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ギドク脚本作 『俳優は俳優だ』 現実と虚構、さらには夢も

 キム・ギドク製作・脚本作品。監督はシン・ヨンシク
 主役のイ・ジュンはアイドルグループで活躍している人だとか(劇場窓口では彼のポストカードが配られた)。結構きわどいベッドシーンなどもあるし、狂気なのか演技なのかわからないあたりの雰囲気はよかったと思う。
 題名からもわかるように、ギドク脚本作品『映画は映画だ』の系統を狙った作品。

キム・ギドク製作・脚本作品 『俳優は俳優だ』 主役を演じるイ・ジュン。

 ギドク作品のなかでは『リアル・フィクション』という作品もあるように、“リアル”と“フィクション”の関係が強く意識されている。『映画は映画だ』では、“ヤクザを演じる役者“と“役者として起用された本物のヤクザ”という対立があるが、その関係は次第に曖昧なものになっていく。
 『俳優は俳優だ』でも“リアル”と“フィクション”の関係は、“現実における振舞い”と“芝居や映画における演技”の関係として見て取れる。映画作品は演じている役者をカメラが撮影することで創られるわけだが、演劇は舞台という場所で演じられることがすべてだろう(観客の存在も重要かもしれないが、現実にも他人の目はある)。だから“現実の自然な振舞い”と“舞台での演技”との差異は、場所だけでしかないのかもしれない。ただ、現実においてもわれわれはある程度割り振られた役割を演じている部分があるわけで、現実の振舞いがすべて自然なものとするわけにもいかない。
 『俳優は俳優だ』の主人公オ・ヨン(イ・ジュン)は、演技することを愛するあまり、“現実の振舞い”も“舞台の演技”も混同していく。ヨンは演技に夢中になり、舞台と客席の間にあるはずの「第四の壁」を越えてしまい、舞台の世界から現実の客席にまでなだれ込んでしまう。また、舞台を降ろされてからは、劇場の外でマネキンを相手に演技をしてみたりもする。現実と舞台の混同から、現実の振舞いが演技なのか自然なものなのか判然としなくなっていく(逆に言えば、舞台の上での演技が意図したものか、地が出てしまったものなのかも判然としなくなる)。
 マネキンを相手にしゃべるのは狂気だが、それは狂気の演技なのかもしれないし、それが舞台の外で起きていることからすると本当に狂っているのかもしれない。そんなふうにヨンの存在は、“リアル”と“フィクション”の間を彷徨っていく。
 
 この映画ではさらに新たな要素が加わっている。現実に対する対抗軸として“夢”というものが入り込んでくるのだ。(*1)演じることが好きなヨンは、自由な芝居をすることを夢見ている。ただそれは独りよがりの夢にすぎない。その夢を現実化するには、具体的な方法論が必要だ。俳優が演技だけで、アイドルがかわいさだけで、政治家が政策だけでやっていけるわけではないからだ。現実的で汚い手段も必要で、実際にそうした手腕のあるマネージャーが現れることでヨンはスターへと導びかれる。
 そうやって夢から現実の方向に流れると、初心は忘れ去られ、目的だったはずの自由な芝居というものからは離れていくことにもなる。スターにはなったものの、その成果としては仕事は虚しい代物だし(「ふんばる演技」というのが何度も登場する)、女優を抱いても「こんなものか」というつぶやきにヨンの幻滅らしきものが表れている。マネージャーは「売れてよかったかどうかは、売れてから判断しろ」とヨンを焚き付けたわけで、実際売れてみないとわからない世界があるのかもしれないのだが、意外にもそこは退屈な場所だったようだ。

『俳優は俳優だ』 ヨンは劇場の外で、マネキンを相手に演技を披露する。

 “現実”に対立するものとして、まず“虚構(フィクション)”が挙げられたわけだが、その後にさらに“夢”というものが加わってきたために、テーマがズレていってしまったようだ。『映画は映画だ』は“リアル”と“フィクション”を背負ったふたりの対決が、アクションを交えて描かれていて、ギドク脚本作には珍しく娯楽作となっていた。一方で『俳優は俳優だ』は、監督の演出というよりも、ギドクの脚本自体に支離滅裂なところがあるように思える(特にヤクザ絡みのエピソードは脱線気味)。
 ヨンが成功を手にしてからは、「目的達成による目的喪失」という虚しさの表現と言えるのかもしれないけれど、ヨンだけでなく観客としてもどこに向かうのかが見当もつかず退屈だろう。そんなときにヨンが想い出すのは、小劇場で舞台をやっていた時代である。
 「あのころに戻れるだろうか」という問いは、たとえば『コースト・ガード』で民族統一の見果てぬ夢としても描かれていたわけだけれど、そこでは不可能性が強く感じられるからこそノスタルジアがあった。(*2)しかし、今回の『俳優は俳優だ』では、「あのころに戻れるだろうか」という問いは不可能なものとされるのではなく、すぐに昔の地位にまで戻ってやり直しを図るヨンの姿がある。夢を見ていたころが一番よかったというのは、いかにも安易なところで終わってしまったという気もするし、娯楽作としてもいまひとつで、K-POPアイドルの力ばかりに寄りかかった映画といったところだろうか。

