河瀨直美監督 『2つ目の窓』 奄美の海は美しいが……

 河瀨直美監督の最新作。監督自身が“最高傑作”と銘打ってカンヌ映画祭に出品した作品。
 出演は村上虹郎、吉永淳、杉本哲太、松田美由紀、渡辺真起子など。

 この映画は奄美大島を舞台にして河瀨監督の死生観を描いている。
 主人公は16歳の杏子(吉永淳)と界人(村上虹郎)。杏子は母親イサ(松田美由紀)の死を間近にしている。イサはユタ神様と呼ばれ、死者の声を聞く役割を果している。その意味でイサはこの世とあの世の境界にいる。また、東京から奄美にやってきて、今では母とふたり暮らしの界人は、父のいる東京へ戻ってみたりする存在で、こちらも奄美と東京の境界にいることになるのかもしれない。界人という名前もそんなイメージを表しているのだろう。
 “2つ目の窓”とは何か? 私の勝手な解釈では、ユタ神様が見るような「この世の窓」とは別にある「あの世の窓」のことであり、界人の見るような「東京の窓」とは別の「奄美の窓」、そんな“2つ目の窓”なんじゃないかと思う。監督自身の言葉によれば、そんなことだけに限定されない広い意味を込めたものとのことだが……。

河瀨直美 『2つ目の窓』 奄美大島を舞台にした映画。海のブルーが映える。

 『2つ目の窓』の陽に焼けたふたりの16歳は、幼なじみのようにも、似たもの同士にも見えるが、強く惹かれあっているのとは違う気がする。だから杏子が「好き」と言ってみたりするのも、思い悩んだ末の告白などとは違う軽い調子だ。また「セックスしよ」と野性的な眼差しで誘ってみたりするのも、恋愛とか性欲めいたものも感じさせない。
 杏子がそんなことを口走るのは、母親イサの死を強く意識したからだ。同時に、杏子は亀爺(常田富士男)に、曾ばあさんに似ているとも称される。つまりここでは生命のつながりが意識されているのであって、セックスというのは取りも直さず子作りということなのだろう。だから界人はそれに応えることができなかったのかもしれない(のちに杏子には「覚悟がない」とも指摘される)。

 “生命の連鎖”というテーマは『朱花の月』のときにも記した。この『2つ目の窓』では、その生命のつながりの範囲はさらに拡大している。人間だけが生命の連鎖のなかにいるのではない。二度も(二匹も)屠られるヤギもそうだし、ガジュマルの木もそうなのだ。サーフィンで海と一体になる感覚などが散々語られることからも、人間が自然そのものともつながっているという死生観が提示されているのだ。
 最後にふたりは海と陸の境界にあるマングローブの林のなかで結ばれ、海のなかに生まれたままの姿で入っていく。奈良の緑が印象的に捉えられてきた河瀨作品のなかで初めて生命の源である海が登場するわけだが、人間と自然の一体感がより一層強調されて、テーマが明確になったと思う。また、奄美の海のブルーはとても美しい。

