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『荒野の千鳥足』 どこにも行けないのは千鳥足だから?

 監督は『ランボー』のテッド・コッチェフ。製作は1971年だが、長らくフィルムが失われていたとのことで、日本では初めての公開となる。スコセッシが「凄まじいほどに不快な映画だ」と絶賛している作品とのこと。
 原題は「WAKE IN FRIGHT」。邦題の『荒野の千鳥足』は、舞台となるオーストラリアの風景が西部劇のそれを思わせるからだろう。時代背景は、部屋にビートルズのアルバム(たしか『Abbey Road』だったような)が飾られていたところからすると70年代なのだろうが、あまりに辺鄙な地域が舞台となっているため特定の時代を感じさせない。

テッド・コッチェフ 『荒野の千鳥足』 「つい魔が差した!」というコピーもいい。中央の変なのはドナルド・プレザンス。

 冒頭、ゆっくりとした360度のパンで、背景となる舞台を見せている。見渡す限り乾いた大地が広がる。一応線路はあり、それを挟むように学校とホテルがあるが、人影はなく、ほこりっぽい荒野が延々と続くだけだ。
 主人公ジョン(ゲーリー・ボンド)は学校の教師で、クリスマスからの6週間の休みに入り、その小さな町を離れ、恋人のいるシドニーに旅立つ。ジョンは途中下車したヤバという町で奢られるままにビールを飲むうちに、ギャンブルに手を出し一文無しになってしまう……。

 クリスマスの時季を描いているものの、南半球のオーストラリアが舞台だから、季節は夏である。乾いた大地に照りつける太陽となれば喉が渇くわけで、『荒野の千鳥足』では飲み物と言えば酒しかないがごとく。一度だけ水を飲む場面はあるが、どこへ行っても出てくるのはビールばかりで、ジョンの酩酊度合いも増していく。ジャケットを着た紳士風だったジョンは、次第に汗まみれで薄汚い浮浪者となり、猟銃を片手に町をうろつくまでになる(それでも誰も気にしていないというのがまたすごい)。
 連日連夜の酩酊騒ぎで当初の目的を忘れたジョンは、仲間たちとハンティングに出かける。スコセッシが「不快」だと言ったのは、このハンティングのシーンばかりではなく、ハエの羽音が唸り続ける映画全体からも「不快」な臭いが漂ってくるのだが、とはいえやはりこのシークエンスは強烈であることも確かだろう。
 というのも、ジョンたちはオーストラリアの人気者カンガルーを狩りに行くからだ。銃で撃つのはもちろんのこと、猟犬に追わせ、車で跳ね飛ばしたりもするのだから、動物愛護団体とか観たら卒倒しそうな映画なのだ。通常、動物を殺す場面などがあれば、ラストでは「実際には傷つけていません」といった字幕が出るわけだが、この映画では「プロのハンターの映像をノーカットで使った」云々と注釈が出る。今はもちろん禁止されているけれど、そのときにはプロのハンターには許されていたのだという言い訳である。実際の映像だからこそ、このシークエンスは強烈なのだ。
 これは勝手な印象かもしれないけれど、カンガルーは2足歩行をするから、肩から腕のあたりが妙に人みたいに見えることがある。そんなカンガルーをバタバタと銃で殺していく(格闘技めいたことも)のだから狂気の沙汰である。また、死んだカンガルーの手(前足)のクローズアップがやけに印象に残る。人のようにも見えていたカンガルーが、その瞬間にグロテスクな物体と化したように思えるのだ。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