 作品中で「メビウス」という映画が何度か言及されるのは、自作の引用が得意のギドクならではの愛敬だろうか。ギドクの最新作『メビウス』は、ようやく12月6日から日本でも劇場公開される。

(*1) 社会学者・見田宗介の整理によれば、“現実”という語は、3つの反対語を持つ。“理想”と“夢”と“虚構”がその3つだ。これらはそれぞれ「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」などと、現実の反対語として一般的に用いられている。

(*2) ボルヘス『永遠の歴史』で、永遠はノスタルジアが生み出すものが典型だとし、そうした永遠は人の願望が呼び寄せるものだと論じているが、だとすれば不可能なものこそノスタルジアに満ちていることになるだろう。人が願うのは、それがなかなか叶わないものだからだ。

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Date: 2014.11.30 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

あの傑作漫画の映画化 『寄生獣』 母なる大地と母性と

 あの傑作漫画『寄生獣』の映画化作品。
 監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『永遠の0』などで、そのVFXには定評のある山崎貴
 公開は11月29日から。今回は試写会にて鑑賞。
 作品名だけで観に行ったもので、詳細は知らなかったのだが、主催者からの上映前の説明でこの作品に続きがあることが知らされると、会場はちょっとざわついた。題名には“前編”とも“PartⅠ”とも謳っていないから、私以外にもこの作品が全2部作だと知らない人もいたようだ。今回は招待客だからまだいいのかもしれないが、知らずに劇場に観に行った客のなかには騙されたと感じる人もいるかもしれない。
 ちなみに完結編は来年4月に公開予定とのこと。

山崎貴 『寄生獣』 主役の泉新一には染谷将太。

 このブログでは漫画は一度しか取り上げていないのだが、その唯一の回には『寄生獣』の岩明均作品を扱っている。私自身は最近では漫画を頻繁に読むほうではない。それでも『寄生獣』は手元にあって何度も読み返している。そのくらい有名な漫画だし、クオリティの高い漫画だとも思う。『T2』の新型ターミネーターには『寄生獣』のアイディアが入っているという話もあるくらいだし、インパクトのある漫画であることは誰もが認めるだろう。
 今回の試写会の客層は、漫画を積極的に読んでいる層とは見えなかったのだけれど、あっけに取られるパラサイトの登場シーンや、ミギーと新一との滑稽なやりとりにも会場の反応はよかったし、漫画を知らない観客にもアピールする作品だったと思う。逆に漫画に愛着がある人ほど、漫画と違うところを発見して批判的なことをあげつらうことになるだろうが、これは人気漫画ほどそうなる傾向があるから仕方ないのかもしれない。
 題材としては、人間に寄生する生物(パラサイト)が人を乗っ取り、そのうえ餌として人を捕獲するというもののため、漫画では血生臭い場面が頻出する。しかし映画版ではそれほどグロい場面はなかった。撮影監督の阿藤正一中島哲也作品を撮っている人で、この『寄生獣』もどこか『告白』の教室の場面のようだ。画面が全体的に暗い印象で、彩度を抑えているように見える。これは血の色が鮮烈すぎないようにして、幅広い観客に受け入れやすいものにしているのかも。もしかするとミギー(声は阿部サダヲ)のノリが軽いのもそうした配慮かもしれない(批判のあるところだと思うが)。

 ※ 以下、ちょっとネタバレもあり。

『寄生獣』 パラサイトが変形する場面。

 映画独自の解釈としては、“母性”というものが大きく取り上げられている。新一(染谷将太)は母子家庭という設定になっているし、途中でパラサイトに寄生された新一の母親(余貴美子)は、新一を守るためにパラサイトの支配に抵抗しさえする。頭を切断されたはずの母親の何がそうさせたかと言えば、やはり“母性”ということになるのだろう。
 また、田宮良子(深津絵里)の役割が漫画以上に大きくなっているように感じられる。たとえば冒頭のナレーションは田宮良子の声で語られ、それは最後にも繰り返されることになるわけで、語り手が田宮良子だと思えなくもないという構造になっている。
 新一が右手をパラサイトに寄生されているのに対し、田宮良子は自分の支配している身体に別の生命(赤ん坊)を宿しているわけで、人間に寄生されているパラサイトと言えるかもしれない。新一が次第にミギーと交じり合って野生的な存在になっていくのに対し、田宮良子がどんなふうに変化していくのかというのも完結編の見どころだろう。