『2つ目の窓』 主役のふたり。吉永淳と村上虹郎。

 決して悪くはないこの映画だが、界人の成長過程を描く部分には違和感がある。界人は未だ両親の離婚をうまく了解することができず、母親が父親以外の男といるのにも嫌悪感を覚えている。(*1)だからといって母親を「淫乱」と罵ってみたり、姿が見えなくなると急に不安になって「お母さんは俺が守る」などと叫ぶあたりの乱心ぶりは、ほかの場面がごく自然に撮られているのと比べ、あまりにも落差がありすぎる。
 恐らく杏子の登場する部分は、奄美大島の習俗をそのまま取り入れたものなのだろう。イサの最期の場面で、集まった人たちが唄いながらイサを送り出すのも多分実際にあることなのだろうし、それらの描写はドキュメンタリーから出発した監督の手腕が冴えている。一方で界人のエピソードは、河瀨監督自身の生い立ちなど、プライベートな部分から構築されたものだと思われる。
 “親との生き別れ”は河瀨監督の実体験でありオブセッションのようなもので、ドキュメンタリー作品『につつまれて』でも、劇映画『萌の朱雀』でも扱われたテーマだ。また生き別れた父親が刺青男だというエピソードは、ドキュメンタリー作品『きゃからばあ』(未見だが予告編でもその父親に対する執着がわかる)に描かれているらしく、そうした個人的な思い入れの強さが界人の叫びとなっているわけだけれど、そこだけがテーマから離れて特出しているような印象を受ける。
 河瀨直美は自分のことを晒して映画を撮ってきた人で、ドキュメンタリーで自らにカメラを向けることを選択したからには、自己に拘泥していくのは避けられないのかもしれない。しかし対象に自分を選びながら、それを反省的に見るのではなく、どこか自分に酔ってしまう部分もあるようだ。余程自己陶酔に陥っていなければ、海のなかで少年少女を全裸で戯れさせるなんてことはできないだろうし、宣伝を兼ねているとはいえ自作を“最高傑作”など言ってのけることもないだろうとも思う(チャップリンはまだ撮っていない次作を“最高傑作”と言ったわけだが)。
 もちろん河瀨作品は嫌いではないのである。応援しているくらいのつもりだ。ただ河瀨監督の手法が活きる作品もあれば、うまくいかないものもあるとは思う。個人的な好みを言えば、やはり自己陶酔がすぎる『殯の森』はダメで、『萌の朱雀』『沙羅双樹』はとてもいいと思う。

(*1) この映画で界人の父親を演じているのは村上淳。村上淳は界人役の村上虹郎の実父で、『沙羅双樹』で音楽を担当していたUAは実母だという。やはり命のつながりというものを意識しているのだろうか?

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その他の河瀨直美作品
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Date: 2014.07.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (4)

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『複製された男』 女という蜘蛛の巣

 原作はノーベル賞受賞作家ジョゼ・サラマーゴ。監督は『灼熱の魂』『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『複製された男』 アダムとアンソニーの二役を演じわけるジェイク・ギレンホール


 歴史教師のアダム(ジェイク・ギレンホール)は同僚に薦められた映画を観て、自分とそっくりの役者を発見する。アンソニー(ジェイク・ギレンホールの二役)というその男は、身長・体重や声までアダムと瓜二つなのだ。アンソニーとは一体何者なのか?

 たとえば一卵性の双子ならばもともとの遺伝的形質は同じだが、アダムには兄弟すらいないはずだ。万が一、母親が嘘つきで本当は双子だったのだとしても、アダムはもう30代の大人であり、それだけの長い年月があれば、環境により違いが生じそうなものだが、ふたりは胸にできた傷痕までそっくり同じなのだ。だからこれは生き別れた双子の話ではない。彼らはまるでついさっき複製されたような存在なのだ。
 どこか哲学者・永井均が論じるような思考実験を思わせないでもない。自分とまったく同じ肉体と記憶を持つコピーが作製されたとして、それを自分と同じ存在として考えられるのだろうか? 自分が自分であることのすべてをそのコピーは持っているはずなのだけれど、やはりそれを自分とは認められないだろう。理由はともかく何となく嫌な感じがするからだ。そんな不気味な存在と出会ってしまうのが、『複製された男』という映画だ。
 果たしてどんな理由によってその男が複製されたのだろうか?

 ※ 以下、ネタバレもあり。

『複製された男』 トロントの街に巨大な蜘蛛が出現。画面の色合いも特徴的。

 この映画はそんな問いに答えるつもりはまったくないようだ。そもそも「複製された男」という題名すらミスリードなもので、アダムは複製などされていないのだ。『プリズナーズ』でも犯人探しとは別のところに物語の真意があったわけで、この映画も「複製された男」について最後まで合理的な説明があるわけではないし、そうした謎解きとは別なところに主題はあるようだ。私も観終わった直後は狐につままれたような感覚だったが、振り返ってみれば同じ写真をふたりが共有していたり、ヒントも与えられているし、濃密に構成された“わからなさ”には魅かれるものがある。
 公式サイトには、「ラストは口にするな」と言いながらも、監督自身の解釈が丁寧にも載せられている。たしかにそのように解釈すれば納得できるところも多いのだが、それですべて矛盾がないというものでもない。「カオスとは未解読の秩序である」というのが最初に引用される言葉だが、この言葉通り、この映画もカオスのままに留まっているのだろう。

