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『トム・アット・ザ・ファーム』 こんなふうにも撮れるんです

 『マイ・マザー』『胸騒ぎの恋人』『わたしはロランス』グザヴィエ・ドランの最新作。
 この作品はドラン自身のオリジナル脚本ではなく、ミシェル・マルク・ブシャールの戯曲の映画化である。サスペンスフルな音楽を担当したのはガブリエル・ヤレド

グザヴィエ・ドラン 『トム・アット・ザ・ファーム』 監督・主演・脚本などをこなしたグザヴィエ・ドラン。


 恋人ギヨームを亡くしたトム(グザヴィエ・ドラン)は、葬儀に出席するために彼の家を訪れる。ギヨームから何も知らされていない母親(リズ・ロワ)は、トムをギヨームの友達として接するのだが、その母親からトムも知らなかったギヨームの兄の存在を聞かされることになる。

 霧に包まれた農場、人影のないギヨームの家、高まる不穏な音楽といったサスペンスの手法から始まる。トムの知らなかった兄・フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)は、トムの寝込みを襲い、余計なことをしゃべるなとクギを刺す。何も知らない母親に、トムとギヨームの同性愛のことをばらすなという脅しである。客人のもてなし方を知らないフランシスはかなりヤバそうな存在で、物語はサイコスリラー風の趣きで展開していく。グザヴィエ・ドランのこれまでの作品とはまったく違うアプローチだ。
 「サイコスリラー風」と記したのは、フランシスは確かにモンスターなのだけれど、そんな兄のなかに弟・ギヨームの面影を見ているトムもいるわけで、まったく意思疎通のできない他者というわけではないからだ。フランシスは有無を言わせぬ暴力でトムを組み伏せ、脅しでもって支配する。それでいて命令に従えば、手の平を返したようにトムを褒めたりする。DV夫とそこから離れられない妻のような関係になっていくのだ。
 トムはそこから逃げることもできた。しかし、戻ってきてしまう。それでもフランシスの支配的な態度に理不尽なものを感じ、「あんたの世界のルールは知らないが、もうたくさんだ」と宣言し、とうもろこし畑に逃げ込むのだが、すぐにフランシスにつかまってしまう。(*1)手酷くやっつけたあとに、その傷を手当するというフランシスのやり口に、トムは次第に洗脳されていく。
 まずは嘘を強要する。ギヨームが同性愛者であってはならないから、架空の恋人を創り上げ、それをトムに証言させることで母親を安心させようとするのだ。フランシスは母親への屈折した感情を抱えている。母親を悲しませることはしたくないが、同時にギヨームを愛し、自分を愛さない母親を憎くも思っているのだ。トムはそんな彼らの関係に巻き込まれていく。

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『トム・アット・ザ・ファーム』 ふたりはタンゴを踊る。

 今回、印象に残ったのはダンスの場面。上のスチールを見ると、静かでロマンチックな場面と思えるが、実際の本編ではまるっきり違うものになっている。大音量の音楽と、暴力的なまでに荒々しいタンゴ。トムは女役で、フランシスに振り回されるようにして踊る。しかもフランシスは母親についての愚痴を音楽に負けじと怒鳴り散らしている。そんなダンスなのだ。
 また、このシークエンスの多くは斜め上から見下ろす形で撮影されていて、そのせいか(それまでのフランシスの振舞いがそう感じさせるのかもしれないが)トムを振り回すフランシスの存在が一回り大きいように見え、女役のトムはより一層か弱い存在と感じられる。さらにこのダンスは、亡きギヨームとフランシスのダンスの再現であり、トムはフランシスのなかにギヨームの姿を見ているわけだから、互いにもう居ない存在を思い浮かべているという意味で切ない場面でもあり、同時に官能的でもあった。

 ラスト、ギヨームの恋人役を演じたサラ(エヴリーヌ・ブロシュ)の影響もあって、ようやく目を覚ましたトムは、フランシスの追跡をかいくぐって脱出することになる。トムに逃げられて絶叫するフランシスだが、なぜかその革ジャンの背中にはUSAの文字が躍っている。そしてエンディングロールの際には、アメリカを非難するような歌詞の曲(Rufus Wainwright「Going To A Town」)が流れる。
 唐突にアメリカの存在が出てくるのだ。相手を暴力的に組み伏せ、飼い馴らして思うように操作できるようになると褒めて可愛がる。それはフランシスのことでもあるけれど、アメリカを象徴してもいるということだとは思うのだけれど、ちょっと呆気にとられる終わり方だった。

(*1) この場面は、スタンダードサイズの画面の上下をマスクして、シネスコサイズになる。効果のほどはよくわからないのだが、この手法は後半の追いかけっこの場面でももう一度繰り返される。

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Date: 2014.10.29 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (5)

