュ』と改題)。実はこの映画の予告編もすでに公開されていたようだ。情報収集能力に長けているわけではないので、あとになって知ることも多い。ぜひとも観たかったのに残念……。



 この予告編を観ると、『俳優は俳優だ』でヤクザのエピソードが余計なものにも関わらず、結構なボリュームだったのも頷ける。というのも『ONE ON ONE』で重要な役どころを担っていると思われる人物が、『俳優は俳優だ』でヤクザを演じているマ・ドンソクだからだ。ちょっとプロレスラー川田利明を思わせる悪党面はいい味を出していたから、新作『ONE ON ONE』の予告という意味でも、物語の展開を度外視して残しておきたかったキャラクターだったのだろうか。

 先日『メビウス』の2度目を観てきた。サービスデーだったにも関わらず、客席は結構空いていた。題材が題材だけに客足が伸びる要素に欠けているのかもしれない。インタビューでは「みなさんが囚われていることは、すべて観念でしかないんですよと伝えたくて」と語っているのだが、作品自体も観念ばかりで出来上がっている印象を受けた。
 1度目はその荒唐無稽な展開に圧倒されたのだけれど、セリフもない音楽もないというなかでは情感に欠け、その脚本の観念的な骨組みばかりが目立ってしまったように、今回は感じられた。
 『メビウス』はたった6日の撮影だったとのこと。撮影にもっと時間をかけられるような環境が整えばいいのだが、興行収入が悪ければそれもなかなか難しいのだろう。以前はもっと時間をかけて撮っていたわけで、ヴェネツィアの金獅子賞を獲得したにも関わらずそんな状況なのは不思議な気もするが、それだけ観客におもねることのない姿勢を貫いているということなのだろうとも思う。
Date: 2014.12.21 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

『インターステラー』 スペオペか? 本格的SFか?

 クリストファー・ノーラン監督の最新作。
 主演はマシュー・マコノヒー。共演にはアン・ハサウェイ、ジェシカ・チャステイン、マット・デイモン、マイケル・ケイン、ジョン・リスゴー、ケイシー・アフレックなどと豪華である。

クリストファー・ノーラン 『インターステラー』 169分という長尺だが魅せられた。

 3時間近い上映時間だが、それだけの分量でも足りないくらいのものを盛り込んでいる。
 この映画を勝手に3つに分ければ次のようになるかもしれない。第1章「地球滅亡と部屋の幽霊」、第2章「惑星探査」、第3章「その先へ」。“インターステラー”とは、星と星との間の移動のことらしい。この映画では地球という星を捨てて、別の星を探すことがテーマとなっている。

 舞台は地球が砂嵐に覆われた近未来。かつてはNASAでパイロットをしていたクーパー(マシュー・マコノヒー)だが、地球そのものの危機でNASAは廃止され、今は農業をしている。食糧不足で誰もがかつての仕事をあきらめ、日々のサバイバルに励んでいるのだ。
 そんなクーパーの娘マーフ(マッケンジー・フォイジェシカ・チャステイン)の部屋では、本棚から本が突然落ちるという奇妙な現象が生じている。マーフはそれを幽霊の仕業だとするが、クーパーはそれが何かの座標を示すこと突き止め、その場所へ赴くと、すでに解体されたはずのNASAが活動していた。クーパーは“何か”に導かれてそこにやってきたのだ。そして地球に滅亡が近いことを知り、人類存続のため宇宙へ飛立つことを決意する。

 ※ 以下、ネタバレも。

『インターステラー』 クーパーとマーフの親子。演じるのはマシュー・マコノヒーとマッケンジー・フォイ(子役)。

 惑星探査を題材にしていてもノーランのリアリティの追求は徹底していて、第2章の水の惑星や氷の惑星をCGに頼らずアイスランドで撮影したらしく、荒涼とした風景は別の惑星らしい雰囲気を醸し出していてよかったと思う。
 ただそのあとの展開は結構な飛躍を見せる。柳下毅一郎は雑誌『映画秘宝』で、ノーランは自分のやっていることを理解しておらず、『インターステラー』はスペースオペラなのに、それを本格的SFと勘違いしているといった旨を記している。
 たしかに本格的SFというには危なっかしい部分を含んでいると思う。ノーランの『ダークナイト』3部作では、漫画の世界をリアルな描写で描いていたわけだが、この『インターステラー』は『2001年宇宙の旅』のような本格的SFを目指している部分もあるけれど、時空を超えた冒険という漫画チックな部分もあるからだ。
 『インターステラー』は『2001年宇宙の旅』からの影響が大きい。『2001年宇宙の旅』は、ごく簡単にまとめれば「人類の進化」ということになる。その章立ては3つに分れていて、「人類の夜明け」⇒「木星使節」⇒「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」となっている(ウィキペディアから)。『インターステラー』の構成も、これに倣っているのだろう。ただキューブリックは説明するとチャチになると判断した部分は詩的な映像として見せているわけで、『インターステラー』はその危なっかしい領域にまで踏み込んで具体的に描いているのだ。