 パラサイトのキャラとしては、東出昌大の“笑顔”という仮面を貼り付けたような表情は、かえって不気味さを醸し出して特出していた。漫画で言えば三木というキャラがそんな笑顔だったのだが、三木は完結編でピエール瀧が演じるらしい。
 それからパラサイトたちの会合場面では、パラサイトたちがあさっての方を向きながら会話しているというのが奇妙でおもしろい。人間ならば多少は目を見て話すというのが礼儀だが、パラサイトにとっては意思の疎通ができれば問題ないわけで、会合の目的は達している。漫画にもそんな1コマはあったけれど、映像として観るとよりパラサイトと人間との感覚の違いが表れていたと思う。
 最後は大物の風格を漂わせた浅野忠信が登場し、次への期待を膨らませたところで終わる。この先がどうなるのか気になるところだし、ともかくも完結編が楽しみである。

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Date: 2014.11.27 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

『紙の月』 お金なんかただの紙。だけどみんなが信用している。

 原作は角田光代のベストセラー小説。監督は『桐島、部活やめるってよ』吉田大八。主演には久しぶりの映画出演となる宮沢りえ

吉田大八監督 『紙の月』 主演の宮沢りえ。きわどいベッドシーンなんかもあった。

 原作は未読だが、映画版は原作とは違う部分も多いようだ。主人公の同僚である隅より子(小林聡美)と相川恵子(大島優子)のキャラクターは、映画オリジナルとのことで、脚本も担当した吉田監督の色が強くなっているものと思われる。
 題材としては銀行での巨額横領事件をもとにしていて、こうした事件はそれほど珍しいということはないだろうし、誰にとっても金は必要なものだから、意図せずに主人公を焚き付けるような言葉を吐く相川が言うように「ありがちな話」ですらある。
 地方銀行に勤める梨花(宮沢りえ)は、顧客の孫である光太(池松壮亮)と駅でばったり会って以来、何となく彼が気にかかるようになる。子供もなく、仕事ばかりの夫とは上辺だけの関係で、そんな梨花はまだ大学生という年下の男に夢中になっていく。このあたりの展開は急で、梨花が光太に入れ込む理由も、光太のために銀行の金を横領することになる理由もよくわからない。

 のちに明らかになるのは、梨花はキリスト教系の学校で育ち、寄付という行為を善行として刷り込まれているということ。梨花がした寄付で、洪水の被害者だというバンコクの子供から感謝の手紙が届く。梨花は弱者を助けるという行為に感銘を受ける。そしてさらなる寄付という大いなる善行を優先するあまり、親の財布から金を抜き取るというちょっとした悪事に手を染めている。梨花が光太に入れ込むのも、光太が資産家の祖父がいるにも関わらず大学の授業料を払えないという境遇にいたからで、梨花は弱者に施しを与えることで自らが満足を味わっていたわけだ。
 恵まれない大学生を助けるというのがスタートでも、途中からは際限なく贅沢を繰り返しているようにしか見えず、40代で少々衰えを見せる容貌だった梨花は、次第にセレブにでもなったような佇まいにもなっていく。ただ、傍から見ればそうした悪事がバレることは目に見えており、そうした豪勢な生活は砂上の楼閣のようなもの。(*1)光太自身もそれを感じていて、別れの際には「いつか終わってしまいそう」だと口にしている。こうなると破滅への道筋も見えてくる。

『紙の月』 梨花は空に浮かぶ月を指で消してしまう。

 しかし、この映画ではここから別の方向へと進んでいく。個人的には、「ありがちな」横領事件や、スローで思い入れたっぷりに描かれる光太とのエピソードには関心しなかったのだが、この方向転換はとてもよかったと思う。
 横領がバレた梨花は刑事告訴されることになるわけで、まさにその瀬戸際で、横領に気づいた隅より子と対決することになる。片や巨額の金を横領して好き勝手にやってきた女と、片や勤続25年のお局様で、煙たがられて本社の閑職に追いやられることが決まった女である。隅はそれでも「行くべきところへ行く」だけだと胸を張るのだが、もちろんできれば閑職などに就きたくはないわけで、これは会社のルールに従うしかないという諦めでもある。
 「どちらがみじめか」という話題では、隅は社会のルールに縛られて逃げ出せない自分をみじめと考えているし、梨花は刑事告訴されるような立場に陥った自分をみじめと考えている。どちらにしても自分をみじめと思い、自分がなれなかったほかの誰かを羨ましく思っている。
 土壇場で銀行の窓ガラスを叩き割った梨花は、その場を逃げおおせ、そのままバンコクへと逃亡する。このとってつけたようなエピソードは、およそ現実的なものではない。少女時代に寄付していた少年と同じ傷を負った男が登場することからも、これは幻想としてあるのだと私には思えた。
 「行くべきところへ行く」という隅に対し、「行きたいところに行った」はずの梨花だが、そのバンコクの場面が幻想に過ぎないとなれば、それは反語的な表現でしかないわけで、つまるところ「どこにも行けない」ということなのだろう。そんな女たちの悲しい姿を見せられた映画だった。