『荒野の千鳥足』 これでも駅である。周囲には延々と乾いた大地が続く。

 ヤバの住民は世話好きで、知らない顔にもビールを奢りたがる。ヤバでは酒を断ることは何より悪いことらしい。ジョンもそれにつられてビールを呷り続ける。男たちは酒を飲み、ギャンブルや狩りに興じ、何もない町をやり過ごしている。一方、女はどうかと言えば(女はほとんど登場しないのだが)、ジョンが招待された家のジャネットという女はちょっと普通ではない。まず表情がすごいのだ。口を「へ」の字にして、愛想笑いもなく、招待した男の妻かと思えるほど枯れきっているが、男の娘らしい。ヤバの町の退屈さに、感覚すら失ったかのようなのだ。
 実はジャネットは無愛想でも周囲の男たちと寝ているのだが、そうした情事もあまりの退屈さによるもので、男は酒による酩酊ですべてを忘れてしまうけれど、ジャネットは倦怠をそのまま引き受けているようにも見えるのだ。男たちが「俺がおごると言ってるんだ、さぁ、飲み干せ!」と騒いでいるのも、そうした倦怠に対する別の対処の仕方にすぎないのだろう。
 ジョンはジャネットに「なぜ町を出ないのか」と訊ねるのだが、それはジョン自身が「ここではないどこかへ」行きたいと考えているからだ。それは彼女のいるシドニーであり、海のある場所であり、宗主国のイギリスであったりするわけだが、結局、どこにも行くことはできない。ジョンはヤバの地獄巡りを経て、結局はもとの学校へと戻るしかないのだ。どこにも行けないのは千鳥足だからではない。どこにも行けないから千鳥足になるしかないのだ。

 オーストラリアの大地は、あまりに広すぎる。広すぎてほかのどこにも辿り着けないのだ。それが結局は「どこにも行けない」という感覚を生み出している。(*1)ただひとつそこから脱出する方法も示されていて、それは自殺である。ジョンはたまたまそれに失敗したけれど、やはり「不快」な結末であることは間違いない。この「不快」さは「どこにも行けない」という感覚をまざまざと見せられたからで、だからこそスコセッシのように「不快」で素晴らしい映画だと絶賛できる。

(*1) 何となく思い出したのが『キャプテン・フィリップス』で、あの映画では大洋の真ん中で海賊に遭遇したフィリップスたちは、広い海の上で逃げ場はどこにでもあるはずなのに、どこに逃げることもできずに海賊に襲われることになる。

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Date: 2014.09.30 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『東京難民』 “ネットカフェ難民”にならないために

 原作は福澤徹三の同名小説。監督は『半落ち』『夕凪の街 桜の国』などの佐々部清
 今年2月に劇場公開され、今月17日からDVDがレンタル開始となった。

佐々部清 『東京難民』 主演の中村蒼とその他の出演陣。


 主人公の大学生・修(中村蒼)は、ある日、学生証が無効になっていることを知る。実は、父親は母親が死んだ後、フィリピン・パブの女にうつつを抜かし、息子への仕送りもほったらかしで、どこかへ失踪してしまっていたのだ。修は住んでいたマンションも追い出され、着の身着のままで東京の街を放浪することになる。

 いわゆる“ネットカフェ難民”を主人公にした映画である。能天気な大学生が突然帰る場所を失い、ネットカフェで何とか雨露をしのぎながらの底辺の生活に堕ちてゆく。説明的な部分も多く、決してよく出来た映画とは思えないのだが、「明日は我が身」という点では色々と身につまされる部分もある。
 この映画の主人公・修はちょっと間抜け過ぎて、全体にリアリティにも欠けるのだけれど、それは「何も知らないことほど強いものはなかった」と述懐する修を狂言回しにして、観客に底辺の生活という地獄巡りを案内する意図があるからだろう。原作者は様々な経験をしてきた人物のようで、そうした経験から得た情報が物語のなかに織り込まれて、何も知らない若者には有意義な情報提供となる映画かもしれない。
 “ネットカフェ難民”にならないために知っておくべき情報も、親切に散りばめられている。たとえば修が住んでいたマンションの契約は賃貸借契約ではなく、部屋の鍵の利用権契約ということになっていること。これだと借主の権利を主張することもできず、追い出されるのはあっという間になるようだ。ほかにもティッシュ配りの極意とか、ホスト界での隠語とか、土工は誰でもできる仕事で時給が安いとか、それぞれの業界の豆知識も盛りだくさんとなっている。

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『東京難民』 茜はホストの修に入れ込んでいく。

 修は“ネットカフェ難民”となったものの、ほとんど悲壮感もないままにその日暮らしの生活を始める。ティッシュ配りのバイトから始まって、次々と職を変えていく。治験、ホスト、土工と流れていき、結局はどこかの橋の下で、ブルーシートに覆われた掘っ立て小屋に仮住まいをするようになる。
 這い上がるきっかけはあった。ただ修はそれを逃した。街で声を掛けられた瑠衣という女に騙され、治験で得た金をホストクラブで巻き上げられるのだ。それでもホストという道で成功を目指せばよかったのに、人の良さからか非情にもなりきれない(ホストの仕事は女から金をむしりとることだ)。そんなふうにして“ネットカフェ難民”からホームレスへと堕ちてゆくのだ。