 最後にクーパーはブラックホールの内部へと入り込み、そこで“何か”に導かれて5次元空間へと辿り着く(ボルヘス「バベルの図書館」のイメージ)。この場所はなぜかマーフの部屋の本棚へとつながっている。そこへ導いた“何か”とは、未来における進化した人類たちだ。“彼ら”は人類の進化につながるであろう“インターステラー”を可能にするために、ワームホールを創って人類に介入してくるのだ(『2001年宇宙の旅』のモノリスと役割は同じだがより直接的)。
 クーパーはその空間からマーフに対してメッセージを発信する。つまり最初にマーフの部屋に登場した幽霊とはクーパーのことだったのだ。このあたりの伏線の回収はシャマラン的なものを感じるし、クーパーとマーフという親子が地球滅亡と向き合うというのは、セカイ系の匂いも感じられる。物理学者などのお墨付きを得ているのかもしれないけれど、荒唐無稽すれすれとも感じられなくもないわけで、そういった意味で柳下毅一郎の批判も頷ける部分もある。

 また、私は『インターステラー』が“親子愛”を描いた映画だと知って、勝手に憂慮していたことがあった。“親子愛”のようなテーマは、ノーランの苦手分野のような気がしていたのだ。蓮實重彦『ダークナイト ライジング』の際に、「そもそも、パーティーで二人がダンスをするシーンにモーリス・ラヴェルを流すような監督に、多くを期待するのが間違いなのかもしれない。」と記していた。そっち方面に疎いので、“モーリス・ラヴェル”の名前がどういう意味で担ぎ出されているのかわからないけれど、『ライジング』のダンスシーンが寒々しいものであったことは確かだと思う。この時点ではまだ腹の探り合いだったにせよ、最後は結びつくことになるふたりのシーンなのに、艶めいた部分がまったくないのだ。
 私はこのブログで『ダークナイト ライジング』について書いたとき、キャットウーマンを演じたアン・ハサウェイ(『インターステラー』ではアメリア役)に関しては遠慮して何も触れなかった。バットマンとキャットウーマンの場面、特にそれが恋愛めいたものに発展する部分がいい出来とは思えなかったからだ(もうひとりの女性キャラの恋愛に関しては貶した)。だからノーランが描く“親子愛”というのが気になっていたのだ。

 しかし結論を言えば、圧倒され、魅せられた。ここまで批判めいたことばかり取り上げたけれど、それにも関わらずよかったのだ。なぜよかったのかはいまひとつわからないのだけれど……。未来の人類が介入してくるという際どい展開と、さらにそれによって宇宙の果てと地球で親子が結びつき、人類の滅亡を救ってしまうという力技に何だかわからないながらも泣かされたのだ。
 もともとこの企画はスピルバーグが関わっていたものらしいが、そこに親と子の愛を付け加えたのは、スピルバーグではなくノーランだったようだ。そもそもノーランにとってはスペオペも本格的SFも関係なく、家族の物語をやりたかっただけなのかもしれない。そして、それは悪くなかったと思う。
 ただ、最後にクーパーとアメリアが結びつくというのは余計かとも思えた。生き残った世代という意味では結びつく必然性もあるのかもしれないけれど、やっぱりノーランは恋愛に関してはよしておいたほうがいいような……。

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クリストファー・ノーラン作品
Date: 2014.12.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (12)

『ゴーン・ガール』 げに恐ろしきは女なり?