『カニバル』 食べることと愛すること

 題名の通りカニバリズムを題材とした映画である。スペインではゴヤ賞において、作品賞や監督賞など8部門にノミネートされた。
 監督はマヌエル・マルティン・クエンカ。主人公のカニバリスト役には、『アイム・ソー・エキサイテッド!』ではオカマ役だったアントニオ・デ・ラ・トレ
 今年5月に劇場公開され、今月になってDVDがリリースされた。

マヌエル・マルティン・クエンカ 『カニバル』 カルロスは女を解体するために…… 


 冒頭、主人公・カルロスはガソリンスタンドのカップルを遥か遠くから眺めている。獲物を狙うハンターのようだ。カルロスは狙いを定めた車を無理やり事故に遭わせ、カップルに瀕死の重傷を負わせる。そのあと誰もいない山小屋へと女だけを連れ帰り、解体作業に入る。そして、きれいに切り分けられた女の肉は、ラップに包まれて行儀良く冷蔵庫のなかに並ぶ。

 最初に描かれるのはカルロスの裏の顔だ。カルロスは狙った女を殺し、それを食べるというおぞましい秘密を持つ。だが一方で、カルロスの表向きの顔は、街の仕立て屋である。『仕立て屋の恋』という映画もそうだったが、カルロスも孤独な男だ。しかし仕事には熱心で、客からの信頼も厚く、教会から仕事を請け負ったりもしている。仕立て屋だけにスーツの着こなしはエレガントで、いつも清潔感の漂う風貌を保っている。完全に一市民として社会に融け込んでいるのだ。(*1)
 カルロスの晩の食事は、冷蔵庫に収められた女の肉を丁寧に焼いて、ワインと一緒にいただくものだ。やっていることはえげつないのだが、描写は静的で、生臭さを感じさせない。切り分けられた女の肉も、スーパーで用意したそれのようにしか見えない。ただその肉がなくなると、獲物を探しに街へ出て、誰もいない山の上の小屋で新たな食糧にするのだろう。

 そんなカルロスの前にアレクサンドラという女が現れる。彼女は上の階に引っ越してきて、そこでマッサージの仕事をしているという。カルロスの経営する仕立て屋にも、そのチラシを置いてくれと顔を出す。カルロスがそんなアレクサンドラを獲物を狙う目付きで追っていると、ある夜、トラブルを理由にアレクサンドラが助けを求めてやってくる。
 このあと場面は変り、別の女・ニーナが訪ねてくる。ニーナはアレクサンドラの双子の姉で、アレクサンドラの姿が消えたから探しているのだという。カルロスはニーナに近づく。それはカルロスがアレクサンドラを殺したことがばれていないかを確かめるためだ。そのためにニーナに親しくし、助けてやりもするようになる。しかし、そうしているうちにニーナのことが気になりだす。

 ※ 以下、ネタバレあり。結末にも触れていますので、ご注意を!


『カニバル』 主役を演じたアントニオ・デ・ラ・トレとオリンピア・メリンテ

 ここで結末を述べてしまうが、カルロスはニーナも殺そうとするものの、それを果たせない。それはニーナを愛してしまったから(ポスターには“A Love Story”とある)。たしかにそういう面もあるのだろうが、それだけではないという気もする。
 『カニバリズム論』という本には、こんなことが書かれている。

肉欲の至高の表現は、愛する者を滅ぼし、これを食いつくすことにありはしないだろうか。性が形而下の目的として生殖すなわち有を一方の極におくならば、一方の極には、完全な無があるはずだ。


 書きぶりは小難しいが、要は、一般的には愛と呼ばれる“生殖”と、愛する者を食べるという“カニバリズム”とは、両極端ではあるけれど肉欲の表れという点では通じているということだろう。
 カルロスは獲物を選んでいる。誰でもいいわけではないのだ。仕立て屋としての仕事の同僚は女性で、彼女とは親しいのだが食べようとはしない。カルロスは狙った(愛する)獲物だけを食べるのだ。ただアレクサンドラとニーナは双子である(どちらもオリンピア・メリンテという女優が演じている)。性格などは違うものの、外見は似通っている。カルロスはアレクサンドラを食べたあと、ニーナに会い、ニーナを愛するようになる。多分、カルロスのなかでは、食べることは愛することの同じなのだと思う。ただ食べることが先に来ていたのだが、食べたあとにまた同じ女が現れ、それを愛するようになったのだ。
 実際にカルロスが肉を扱う手付きはとても丁寧だ。愛情を込めてその肉に調味料をすりこんでいる。これと似た場面がある。それはニーナがカルロスにマッサージをしてやる場面だ。ニーナは援助のお礼として、カルロスの背中にオイルを塗って、やさしくマッサージするのだ。それは愛情のこもったものだし、性的な臭いも感じられる。(*2)ニーナはカルロスを愛してしまったからマッサージをするのだし、カルロスは愛したからその肉を丁寧に扱う(そして食す)。そういう意味でカルロスにとって、食べることは愛することと同じなのだ。

