ギドク脚本作 『俳優は俳優だ』 現実と虚構、さらには夢も
キム・ギドク製作・脚本作品。監督はシン・ヨンシク。
主役のイ・ジュンはアイドルグループで活躍している人だとか(劇場窓口では彼のポストカードが配られた)。結構きわどいベッドシーンなどもあるし、狂気なのか演技なのかわからないあたりの雰囲気はよかったと思う。
題名からもわかるように、ギドク脚本作品『映画は映画だ』の系統を狙った作品。

ギドク作品のなかでは『リアル・フィクション』という作品もあるように、“リアル”と“フィクション”の関係が強く意識されている。『映画は映画だ』では、“ヤクザを演じる役者“と“役者として起用された本物のヤクザ”という対立があるが、その関係は次第に曖昧なものになっていく。
『俳優は俳優だ』でも“リアル”と“フィクション”の関係は、“現実における振舞い”と“芝居や映画における演技”の関係として見て取れる。映画作品は演じている役者をカメラが撮影することで創られるわけだが、演劇は舞台という場所で演じられることがすべてだろう(観客の存在も重要かもしれないが、現実にも他人の目はある)。だから“現実の自然な振舞い”と“舞台での演技”との差異は、場所だけでしかないのかもしれない。ただ、現実においてもわれわれはある程度割り振られた役割を演じている部分があるわけで、現実の振舞いがすべて自然なものとするわけにもいかない。
『俳優は俳優だ』の主人公オ・ヨン(イ・ジュン)は、演技することを愛するあまり、“現実の振舞い”も“舞台の演技”も混同していく。ヨンは演技に夢中になり、舞台と客席の間にあるはずの「第四の壁」を越えてしまい、舞台の世界から現実の客席にまでなだれ込んでしまう。また、舞台を降ろされてからは、劇場の外でマネキンを相手に演技をしてみたりもする。現実と舞台の混同から、現実の振舞いが演技なのか自然なものなのか判然としなくなっていく(逆に言えば、舞台の上での演技が意図したものか、地が出てしまったものなのかも判然としなくなる)。
マネキンを相手にしゃべるのは狂気だが、それは狂気の演技なのかもしれないし、それが舞台の外で起きていることからすると本当に狂っているのかもしれない。そんなふうにヨンの存在は、“リアル”と“フィクション”の間を彷徨っていく。
この映画ではさらに新たな要素が加わっている。現実に対する対抗軸として“夢”というものが入り込んでくるのだ。(*1)演じることが好きなヨンは、自由な芝居をすることを夢見ている。ただそれは独りよがりの夢にすぎない。その夢を現実化するには、具体的な方法論が必要だ。俳優が演技だけで、アイドルがかわいさだけで、政治家が政策だけでやっていけるわけではないからだ。現実的で汚い手段も必要で、実際にそうした手腕のあるマネージャーが現れることでヨンはスターへと導びかれる。
そうやって夢から現実の方向に流れると、初心は忘れ去られ、目的だったはずの自由な芝居というものからは離れていくことにもなる。スターにはなったものの、その成果としては仕事は虚しい代物だし(「ふんばる演技」というのが何度も登場する)、女優を抱いても「こんなものか」というつぶやきにヨンの幻滅らしきものが表れている。マネージャーは「売れてよかったかどうかは、売れてから判断しろ」とヨンを焚き付けたわけで、実際売れてみないとわからない世界があるのかもしれないのだが、意外にもそこは退屈な場所だったようだ。

“現実”に対立するものとして、まず“虚構(フィクション)”が挙げられたわけだが、その後にさらに“夢”というものが加わってきたために、テーマがズレていってしまったようだ。『映画は映画だ』は“リアル”と“フィクション”を背負ったふたりの対決が、アクションを交えて描かれていて、ギドク脚本作には珍しく娯楽作となっていた。一方で『俳優は俳優だ』は、監督の演出というよりも、ギドクの脚本自体に支離滅裂なところがあるように思える(特にヤクザ絡みのエピソードは脱線気味)。
ヨンが成功を手にしてからは、「目的達成による目的喪失」という虚しさの表現と言えるのかもしれないけれど、ヨンだけでなく観客としてもどこに向かうのかが見当もつかず退屈だろう。そんなときにヨンが想い出すのは、小劇場で舞台をやっていた時代である。
「あのころに戻れるだろうか」という問いは、たとえば『コースト・ガード』で民族統一の見果てぬ夢としても描かれていたわけだけれど、そこでは不可能性が強く感じられるからこそノスタルジアがあった。(*2)しかし、今回の『俳優は俳優だ』では、「あのころに戻れるだろうか」という問いは不可能なものとされるのではなく、すぐに昔の地位にまで戻ってやり直しを図るヨンの姿がある。夢を見ていたころが一番よかったというのは、いかにも安易なところで終わってしまったという気もするし、娯楽作としてもいまひとつで、K-POPアイドルの力ばかりに寄りかかった映画といったところだろうか。
作品中で「メビウス」という映画が何度か言及されるのは、自作の引用が得意のギドクならではの愛敬だろうか。ギドクの最新作『メビウス』は、ようやく12月6日から日本でも劇場公開される。
(*1) 社会学者・見田宗介の整理によれば、“現実”という語は、3つの反対語を持つ。“理想”と“夢”と“虚構”がその3つだ。これらはそれぞれ「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」などと、現実の反対語として一般的に用いられている。
(*2) ボルヘスは『永遠の歴史』で、永遠はノスタルジアが生み出すものが典型だとし、そうした永遠は人の願望が呼び寄せるものだと論じているが、だとすれば不可能なものこそノスタルジアに満ちていることになるだろう。人が願うのは、それがなかなか叶わないものだからだ。