『ペーパー・ムーン』 この映画が“紙の月”の元ネタなのだと思う。

 “紙の月”という題名を原作者がどうして付けたのかは知らないのだが、恐らく映画『ペーパー・ムーン』から取られているのだろう(日本語として通常使わない表現なのは、翻訳語だからだろう)。ただ、その意味するものはまったく違うものになっている。
 『ペーパー・ムーン』では、“紙の月”というのは、舞台などに登場するセットの類いであり、本物の月をかたどったニセモノだった。しかしそのニセモノでも信じることが出来れば、本物になるというのがテーマなのだ。(*2)『ペーパー・ムーン』では、詐欺師とその子供のふりをすることになる少女というニセモノの関係が、いつの間にか本当の親子のような関係になっていくという感動作だった。
 一方で『紙の月』では、梨花は本物の月を空に描かれた絵として消し去ってしまう。梨花にとってお金に象徴される社会のシステムは、“紙の月”のようなニセモノでしかなく、梨花はそれを信じることはなく自分の信じたように「やりたいようにやってしまう」。もちろんお金は単なる紙に過ぎないし、それは約束事でしかない。しかし、自分以外の誰もがそれを信用しているのならば、経済は回っていくし、約束事も崩れることはない。空の月を“紙の月”だとして消してしまうのは、梨花の願いに過ぎないわけだ。
 「ニセモノでも信じることが出来れば、本物になる」というのが『ペーパー・ムーン』なら、「王様は裸だ(=お金なんてただの紙だ)」と真実を叫んだはずなのに誰からも無視されてしまうというのが映画『紙の月』だろうか?

(*1) クレジットのVelvet Underground「Femme Fatale」は、Nicoのヴォーカルの危なっかしい感じが、彼らの砂上の楼閣のもろさを表現しているようだった。加えて言えば、銀行の上司(近藤芳正)が皆にバレているカツラをやめられないのは、ただの紙が世の中でお金として通用していくように、社会的にハゲはみっともないというイメージが浸透しているからなのだろう。

(*2) ジャズの有名な曲に「It’s Only A Paper Moon」というものがあり、そこから『ペーパー・ムーン』という映画の題名も取られている。
 『ペーパー・ムーン』で偽の親子を演じているのは、ライアン・オニールテイタム・オニールという本当の親子で、テイタム・オニールはこの映画で史上最年少のオスカー受賞者になった。ふたりの息の合った掛け合いがとても楽しい映画だし、当時10歳のテイタム・オニールは本当にかわいい。



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Date: 2014.11.24 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (9)

『6才のボクが、大人になるまで。』 12年という時間は長いか、短いか

 リチャード・リンクレイター監督の最新作。ベルリン国際映画祭では銀熊賞(監督賞)を受賞した。
 原題は「Boyhood」。つまり「少年時代」で、これはトルストイの中編小説から取られているとのこと。

リチャード・リンクレイター 『6才のボクが、大人になるまで。』 主演のエラー・コルトレーン。

 『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』の<ビフォア・シリーズ>の姉妹編みたいな印象だった。<ビフォア・シリーズ>は、『ビフォア・サンライズ』で偶然出会ったふたりのその後を、9年後、18年後の2つの続編で追っていくというトリロジーだった。この『6才のボクが、大人になるまで。』は、12年間の長きに渡り、毎年3日間から4日間かけた撮影を継続し、それを165分の劇映画としてまとめている。(*1)
 12年という時間は長い。この映画で主役メイソンを演じるエラー・コルトレーンは、劇中のメイソンが成長するのと同じように、現実でも成長して大人になっていく。というよりも子供の成長を記録に撮りたい親の気持ちを、そのまま劇映画でやってしまったということなのかもしれない。ちなみにメイソンの姉サマンサを演じているのは、リンクレイター監督の長女ローレライ・リンクレイターで、監督自身の子供の成長記録としてもあるのだ。
 「子供と遊ぶのが趣味」なんて言う親がいるが、そんな言葉もまったく理解できないわけではないくらい、やはり子供の成長を見守ることは喜びなのだろう。この映画もそんな楽しさがある。

 12年後に何があるかなんて、誰もわからないわけで、この企画を実現させたことはすごいことだ。プロデュースする側からしても、12年経たないと投資した金が戻ってこないわけで、普通なら手を出しそうにない。演じる側としても、毎年短い期間とはいえ撮影に参加するわけで、モチベーションが維持できるかどうかもわからない。
 雑誌『キネマ旬報』によれば、実際に監督の娘は途中で飽きてしまって、「私の役を殺して」と駄々を捏ねたらしい(確かに子供のころの場面は楽しそうだ)。もちろんそれでは違う映画になってしまうから却下されたわけだが、現実世界でも予想外の出来事がまったくないとも限らないわけで、こうして無事に作品が完成したのは奇跡的なことなのかもしれない。