 ラストに到る展開はちょっと意外なものかもしれない。すべてを告白したカルロスだが、ニーナはカルロスを恐れて逃げ出すわけでもないのだ(告白を聞いたときの、ニーナの表情の移り変わりは絶妙だった)。そのあとニーナは自殺のような行動に走るのだが、アレクサンドラと同じように食べてもらいたいとでも考えたのだろうか?
 キリスト教とカニバリズムに関しては、その類似性が論じられることがある。なぜかと言えば、教会での儀式でパンを食べ、ワインを飲むのは、キリストの身体を食べ、その血を飲むことだとされているからだ。この『カニバル』でも、教会の場面で神父によってそのことが語られている。もちろん一般的にはパンがキリストの身体であり、ワインが血だということは比喩として受け止められている。(*3)おそらくキリストの教えが血となり、肉となるといったことなのだと思う。この映画では、カニバリストのカルロスがキリストの姿に感じ入ったような表情で終わる。
 ラストは教会の祭事の場面だ。カルロスは自分たちが仕上げたケープをまとったマリア像が練り歩く様子を見つめている。その前には十字架にかかったキリスト像がある。その姿は痛々しいと同時に艶かしい。カルロスはそれら姿を見て、何とも複雑な表情を見せるのだ。キリストの自己犠牲は人類の罪を贖ったとされるわけだが、ニーナやアレクサンドラが死なねばならなかったのも、カルロスにとっては同じような犠牲として受け止められているのだろうか? そうだとすればかなり自分勝手な話なのだが……。

(*1) カルロスの二面性の象徴かどうかはわからないが、部屋のなかの暗い場面と光溢れる外の対比も印象的だった(特に、闇に包まれた山小屋から覗く白い雪山が)。舞台はスペインのグラナダである。

(*2) カルロスはこのあと意味もなく人を殺す。性的な興奮が殺人へと結びついていくのだろう。

(*3) 『キリスト教とカニバリズム』という本では、実際にイエスの肉を食べ、その血を飲んだのではないかという仮説のもとに論を展開している。これは「つきもの信仰に基づく聖霊移転行為」とのことだが、やはり一般的に受け入れられているものではないようだ。

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Date: 2014.10.27 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『昔々、アナトリアで』 劇場未公開作品だが素晴らしい出来

 この作品の監督であるヌリ・ビルゲ・ジェイランは、世界的に有名なトルコの映画監督なのだそうだ。日本では作品が公開されたことがないが、カンヌ映画祭では常連のようだ。2014年にはパルムドール受賞(『Winter Sleep』)ということもあって、過去作品のDVDが一足先のリリースとなった模様(9月5日にリリース)。この『昔々、アナトリアで』は、2011年のカンヌ映画祭グランプリ作品である。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督 『昔々、アナトリアで』 ライトに照らされた草原の風景も印象深い。


 夕暮れの草原をライトを照らした3台の車が走ってくる。車から連れ出された事件の容疑者は、死体を遺棄した場所を警部に尋ねられるのだが要領を得ない。意図的なものかどうかは判然としないものの、目的である死体の捜索は簡単にはいかず、警部たちも容疑者の供述に従い、果てしなく続く草原を引き回されることになる。

 死体の捜索という出だしからすると、なぜ殺したのかといった謎が気にかかるのだが、登場人物たちはあまり謎解きには熱心とは言えない。検事の顔色を窺って焦り出す警部を除けば、ほかの同行者たちはどこか我関せずといったところ。というのも役割分担としては、警部が死体を見つけ、検事がそれを確認し調書を作製し、医者が解剖を行うという手順になっているからかもしれない。自分の出番まではまだ先があるため、それまでは待つしかないのだ。
 その間、彼らは草原のなかで人生について語りだし、もの思いに耽ってみたりする。死体捜索やその後のあれこれは、およそ半日の拘束という舞台設定のためにあるのかもしれない。彼らは時間を持て余し、世間話に興じ、そうした会話から次第に彼らが抱える問題も浮かび上がってくる。
 最初は、捗らない捜査に観客としても警部と同様に苛立つかもしれないが、次第にそうした謎解きが本筋ではないことがわかってくる。主人公のひとりである医者は、刑事のアラブと話をするうちに、自身の思いのなかへ沈んでいく。カメラは、ヘッドライトに照らされ黄金色に輝く草原を見つめる医者の後姿を映し出す。そこへ彼の内心の声が重なってくる。

 100年足らずで、皆、消えていなくなる。君も私も、検事も警部も。
 こんな詩がある。
 “なおも時は過ぎ、私の痕跡は消え失せる。闇と冷気が、疲れた魂を包むだろう。”


 世間話のなかにこんな詩を挟みこんでくるのだ。また、世間話から心内語への移行、それからまた会話へ戻ってくるといった描写もとてもスムーズだ。そして、この日をのちに振り返って「昔々、アナトリアで」と、おとぎ話ふうに子供に語ってやることを想像する。そのあと暗い草原の向こうを走り抜ける列車の姿が映し出されるのだが、銀河鉄道のような幻想的な雰囲気もある。とにかく独特なスタイルを持った作品で、最初は戸惑ったものの次第に魅せられて、157分の長尺も気にならなかった。