 『セブン』『ドラゴン・タトゥーの女』などのデヴィッド・フィンチャー監督の最新作。
 原作はギリアン・フリンが書いた同名のベストセラー小説で、ギリアン・フリンは脚本も担当している。

デヴィッド・フィンチャー 『ゴーン・ガール』 ニックは失踪したエイミー捜索の協力を訴える。


 5年目の結婚記念日。美しく完璧な妻エイミー(ロザムンド・パイク)は突然姿を消す。自宅リビングには争ったような形跡があり、夫ニック(ベン・アフレック)が警察へ通報すると、警察はすぐに事件として扱うことを決定する。エイミーにいったい何が起きたのか?

 「何を考えてる? どう感じてる?」、冒頭で妻のエイミーにそんなふうに問いかけるニック。これらは結婚生活に必要とされる互いに対する気遣いだが、映画が終わってみるとこの場面に対する観客の感じ方はまったく違ったものとなるだろう。

 失踪事件の当事者としてメディアに登場し世間の協力を訴えたニックは、世間の同情を集め話題の人物となる。しかしすぐに状況は変化する。警察が捜査を進めるとリビングには大量の血を拭き取った痕跡が見つかり、ニックはなぜか警察に秘密にしていることがあることも判明する。一向にエイミーの足取りのつかめない事態に、メディアはニックをエイミー殺害の犯人として疑い始める。

 フィンチャーの演出はやはり手堅い。約2時間半、緊張感を持続し観客を引っ張っていく。『ドラゴン・タトゥーの女』のときにも感じたのだが、派手さはないけれど職人的だと思う。雑誌『キネマ旬報』では、ニックを演じたベン・アフレック(アカデミー作品賞『アルゴ』の監督でもある)がインタビューでこんなことを言っている。

 監督というのは大きく2つのタイプに分かれる。専門的な技術にこだわる、ミュージック・ビデオやコマーシャルの世界から来た人。もうひとつは、役者や脚本家を尊重する人。通常、どちらかに偏るものだけど、デイヴィッドはこれまで会った監督の中で唯一、両方の特徴を持ち合わせた人だった。つまりエンジニアであり、アーティスト。


 フィンチャーはミュージック・ビデオからスタートした監督だが、最近の作品は脚本を尊重して、物語をどう伝えるかに重きが置かれている。この『ゴーン・ガール』も、二転三転する物語にぐいぐい引き込まれる。
 エイミーを演じたロザムンド・パイクはセレブな妻やDV被害者など様々な表情を見せる。一種の“ファム・ファタール”だが、型にはまったそれではなくて場面ごとに別人のように変わってみせるのだ。ロザムンド・パイクにとってこの作品は、決定的な1本になったことは間違いないだろう。

 ※ 以下、ネタバレあり。まだ作品を観ていない方はご注意を!

『ゴーン・ガール』 冒頭の場面。これは最後の場面でもある。ロザムンド・パイクは強烈な印象を残した。

 ※ 以下、ネタバレ危険!!

 ここまで書いたあらすじは全体の約3分の1くらいまで。ここからさらに何度もひねった展開をしていく。まずエイミーは殺されてなどいない。失踪事件は彼女の自作自演だったのだ。一方でニックのダメ男ぶりや、浮気まで明らかになる。5年間の結婚生活のあれこれが火種となって、エイミーはニックを殺人者に仕立て上げる。その用意周到さは男を震え上がらせるだろう。
 エイミーは偽りの殺人現場を作り、自分は姿を消す。髪を切り、色を染めて、眼鏡を付け別人になりすまし、遠くからメディアを通じて事件の様子を確認する。そして計画では自殺することで、その死をニックのせいにし、ニックの犯罪を立証しようとする。
 ここでアクシデントが起きる。隠れ家にしていた別荘で、隣人に身に着けていた大金をまるごと奪われてしまうのだ。計画は変更を余儀なくされる。エイミーはかつての彼氏で、ストーカーもされていたデジー(ニール・パトリック・ハリス)に助けを求める。金持ちで粘着質なデジーは今でもエイミーのことを愛しており、それにつけこんだのだ。彼の防犯カメラ完備の別荘で、その装置を逆手にとって今度はデジーを監禁レイプ魔に仕立て上げる。そして『氷の微笑』シャロン・ストーン的な一撃で男を抹殺し、その返り血を浴びたままニックの元へと向かい、再会の様子をメディアの前で見せ付けることになる。