『6才のボクが、大人になるまで。』 12年かけたからこそ撮ることができる少年の成長。

 エピソードは日常のあれこれで、特別なことは何もない。例外的にアル中夫にはまるエピソードなどはあるけれど、普段の生活のなかでメイソンの成長する姿を描いていく。ケビン・ベーコン的にやや上向き加減の鼻がかわいらしい少年が、最後には大学へと進学し、女の子と将来の話などを語り合うまでになる。ラストの会話でも、“瞬間と時間”といったことが語られている。この映画の主題は“時間”そのものと言ってもいい。(*2)
 『ビフォア・ミッドナイト』ではイーサン・ホーク演じるジェシーは、“時について”の小説を書いていた。今回の『6才のボクが、大人になるまで。』では、メイソンは写真という“瞬間”を切り取る職業に興味を抱いている。リチャード・リンクレイターは“時間”ということに心底こだわっている監督なのだ。(*3)
 先ほどは「12年は長い」と書いたのだが、母親の台詞では逆のことも言われている。母親オリヴィア(パトリシア・アークエット)はメイソンを大学に送り出すときに、メイソンがあまりに浮き浮きと楽しそうなのでちょっと恨めしそうにする。オリヴィアは子供ができて結婚し、それから離婚して、また結婚して、そんなことを繰り返す。そうしているうちに子供は成長して親の手を離れ、人生の大部分は過ぎてゆく。親からしてみれば、12年という時間もあっという間なのだ。寂しそうな母親の姿が泣かせる場面でもあるけれど、ここにも“時間”に対する洞察が垣間見られる。

 この映画はドキュメンタリーではないが、演者の成長を追うという面では、現実が虚構世界に影響を与えている。メイソンを演じたエラーは途中から脚本作りにも参加していたりもしたらしく、現実のエラーのキャラクターも取り入れながら映画が作られているのだ。
 ほかにも現実からの映画への反映としては、こんな例があった。父親からメイソンへの誕生日プレゼントとして登場するのは、ビートルズの「ブラック・アルバム」だ。これは実在しないアルバムだが、実は父親を演じたイーサン・ホークが、ユマ・サーマンとの間にできた娘に贈ったものなのだとか。現実にこんな素敵なアイテムを作っているとは(ビートルズ好きとしてもくすぐられる)。イーサン・ホークが選んだという、そのトラックリストも公開されている。Coldplay「Yellow」から始まるこの映画は、ロックやカントリーミュージック、音楽好きの父親の自作曲とかも含め、様々な音楽に溢れている映画でもある。

(*1) 目立たない作品だったからか無視されているけれど、2013年に公開された『いとしきエブリデイ』も同じ手法だった。それでも時間のスパンはやや短くて、この作品では5年間に渡って子供たちの成長を追っている。ただ企画が始まったのは、『6才のボクが、大人になるまで。』のほうが早いことになる。

(*2) 最後のほうで、メイソンは自分の父親に「今の話の要点は?」と訊ねるのだが、父親は「そんなこと知るか。勢いでしゃべってるんだから」と返す。この映画も、その時その時の即興的なものを積み重ねて出来ているのだろう。

(*3) この映画がメイソン6才のときから始まるのは、記憶との関係があるのかもしれない。記憶がなければ主観的な“時の流れ”は感じられないだろうから。姉サマンサは「そんなこと覚えていない」などと父親に答える場面も描かれていて、そんな子供のころはまだ“時の流れ”などという感覚もないだろう。

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6才のボクが、大人になるまで。


Date: 2014.11.15 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『スリー・モンキーズ』 “見ざる、聞かざる、言わざる”そうでもしないとやっていけない

 『昔々、アナトリアで』ヌリ・ビルゲ・ジェイランの2008年の作品(カンヌ映画祭監督賞受賞作)。この作品も日本では劇場公開はされていないが、『昔々、アナトリアで』に続いて11月7日にDVD化された。
 題名の“スリー・モンキーズ”とは、日光東照宮にあるような“見ざる、聞かざる、言わざる”のこと。これは世界的にも“Three wise monkeys”として知られていて、似たような表現は日本だけでなく世界各地にあるのだという。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 『スリー・モンキーズ』 くすんだ色合いの映像が印象に残る。


 エユップはボスである政治家セルヴェトの罪をかぶって刑務所へ入ることになる。大黒柱を失ったエユップの家では、息子イスマイルがニートな生活を送っている。「憂うつなんだ」と言ってはばからず、夜にはどこかでけんかをし、血だらけで帰ってくるイスマイル。そんな息子を見て、母親ハジェルは彼が欲しがっていた車を買うためにセルヴェトのところに金策に行くのだが……。