 監督はこの映画を「1+1=1」という等式で説明している。この等式は『灼熱の魂』を説明することも可能なものであり、『複製された男』ではアダムもアンソニーも実は同じ人間だというのがオチだ。つまりアンソニーはアダムの幻想なのだ(だからといって辻褄が合うわけではないが)。
 冒頭の秘密クラブから始まって、蜘蛛のイメージはアダムを捕らえて離さない。この蜘蛛はラストでも唖然とさせてくれるわけだけれど、その象徴するものは女の存在に関わっている。アダムは歴史の授業で「支配の方法」について語っている(同じ台詞は二度も繰り返され強調される)。支配には教育や情報統制など様々な方法があるが、母親(イザベラ・ロッセリーニ)の手段は愛情と言えるだろう。アダムにとってそれは束縛であり、アダムは母親という女に支配されている。
 ちなみにレンタルビデオ屋のシーンでは、『妖怪巨大女』というC級映画のポスターが貼られている。この選択はもちろん監督の意図的なものだ。この巨大女というのは母親のような女であり、作品中に何度も現れる蜘蛛と同様のイメージなのだろう。
 母親はブルーベリーを食べることをアダムに勧めるが、アダムはそれを嫌っている。一方でアンソニーはブルーベリーを好んで食べている。アダムは母親の支配から逃れようと思い、アンソニーは受け入れているということだろう。また、メアリーという彼女(メラニー・ロラン)はいるけれども独身を通しているアダムに対して、アンソニーは結婚していて妻ヘレン(サラ・ガドン)が妊娠しているのも、アダムの支配から逃れようとする欲望を感じさせる。(*1)
 アダムはアンソニーとホテルで初めて相対したとき、「これは良くないことだ。間違ったことだ」と拒絶しているが、これは自分と同じ存在がいるという不快感ではなく、自分の隠された欲望を見せつけられたような不快感だったのだろう。最後には妻という蜘蛛の巣に絡め取られることを選ぶわけで、アダムがため息と共に安堵の表情を浮かべているようにも見えるのは、さらに逸脱していきそうな自分の欲望を、支配されることで押さえつけることに成功したことの安堵だったのかもしれない。

 砂塵にまみれたような黄色い画調が印象的な『複製された男』は、蜘蛛という象徴もあって、『渦』というヴィルヌーヴの過去作品を思い出させる。“渦”という象徴と青い水のイメージが鮮烈だった『渦』は、一度劇場で観ただけで詳細はほとんど覚えていないのだが、アマゾンでも中古品しか扱ってないようだ。昨年閉館した銀座テアトルでは、最後のラインナップに『渦』が入っていたし、やはり評判はよかったのだろう。ドゥニ・ヴィルヌーヴがこうして注目されていることだし、再ソフト化してほしいものだ。多分レンタル屋ではエロチック・サスペンスといった棚にひっそりと置かれることになるのかもしれないけれど……。

(*1) アダムとアンソニーの女の趣味は似通っている。妻役で妊婦ヌードを披露するサラ・ガドンも、彼女役のメラニー・ロランも、金髪碧眼という点は共通している。ただ妻はこれから母親という蜘蛛=巨大女になる存在であり、アダムはそうした支配から逃げ出したかったのだろう。

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ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品
Date: 2014.07.26 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『眠れる美女』 3人の“眠れる美女”と、その周囲が考える“尊厳”について

 『夜よ、こんにちは』『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』などのマルコ・ベロッキオ監督の最新作。昨年10月から劇場公開され、今月に入ってDVDがレンタル開始となった。

マルコ・ベロッキオ 『眠れる美女』 植物状態のローザとその母親(イザベル・ユペール)