 ※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れています。

『昔々、アナトリアで』 停電のなかを蝋燭を灯した少女が……

 主だった登場人物は、警部と検事と医者。それに容疑者を加えてもいいかもしれない。警部は子供が精神的な病で苦しんでいる。仕事で疲れて家に帰っても、そこでは気が休まることはなく、堪らず仕事に出てくるという毎日。検事は友達の妻の話を語るのだが、これはよくあるように恐らく検事自身のことで、それによると「5カ月後のこの日に死ぬ」と宣言した検事の奥さんは、子供を産んでから宣言通りに亡くなったのだという。それを聞く医者は、妻と離婚して独り身だ。検事と医者の間では、この宣言通りに亡くなった女の話が何度も話題に挙がり、医者の見解では、それは謎ではなく「人を罰するための自殺」だということになる。

 容疑者が殺された男の幻を見る場面もこなれている。捜査の途中に夕飯をいただいた村長の家で、突然停電が起こり、部屋は暗闇に包まれる。しばらく電気は回復せず、蝋燭を灯した少女が皆にお茶を配って回るころには、誰もが暗闇のなかでうとうとしている。そんなところを蝋燭の光で起こされた容疑者ケナンは、夢うつつのまま殺された男の幻想を見るのだ。
 この場面しか登場しないのだが、村長の娘がとても印象に残る。誰もがその少女に見とれているから、あり得ない幻想も素直に受け止められるのかもしれない。そんな幻想を見たあとに、ケナンは厄介な事実を警部に告げる。殺された男の息子は、本当はケナンの息子だというのだ。事件の日に、酒の酔いにまかせて、その事実を口走ったのだとか。しかし、それで事件が解決したわけではない(ケナンは弟を庇っており、真犯人なのかはあやしい)。

 死体を警察に運び込んだあとで、解剖が始まる。その前のちょっとした時間、医者は別れた妻との写真を眺めている(そこには若かりし頃の医者もいる)。そしておもむろに観客のほうを見つめるのだが、これは医者が鏡を見ているからで、医者はもちろん観客ではなく自分の顔を見つめているのだ。離婚した妻や村長の娘を見るにつけ、以前に比べ髪の薄くなった独り身の医者は、もう一度女性と一緒に暮らしたりすることが自分に可能なのかと鏡に問いかけていたのかもしれない。
 検事は法医解剖が必要だということを確かめて、あとを医者に引き継ぐ。解剖が必要なのは事件の被害者だが、それと同時に検事の奥さんについてもそうだったということなのだろう。解剖していれば、彼女の死が自殺だったかどうかはっきりするからだ。しかし、その後の解剖において医者がしたことは、真実を暴くことではない。そのとき医者が配慮したのは、本当は容疑者の息子なのかもしれない残された子供とその母親のことだ。残されたふたりのためには、真実を暴くことは、今ある問題をかえって大きくすることだと思えたからかもしれない。

 冒頭では、殺された男と容疑者たちが酒を酌み交わす様子が窓の外から捉えられていたが、ラストでは解剖室の窓から医者が外を眺める場面となっている。そしてその視線の先には、残された子供とその母親が家路へと向かう姿がある。冒頭と対になった余韻のあるラストだった。

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Date: 2014.10.24 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『悪童日記』 衝撃的な原作小説のラストはどうなったか?

 40カ国の言葉に翻訳されたアゴタ・クリストフのベストセラー小説をもとにした映画。
 監督は原作者と同じハンガリーのヤーノシュ・サース

『悪童日記』 アゴタ・クリストフの小説の映画化


 第二次世界大戦下、双子の兄弟は母親に連れられて<大きな町>を離れる。<小さな町>へ疎開するためだ。そこにはふたりのおばあちゃんが居る。おばあちゃんはおじいちゃんを毒殺したと噂され、“魔女”と呼ばれているのだ。おばあちゃんはふたりを“牝犬の子”と呼び、働かなければ食事を与えることもしない。そんなおばあちゃんのもとで、ふたりのサバイバル生活が始まる。

 「汝、殺すなかれ」と言いつつ人間が互いに殺し合っている戦争の時代、そんな時代をサバイバルするためにふたりは自分たちを鍛えあげる。暴力に屈しないように痛みに耐性をつけ、空腹や寒さに耐え、母親のことを想い出さないように努め、日々薪割りや水汲みなどの仕事に励む。それと同時に勉強することも怠らない。そしてふたりは彼らが見た真実だけをノートに書き記していく。

 ※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れています。

『悪童日記』 双子を演じたのは、アンドラーシュ&ラースロー・ジェーマント。

 原作では双子は「ぼくら」として登場し、それぞれに名前が与えられるわけでもなく、彼らが個々の存在として書き分けられることは数えるほどだ。双子は「ぼくら」という二人で一つの存在として世界を把握し、それをノートに書き綴っていくわけだ。母親も双子が「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格を形づくっている」と語っている。だから、原作の「訊問」という章では、双子は刑事に訊問されるが、その場面はこんなふうに記されている。