 エイミーは虚像の“アメイジング・エイミー”という存在と、実像のエイミーの齟齬を感じている(『アメイジング・エイミー』とは彼女の両親が書いた児童文学)。エイミーは虚像のキャラ・エイミーが作品のなかで結婚することになったとき、その虚像を“くそエイミー”呼ばわりしている。しかし、その虚像の結婚パーティーのなかで、実際のエイミーもニックにプロポーズされる。
 エイミーは“アメイジング・エイミー”という完璧な女性になることを求められているわけだが、その相方であるニックは、そんなエイミーを幸せにさせる優しい男を演じることを求められる。だからニックは舞台設定に合うようなプロポーズをしてみせるわけだ。
 こうした場面はほかにもあって、ニックが“失踪した妻を待つ夫”をメディアで演じていたとき、エイミーはテレビ画面に向かって「笑え」とつぶやくと、画面に映し出されたニックは実際に笑ってみせる。また、ふたりで出直しを図るという虚像を演じる場面では、エイミーは耳元でニックに台詞を示してもいる。これはニックがエイミーに操作されているというのではなく、エイミーもニックも世間から見たあるべき夫婦の姿に忠実だということだ。ただ完璧なエイミーはそうした虚像を演じることに長けているのだ。

 家に戻ったエイミーだが、彼女の実像にどんな後ろ暗いものがあるかはニックが一番よくわかっているし、エイミー自身もそれを隠そうとしない。そうした負の部分も含めた共犯関係が夫婦というものなのかもしれない。メディアの目から解放された自宅という閉ざされた空間で、今後どんな夫婦間の闘いがあるのかはわからないけれど、玄関の扉が閉まってふたりきりになる瞬間があんな恐ろしいこともないだろうと思う。
 ただ、ニックが囚われているのは、“監禁状態から戻った妻を守る優しい夫”という虚像に縛られているからだ。もしも離婚したならば、メディアは浮気男が守るべき妻を捨てたとして、世間の目の敵にされるだろう。だが、そんなことを気にしないKYならば、さっさと逃げるかもしれない。それでもエイミーなら追ってくるかもしれないけれど……。だからこれは結婚という世間が認める制度から逃れられないということでもあるのだろう。げに恐ろしきは女か、それとも世間の目か

 『ゴーン・ガール』はとても怖い映画なのだけれど、ダークなユーモアも散りばめられている(アメリカの劇場では爆笑が起きているのだとか)。エイミーは逃亡先の別荘地で無表情のままチャップリンみたいな真似をする(空中で踵を鳴らすというアレ)。夫を懲らしめるのが嬉しくてたまらないのだ(浮かれすぎて金を奪われるのだが)。
 最後に囚われの状況に陥るニックも、殺人犯との結婚生活という特殊性を除けば、“妻の尻に敷かれる夫”というどこにでもありがちな構図なのだ。そのせいか弁護士は「危険は去った」として笑っている。

 ひとつ気になるのは、エイミーの本来の計画だ。エイミーは本当に自殺するつもりだったのか。そうとも思えない。あるいは失踪したまま大金とともにどこかへ姿を隠すつもりだったのか。死体が見つからない場合、計画は完璧なものにならない。そんなわけで、アクシデントのせいで余計に完璧な作戦となったようだ。夫は飼い馴らされ、逃げ場も封じられたのだから。

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Date: 2014.12.12 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (25)

『ザ・ホスト 美しき侵略者』 ままならないわたしの身体とわたしの恋

 原作は『トワイライト』シリーズを書いたステファニー・メイヤー
 監督は『ガタカ』『TIME/タイム』などのアンドリュー・ニコル
 主演には『ラブリーボーン』『ビザンチウム』『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』のシアーシャ・ローナン
 今年6月に劇場公開され、今月DVDが発売になった。