 瑠衣を演じているのは『桐島、部活やめるってよ』で、桐島の彼女というスクールカーストの頂点を演じていた山本美月。この映画の瑠衣は、街でカモを捕まえて、ホストクラブ代をたかるというビッチな役。借金をしたまま逃げ出して、ホストクラブの元締めに「風呂に沈められる(=ソープに売られる)」はずが、修の情けに救われる。(*1)
 その代わりに酷い目を見たのは、地味な看護師だったのにホストの修に入れ込んでしまう茜。最後にはソープ嬢にまで堕ちる茜を、脱ぎっぷりもよく演じているのは大塚千弘で、役どころとしてはこっちのほうがおいしかったかもしれない。(*2)

 茜はなぜか修にはまり、次第に分不相応な金額をつぎ込むようになる。茜は修を金で買うような形で結ばれる(茜は修を慈しむようにそれを楽しむ)のだが、そんな茜はラストでは金で買われる側に成り下がるのだ。ホームレスとなった修とソープ嬢となった茜の姿は、底辺の者同士が潰しあったり、傷を舐め合ったりしているといった構図で、どちらも人が良いだけにちょっとやるせない。
 この『東京難民』で最も教訓的なのは、「金より大事なものがあるとか思ってんのか」というホストクラブの元締め・篤志(金子ノブアキ)の言葉だろう。この言葉は、修の先輩が「中国で運び屋をやる」という決意を語った後に発せられたもので、篤志には同じ仕事をしたいなどとぬかす修の甘さがどうにも腹立たしかったようだ。というのは、中国において麻薬所持で捕まることは死刑の可能性もあるからだ。
 「金が大事」だからこそ、金のためには女を「風呂に沈める」ことも辞さない篤志は、人が良くても何も知らない修みたいな人間を慮ってくれているのかも(修はボコボコにされて多少は目が覚めただろう)。そんな意味でとても教訓的な映画なのだ。だって修が瑠衣を助けたりしなければ、茜はソープ嬢にはなかなかっただろうし……。修や茜みたいに人が良すぎたり、あまりに無知だったりすることは褒められたものではないようだ。

(*1) 山本美月はCMなんかにも出ているだけに、イメージダウンは避けたかったのだろうか? 逃げ帰った実家では、こたつに綿入れ半纏姿というかわいいところに収まっている。

(*2) ちなみに大塚千弘の妹さんは『シャニダールの花』に出ていた山下リオなんだとか。

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Date: 2014.09.27 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『海を感じる時』 セックス、キス、そして告白

 監督は『blue』『僕は妹に恋をする』の安藤尋。脚本は荒井晴彦
 原作は中沢けいが18歳のときに書いた『群像新人文学賞』受賞作。

『海を感じる時』 序盤のシーン。裸で髪が濡れているのは雨に降られたからである。

 原作が描かれたのは1978年で、当時、高校生の性といったスキャンダラスな部分で話題になったのだとか。私は原作を読んでいないが、この映画を観る限り、描かれていることは古臭いものに思えた。
 池松壮亮演じる男は女に手を出しておいて、ぶっきらぼうに「女の身体に興味があっただけ」などと言ってのける。この気取り方がカッコいいとも思えないし、それは古い映画で観た全共闘世代の活動家のそれに似ている。舞台としてはそんな時代はすでに過ぎている70年代後半なわけだし、難しい政治論が交わされるわけでもないわけで、どうしてそんなものが選択されるのかはよくわからない(原作に書かれているのか、脚本の意図か、監督の演出か、演者の役作りなのか)。
 背景とされる時代がノスタルジックに感じられるわけでもない。喫茶店でかかる曲(1976年に三木聖子が歌った「まちぶせ」)はそれらしい雰囲気だったし、毛沢東の名前や三島由紀夫の著作(『天人五衰』)が出てきたりもするのだが、それ以外に外部の世界について知らされることもない。ファザコン気味で母親との関係がうまくいっていない女の素性にも触れられるけれど、基本的にはふたりの関係ばかりに終始していく。
 閉じこもってセックスばかりの日々は、主演・市川結衣のヌードなどもあって退屈とは言わないけれど、度々の長回しに緊張感が漂うわけでもなく、ただただ情感もなく絡み合ったりする姿を漫然と眺めているといった印象。こんなふたりに誰が興味を抱くんだろうかというのが正直なところだろうか。嫌な男に馬鹿な女(市川結衣曰く“イタイ女”)という以上のものを感じられなかったのだ。