 ぼくらは口をとざす。刑事は蒼白になる。彼は殴る。これでもか、これでもかと殴る。ぼくらは椅子から転がり落ちる。彼は、ぼくらの肋骨を、腰を、胃を、足で蹴り、踏みつける。


 双子は「ぼくら」という代名詞で示されていて、まったく区別されていない。実際にそのとき椅子から転がり落ちるのは双子のどちらかのはずだが、それでも「ぼくら」が椅子から転がり落ちると表現されているのだ。ここではまるで「ぼくら」が、一つの腰や胃を共有しているかのようだ。
 こんなふうに「二人で、ただ一つの、分かちがたい人格」というものが、原作では「ぼくら」という代名詞で表現されていたわけだが、映画になるとそれは難しい。当たり前のことだが、はじめから双子はふたりの存在であることは見ればわかるからだ。双子を演じたアンドラーシュ&ラースロー・ジェーマントは、スチールなどで見ると微妙に違うのだが、映画のなかで見る限りでは個々の違いを区別することは難しい。暗闇のなかで身を寄せ合って眠る場面などはふたりの一心同体ぶりを感じさせるけれど、それでも彼らが別個の存在であることに違いないわけだ。
 そして先ほどの「訊問」の場面は、映画版では、ふたりが引き離されることがもっとも有効な拷問の手段となることとして描かれている。しかし、ふたりが別個の存在であることは見ればわかるわけで、引き離されることがふたりにとって致命的だということにあまり説得力があるとは思えない。だからラストでのふたりの別れもそれほどの驚きがあるわけではない。

 なにより原作のラストが衝撃的だったのは、常に「ぼくら」という表記だった主人公が、分離したようにも感じられるからだと思う。原作のラストはこんなふうに書かれている。

 手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、お父さんのぐったりした体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。
 残ったほうの一人は、おばあちゃんの家に戻る。  (傍線は引用者)


 「ぼくら」という表記は常に一心同体だと感じさせ、彼らが別れることがあるなどと思うべくもない。そんな「ぼくら」にも別れが訪れる。父親の屍を乗り越えていくという部分もそれなりに衝撃的かもしれないが、それまで常に一体だった「ぼくら」が、「一人」と「残ったほうの一人」に分離されることに私は驚かされた。「ぼくら」が引きちぎられて「一人」と「残ったほうの一人」に分けられた、そんな別離に思えたのだ。

 それにしても映画とその原作というのはまったく別物で、並べて論じてもあまり意味のないものなのかもしれないとも思う。ついつい原作に思い入れがあったりすると、それらを比べてどこが違うなどと言ってみたくなったりもするのだけれど……。
 映画学者・加藤幹朗の著作を読むと、そうしたことは媒体が違うからとあっさりと片付けられている。そんなふうに言われると身も蓋もないという気もするが、正しい態度なのだろう。たとえば『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』では、映画『ブレードランナー』をこれ以上ないほど詳しく分析しているが、原作となっているフィリップ・K・ディック『電気羊はアンドロイドの夢を見るか?』に関してはほとんど無視していてかえって潔いくらいなのだ。

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Date: 2014.10.19 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『ニンフォマニアックVol. 1』 ラース・フォン・トリアーの悪い冗談?

 ラース・フォン・トリアー監督の最新作。今回公開となったVol. 1に引き続き、来月にはVol. 2が控えている。全8章の物語で、Vol. 1は第5章まで。「ニンフォマニアック」とは“色情狂”のこと。
 出演はシャルロット・ゲンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフなど。

ラース・フォン・トリアー 『ニンフォマニアック』 クセのある出演陣。


 物語の語り手であるジョー(シャルロット・ゲンスブール)は、ある夜、狭い街路で倒れているところをセリグマン(ステラン・スカルスガルド)という初老の男に助けられる。セリグマンはジョーを介抱し、ようやく話をできる程度に回復したジョーは、自身のこれまでについて語り始める。

 ジョーは性的なものに囚われている女性だ。幼いころにそれに気づき、女友達と一緒に快楽なのかよくわからない性的遍歴を重ねていく。性的遍歴と記したが、第1章から第5章までのVol. 1では、第2章「ジェローム」では愛について語られたり、第4章「せん妄」では父親の死が描かれたりもする。そして、第3章「H夫人」では、H氏とその夫人(ユマ・サーマン)と別のセックスフレンドまで交えた修羅場が、喜劇として描かれる。そんな意味でこの映画はジョーの半生そのものを辿っている。
 性的遍歴という言葉が一番適しているのは、第1章「釣魚大全」である。幼いころの他愛ない性的な遊びから始まり、ジェローム(シャイア・ラブーフ)との素っ気ない処女喪失を経て、旅客車での男漁りの旅が描かれる。(*1)そうした遍歴を「釣魚大全」と名づけるのは聞き手のセリグマンである。プレイボーイのことを漁色家などと言うように、ジョーがやっていることは多くの魚(=男)を獲得することだからだ。聞き手のセリグマンはこんなふうに博識でもってジョーの体験を解釈していく。