 物語の中心となるエユップ一家がそれまでどんな家庭だったのかはわからないが、冒頭の事件以降、バランスを欠いて危うい雰囲気を漂わせている。一歩間違えれば決定的な何かが生じるのではないかという緊張感がある。今にも何かが起こりそう、そんな予兆に満ちた映画だと私には思えた。
 説明的な台詞はなく、登場人物の内面も語られることがないため、とても余白が多い映画だ。それを退屈と感じる人もいるかもしれないが、ゆったりとした描写と想像をたくましくさせる間があって、余白に様々ものを読み込むこともできるだろう。

 『スリー・モンキーズ』で、一歩道を踏み外してしまったのは、ひき逃げの罪をなすりつけた政治家セルヴェトだろう。彼がさらに大きく道を外れることになるのは、身代わりをさせたエユップの妻ハジェルとの不倫だ。そのきっかけとなる場面では、相手に対して意味ありげな眼差しを向けるよりも、ただ扇風機の風に当たるセルヴェトの様子が捉えられている。多大な犠牲を払って臨んだ選挙に負け、自暴自棄気味のセルヴェトに魔が差した瞬間なのだと思うのだが、そうした何げない描写にもあやしい雰囲気がある。(*1)

『スリー・モンキーズ』 イスマイルは電車に乗って風を顔に感じる。「大自然のなかにある人間」といったモチーフは『昔々、アナトリアで』でも感じられた。

 イスマイルは刑務所の父親に会いに行く際、途中で何の前触れもなく突然嘔吐する。服を汚してしまったイスマイルは一度帰宅し、そこで母親ハジェルとセルヴェトとの不倫の場面を覗いてしまう。ここでなぜイスマイルが突然嘔吐するのかはわからない。幾分かマザコン気質にも見えるイスマイルが、母親の不倫に対して虫の知らせを感じたものなのしれない。(*2)あるいは、もっと漠然とした不安に駆られてのことかもしれない。
 イスマイルは大学受験に失敗し、仕事もないという鬱屈とした生活を送っている。それだけでも十分に憂鬱かもしれないが、その苦悩の影にはかつて幼くして亡くなった弟の姿がある。父親エユップもその存在を感じている。弟の存在はふたりの弱った心に忍び寄ってくるようだ。(*3)この弟の亡霊に託されているのは、実存に対する不安といったものにも思える(これは余白の部分に私が勝手に読み込んだものかもしれない)。この映画は後半になるにつれて、空の色とともに物語も不穏さを増し、雷鳴が轟く大荒れの天候が予想されたところで終わる。「風雲急を告げる」的に何かを予兆するようなラストにも、そんな不安が表れているようだ。

 イスマイルは浮気を知って、一度は母親を叩くのだが、そのあとは距離を置く(ふたりの描写はしばらく登場しない)。刑務所から戻ったエユップも、妻ハジェルの変化に気がつくが、浮気について詰問して三行半を突きつけることもない。さらにエユップは屋上から飛び降りんとするハジェルを止めようともしない。“見ざる、聞かざる、言わざる”という状態がここにある。そもそも母親が浮気に走るのも、現実を直視しない(見ざる)という対処法なのだろう。
 結局、ハジェルは飛び降りを実行することはないが、“一歩足を踏み出せば破滅”という場所に身を置いていることは確かだ。何かが起きそうでいて、何も起きないとも言えるのかもしれないが、それはたまたま回避されただけにすぎないのだ。多かれ少なかれ、われわれはイスマイルが抱えるような苦悩と向き合うわけだし、ハジェルがいるような極めて危うい場所に立たされることもあるのだ。そして、それはたまたまバランスを保っているだけで、いつそのバランスが崩れるかはわからない。『スリー・モンキーズ』は、そんな漠然としてはいるが普遍的なテーマを、そこはかとなく感じさせてくれる映画だと思う。

(*1) このセルヴェトとハジェルが事務所で面会する場面は、編集がこなれている。ふたりが顔を合わす瞬間も、別れる瞬間も省略されているのだが、文脈としてはきちんとつながっている。さすがに手練れの監督という感じがする。

(*2) ハジェルとイスマイルの母子は、海辺でふたり仲良く並んでみたりする。この場面は『東京物語』のワンシーンとそっくりである。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督のお気に入りのなかには小津安二郎の作品もあるとのこと(こちらのサイトから)。

(*3) 亡くなった弟の登場は、ホラー映画のような描写になっていて驚かされた。

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Date: 2014.11.14 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ニンフォマニアックVol. 2』 “ポルノ”は退屈?

