『荒野の千鳥足』 どこにも行けないのは千鳥足だから?
監督は『ランボー』のテッド・コッチェフ。製作は1971年だが、長らくフィルムが失われていたとのことで、日本では初めての公開となる。スコセッシが「凄まじいほどに不快な映画だ」と絶賛している作品とのこと。
原題は「WAKE IN FRIGHT」。邦題の『荒野の千鳥足』は、舞台となるオーストラリアの風景が西部劇のそれを思わせるからだろう。時代背景は、部屋にビートルズのアルバム(たしか『Abbey Road』だったような)が飾られていたところからすると70年代なのだろうが、あまりに辺鄙な地域が舞台となっているため特定の時代を感じさせない。

冒頭、ゆっくりとした360度のパンで、背景となる舞台を見せている。見渡す限り乾いた大地が広がる。一応線路はあり、それを挟むように学校とホテルがあるが、人影はなく、ほこりっぽい荒野が延々と続くだけだ。
主人公ジョン(ゲーリー・ボンド)は学校の教師で、クリスマスからの6週間の休みに入り、その小さな町を離れ、恋人のいるシドニーに旅立つ。ジョンは途中下車したヤバという町で奢られるままにビールを飲むうちに、ギャンブルに手を出し一文無しになってしまう……。
クリスマスの時季を描いているものの、南半球のオーストラリアが舞台だから、季節は夏である。乾いた大地に照りつける太陽となれば喉が渇くわけで、『荒野の千鳥足』では飲み物と言えば酒しかないがごとく。一度だけ水を飲む場面はあるが、どこへ行っても出てくるのはビールばかりで、ジョンの酩酊度合いも増していく。ジャケットを着た紳士風だったジョンは、次第に汗まみれで薄汚い浮浪者となり、猟銃を片手に町をうろつくまでになる(それでも誰も気にしていないというのがまたすごい)。
連日連夜の酩酊騒ぎで当初の目的を忘れたジョンは、仲間たちとハンティングに出かける。スコセッシが「不快」だと言ったのは、このハンティングのシーンばかりではなく、ハエの羽音が唸り続ける映画全体からも「不快」な臭いが漂ってくるのだが、とはいえやはりこのシークエンスは強烈であることも確かだろう。
というのも、ジョンたちはオーストラリアの人気者カンガルーを狩りに行くからだ。銃で撃つのはもちろんのこと、猟犬に追わせ、車で跳ね飛ばしたりもするのだから、動物愛護団体とか観たら卒倒しそうな映画なのだ。通常、動物を殺す場面などがあれば、ラストでは「実際には傷つけていません」といった字幕が出るわけだが、この映画では「プロのハンターの映像をノーカットで使った」云々と注釈が出る。今はもちろん禁止されているけれど、そのときにはプロのハンターには許されていたのだという言い訳である。実際の映像だからこそ、このシークエンスは強烈なのだ。
これは勝手な印象かもしれないけれど、カンガルーは2足歩行をするから、肩から腕のあたりが妙に人みたいに見えることがある。そんなカンガルーをバタバタと銃で殺していく(格闘技めいたことも)のだから狂気の沙汰である。また、死んだカンガルーの手(前足)のクローズアップがやけに印象に残る。人のようにも見えていたカンガルーが、その瞬間にグロテスクな物体と化したように思えるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!

ヤバの住民は世話好きで、知らない顔にもビールを奢りたがる。ヤバでは酒を断ることは何より悪いことらしい。ジョンもそれにつられてビールを呷り続ける。男たちは酒を飲み、ギャンブルや狩りに興じ、何もない町をやり過ごしている。一方、女はどうかと言えば(女はほとんど登場しないのだが)、ジョンが招待された家のジャネットという女はちょっと普通ではない。まず表情がすごいのだ。口を「へ」の字にして、愛想笑いもなく、招待した男の妻かと思えるほど枯れきっているが、男の娘らしい。ヤバの町の退屈さに、感覚すら失ったかのようなのだ。
実はジャネットは無愛想でも周囲の男たちと寝ているのだが、そうした情事もあまりの退屈さによるもので、男は酒による酩酊ですべてを忘れてしまうけれど、ジャネットは倦怠をそのまま引き受けているようにも見えるのだ。男たちが「俺がおごると言ってるんだ、さぁ、飲み干せ!」と騒いでいるのも、そうした倦怠に対する別の対処の仕方にすぎないのだろう。
ジョンはジャネットに「なぜ町を出ないのか」と訊ねるのだが、それはジョン自身が「ここではないどこかへ」行きたいと考えているからだ。それは彼女のいるシドニーであり、海のある場所であり、宗主国のイギリスであったりするわけだが、結局、どこにも行くことはできない。ジョンはヤバの地獄巡りを経て、結局はもとの学校へと戻るしかないのだ。どこにも行けないのは千鳥足だからではない。どこにも行けないから千鳥足になるしかないのだ。
オーストラリアの大地は、あまりに広すぎる。広すぎてほかのどこにも辿り着けないのだ。それが結局は「どこにも行けない」という感覚を生み出している。(*1)ただひとつそこから脱出する方法も示されていて、それは自殺である。ジョンはたまたまそれに失敗したけれど、やはり「不快」な結末であることは間違いない。この「不快」さは「どこにも行けない」という感覚をまざまざと見せられたからで、だからこそスコセッシのように「不快」で素晴らしい映画だと絶賛できる。
(*1) 何となく思い出したのが『キャプテン・フィリップス』で、あの映画では大洋の真ん中で海賊に遭遇したフィリップスたちは、広い海の上で逃げ場はどこにでもあるはずなのに、どこに逃げることもできずに海賊に襲われることになる。