『海を感じる時』 高校生のころのふたり。

 序盤早々にふたりのセックスが描かれると、過去の場面を行き来しつつ、初めてのキス、そして告白の場面が描かれる。通常なら「告白⇒キス⇒セックス」という順を踏むところを逆に辿っているのは、男の女に対する関心がそうした順に進んで行ったからなのだろう。
 実際に男は映画の最後に女に告白することになる。そして男はそれまでの身体だけの関係から、ごく普通の同居生活を始めようともする。ご飯を炊いてふたりで食卓を囲んだりもするのだが、そのとき女は平凡な幸せらしきものを受け入れられなくなっている(冷たくあしらわれることが普通になり、被虐嗜好にはまったのか)。
 男と女との違い。求めるものとか、方向性とか、そのタイミングとか、そんなもののズレを描こうとしているのかもしれない(もっと深い何かがあるのかもしれないが、私には感じられなかった)。男が自分のほうを向いた途端に自らの愚かさに気づく女を見ていると、かえって哀れにも思えた。というのも、弄ぶ男はもちろんのこと、狂気を帯びて見える彼女の母親をはじめ、観客の誰もがそれに気づいているわけで、気づいていなかったのは彼女だけなのだから(あるいは気づいていてもどうしようもないのか)。

 ラスト、女が海へと向かう。海を感じて何事かが起きるわけではないが、そこから自分が住んでいた実家(=これまでの想い出なのだろう)を振り返って眺めるのだ。女はカメラに向けて初めて晴れやかな笑顔を見せるのだが、このシーンで意識していると思われるトリュフォー『大人は判ってくれない』みたいな鮮烈さは感じられなかった。

 ※ ラストに唐突に流れ出すのはこの曲。歌詞が妙に映画にマッチしている。


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Date: 2014.09.20 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『鑑定士と顔のない依頼人』 絢爛豪華な引きこもり

 『ニュー・シネマ・パラダイス』ジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品。先月、DVDが発売となった。

ジュゼッペ・トルナトーレ 『鑑定士と顔のない依頼人』 肖像画に囲まれた隠し部屋の鑑定士。


 天才的な能力を持つ鑑定士ヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は、ある女性から鑑定依頼を受ける。姿を現さず、約束も守らない依頼人に苛立ち、何度もその依頼を断ろうとする鑑定士だが、屋敷で見付けた奇妙な部品に惹かれて作業を進めることとなり、次第に若い女性である依頼人の存在が気にかかるようになっていく。

 構成はミステリー仕立てになっていて、なぜ依頼人クレアが姿を見せないのかという謎が物語を牽引していくわけだが、多くの人はその謎がどうにもきな臭いのに気が付くだろう。
 トルナトーレ監督が映画化する前に書いた小説では、この作品の誕生にかかるエピソードが序文に載せられている。最初のアイディアでは、部屋にこもった極端に内向的な少女の姿があり、そのモチーフからこの作品はスタートしているようだ。出来上がった作品は最初のモチーフとは離れた形ではあるが、引きこもった女と引きこもった男(鑑定士は隠し部屋で絵画に囲まれて悦に入っている)がつながる物語となっている。
 引きこもりを外部の社会と結びつけるのは難しい。村上龍の引きこもりをテーマにした小説『最後の家族』では、部屋の穴から覗いた異性の姿がその後の展開を呼び込んだ。これもかなり無理のある展開ではあるのだが、そうでもしないと引きこもりの物語は動き出さないわけだ。
 この『鑑定士と顔のない依頼人』でも、広場恐怖症だとして引きこもっていたクレア(シルヴィア・ホークス)が姿を現すと、急激にその病気を克服していくのはどこか不自然な感じは否めない。引きこもり脱出のきっかけが異性であることはよくある話だとしても、その相手はすでに老境に達した男だし、クレアが興味を持つとすれば鑑定士が持つ金銭以外ないわけで、自ずとその後の展開は推測できる。