 イタリアで実際に起きたエルアーナ・エングラーロの尊厳死事件を題材とする作品。ベロッキオ監督は、この事件に対する周囲の反応への「高ぶった感情」からこの映画を製作したとのこと。
 この映画は3つの物語が並行して綴られていく。それぞれのエピソードにつながりはないが、テーマはすべて尊厳死の問題が横たわっている。
 1つ目のエピソード。17年間も植物状態にあるエルアーナの尊厳死を求める親と、カトリック教徒に取り入るための政治的配慮から延命措置を続けようとする議会の対立があるなか、議員のウリアーノ(トニ・セルヴィッロ)はその延命措置継続する法案に賛成するか否かで悩んでいる。ウリアーノはかつて妻の願いを聞き入れ尊厳死を叶えてやったことがあり、エルアーノの親の立場がわかるからだ。逆に娘のマリア(アルバ・ロルヴァケル)はカトリック的な信念から延命措置を続けるほうを望んでいて、こうした考えの相違によりふたりはすれ違っている。
 2つ目のエピソード。医師のパリッド(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ)は自殺志願の女ロッサ(マヤ・サンサ)を間一髪のところで助ける。薬物依存で死んでしまいたい女と、医師として彼女を助けたい男。女は睡眠薬で眠り続け、男はその女を見守り続ける。
 3つ目のエピソード。植物状態で眠り続ける娘ローザを看病する元女優の母親(イザベル・ユペール)と、母親のように俳優に憧れる息子がいる。母親は神に祈りを捧げ、奇蹟を待ち続けているが、息子は伝説的女優としての母親のキャリアを大事に思い、その邪魔になる妹の存在が疎ましく、延命措置をやめさせたいと考えている。

『眠れる美女』 ウリアーノ(トニ・セルヴィッロ)とマリア(アルバ・ロルヴァケル)は一時は和解するが……

 どの物語も尊厳死に対する対立の構図があるのだが、最も幸福な終わり方をしているのが、2つ目のエピソードだろう。医師パリッドは自殺志願の女ロッサをひたすら見守り続けることで、女を生に留まらせることにひとまずは成功する。女は死にたがり、男はそれを阻止するという対立関係にあるのだが、ここではふたりのほかに夾雑物はない。宗教的信念も政治的企みも何もない。女は死ぬ自由があると主張し、男は医師としてまたは人間愛としてそれを止める自由があると主張する。双方の考えは対立しているが、外野からの横やりがないだけ純粋な対立だ。
 それに対してほかの2つのエピソードでは、二度と覚めないかもしれない“眠れる美女”を巡っての対立だが、それは当事者同士のやりとりではない分、余計な雑音が多く、複雑になり、より混乱を増している。

 1つ目のエピソードでは、マリアはエルアーナの延命措置継続を求める集会に参加し、反対派の頭のおかしな青年に水をぶっかけられるトラブルに遭遇する。マリアは宗教的信念に囚われた存在だが、このトラブルのあと目を覚ましたようにも見える。そして“眠れる美女”エルアーナの状況などそっちのけで、トラブル男の兄との恋に夢中になってしまう。マリアは「愛って見る目を変えるのね」と自分で語るように、かつての出来事の解釈を変更することになる。母の最期にも延命措置に対する考えの対立から溝が生じていた父と娘だが、病室で父が母親を抱きしめていたことを再発見することで、父の母親に対する愛情を感じ、父親と和解することになるのだ。しかし父親が実際にしたことは母親の死の手助けであり、父がすべてを告白した手紙を読むことで、恐らくふたりの間には決定的な亀裂が生じるであろう含みを残しつつ終わる。
 3つ目のエピソード。ローザの母親は狂信的なまでに奇蹟にこだわっている。1日を終えてローザの側のソファーで休むとき、その夢のなかでは元女優の血なのか、マクベス夫人の台詞を謳い上げる。マクベス夫人の台詞は人を殺した罪悪感から逃れられないという狂気が言わせたものだった。ローザが植物状態にある理由は何も語られないのだが、マクベス夫人の台詞から推測すれば、母親は自らにその原因があると考えているようだ。母親のローザに対する何らかの罪悪感があればこそ、眠りについたときに深層意識が現れたのだろう。つまり母親が延命措置を望むのは、罪悪感からの自己保身にすぎないとも思えるのだ。
 マリアもローザの母も純粋に延命治療を望んでいるのとは違う。宗教的な信念や罪悪感といった余計なものが“眠れる美女”を延命させたいと望ませているのだ。“尊厳死”などと言ってみても、その尊厳を受けるべき人は何の反論もできないわけで、周囲の考える勝手な思い込みにすぎないのかもしれない。
 マルコ・ベロッキオがこの映画を製作することになった「高ぶった感情」も、外野からの過干渉に対する違和感があったのではないだろうか。だから2つ目のエピソードのように、当事者だけの関係だけにはちょっとした希望を滲ませているのではないか。もちろんこれは一時的なものかもしれず、同僚の医師が言うようにロッサは「この先10年も周囲に迷惑をかけ続ける」ことになるのかもしれないのだが……。
 イザベル・ユペールの見下すような冷たい視線はいつもにも増して強烈だし、水をぶっかけられて戸惑うアルバ・ロルヴァケルの存在もとてもよかった。