 『ニンフォマニアック』 ジョーたちは旅客車で男漁りのゲームに興じる。

 聞き手であるセリグマンは神を信じないユダヤ人である。道端に倒れているジョーを助け、話を聞いてやる親切な人物ではあるが、その告白が彼女にとっては罪の告白と同じであるにも関わらず、「罪の意識なんて共感できないものをなぜ持ち出すのか?」といった具合で、教会での懺悔とはちょっと異なる。そんなのは文学の世界にはありふれていると挑発するようでもある。
 実はセリグマンはおもしろがっているのだ。語り手のジョーは聞き手が眉をひそめ説教をしてくれることを期待していたわけで、調子が狂ったかもしれない。もしかすると処女喪失と、愛について語るときと、最後に不感症に陥るとき、その相手が偶然に導かれるようにジェロームという男になっているのは、セリグマンの挑発に乗ったジョーの脚色なのかもしれない。

 そんなわけでセリグマンはジョーの告白を比喩として置き換えていく。旅客車での男漁りは「釣魚大全」、初体験時のピストン運動の回数は「フィボナッチ数」、性的遍歴のなかの特徴的な3人の男はオルガンの和音(第5章「リトル・オルガン・スクール」)に喩えられる。全篇、比喩に満ちているのだ。ポスターにデザインされた題名「NYMPH()MANIAC」の真ん中にある穴は女性器をイメージしているのだろうし、冒頭で暗闇のなかに響く水の音も性的なものを感じさせる。
 たとえば壇蜜主演・石井隆監督『甘い鞭』では、女子高校生が監禁された部屋のひび割れた壁から水が染み出ていた。この『ニンフォマニアックVol. 1』では、壁の割れ目から水が音を立てて漏れ出している(父親の死の際もそうだった)。これはジョーが告白に入る前であり、本番前の前戯みたいな場面だが、その段階ですでにビショビショに濡れているということなのだろう。言うまでもなくこれは悪い冗談だ。
 観客を鬱々とさせずにはおかないラース・フォン・トリアーにおいてはめずらしいことだが、この映画は喜劇的な要素が多い。ただそうした比喩が単に聞き手がおもしろがっているだけで冗長な部分があることは否めないのだけれど、Vol. 2もあることだし、そちらを楽しみに待ちたいと思う。
 Vol. 1では、ジョーの不感症という苦難を提示したところで終わるわけで、多分これからが本番というところではないだろうか。まだウィレム・デフォーウド・キアも顔を見せていないわけだし、語り手のジョーを演じたシャルロット・ゲンスブールも顔に青あざを作ったままでいいところがなかったわけだから……。

(*1) ちなみに若いジョーはステイシー・マーティンが演じており、語り手のシャルロット・ゲンスブールの濡れ場はVol. 2らしい。その意味でVol. 1の主役はステイシー・マーティンである。それにしてもボカシはなんとかならなかったのだろうかと思う。ジョーが体験する白いモノ、黄色いモノ、黒いモノ、割礼したモノ。そうしたイチモツがもやの向こうにあっては、冗談も台無しである。

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ラース・フォン・トリアーの作品
Date: 2014.10.18 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

ギドク脚本作  『レッド・ファミリー』 不可能だと知りつつ夢見ること

 12月6日から最新作『メビウス』の公開が迫っているキム・ギドクが、脚本、編集、エグゼクティブプロデューサーを務めた作品。監督は本作が初の長編作となるイ・ジュヒョン
 出演はキム・ユミ、チョン・ウ、ソン・ビョンホ、パク・ソヨンなど。
 第26回東京国際映画祭では観客賞を受賞した作品とのこと。
キム・ギドク脚本作『レッド・ファミリー』隣の家族は北朝鮮のスパイだった。
 理想的な家族に見える一家は、実は北朝鮮のスパイ一味だった。『レッド・ファミリー』はそんな設定から始まる。その隣に住むのは資本主義に毒された韓国の家族たち。北側のスパイたちは、年長者たちに対する敬意という儒教的な心を忘れていない家族と見える。一方で韓国の家族は、贅沢な食事にも文句をいい、借金してまで無駄な金を使い、自由すぎるあまり自己主張が強く夫婦げんかが絶えない。韓国側は特にその嫁を中心にしてバカな家族として描かれているのだ。北側のスパイたちはそれを傍目に見て「資本主義の限界」だとし、北朝鮮の思想に対する想いを強くするのだが……。