 ラース・フォン・トリアー監督の最新作。先月公開されたVol. 1の続き。全8章の物語の、第6章から第8章まで。

ラース・フォン・トリアー 『ニンフォマニアックVol. 2』 ジョーはソファーに縛り付けられ、激しく鞭打たれる。

 Vol. 1ではジョーが不感症に陥ったところで終わる。ジョー(シャルロット・ゲンズブール)にとって、セックスでの快感が得られないのは耐え難いこと。それはジョーの告白の聞き手であるセリグマンが、読書による愉悦を得られなくなることのように切実な問題だ。
 ここで話は少し過去に戻って、ジョーが初めてオーガズムを経験したときのことへ。草むらで寝転がっていたジョーは、身体が浮かび上がっていくような不思議な感覚を体験する。これはセリグマンの解釈によれば「イエスの変容」の場面ということになる。
 ジョーは自分の性的な体験のすべてを、わけのわからない比喩でもって解釈していくセリグマンに苛立ちを見せる。そして、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)には性的な経験がまったくないということに気がつく。セリグマンは童貞で、性に対する具体的な感覚を知らないから、本から得た理屈っぽい解釈にばかり頼っているのだと。ここでジョーにたしなめられることで、セリグマン流解釈は出番を減らし、物語はジョーのさらなる性的な探求へと向かい、ラース・フォン・トリアーらしい痛々しい場面も多くなる。

 ジョーは夫・ジェローム(シャイア・ラブーフ)とのセックスでは満足を得られない。そのためジェロームは、ジョーがほかの男とセックスすることを望む(これは『奇跡の海』にもあった展開だ)。ジョーは不感症の回復のために、さらに苦行のような行動へと突き進んでいく。言葉の通じない黒人との3Pから始まり、SM的な方向へ探求を進める(第6章「東方教会と西方教会(サイレント・ダック)」)。カウンセリングにも通うことになるが、それを治療するべきものとは捉えず自らを肯定する(第7章「鏡」)。それでも次第に日々の仕事にも支障を来たしたジョーは、借金取りという裏稼業の仕事に手を染めることになる(第8章「銃」)。

『ニンフォマニアックVol. 2』 ポスターでは一番イっちゃっているのに、本編では単なるウェイターだったウド・キア。

 『奇跡の海』では主人公ベスは純粋すぎるがゆえに、夫の希望通り街娼のような真似をすることになるわけだが、『ニンフォマニアック』のジョーの場合はどうだろうか。ジョーは夫のためにほかの男と寝ることを選ぶのではなく、自らの性的な探求心ゆえにそうしている。第1章の男漁りでも、女友達が「愛はセックスのスパイス」だとして、純粋な男漁りから離れて愛に向かうのを、ジョーは愉快には感じていないようだった。子供を放置してSMクラブ(?)に通うことを夫に非難されたときも、夫も子育てには向いていないと開き直り、自分の行動を反省するわけではない(というよりも家庭人になってしまったジェロームの変節を非難しているようにも見える)。
 ジョーが何に突き動かされているのかはよくわからない。カウンセリングにおいて最後にジョーがこだわるのは、自らが「ニンフォマニアック」であって、「セックス・アディクト」ではないということだ。これは単に言い替えただけだと思うのだが、ジョーにとっては大事なことらしい。セリグマンが「ニガー」を差別用語だとして非難するのにも耳を貸さないあたりにも、ジョーの依怙地な部分が表れているのかもしれないし、ジョーのセクシュアリティという厄介な部分に触れるものがあるのかもしれない。何にせよ、ジョーが自分の存在を重ね合わせる木(山上で風に吹かれて斜めに傾いでいる)が孤独に立っていたように、ジョー自身もこの世に居場所を見つけることは難しいようだ。

 Vol. 1のときも「冗長な部分がある」と記したが、Vol. 2はさらに冗長だと思う。ポルノというもの自体はそれほど扇情的なものではないのだろう。(*1)たとえばアダルトビデオは早送りを前提に製作されているのだという(私は某作家の講演でそんなことを聞いた)。裸や局部が映っているというだけのものならば、単に退屈なものなのだ。
 この映画でも局部は卑猥さを表現するというよりは、主に笑いを担っている(黒人の巨根に挟まれたシャルロット・ゲンズブールがVol. 2で一番笑える)。だから前後編4時間のポルノというのはいささか長すぎる。ディレクターズカット版はさらに長いらしいのだが、性描写が増えるだけなら単に冗長さが増すだけのようにも思えるのだが……。
 ラストのオチはラース・フォン・トリアーらしいところへ落ち着いたという感じだった。「欝三部作」(『アンチクライスト』『メランコリア』『ニンフォマニアック』)などとも呼ばれる作品だけに、心暖まる結末なんてあり得ないのかもしれない。

 期待していたウィレム・デフォーもそれほどの出番はなかったし、ウド・キアに関してはカメオ出演みたいなものだったのは残念。サディスト役でジョーを痛めつけるジェイミー・ベル(『リトル・ダンサー』の少年)はよかったし、シャルロット・ゲンズブールとのレズ・シーンもこなしたミア・ゴス(まだ19歳だとか)はエロかった。