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Date: 2014.07.19 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

東京国際映画祭グランプリ 『もうひとりの息子』  そしてみんな仲良くなる?

 2012年の東京国際映画祭で、最高賞の東京サクラグランプリと優秀監督賞を獲得した作品。
 日本での劇場公開は昨年10月からで、今月になってDVDがレンタル開始となった。

ロレーヌ・レヴィ 『もうひとりの息子』 取り違えられた息子とその母親たち


 テルアビブのイスラエル人ヨセフ(ジュール・シトリュク)は兵役の際の血液検査により、両親の本当の子どもではないことが判明する。実は18年前の湾岸戦争の混乱で子どもの取り違えがあったのだ。ヨセフはヤシン(メディ・デビ)というアラブ人と取り違えられていた……。

 “子どもの取り違え”という事件を扱っているということで、『そして父になる』をどうしても思い出させる。ただ『もうひとりの息子』の場合は、ほかの要素も多い。舞台はイスラエルで、取り違えられるのはユダヤ人とアラブ人という敵同士の子どもなのだ。取り違えの原因も『そして父になる』では看護婦の悪意だったが、この映画では湾岸戦争時の社会の混乱が影響している。取り違え事件をきっかけにして父親の成長が描かれた『そして父になる』に対して、『もうひとりの息子』の場合は個人的な問題よりも、より社会的な問題(民族の対立や宗教)に焦点を当てるものになっている。

 『そして父になる』の場合、双方の家族は日本人同士であるため、取り違えが生じるのはわからなくもないし、実際に起きた事件をもとにしている。しかし『もうひとりの息子』の場合は民族が違うから、実際にそうしたことが起こり得るのかは、私にはちょっとわかりかねる。上のチラシの写真などを見ると、イスラエル人の母親(エマニュエル・ドゥヴォス)から見た本当の息子ヤシンよりも、もうひとりの息子ヨセフのほうが彼女に似ているように見える。そんな意味でこの設定にリアリティがあるのかは疑問も残るが、テーマの重要性のほうを論じるべきなのだろう。この映画は、ユダヤ系のフランス人女性監督ロレーヌ・レヴィの手によるもので、幾分か自分の出自の混乱に対しての希望的観測が入り混じっているのかもしれない。