原題は「WAKE IN FRIGHT」。邦題の『荒野の千鳥足』は、舞台となるオーストラリアの風景が西部劇のそれを思わせるからだろう。時代背景は、部屋にビートルズのアルバム(たしか『Abbey Road』だったような)が飾られていたところからすると70年代なのだろうが、あまりに辺鄙な地域が舞台となっているため特定の時代を感じさせない。

冒頭、ゆっくりとした360度のパンで、背景となる舞台を見せている。見渡す限り乾いた大地が広がる。一応線路はあり、それを挟むように学校とホテルがあるが、人影はなく、ほこりっぽい荒野が延々と続くだけだ。
主人公ジョン(ゲーリー・ボンド)は学校の教師で、クリスマスからの6週間の休みに入り、その小さな町を離れ、恋人のいるシドニーに旅立つ。ジョンは途中下車したヤバという町で奢られるままにビールを飲むうちに、ギャンブルに手を出し一文無しになってしまう……。
クリスマスの時季を描いているものの、南半球のオーストラリアが舞台だから、季節は夏である。乾いた大地に照りつける太陽となれば喉が渇くわけで、『荒野の千鳥足』では飲み物と言えば酒しかないがごとく。一度だけ水を飲む場面はあるが、どこへ行っても出てくるのはビールばかりで、ジョンの酩酊度合いも増していく。ジャケットを着た紳士風だったジョンは、次第に汗まみれで薄汚い浮浪者となり、猟銃を片手に町をうろつくまでになる(それでも誰も気にしていないというのがまたすごい)。
連日連夜の酩酊騒ぎで当初の目的を忘れたジョンは、仲間たちとハンティングに出かける。スコセッシが「不快」だと言ったのは、このハンティングのシーンばかりではなく、ハエの羽音が唸り続ける映画全体からも「不快」な臭いが漂ってくるのだが、とはいえやはりこのシークエンスは強烈であることも確かだろう。
というのも、ジョンたちはオーストラリアの人気者カンガルーを狩りに行くからだ。銃で撃つのはもちろんのこと、猟犬に追わせ、車で跳ね飛ばしたりもするのだから、動物愛護団体とか観たら卒倒しそうな映画なのだ。通常、動物を殺す場面などがあれば、ラストでは「実際には傷つけていません」といった字幕が出るわけだが、この映画では「プロのハンターの映像をノーカットで使った」云々と注釈が出る。今はもちろん禁止されているけれど、そのときにはプロのハンターには許されていたのだという言い訳である。実際の映像だからこそ、このシークエンスは強烈なのだ。
これは勝手な印象かもしれないけれど、カンガルーは2足歩行をするから、肩から腕のあたりが妙に人みたいに見えることがある。そんなカンガルーをバタバタと銃で殺していく(格闘技めいたことも)のだから狂気の沙汰である。また、死んだカンガルーの手(前足)のクローズアップがやけに印象に残る。人のようにも見えていたカンガルーが、その瞬間にグロテスクな物体と化したように思えるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!

ヤバの住民は世話好きで、知らない顔にもビールを奢りたがる。ヤバでは酒を断ることは何より悪いことらしい。ジョンもそれにつられてビールを呷り続ける。男たちは酒を飲み、ギャンブルや狩りに興じ、何もない町をやり過ごしている。一方、女はどうかと言えば(女はほとんど登場しないのだが)、ジョンが招待された家のジャネットという女はちょっと普通ではない。まず表情がすごいのだ。口を「へ」の字にして、愛想笑いもなく、招待した男の妻かと思えるほど枯れきっているが、男の娘らしい。ヤバの町の退屈さに、感覚すら失ったかのようなのだ。
実はジャネットは無愛想でも周囲の男たちと寝ているのだが、そうした情事もあまりの退屈さによるもので、男は酒による酩酊ですべてを忘れてしまうけれど、ジャネットは倦怠をそのまま引き受けているようにも見えるのだ。男たちが「俺がおごると言ってるんだ、さぁ、飲み干せ!」と騒いでいるのも、そうした倦怠に対する別の対処の仕方にすぎないのだろう。
ジョンはジャネットに「なぜ町を出ないのか」と訊ねるのだが、それはジョン自身が「ここではないどこかへ」行きたいと考えているからだ。それは彼女のいるシドニーであり、海のある場所であり、宗主国のイギリスであったりするわけだが、結局、どこにも行くことはできない。ジョンはヤバの地獄巡りを経て、結局はもとの学校へと戻るしかないのだ。どこにも行けないのは千鳥足だからではない。どこにも行けないから千鳥足になるしかないのだ。
オーストラリアの大地は、あまりに広すぎる。広すぎてほかのどこにも辿り着けないのだ。それが結局は「どこにも行けない」という感覚を生み出している。(*1)ただひとつそこから脱出する方法も示されていて、それは自殺である。ジョンはたまたまそれに失敗したけれど、やはり「不快」な結末であることは間違いない。この「不快」さは「どこにも行けない」という感覚をまざまざと見せられたからで、だからこそスコセッシのように「不快」で素晴らしい映画だと絶賛できる。
(*1) 何となく思い出したのが『キャプテン・フィリップス』で、あの映画では大洋の真ん中で海賊に遭遇したフィリップスたちは、広い海の上で逃げ場はどこにでもあるはずなのに、どこに逃げることもできずに海賊に襲われることになる。
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