 北側の家族構成は、若い夫婦とその娘と祖父。隣家も構成は似ていて、若夫婦と息子に祖母。伴侶のいない子供たちと老人たちは惹かれ合うようになり、次第にふたつの家族は近づいていく。この映画は、北のスパイが韓国社会に触れて変っていくというのが大筋だが、それ以上に家族のあり方を再考する映画となっているようだ。
 スパイの4人は、北朝鮮に残してきた家族のために、スパイ活動をどうしても成功させねばならない使命を帯びている。北の思想にかぶれてスパイをしているのではなく、家族を人質に捕られてやむなくスパイとなっているのだ。
 そんなスパイたちが韓国のバカ家族と触れ合ううちに、家族のかけがえのなさを改めて感じる。国家や国境というものは幻想にすぎないが、家族だけは確固として存在する。そして家族は一緒に暮らすものだ。そんな想いを最初はやや滑稽に、最後は大泣き泣かせる展開で描いている。

 ギドク作品にはありがちだが、色々とツッコミどころも多い映画である。まず隣家の声が北側のスパイには筒抜けになっているというのが不自然だ(隣家を盗聴していることにでもすればよかったのに)。それから暗殺の場面が何回も登場するが、アクション描写がヘタである。とにかく色々と拙い部分があるのだ。監督は初の長編作品だというし、それも仕方がないのかもしれないが、ギドクが担当した編集も奇妙な部分が目立った気がする。
 たとえば韓国の少年が北側の家族に車で送ってもらう場面。少年はチョコレートバーらしきものを北の少女に差し出すのだが、彼女は上官(スパイグループの班長)を気遣ってチョコをもらおうとはしない。それを見た班長はチョコをもらっておくようにと諭す。これは班長もそれを食べてみたかったというオチなのだと思うが、その処理の仕方がとても素っ気ない。チョコを皆で食べる場面はあるのだが、すぐに別のシークエンスになってしまい、オチをオチと感じさせる間もないのだ。
 また予告編にも登場している金日成たちの肖像画を隠す場面でも、予告編では丁寧なつながりになっているのに、本編では短くカットされている。肖像画を外すときに将軍様に謝る部分がカットされ、ちょっとわかりづらいものになっている。編集の意図としては、全体的にテンポを上げ上映時間の短縮を目指しているのかもしれないのだが、シーン間のつながりが分断されるようで気にかかるところも多かった(まさかここで南北分断を表現しようというのではないだろうし、ギドクの編集でも拙さは隠せなかったということだろうか)。

 ※ 以下、ネタバレもあり。ラストにも触れていますのでご注意を。



 ギドク作品のなかで南北分断について描いたものには、まず『プンサンケ』(脚本)がある。これは韓国と北朝鮮の境界線を行き来する運び屋を描いていた。そのほかにも『コースト・ガード』では38度線が消えることを夢想する場面がラストを飾り、『ワイルド・アニマル』ではフランスを舞台に韓国出身の画家見習いと脱北者の元兵士の交流がテーマとなる。これらの作品のどれもが悲劇的な終わり方をするわけで、この作品もそうなる運命にある。ただラストに関しては監督イ・ジュヒョンの意向で、ギドク脚本とは異なるものとなっているようだ。

 ラスト、北のスパイたちは作戦失敗の名誉挽回として、隣家の家族を殺すように命じられる。だが、それを果たすことができない。彼らがスパイ活動をしているのは、北朝鮮に残してきた家族のためだ。自分の家族のために、別の家族を皆殺しにするというのは途轍もないジレンマだ。それが同じ民族であり、特段憎いわけでもない隣人ならなおさらだろう。スパイたちは結局捕えられる。そんな絶体絶命のときに、彼らはなぜか韓国のバカ家族が演じていた寸劇を涙ながらに真似をするのだ。
 あの芝居で事態が変わるわけではない。彼らはもう北朝鮮の家族に会うことも叶わず、海に沈められることになる。そんなときに彼らの胸に去来するのは、隣のバカ家族たちの寸劇なのだ。彼らスパイたちはそれぞれの部屋にこもり、北朝鮮に残してきた家族を想いつつ、バカ家族の会話を聞いていた。けんかばかりの韓国のバカ家族には、北朝鮮ではあり得ない自由な家族の姿があった。資本主義で堕落したはずの家族の姿が、北側のスパイたちからは羨望の目で見つめられるのだ。
 彼らがそれを涙ながらに真似するのは、それが夢でもあり、憧れでもあるからだ。叶わない夢だからこそ自己憐憫の涙が流れるのだろう。彼らスパイたちにとって、そんな家族にはなり得るはずもないという「不可能性」を感じさせるのだ。観客としてもそれが理解できるから、ただむせび泣くほかないのだ(私もヘタだと文句を言いつつも、このあたりでは泣かされた)。もちろん、脚本を書いたギドクとしては、そんな「不可能性」を描くことで、南北の統一を夢見ているのだろうと思う。
 不可能だと知りつつ夢見るというのは「ロマンティシズム」だとか言ってみたい気もするが、ここでは次の言葉を引用しておきたい。『不可能性の時代』という本の著者であり、社会学者の大澤真幸はこんなことを言っている。 