『もうひとりの息子』 左がイスラエル人として育ったヨセフで、右がアラブ人として育ったヤシン。本当の出自は逆になるわけで、イメージとは異なるような……。

 私が思い描くユダヤ人のイメージとアラブ人のイメージは、映画などで見る程度の浅薄なものでしかないわけで、外国人が日本人を「出っ歯でカメラを片手に観光地を回っている」とイメージするくらいの型どおりで思い違いに満ちたものなのだろう。『もうひとりの息子』を観ると、ユダヤ人とアラブ人のそれぞれのイメージはそれほど明確なものではなくなってくる。母親たちはそれぞれの文化的背景を反映したような着こなしをしていて違いは明確に見えるが、それぞれの父親はどちらがユダヤ人でどちらがアラブ人なのかよくわからないのだ。
 私は先に何となく「民族が違うから」などと記したが、これは間違いとは言わないまでも、厳密には不明瞭な部分を含むのかもしれない。たとえば山内昌之『民族問題入門』などを読むと、「民族」とか「国民」とか「人種」などは明確に定義することが実は難しいものなのだそうだ。日本のように多少の例外はあっても「民族」と「国民」と「人種」が等しいものと考えられる国ばかりではないのだ。
 ユダヤ人として育ったヨセフだが取り違えの事実が判明すると、ラビに「お前はユダヤ人ではない」と宣告されてしまう。これはユダヤ人の定義が、「ユダヤ人の母親から生まれたこと」とされているためで、それを否定された途端、ヨセフはユダヤ人ではなくなってしまうのだ。実はユダヤ人の定義としては、「ユダヤ教を信仰する者」とする場合もあるようだが、ここでは前者の定義で考えられているようだ(ヨセフはもちろんユダヤ教徒として生きてきた)。とにかく「人種」という自明のものと思われているものも、実際は世の中の決め事にすぎず、明確な根拠などないあやしいものなのだ。
 この映画は“子どもの取り違え”を通して、「民族」とか「人種」など、通常自明とされているものをもう一度考え直すための重要な問題提起を行っている。今まで息子だと思って育ててきたのに、その息子に敵側の血が流れていると判明したからといって、急に憎しみが沸くわけではない。むしろ敵だと思っていた彼らも自分たちと何も変わらない存在だと知り、これまで反目の歴史をも疑問視させるのだ。
 ただこの映画が孕む問題があまりに大きすぎたのか、ラストは性急でいささか甘い印象も否めない。現実のイスラエルでは、つい先日も空爆が行われたりしてきな臭い状況が続いているのだ。ラストがいまひとつ腑に落ちないのも、この問題がそう簡単に答えを出せるものではないということ示してもいるようだ。

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Date: 2014.07.14 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

『私の、息子』 馬を水飲み場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない

 2013年ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したルーマニア映画。

ベルリン映画祭金熊賞 『私の、息子』 「CHILD'S POSE(胎児の姿勢)」は原題。  

 ルーマニアの上流階級に位置する母親コルネリア(ルミニツァ・ゲオルギウ)と、その支配から逃れたい息子バルブ(ボグダン・ドゥミトラケ)の物語。この息子はもう30歳を過ぎているのに、未だ大学院生という立場で、母親の心配の種になっている。というよりも、次のように言ったほうが正確かもしれない。母親は子離れできずストーカーまがいに息子に干渉し、息子はそれが嫌で母親を疎ましく思い、さらにひどい態度をとるという負の連鎖を引き起こしている。
 バカな親がバカな子供を再生産するという図式。これだけでも愉快な話ではないが、この親子のパーソナリティーも不快さを増す。母親は周囲に対して居丈高な態度を崩さないし、甘やかされた息子は第二次性徴期の不安定な子供みたいに母親を罵倒したりするのだ。
 そんなある日、息子が交通事故で誤って見知らぬ子供をひき殺してしまう。母親は息子のために事故の処理を穏便に済まそうとして奔走する。金や人脈を最大限に利用して事故のもみ消しを図るのだ。すべては息子のためなのだけれど、傍若無人な振る舞いは特権階級にいる者の傲岸不遜さを表している。(*1)