 ※ 以下、ネタバレあり。

『鑑定士と顔のない依頼人』 クレアはこの屋敷に引きこもって暮らしている。

 結末から言えば、鑑定士に近づいたクレアは詐欺師たちのひとりで、鑑定士はものの見事に騙されることになる。鑑定人ヴァージルの周りにいた人たちはほとんどすべてが詐欺師たちであり、金持ちの老人である鑑定士は秘かにコレクションしていた高価な絵画を根こそぎ奪われる。美術品に関しては天才的な鑑定眼を持つヴァージルだが、女性に関してはド素人で、「慣れないことに手を出すと碌なことがない」といった教訓譚とも言える。
 哀れな老人はすべてを奪われ、失意のなかでその後の余生を過ごす。そんな終わり方にも思えるのだが、それと同時に別の印象も残る。騙されたとはいえ、童貞だった鑑定士がうら若き女性と短い逢瀬でも過ごすことができたのはかけがえのないことなのかもしれないとも感じさせるラストなのだ。
 クレアは鑑定士に「たとえ何があってもあなたを愛してるわ」と涙ながらに告白しているが、そうしたことが未だに鑑定士の心に刻まれている。そのため鑑定士は詐欺被害を警察に届けることはしなかったし、「何らかの事件に巻き込まれて、クレアは自分に会いに来ることができない事態にあるのかもしれない」といった妄想にすら囚われているのかもしれない。
 「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」という言葉は、完全なコピーを作るはずの贋作者でもその作品のなかに「自分の“印”を残したくなる」という、鑑定士としてのヴァージルの知恵だ。クレアがもう一度訪ねたい場所と語っていた、プラハの「ナイト・アンド・デイ」という店は実際に存在していたわけで、鑑定士はその部分にクレアを名乗っていた女の真実の部分を見出し、「もしかすると偽りの愛のなかにも本当の愛がなかっただろうか」という妄想のなかに浸るのだ。
 潔癖症のため手袋をしたまま、自分専用の食器で孤独で豪華な食卓に着く鑑定士は、それなりに満ち足りた姿だった。それと同じ構図のラストだが、その中身はまるで違う。すべてを失い、女との逢瀬を反芻しつつ、戻っては来ない女を待ち続ける姿。一体、どっちが幸福なのだろうか。そんな複雑な印象を残すラストだった。

 ちなみに事件の首謀者はビリー(ドナルド・サザーランド)という鑑定士の相棒で、ビリーは鑑定士に作品を認められなかったことを恨みに思って犯行に及んだとみられる。ビリーは何年にも渡る壮大な詐欺の計画を練っているものの、ところどころで鑑定士にすべてが嘘であるという“印”も示しているように思える(計画的に小出しにされる自動人形の部品とか、クレアという偽名の出所とか)。クレアが姿を消したときには、「愛さえも偽造できる」のだと、彼女の感情が偽りだった可能性をわざわざ鑑定士に示唆したりもするのだ。
 また、屋敷にはビリーの描いた肖像画が掛けられていた。鑑定士はその絵を価値がないと見抜いていたが、ビリーの作品とまでは気付かなかった。鑑定士がビリーに敬意を払い、その作品の特徴にも充分な注意を払っていたら、もしかすると詐欺事件の裏にいるビリーの存在に辿り着いたかもしれない。ビリーの贈った肖像画の裏には「親愛と感謝を込めて」と記されていた。これは皮肉なのだろうが、ビリーは鑑定士に自らの存在を認めてほしいといった願望もあって、様々な“印”を残していたのだろうか?

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Date: 2014.09.13 Category: 外国映画 Comments (10) Trackbacks (1)

『リトル・フォレスト 夏・秋』 田舎に流れるゆったりとした時間

 原作は五十嵐大介の同名マンガ。『重力ピエロ』などの森淳一が監督。
 出演陣は橋本愛、三浦貴大、松岡茉優、温水洋一、桐島かれん。

『リトル・フォレスト』 夏⇒秋⇒冬⇒春と続く4部作。主演は橋本愛。

 冒頭、緑に囲まれた小森(リトル・フォレスト)という地域が主人公・いち子(橋本愛)のナレーションで紹介される。周囲は山と沢と田畑ばかりで、商店は山を自転車で1時間半も下った駅前にしかなく、郊外型のスーパーに行くとすれば1日がかりになるらしい。そんな山の中の一軒家にいち子はひとりで暮らしている。
 この『リトル・フォレスト 夏・秋』は、いち子の田舎暮らしを描いており、季節の食材を使った料理の一種のレシピ集としても目論まれているようだ。いち子の食べる料理は彼女のナレーションによって丁寧に手順が追われていく。グルメ番組ではないからいち子が料理の出来に気の効いたコメントをするわけではないが、その美味しさは映像だけでも伝わってくる。

