河瀨直美監督 『2つ目の窓』 奄美の海は美しいが……
河瀨直美監督の最新作。監督自身が“最高傑作”と銘打ってカンヌ映画祭に出品した作品。
出演は村上虹郎、吉永淳、杉本哲太、松田美由紀、渡辺真起子など。
この映画は奄美大島を舞台にして河瀨監督の死生観を描いている。
主人公は16歳の杏子(吉永淳)と界人(村上虹郎)。杏子は母親イサ(松田美由紀)の死を間近にしている。イサはユタ神様と呼ばれ、死者の声を聞く役割を果している。その意味でイサはこの世とあの世の境界にいる。また、東京から奄美にやってきて、今では母とふたり暮らしの界人は、父のいる東京へ戻ってみたりする存在で、こちらも奄美と東京の境界にいることになるのかもしれない。界人という名前もそんなイメージを表しているのだろう。
“2つ目の窓”とは何か? 私の勝手な解釈では、ユタ神様が見るような「この世の窓」とは別にある「あの世の窓」のことであり、界人の見るような「東京の窓」とは別の「奄美の窓」、そんな“2つ目の窓”なんじゃないかと思う。監督自身の言葉によれば、そんなことだけに限定されない広い意味を込めたものとのことだが……。

『2つ目の窓』の陽に焼けたふたりの16歳は、幼なじみのようにも、似たもの同士にも見えるが、強く惹かれあっているのとは違う気がする。だから杏子が「好き」と言ってみたりするのも、思い悩んだ末の告白などとは違う軽い調子だ。また「セックスしよ」と野性的な眼差しで誘ってみたりするのも、恋愛とか性欲めいたものも感じさせない。
杏子がそんなことを口走るのは、母親イサの死を強く意識したからだ。同時に、杏子は亀爺(常田富士男)に、曾ばあさんに似ているとも称される。つまりここでは生命のつながりが意識されているのであって、セックスというのは取りも直さず子作りということなのだろう。だから界人はそれに応えることができなかったのかもしれない(のちに杏子には「覚悟がない」とも指摘される)。
“生命の連鎖”というテーマは『朱花の月』のときにも記した。この『2つ目の窓』では、その生命のつながりの範囲はさらに拡大している。人間だけが生命の連鎖のなかにいるのではない。二度も(二匹も)屠られるヤギもそうだし、ガジュマルの木もそうなのだ。サーフィンで海と一体になる感覚などが散々語られることからも、人間が自然そのものともつながっているという死生観が提示されているのだ。
最後にふたりは海と陸の境界にあるマングローブの林のなかで結ばれ、海のなかに生まれたままの姿で入っていく。奈良の緑が印象的に捉えられてきた河瀨作品のなかで初めて生命の源である海が登場するわけだが、人間と自然の一体感がより一層強調されて、テーマが明確になったと思う。また、奄美の海のブルーはとても美しい。

決して悪くはないこの映画だが、界人の成長過程を描く部分には違和感がある。界人は未だ両親の離婚をうまく了解することができず、母親が父親以外の男といるのにも嫌悪感を覚えている。(*1)だからといって母親を「淫乱」と罵ってみたり、姿が見えなくなると急に不安になって「お母さんは俺が守る」などと叫ぶあたりの乱心ぶりは、ほかの場面がごく自然に撮られているのと比べ、あまりにも落差がありすぎる。
恐らく杏子の登場する部分は、奄美大島の習俗をそのまま取り入れたものなのだろう。イサの最期の場面で、集まった人たちが唄いながらイサを送り出すのも多分実際にあることなのだろうし、それらの描写はドキュメンタリーから出発した監督の手腕が冴えている。一方で界人のエピソードは、河瀨監督自身の生い立ちなど、プライベートな部分から構築されたものだと思われる。
“親との生き別れ”は河瀨監督の実体験でありオブセッションのようなもので、ドキュメンタリー作品『につつまれて』でも、劇映画『萌の朱雀』でも扱われたテーマだ。また生き別れた父親が刺青男だというエピソードは、ドキュメンタリー作品『きゃからばあ』(未見だが予告編でもその父親に対する執着がわかる)に描かれているらしく、そうした個人的な思い入れの強さが界人の叫びとなっているわけだけれど、そこだけがテーマから離れて特出しているような印象を受ける。
河瀨直美は自分のことを晒して映画を撮ってきた人で、ドキュメンタリーで自らにカメラを向けることを選択したからには、自己に拘泥していくのは避けられないのかもしれない。しかし対象に自分を選びながら、それを反省的に見るのではなく、どこか自分に酔ってしまう部分もあるようだ。余程自己陶酔に陥っていなければ、海のなかで少年少女を全裸で戯れさせるなんてことはできないだろうし、宣伝を兼ねているとはいえ自作を“最高傑作”など言ってのけることもないだろうとも思う(チャップリンはまだ撮っていない次作を“最高傑作”と言ったわけだが)。
もちろん河瀨作品は嫌いではないのである。応援しているくらいのつもりだ。ただ河瀨監督の手法が活きる作品もあれば、うまくいかないものもあるとは思う。個人的な好みを言えば、やはり自己陶酔がすぎる『殯の森』はダメで、『萌の朱雀』『沙羅双樹』はとてもいいと思う。
(*1) この映画で界人の父親を演じているのは村上淳。村上淳は界人役の村上虹郎の実父で、『沙羅双樹』で音楽を担当していたUAは実母だという。やはり命のつながりというものを意識しているのだろうか?




