『トム・アット・ザ・ファーム』 こんなふうにも撮れるんです
この作品はドラン自身のオリジナル脚本ではなく、ミシェル・マルク・ブシャールの戯曲の映画化である。サスペンスフルな音楽を担当したのはガブリエル・ヤレド。

恋人ギヨームを亡くしたトム(グザヴィエ・ドラン)は、葬儀に出席するために彼の家を訪れる。ギヨームから何も知らされていない母親(リズ・ロワ)は、トムをギヨームの友達として接するのだが、その母親からトムも知らなかったギヨームの兄の存在を聞かされることになる。
霧に包まれた農場、人影のないギヨームの家、高まる不穏な音楽といったサスペンスの手法から始まる。トムの知らなかった兄・フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)は、トムの寝込みを襲い、余計なことをしゃべるなとクギを刺す。何も知らない母親に、トムとギヨームの同性愛のことをばらすなという脅しである。客人のもてなし方を知らないフランシスはかなりヤバそうな存在で、物語はサイコスリラー風の趣きで展開していく。グザヴィエ・ドランのこれまでの作品とはまったく違うアプローチだ。
「サイコスリラー風」と記したのは、フランシスは確かにモンスターなのだけれど、そんな兄のなかに弟・ギヨームの面影を見ているトムもいるわけで、まったく意思疎通のできない他者というわけではないからだ。フランシスは有無を言わせぬ暴力でトムを組み伏せ、脅しでもって支配する。それでいて命令に従えば、手の平を返したようにトムを褒めたりする。DV夫とそこから離れられない妻のような関係になっていくのだ。
トムはそこから逃げることもできた。しかし、戻ってきてしまう。それでもフランシスの支配的な態度に理不尽なものを感じ、「あんたの世界のルールは知らないが、もうたくさんだ」と宣言し、とうもろこし畑に逃げ込むのだが、すぐにフランシスにつかまってしまう。(*1)手酷くやっつけたあとに、その傷を手当するというフランシスのやり口に、トムは次第に洗脳されていく。
まずは嘘を強要する。ギヨームが同性愛者であってはならないから、架空の恋人を創り上げ、それをトムに証言させることで母親を安心させようとするのだ。フランシスは母親への屈折した感情を抱えている。母親を悲しませることはしたくないが、同時にギヨームを愛し、自分を愛さない母親を憎くも思っているのだ。トムはそんな彼らの関係に巻き込まれていく。
※ 以下、ネタバレもあり。

今回、印象に残ったのはダンスの場面。上のスチールを見ると、静かでロマンチックな場面と思えるが、実際の本編ではまるっきり違うものになっている。大音量の音楽と、暴力的なまでに荒々しいタンゴ。トムは女役で、フランシスに振り回されるようにして踊る。しかもフランシスは母親についての愚痴を音楽に負けじと怒鳴り散らしている。そんなダンスなのだ。
また、このシークエンスの多くは斜め上から見下ろす形で撮影されていて、そのせいか(それまでのフランシスの振舞いがそう感じさせるのかもしれないが)トムを振り回すフランシスの存在が一回り大きいように見え、女役のトムはより一層か弱い存在と感じられる。さらにこのダンスは、亡きギヨームとフランシスのダンスの再現であり、トムはフランシスのなかにギヨームの姿を見ているわけだから、互いにもう居ない存在を思い浮かべているという意味で切ない場面でもあり、同時に官能的でもあった。
ラスト、ギヨームの恋人役を演じたサラ(エヴリーヌ・ブロシュ)の影響もあって、ようやく目を覚ましたトムは、フランシスの追跡をかいくぐって脱出することになる。トムに逃げられて絶叫するフランシスだが、なぜかその革ジャンの背中にはUSAの文字が躍っている。そしてエンディングロールの際には、アメリカを非難するような歌詞の曲(Rufus Wainwright「Going To A Town」)が流れる。
唐突にアメリカの存在が出てくるのだ。相手を暴力的に組み伏せ、飼い馴らして思うように操作できるようになると褒めて可愛がる。それはフランシスのことでもあるけれど、アメリカを象徴してもいるということだとは思うのだけれど、ちょっと呆気にとられる終わり方だった。
(*1) この場面は、スタンダードサイズの画面の上下をマスクして、シネスコサイズになる。効果のほどはよくわからないのだが、この手法は後半の追いかけっこの場面でももう一度繰り返される。
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