アンドリュー・ニコル 『ザ・ホスト 美しき侵略者』 主役はシアーシャ・ローナン。寄生されると目が光る。

 人に寄生する生き物ということで『寄生獣』を思わせなくもないが、『SF/ボディ・スナッチャー』などこれまでに4回も映画化されている『盗まれた街』のような宇宙からの侵略者ものである。
 光るアメンボのようなエイリアンの形状は、あの『ヒドゥン』とか『寄生獣』のパラサイト的な代物。そんな弱々しいエイリアンに今では9割方の人間が寄生され、人間とは違う何者かになっているという世界が舞台だ。彼らは“ソウル”と呼ばれる。見た目には目が光るくらいの差しかないが、その肉体に宿っていた元の魂はどこかへ押しやられてしまい、人はまるごと乗っ取られてしまう。
 “シーカー(捜索者)”と呼ばれる一部の“ソウル”たちは、わずかに残った人間を生け捕りにして仲間を増やしている。主人公のメラニーも“ソウル”たちに捕えられ寄生させられてしまう。(*1)しかし、メラニーの強靭な意志は、彼女の肉体を完全に明け渡すことはなかった。メラニーの身体に寄生したのはワンダラー(ワンダ)という名前の“ソウル”で、メラニーの身体のなかには元のメラニーの魂とワンダの魂のふたつが共存し、どちらがその身体のホスト(宿主)になるかの闘いが生じる。

『ザ・ホスト 美しき侵略者』  シーカーたちはなぜか白い服を着ている。

 解離性同一性障害(いわゆる多重人格)では、主人格(ホスト・パーソナリティ)は交代人格のことを知らない(逆に交代人格は主人格のことを知っていることが多いらしい)。交代人格と言うように、主人格を押しのけて別の人格が現れるのであって、それぞれの人格同士が会話をしたりはしない。
 この『ザ・ホスト』では、普段は奥に眠っているメラニーの人格が時折顔を出しては、主人格であるワンダと言い争いをするという奇妙な事態が生じる。『寄生獣』では右手を乗っ取られたシンイチが、自分の右手であるミギーと語り合うことになるが、この映画ではひとつの身体の内部でメラニーとワンダが喧々諤々とやりあうのだ。ポスターにも謳ってあるように「一つの身体に二つの魂」というのがミソだが、ふたつの魂のやりとりは“実際の発話”と“心のなかの言葉”のやりとりのようにも見える。主人公は落語家の語りみたいに一人二役を演じるわけで滑稽なのだけれど、製作陣としては結構大真面目なのがかえっておかしい。
 さらにはメラニーとワンダの間で男を巡っての争いまで生じる。『トワイライト』を書いた原作者が、この作品に恋愛を絡めてきたのは、「自分の愛する人が知らない間に別の何者かになっている」という切なさを狙ったものかもしれない。これは『盗まれた街』にもある主題だ。ただこの映画では視点が異なるから別の方向へと進む。
 メラニーとワンダはどちらが身体の主導権を握り、好きな男にその身をまかせるかで揉めるのだ。ワンダが好きな男はメラニーの想い人とは違うから、元の身体の持ち主であるメラニーは、自分の肉体を別の男に委ねられるのが許せないのだ。メラニーにとっては身体だけが勝手に浮気しているみたいなものなのだろう。だからワンダが男とキスしようと近づいた次の瞬間、メラニーがその男を突き飛ばすという喜劇を演じることにもなる。内部での葛藤があるのだが、単なる情緒不安定な女にも見えてしまうという何となく笑えてしまう映画である。

 “ソウル”たちは特別な能力を持つわけではない(だからエイリアンに襲われる恐怖感はあまりない)。彼らは意外に弱いし、人間との差違はほとんどない。ただ中身が異なるだけ。彼らは人間ほどの狂暴性はないらしく、“ソウル”たちの社会は平穏無事なものらしい。地球に人間がいなくなれば平和になるというのは『寄生獣』と似ている。
 “シーカー”たちは白いスーツに身を包み、メタリックな車を操り、清潔で管理された組織を形成している。アンドリュー・ニコルらしい世界観だし、そこから弾き出された者との争いという主題もこれまでにも見られたものだ。ただ作品の出来としては『TIME/タイム』よりもさらにB級感が漂い、『ガタカ』の完成度にはほど遠い。それほど独自性のある作品ではないけれど、DVDで観るくらいなら楽しめる作品だと思う。

(*1) “ソウル”たちは外科手術で人間の首の裏を切開してボディ・スナッチするわけだが、最初の“ソウル”はどうやってボディ・スナッチしたのだろうか? 