(*1) この『ニンフォマニアック』は、“ポルノ”だと前々から噂になっていた作品だ。しかし風変わりなポルノである。それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がミュージカルでありながらそれには収まりきらないものがあり、『アンチクライスト』がホラーのようでそれとはやはり違うというように、ラース・フォン・トリアーが撮るとそうなってしまうのだろう。

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Date: 2014.11.07 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

チェン・ユーシュン 『祝宴! シェフ』 台湾製グルメコメディ

 『熱帯魚』(95)『LOVE GO GO』(97)で知られる台湾のチェン・ユーシュン監督の16年ぶりの長編作品。

チェン・ユーシュン 『祝宴! シェフ』 台湾の家庭料理「トマトの卵炒め」などおいしそうな料理がたくさん登場する。


 “神”と称された伝説の料理人・蝿師を父に持つシャオワン(キミ・シア)は、恋人の借金の連帯保証人として夜逃げする破目に陥る。シャオワンは借金を返すために母パフィー(リン・メイシウ)や、追ってきた借金取りと一緒になって料理大会に出場し、100万元の大金を獲得しようとする。

 どのキャラクターも個性的で賑やかで楽しい映画だ。売れないモデルのシャオワンは料理よりオシャレに夢中(蝿のタトゥーに、蝿模様の服というのがオシャレなのかは疑問だが)で、ステージでの見映えばかりが気になるらしい。母親パフィーは料理屋をやっているくせに料理はダメで、太めの体をくねらせダンスすることが客寄せになると疑わないという勘違いだから、店は繁昌とはほど遠い。
 それから“神”と呼ばれた蝿師に対して、“鬼”や“人”と呼ばれる料理人も登場して(「人にはテーマ曲がある」という“鬼”の登場シーンはおかしい)、それぞれの独創的な料理も描かれる。そのほかシャオワンといい関係になる料理ドクターや、シャオワンの追っかけみたいな召喚獣3人組なんかも登場する。(*1)
 キャラが多すぎて展開にまとまりにも欠ける部分があるし、上映時間が長い(145分)のも気にかかるのだけれども、そんなことを大目に見れば楽しい映画であることも確かだろう。グルメ映画ということで、画面を彩る宴席料理は独創的だし、見た目にもおいしそう。あまりに凝りすぎていて自分で作るのは難しそうだけれど、台湾の家庭料理だという「トマトの卵炒め」なら出来そう(公式HPにはレシピも)。登場人物に悪い奴がいないのでほんわかした気分で安心して観られる作品だと思う。

『祝宴! シェフ』 シャオワンとパフィーと飼い馴らされた借金取りたち。シャオワンのブラウスの柄は蝿がモチーフ!

 チェン・ユーシュン監督と言えば、私はかなり昔に処女作の『熱帯魚』を観た(今では閉館した三百人劇場で開催された台湾映画祭のときだった)。その一度きりでソフトもあまり出回ってないようだから、内容はほとんど記憶にないのだが、とても楽しかったことは覚えている(傑作だったような気もする)。今回の新作に合わせて、レンタルDVDで初めて観た『LOVE GO GO』も素晴らしい作品だと思う(この作品もコメディだが、モテない面々に対する眼差しがどこかあたたかい)。
 『熱帯魚』では、熱帯魚が空に浮かぶシーンが印象に残っているのだが、これは主人公の幻想だったのだろうか。『祝宴! シェフ』でも、シャオワンは夢見がちなところがあり、ダンボールを頭から被って外界を遮断すると、どこか別の世界へと向かう。青い海が広がる砂浜とか、ときには月の世界にまで空想は広がっていく(『LOVE GO GO』でも透明人間の描写は月面の足跡みたいだった)。日常のなかのふとした拍子に垣間見られる夢や幻想、チェン・ユーシュン映画のそんな部分がとてもいいのだ。
 ただ16年ぶりの新作『祝宴! シェフ』は、それまでの2作とはかなりテイストが変わっているという気もする。というのも今回の作品は、バカ騒ぎのほうに振れすぎているからかもしれない。料理大会の審査員の大げさなリアクションは、漫画『ミスター味っ子』のそれのように誇張されている。次第にエスカレーションする表現は、ついには椅子から飛び上がって宇宙遊泳してみたりとか、もはや美味しいのかどうなのかはさっぱりわからない。とにかくバカらしさ満点で、やりすぎな気も……。
 とりあえず、次は16年後とは言わずに新作を観たいものだと思う。

(*1) 召喚獣たちはヒロインのシャオワン役のキミ・シアとともに、台湾のTVCMにも出ているらしい。台湾ではみんな人気者なのだろうか?



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Date: 2014.11.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (4)
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