その他の河瀨直美作品

出演は村上虹郎、吉永淳、杉本哲太、松田美由紀、渡辺真起子など。
この映画は奄美大島を舞台にして河瀨監督の死生観を描いている。
主人公は16歳の杏子(吉永淳)と界人(村上虹郎)。杏子は母親イサ(松田美由紀)の死を間近にしている。イサはユタ神様と呼ばれ、死者の声を聞く役割を果している。その意味でイサはこの世とあの世の境界にいる。また、東京から奄美にやってきて、今では母とふたり暮らしの界人は、父のいる東京へ戻ってみたりする存在で、こちらも奄美と東京の境界にいることになるのかもしれない。界人という名前もそんなイメージを表しているのだろう。
“2つ目の窓”とは何か? 私の勝手な解釈では、ユタ神様が見るような「この世の窓」とは別にある「あの世の窓」のことであり、界人の見るような「東京の窓」とは別の「奄美の窓」、そんな“2つ目の窓”なんじゃないかと思う。監督自身の言葉によれば、そんなことだけに限定されない広い意味を込めたものとのことだが……。

『2つ目の窓』の陽に焼けたふたりの16歳は、幼なじみのようにも、似たもの同士にも見えるが、強く惹かれあっているのとは違う気がする。だから杏子が「好き」と言ってみたりするのも、思い悩んだ末の告白などとは違う軽い調子だ。また「セックスしよ」と野性的な眼差しで誘ってみたりするのも、恋愛とか性欲めいたものも感じさせない。
杏子がそんなことを口走るのは、母親イサの死を強く意識したからだ。同時に、杏子は亀爺(常田富士男)に、曾ばあさんに似ているとも称される。つまりここでは生命のつながりが意識されているのであって、セックスというのは取りも直さず子作りということなのだろう。だから界人はそれに応えることができなかったのかもしれない(のちに杏子には「覚悟がない」とも指摘される)。
“生命の連鎖”というテーマは『朱花の月』のときにも記した。この『2つ目の窓』では、その生命のつながりの範囲はさらに拡大している。人間だけが生命の連鎖のなかにいるのではない。二度も(二匹も)屠られるヤギもそうだし、ガジュマルの木もそうなのだ。サーフィンで海と一体になる感覚などが散々語られることからも、人間が自然そのものともつながっているという死生観が提示されているのだ。
最後にふたりは海と陸の境界にあるマングローブの林のなかで結ばれ、海のなかに生まれたままの姿で入っていく。奈良の緑が印象的に捉えられてきた河瀨作品のなかで初めて生命の源である海が登場するわけだが、人間と自然の一体感がより一層強調されて、テーマが明確になったと思う。また、奄美の海のブルーはとても美しい。

決して悪くはないこの映画だが、界人の成長過程を描く部分には違和感がある。界人は未だ両親の離婚をうまく了解することができず、母親が父親以外の男といるのにも嫌悪感を覚えている。(*1)だからといって母親を「淫乱」と罵ってみたり、姿が見えなくなると急に不安になって「お母さんは俺が守る」などと叫ぶあたりの乱心ぶりは、ほかの場面がごく自然に撮られているのと比べ、あまりにも落差がありすぎる。
恐らく杏子の登場する部分は、奄美大島の習俗をそのまま取り入れたものなのだろう。イサの最期の場面で、集まった人たちが唄いながらイサを送り出すのも多分実際にあることなのだろうし、それらの描写はドキュメンタリーから出発した監督の手腕が冴えている。一方で界人のエピソードは、河瀨監督自身の生い立ちなど、プライベートな部分から構築されたものだと思われる。
“親との生き別れ”は河瀨監督の実体験でありオブセッションのようなもので、ドキュメンタリー作品『につつまれて』でも、劇映画『萌の朱雀』でも扱われたテーマだ。また生き別れた父親が刺青男だというエピソードは、ドキュメンタリー作品『きゃからばあ』(未見だが予告編でもその父親に対する執着がわかる)に描かれているらしく、そうした個人的な思い入れの強さが界人の叫びとなっているわけだけれど、そこだけがテーマから離れて特出しているような印象を受ける。
河瀨直美は自分のことを晒して映画を撮ってきた人で、ドキュメンタリーで自らにカメラを向けることを選択したからには、自己に拘泥していくのは避けられないのかもしれない。しかし対象に自分を選びながら、それを反省的に見るのではなく、どこか自分に酔ってしまう部分もあるようだ。余程自己陶酔に陥っていなければ、海のなかで少年少女を全裸で戯れさせるなんてことはできないだろうし、宣伝を兼ねているとはいえ自作を“最高傑作”など言ってのけることもないだろうとも思う(チャップリンはまだ撮っていない次作を“最高傑作”と言ったわけだが)。
もちろん河瀨作品は嫌いではないのである。応援しているくらいのつもりだ。ただ河瀨監督の手法が活きる作品もあれば、うまくいかないものもあるとは思う。個人的な好みを言えば、やはり自己陶酔がすぎる『殯の森』はダメで、『萌の朱雀』『沙羅双樹』はとてもいいと思う。
(*1) この映画で界人の父親を演じているのは村上淳。村上淳は界人役の村上虹郎の実父で、『沙羅双樹』で音楽を担当していたUAは実母だという。やはり命のつながりというものを意識しているのだろうか?
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