 現実主義だリアリズムだと言って、可能なことだけを追求するというのは単に、船が沈むのを座して待つということにしかなりません。みんなが可能なことしか求めなかったら、可能なことしか起きないじゃないですか。沈まない別の船を求めるのならば、不可能なこと、現時点ではあり得ないようなことを要求する方がむしろ現実的です。歴史的には何度も不可能だったはずのことが起きている。それは不可能なことを求める人がいたからに他なりません。自分が本当は何を望んでいるのか。どんな社会を目指したいのか。まずは口にしてみましょうよ。あなたが口にすることによって、不可能は可能になる可能性をはらむのです。


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Date: 2014.10.09 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (6)

『ファーナス/訣別の朝』 地味だがアメリカを感じさせる作品

 監督は『クレイジー・ハート』のスコット・クーパー
 出演陣はクリスチャン・ベイル、ケイシー・アフレック、ウディ・ハレルソン、ウィレム・デフォー、フォレスト・ウィテカー、ゾーイ・サルダナ、サム・シェパードとなかなか豪華である。
 製作にはレオナルド・ディカプリオや、リドリー・スコットも名前を連ねている。

スコット・クーパー監督作 『ファーナス/訣別の朝』 主演のクリスチャン・ベイル。今回は素の感じで出ている。


 舞台は溶鉱炉(ファーナス)が立ち並ぶ田舎町。そこで働くラッセル(クリスチャン・ベイル)は、イラク戦争から帰ってきた弟ロドニー(ケイシー・アフレック)のことを心配していた。ロドニーは戦争の傷が癒えず、地元のヤクザ者(ウィレム・デフォー)と付き合い借金を負い、賭けボクシングにのめりこんでいた。

 戦争帰りの兵士が社会に融けこめないといったテーマは、これまでにも多くの映画で描かれていて、私は『ディア・ハンター』を思い出した。『ディア・ハンター』ではクリストファー・ウォーケン演じるニックが戦争の傷により破滅していくことになるわけで、『ファーナス/訣別の朝』のロドニーもそうした位置にある。
 ラッセルはファーナスでの仕事を「生きるための仕事」だと語るのだが、ロドニーにはそれが受け入れられない(彼らの父親はその仕事で身体を壊したようだ)。ロドニーは国のためと思ってイラクで身を呈して戦ってきたのだろうが、戦場で見たのは若者たちが無残に死んでいく姿ばかりで、「何のための戦いなのか」という疑問は、社会に戻ってきてもロドニーを箍が外れたような存在にしてしまうのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『ファーナス/訣別の朝』デグロートを演じたウディ・ハレルソン

 ラッセルたちの鹿狩りのシーンと、ロドニーたちがデグロート(ウディ・ハレルソン)のもとで賭けボクシングをするシーンは、交互に編集されている。ここで重ね合わせられているのは、鹿とロドニーだろう。獲物の鹿は肉となって吊るされ、ロドニーはデグロートに始末される。同じころ、鹿を射程圏内に捉えていたラッセルはなぜか撃つのをやめてしまう。これは鹿と重ね合わせられるラッセルに対する後ろめたさからだろうと思う(後ろめたさはラッセルが戦争の犠牲者だから)。
 この映画の時代背景はオバマ政権の前で、ブッシュ政権が起こしたイラク戦争の裏には石油利権が絡んでいるという噂は『ボウリング・フォー・コロンバイン』などにもあった。戦争で傷を負った兵士を食い物にするデクロートのような人物と、それを許せない人物。そんな対立の構図が見えるのだ。
 デグロートは「金と麻薬のためなら何でもやる」ような危険人物とされていて、これはもしかするとアメリカのある側面を象徴しているのかもしれない。戦争に若者を送り込んで、銃後で肥え太っているデグロートのような存在。ラッセルはデグロートを否定するわけだが、結局はロドニーのような犠牲のもとにアメリカは成り立っているのかもしれない(そういえばイエス・キリストの犠牲の話が教会で語られている)。ラッセルはデグロートを殺し復讐を果たすものの、そこにカタルシスなどあるわけもなく、疲弊感ばかりが募る。こんなラッセルの姿もまたアメリカの一側面なのかもしれない。

 交通事故のエピソードなど腑に落ちない部分も多いが、ウディ・ハレルソンとウィレム・デフォーの絡むあたりの危険な雰囲気はよかった(ウディ・ハレルソンが薬をきめてハイになっている場面は、「これからどんな大暴れが」と期待させたけれど意外に呆気なかった)。曇天ばかりの町の風景を捉えたカメラもよかったと思う(撮影はマサノブ・タカヤナギというから日本人なのだろう)。ただ、全体的にはとても地味な映画で、思い入れたっぷりに描かれるラストも予想通りに展開するばかりで驚きがあるわけではなかった。
 ラストのパール・ジャムの曲「Release」は、ヴォーカル・パートを新しく録音し直したということで、聴き応えがあった(冒頭で使われたアルバム・ヴァージョンとの違いは、正直わからなかったけれど)。アメリカを代表するバンドがラストを飾るという意味でもアメリカを感じさせる作品である。

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Date: 2014.10.05 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (6)
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