『私の、息子』 母親はルーマニアの特権階級に属する。

 母親の仕事はインテリア・デザイナーだが、舞台美術の仕事もこなしている。事故の連絡を受けた際も、オペラの稽古中だった。そこでは演出家らしき人物は、演者のそばに付き添って声の出し方や身振りを細かく指導している。これは母親が彼の息子に対してしていることそのものであり、事故以来、母親は息子の側に寄り添っていちいち指示を与えていくことになる。しかし、本番のオペラではそれは通用しないし、現実においても息子は常に母親の指示を仰げるわけではないのだ。
 ラストでの息子の変化も、母親の指図とは別のところから生じたものだった。被害者家族へ会いに行く場面、息子はその家の前までは行くものの、車から出て直接謝罪しようとはしない。「馬を水飲み場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざがある。馬でさえ飲みたくない水は飲まないのだから、わがまま息子は言うまでもない。息子は母親の手を離れたひとりの人間だし、すべてを思いのままに扱うのは当然のことながら無理な相談なのだ。
 母親は土壇場になっても現実と向き合おうとしない息子を前に、初めて弱音を吐く。一歩被害者の家に踏み込めば、被害者家族に怒りで暴力を振るわれたりするかもしれないし、経験のない修羅場が予想されるだけに、いかに老練な母親とは言え不安だったのだ。
 被害者家族との長いやりとりでも、母親のやり方が真っ当だとは思えない。最初は哀悼の意を表してはみるものの、結局最後には息子を殺された親の感情をさておいて、「自分の息子の将来を壊さないで」と哀願するのだから……。ただ、泣きながら車に戻ってきた母親を見て、息子は意外な行動にでる。被害者の父親と言葉を交わしにいくのだ。交わされた言葉はわからないが、車に戻ってきた息子は母親と同じように涙を流している。母親の説得には決して応じることのなかった息子だが、情にほだされる形で母親の願いに屈するのだ。
 「理を尽くしても人は説得できない」というラストからして、女性監督の実体験による反省と気づきがそうした展開を促しているのかと推測したのだが、カリン・ペーター・ネッツァー監督は男性のようだ。それでもこの映画では、母親の心理の機微を丁寧に捉えている。母親を演じたルミニツァ・ゲオルギウのうまさもあるだろうが、息子から見た母親のウザい感じは妙にリアルだった。ただ、そのリアルさは傲岸不遜な人物への不快感へつながるため、ラストのわずかな希望よりも、もやもやした不快感ばかりが残る映画とも思えた。

(*1) ある映画批評家によれば、この映画はルーマニアのチャウシェスク政権の傷跡が感じられる映画なのだとか。たとえば息子の恋人に対する極端な潔癖症は、かの時代の不安感の表れなのだとか。私自身はルーマニアについてほとんど何も知らないので、そのあたりはよくわからなかった。

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Date: 2014.07.09 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

芦田愛菜ちゃんの主演作 『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』 子供から見た世の中

  『世界の中心で、愛をさけぶ』『春の雪』『つやのよる』行定勲の最新作。
 テレビなどでも人気者の芦田愛菜ちゃんの主演作。先日、『告白』を観直してちょっと驚いたのだけれど、芦田愛菜ちゃんは中島哲也『告白』にも出演していて、主役の松たか子の娘役という重要な役どころだった。まだ小学生なのに、こんな出演履歴があるとは……。
 行定勲監督はこの映画の製作に当たって、小津安二郎『生まれてはみたけれど』『お早う』や相米慎二『お引越し』などの子供映画を意識していたとのこと。これらの映画はもちろん名作だけれど、『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』もなかなか健闘してると思う。『円卓』は、より子供の視点が強調されていて、大人になって忘れてしまったかもしれない感覚を思い出させてくれる映画になっている。

『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』 主役こっこを演じる芦田愛菜ちゃん

 担任の先生(丸山隆平)は、こっこ(芦田愛菜)が校庭の片隅で寝転がって顔にうさぎを乗せているのを見て、「子供の考えることはわからん」みたいなことを口走るのだけれど、そんな先生だって元は子供だったはずで、彼自身もそれほど成熟しているようにも見えないのだけれど、それでも子供のころの感覚はまったく忘れてしまっている。『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』は、そんな忘れてしまった子供の目線から見た世の中が描かれている。
 こっこには6つの目がある。そのうち4つは髪をツインテールにするための髪留めについた飾りだが、これは世の中のことを漏れなく見てやろうという意欲の表れだ。こっこは珍しいもの・新しいものに興味津々で、新奇なるもの=カッコイイであり、こっこにとって世の中は発見と驚きに満ち溢れたところなのだ。
 たとえば「ものもらい」という病気は、眼帯という見慣れない装いを伴うためにカッコイイのだ。また、「ものもらい」が別の言い方では「めばちこ」となったり、「ばくりゅうしゅ」となったりするというのも初めて知ることだし、こっこはそんな発見を誰にも見せることのないジャポニカ学習帳に書き留めて大切にしている。その最初のページに書かれているのが「こどく」という言葉で、父母と祖父祖母、姉は3つ子という賑やかなこっこの家庭では感じたことのないカッコイイものなのだ。