主役のイ・ジュンはアイドルグループで活躍している人だとか(劇場窓口では彼のポストカードが配られた)。結構きわどいベッドシーンなどもあるし、狂気なのか演技なのかわからないあたりの雰囲気はよかったと思う。
題名からもわかるように、ギドク脚本作品『映画は映画だ』の系統を狙った作品。

ギドク作品のなかでは『リアル・フィクション』という作品もあるように、“リアル”と“フィクション”の関係が強く意識されている。『映画は映画だ』では、“ヤクザを演じる役者“と“役者として起用された本物のヤクザ”という対立があるが、その関係は次第に曖昧なものになっていく。
『俳優は俳優だ』でも“リアル”と“フィクション”の関係は、“現実における振舞い”と“芝居や映画における演技”の関係として見て取れる。映画作品は演じている役者をカメラが撮影することで創られるわけだが、演劇は舞台という場所で演じられることがすべてだろう(観客の存在も重要かもしれないが、現実にも他人の目はある)。だから“現実の自然な振舞い”と“舞台での演技”との差異は、場所だけでしかないのかもしれない。ただ、現実においてもわれわれはある程度割り振られた役割を演じている部分があるわけで、現実の振舞いがすべて自然なものとするわけにもいかない。
『俳優は俳優だ』の主人公オ・ヨン(イ・ジュン)は、演技することを愛するあまり、“現実の振舞い”も“舞台の演技”も混同していく。ヨンは演技に夢中になり、舞台と客席の間にあるはずの「第四の壁」を越えてしまい、舞台の世界から現実の客席にまでなだれ込んでしまう。また、舞台を降ろされてからは、劇場の外でマネキンを相手に演技をしてみたりもする。現実と舞台の混同から、現実の振舞いが演技なのか自然なものなのか判然としなくなっていく(逆に言えば、舞台の上での演技が意図したものか、地が出てしまったものなのかも判然としなくなる)。
マネキンを相手にしゃべるのは狂気だが、それは狂気の演技なのかもしれないし、それが舞台の外で起きていることからすると本当に狂っているのかもしれない。そんなふうにヨンの存在は、“リアル”と“フィクション”の間を彷徨っていく。
この映画ではさらに新たな要素が加わっている。現実に対する対抗軸として“夢”というものが入り込んでくるのだ。(*1)演じることが好きなヨンは、自由な芝居をすることを夢見ている。ただそれは独りよがりの夢にすぎない。その夢を現実化するには、具体的な方法論が必要だ。俳優が演技だけで、アイドルがかわいさだけで、政治家が政策だけでやっていけるわけではないからだ。現実的で汚い手段も必要で、実際にそうした手腕のあるマネージャーが現れることでヨンはスターへと導びかれる。
そうやって夢から現実の方向に流れると、初心は忘れ去られ、目的だったはずの自由な芝居というものからは離れていくことにもなる。スターにはなったものの、その成果としては仕事は虚しい代物だし(「ふんばる演技」というのが何度も登場する)、女優を抱いても「こんなものか」というつぶやきにヨンの幻滅らしきものが表れている。マネージャーは「売れてよかったかどうかは、売れてから判断しろ」とヨンを焚き付けたわけで、実際売れてみないとわからない世界があるのかもしれないのだが、意外にもそこは退屈な場所だったようだ。

“現実”に対立するものとして、まず“虚構(フィクション)”が挙げられたわけだが、その後にさらに“夢”というものが加わってきたために、テーマがズレていってしまったようだ。『映画は映画だ』は“リアル”と“フィクション”を背負ったふたりの対決が、アクションを交えて描かれていて、ギドク脚本作には珍しく娯楽作となっていた。一方で『俳優は俳優だ』は、監督の演出というよりも、ギドクの脚本自体に支離滅裂なところがあるように思える(特にヤクザ絡みのエピソードは脱線気味)。
ヨンが成功を手にしてからは、「目的達成による目的喪失」という虚しさの表現と言えるのかもしれないけれど、ヨンだけでなく観客としてもどこに向かうのかが見当もつかず退屈だろう。そんなときにヨンが想い出すのは、小劇場で舞台をやっていた時代である。
「あのころに戻れるだろうか」という問いは、たとえば『コースト・ガード』で民族統一の見果てぬ夢としても描かれていたわけだけれど、そこでは不可能性が強く感じられるからこそノスタルジアがあった。(*2)しかし、今回の『俳優は俳優だ』では、「あのころに戻れるだろうか」という問いは不可能なものとされるのではなく、すぐに昔の地位にまで戻ってやり直しを図るヨンの姿がある。夢を見ていたころが一番よかったというのは、いかにも安易なところで終わってしまったという気もするし、娯楽作としてもいまひとつで、K-POPアイドルの力ばかりに寄りかかった映画といったところだろうか。
作品中で「メビウス」という映画が何度か言及されるのは、自作の引用が得意のギドクならではの愛敬だろうか。ギドクの最新作『メビウス』は、ようやく12月6日から日本でも劇場公開される。
(*1) 社会学者・見田宗介の整理によれば、“現実”という語は、3つの反対語を持つ。“理想”と“夢”と“虚構”がその3つだ。これらはそれぞれ「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」などと、現実の反対語として一般的に用いられている。
(*2) ボルヘスは『永遠の歴史』で、永遠はノスタルジアが生み出すものが典型だとし、そうした永遠は人の願望が呼び寄せるものだと論じているが、だとすれば不可能なものこそノスタルジアに満ちていることになるだろう。人が願うのは、それがなかなか叶わないものだからだ。
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