 いち子は会社勤めをしているわけではなく、イワナの放流など臨時のバイト以外は金銭収入はなさそう。ただ農家だから毎日農作業をやっているため、食べるものはある。田んぼで米も作るし、芋類や青菜は家の前の畑で間に合う。裏山に足を延ばせば木の実やら果物など自然の恵みが得られる。自給自足で何とも豊かな生活なのだ。
 普段は食べないグミを砂糖と煮詰めてジャムにしたり、アケビの皮をトマトと合わせて調理してみたり、夏の暑さに合う米サワーを作ったり、工夫しながら楽しんでもいる。レシピは具体的で、たとえばジャム作りではグミに対する砂糖は60%では酸っぱいとか、煮詰め具合の目安など、実践的な情報も盛り込まれている。また、母のありがたみを知るのも料理で、青菜の炒め物も意外なところに一手間かけられていたことを、いち子は自分が料理をする立場になった今になって発見する。
 登場人物はごく限られているし、物語の起伏もないのだが、「生きる 食べる 作る」という営みがそれぞれの料理に凝縮されていて、田舎に流れるゆったりとした時間に同化したように心地よい感覚に浸れる映画だった。

 この映画全体は夏⇒秋⇒冬⇒春という4部作という体裁で、今回公開された「夏」と「秋」も独立した作品である。「夏」篇が終わるとエンディングロールが流れ、「秋」篇が一から始まる。小森の場所を示す冒頭のナレーションは同じだが、切り取られる風景はそれぞれの季節の彩りを示している。観客はエンディングロールも二度観ることになるわけだが、これはそれぞれの季節が毎年の繰り返しであるのと同時に、新たな始まりであることを意識させる。それは人の生命も同じで、キッチンに立ついち子と母の姿が重ね合わされるように、母から娘への生命のつながりは人の営みの繰り返しとも言えるが、いち子と母、それぞれの生はまったく新しい始まりであることをも示しているのだろう。

『リトル・フォレスト 夏・秋』 夏の農作業では帽子に汗が染み出している。

 いち子がなぜひとりで田舎暮らしをしているかは詳しく語られるわけではない。一度は街で男の人と暮らしたが、別れて実家である小森に戻ったこと。母は5年前に彼女を残して家を出たらしいこと。そんなことがいち子の独白で知らされる。近所のユウ太(三浦貴大)は田舎に積極的な意味を見出して戻ってきた。田舎の大人たちは、生活のなかで獲得した実のある言葉を使っていて信頼できるというのが彼の評価だ。一方でいち子は街が合わなくて逃げ帰ってきた面があるようだ。
 「秋」篇の最後には、出て行った母親からの手紙が届けられる。母親はなぜ小森を去ったのか、いち子はなぜ一度は去った田舎に戻ったのか、そんな疑問を残して終わる。オシャレなスローライフ風の田舎生活だが、いち子の母のように出ていくものもいるわけだし、単なる田舎礼賛ばかりでは終わらないような気もするがどうだろうか? 原作マンガを読んでいるわけではないので今後の展開はわからないが、「冬」篇と「春」篇も楽しみだ。

 田舎の自然とその恵みを背景にして、主演の橋本愛はほとんど出ずっぱり。容姿端麗ぶりは衆目の一致するところかと思うが、そんなイメージを捨ててほとんど化粧っけもなしに作業着姿で野良仕事に勤しんでいる。夏の場面では、脇汗ばかりか被った帽子にまで汗が染み込むほど。小森の自然を捉えた映像はもちろん美しいが(*1)、そのなかに入り込んだ橋本愛もとても自然な姿で美しかった。

(*1) 夏の場面が印象的だった。盆地である小森は湿気も溜まるらしく、湿った空気が山から降りてくる場面は、ドキュメンタリー『ニッポン国 古屋敷村』の一場面を思い出した。

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橋本愛の作品

Date: 2014.09.05 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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