 一方でこっこはカッコイイことを純粋に大事にするあまり、ちょっと困ったところもある。「ものもらい」がカッコイイから真似して眼帯をするくらいなら可愛らしいのだが、クラスメイトが不整脈で倒れたのも同じように扱うとなると話が違ってくる。こっことしては、初めて聞く病気や卒倒といった事態がカッコイイと感じられたわけだけれど、そんなことを真似されるのは傍迷惑なわけで、周囲からは「ウザハラ」(本名は渦原)と呼ばれるし、心配した先生からは嘘をたしなめられることになる。
 こっこにはそんなことを真似してはいけないということがまだわからないのだ。吃音を真似してみたり、在日朝鮮人の存在もわけもわからずカッコイイと騒ぎ立てるのだが、そこに悪意はない。ただ純粋にカッコイイと思っているだけなのだが、傍から見ればこっこはKY(空気読めない)のときがあるのだ。
 それでもこっこの周りには色々なことを学んでいくのに十二分な環境がある。意図せずしてクラスメイトを傷つけてしまっても、それについて相談するぽっさん(伊藤秀優)という親友がいるし、いつも円卓を囲んで食事をするような家族にも恵まれている。だからKYにならないような分別というものも、次第に学んでいくことになるだろう。こっこの祖父(平幹二朗)はあるヒントを出してくれる。それは「イマジン」という言葉だ。相手の立場になって想像することができるようになれば、こっこは少しだけ大人に近づくのだろう。
『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』 こっこはものもらいを真似して眼帯をつけてみる。
 夏休みの暑い暑い昼下がり、こっこは奇妙な男(森山開次)に遭遇する。銀鼠色に輝くボディスーツを着た男が身体をくねらせながら現れたかと思うと、「ご尊顔を踏んでくれはるのん」と意味不明な言葉を発しつつ近づいてくるのだ。「うっさい、ボケ!」というのが口癖のこっこでも、これにはさすがに驚きは隠せなかったが、一応その奇妙な出来事に付き合うことになる。(*1)
 こっこは変質者の立場になってイマジンしてみる。こっこにとって彼は珍しい存在ではあっても、カッコイイというよりは不気味だったに違いないはずだが、「変質者」という分類を知らないこっこは、彼の行動の意味をこっこなりにイマジンしてみるわけだ。こっこはとりあえず世話をしている学校のウサギを顔に乗せてみる。先生が出くわしたこっこの奇妙な行動は、そうした意味ある行動だったのだ。こっこがそれで快感を得たとは思えないが、世の中には様々な人がいるということを学ぶためのいい機会にはなっただろう。そんなイマジンの練習が、不登校がちなクラスメイトへの助け舟となり、こっこ自身の成長につながる。そんなラストのメッセージもきわめて真っ当なものだと思う。
 芦田愛菜ちゃんをはじめとする子供たちは、自然というよりは演技過剰な部分もあるが、これは意図的なものだろう。常に先生に媚を売る女の子も登場するが、周囲の目を気にしない子供ってそんなわざとらしいところもあったような気がする。騒がしい関西風のノリも楽しい。

(*1) 変質者と小学生というかなりきわどい設定。うだるような夏の陽射しに朦朧とした頭が描いた妄想のようにも見えるが、後にしっかり現実として回収している。最後の鹿の登場も幻想的ではあるが、これも動物園からの脱走という現実であり、子供にとっては現実世界も奇妙な世界として現れているのかもしれない。

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行定勲監督の作品
Date: 2014.07.06 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)
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Author:Nick
新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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