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Date: 2014.12.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『フューリー』 わたしをそんなところに遣わせないでください。

 ブラッド・ピットが製作総指揮と主演を務めた戦争映画。
 『ウォールフラワー』でうぶな高校生役を演じていたローガン・ラーマンが、今回も戦場で成長していくノーマンを演じている。
 監督には海兵隊出身だというデビッド・エアー(『エンド・オブ・ウォッチ』『サボタージュ』など)。

デビッド・エアー監督 『フューリー』 ブラッド・ピットが製作総指揮と主演も。


 1945年4月、第二次世界大戦。5月には降伏するドイツ軍との最後の激闘さなかにある米軍。“フューリー”と名づけられた戦車を自らの家と考える主人公ウォーダディー(ブラッド・ピット)のもとに、先の戦闘で死んだレッドの代わりに、新米兵士ノーマン(ローガン・ラーマン)が配置されてくる。

 戦争映画に詳しいわけではないからよくわからないけれど、戦車という存在は脇役でしかなかったような気もする(雑誌『映画秘宝』には「戦車映画」が特集されていたから、戦車が主役の映画もあるのだろう)。『プライベート・ライアン』では最後に印象的な使われ方をしていたものの、やはり脇役の扱いだった気がする。
 この『フューリー』は戦車がメインとなる戦いが描かれていて、戦車が堂々と主役を張っていると言ってもいいくらいだった。そのくらい戦車バトルは迫力があった。というのも、この映画では本物の戦車を使用しているらしく、ほかの映画とは一線を画しているのだ。
 特にドイツ軍のティーガー(タイガー)戦車というのは6輌しか現存していないそうで、しかも唯一走行可能なティーガー戦車を実際の撮影に使用している。町山智浩によれば、ティーガー戦車は米軍のシャーマン戦車が5台くらい束になって戦わないと敵わないくらい凄かったのだとか。
 この映画でも中盤の見せ場で、ティーガー戦車とシャーマン戦車との壮絶な戦いが描かれている。本当の戦場を知るわけでもないけれど、やっぱり迫力があってスクリーンにくぎ付けになった。私には到底現実の戦場は無理そうで、映画の世界で本当によかったと思う。最初のほうに出てきたオレンジと緑のレーザーみたいなのは、閃光弾と言うらしい。ちょっとSFチックだが、本物なのだろうか?

『フューリー』 本物の戦車。多分、これらは米軍のシャーマンという戦車だと思う。
 
 この映画はノーマンの成長物語としてもある。銃ではなくタイプを打つ訓練をしてきた若者が、次第に“マシン”と呼ばれる兵士となっていく姿を追っていく。第二次大戦のころは、訓練もせずに実地で戦争を学ぶというシステムでやっていたらしく、ノーマンは最初まったく役に立たない。そのせいで子供のように幼いドイツ兵からの銃弾を受け、仲間を失うことになる。
 ウォーダディーは「仕事をしろ」とノーマンを怒鳴りつけ、無理やりドイツ兵を殺させる通過儀礼を行う。そんな非人間的なことでもして、意識の変容をしないと普通の人が人殺しにはなれないということだろう。第二次大戦の米軍の発砲率は15~20%という話もあるようで、多くの兵士が敵を殺さないように狙いを外していたのだとか。
 ベトナム戦争時にはこうした経験があればこそ、『フルメタル・ジャケット』の前半部に描かれたように、訓練で殺人マシンを作り出すシステムが出来上がったのだろう。その甲斐があってか、ベトナム戦争時の発砲率は格段に上がったのだとか。

 『フューリー』という映画では、先ほどの“仕事”という言葉には、神から与えられた“天職”という意味が込められているかのように、兵士たちは神のことを話題にしている。ナチスが救われるか否かなんて話題も世間話として登場する。フューリーに乗る5人は、ドイツ兵を躊躇いなく殺す。しかし、それと同時に信心深い人間もなかにはいるのだ。
 とりわけシャイア・ラブーフ演じるバイブルというキャラはそのいい例だ。ほかの仲間が肉塊となっていくところを目の当たりにし、それでもなぜか生き残っていくという体験は、バイブルの信仰心をさらに強固なものにしている。神に選ばれ、神から遣わされていると考えるからだ。
 同じように生き残ってきたウォーダディーも、バイブルが諳んじた言葉をイザヤ書からのものだと理解するほど聖書に通じている。だから戦争という“天職”を与えられたからには、それが絶望的な仕事でも、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤ書の言葉通り、与えられた職場に踏みとどまることになるわけだ。
 とても感動的な場面ではあるけれど、あまりにヒロイックでちょっと鼻白む感もあった。冒頭ですでに死んでいたレッドは、顔のかけらが戦車内部にこびりつくというリアルさだったのに、ヒーローの死に様のきれいだったことといったらなかった。

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Date: 2014.12.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (14)
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