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中島哲也監督 『渇き。』 バケモノを描くことの難しさ

 『下妻物語』『嫌われ松子の一生』などの中島哲也監督の最新作。
 出演は役所広司、小松菜奈、妻夫木聡、二階堂ふみ、橋本愛など。

中島哲也 『渇き。』 主役のふたり。役所広司と小松菜奈。


 元刑事の藤島昭和(役所広司)に離婚した妻(黒沢あすか)から連絡が入る。娘の加奈子(小松菜奈)が失踪したのだという。藤島が娘を探し出すために調査を開始すると、次第に加奈子の周囲には不良グループやヤクザが絡む事件が生じていることが明らかになる。加奈子を追ううちに、藤島も次第に常軌を逸していく。

 「愛する娘は、バケモノでした。」というコピーにも示されているが、加奈子は社会学者・宮台真司の言うところの“脱社会的存在”だろう。宮台によれば反社会的存在とは別に、脱社会的存在がいる。たとえば、ヤクザなどは反社会的勢力などと呼ばれるが、彼らは一応社会のルールは前提としているが、それに対抗するような存在だ。他方、脱社会的存在とは、社会のルールそのものを欠落させたような存在であり、たとえば『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士のようなバケモノなのだ。ヤクザ組織はたかだか金が目当てだから交渉が成り立つかもしれないが、レクター博士の場合そう単純にはいかない。
 中島哲也の前作『告白』でも、“脱社会的存在”がいた。松たか子演じる先生と対決することになる修哉がそうだ。しかし先生自体も娘を殺され、その父親(つまり夫になるべき人)も喪い、脱社会的存在となりつつあった。『告白』では、主要な登場人物は多かれ少なかれ脱社会的存在ではあるが、『告白』という題名にもある通り、誰かに向かって自己弁護をしてくれる程度の社会性は持ち合わせていた。なぜ脱社会的存在となったのかを自ら説明してくれるほど、わかりやすい存在ではあったのだ。
 一方、『渇き。』の加奈子は完全に脱社会的存在となりきっている。加奈子は告白もしなければ、泣き言も言わない。理解不能な存在なのだ。加奈子については、周囲の人物からの間接的な証言はあっても、最後まで彼女自身が父親の前に姿を現すわけではない。これは加奈子が脱社会的存在であり続けるための配慮だろう。加奈子が登場する場面は、細かいカットをつなげてポップな雰囲気で見せるものの、なぜ加奈子が“悪魔”呼ばわりされるほど怖がられ、同時に同級生たちを堕落の道へ引きずり込むほどの魅力があるのかは、いまひとつ伝わってこない。彼女はわかりやすさとは無縁の存在であり、常人の解釈の範疇を超えるような存在でなければならない。長々とスクリーンに登場したり、父親に向かって事情を説明するようなことをすれば、理解可能な範疇に堕してしまう。加奈子が最後まで父親に捕まらないのは、彼女に与えられた役割からして当然のことだろう。(*1)

『渇き。』 加奈子はその魅力で誰でも思いのままに操る。

 もっとも父親の古臭さでは、加奈子の足跡を捕まえることはできるはずもない。父親の役名は、原作と映画では名前がわざわざ変えられているとのこと。「藤島秋弘」から「藤島昭和」へと。この父親が「昭和」的な存在であるのは明らかで、その車とか、麻のスーツとか、瓶ビールを呷り終始汗まみれのあたり、父親が古臭い時代を脱していないことを示している。
 一方で加奈子は新時代の若者と言えるのかもしれないが、それ以上に明確に彼女の自己認識を示す場面もある。加奈子は『不思議の国のアリス』のアリスなのだ。その存在はワンダーランドという異世界の住人であり、その夢のような世界では何でもありなのだ。だから「昭和」という古い社会を未だにひきずっている父親には、そうした異世界に辿り着くことも、加奈子を見つけることもできないのだ。
 ただそんな脱社会的存在である加奈子が魅力的だったかというと、首を傾げざると得ない(演じる小松菜奈の存在はいいと思うが)。加奈子をほとんど異世界の存在にするあまり、彼女が具体的な像として結ばれることがないからだ。作品そのものも共感できる存在は皆無で、加奈子を追い求めて這いずり回る父親のキチガイぶりばかりが目立つ映画になってしまっていたと思う。
 一番の見所は、ほとんど不死身の父親役・役所広司と、シャブ中ゾンビのオダギリジョーとの対決場面だろうか。にやけキャラの妻夫木聡もそれなりにいい味を出していた。

(*1) 加奈子にも理解可能な解釈の仕方があったのかもしれない。仲のよかった緒方を自殺に追い込んだ不良たちへの復讐という物語がそれだ。たしかにそういう面もあるが、緒方のことを殺したとも言っている。次に加奈子に篭絡されるボクについては、緒方亡き後の自殺の手段かとも思えたのだが、結局それすらも否定される。やはりわかりやすい存在ではないようだ。

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中島哲也の作品
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Date: 2014.06.27 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

ギドクの問題作 『メビウス』 私は父で、母は私で、母は父である(意味不明?)

 キム・ギドクの最新作(第19作目)。
 諸事情により公開が遅れている『メビウス』だが、新宿シネマカリテにおける映画祭カリコレ2014のクロージング作品として2回だけ上映された。
 ちなみに今回のバージョンは、海外で一般的に出回っているインターナショナル・バージョンとは異なり、ギドクが一部を再編集した日本オリジナル・バージョンとのこと。劇場公開は今冬の予定。
 出演は、ギドク映画の常連『悪い男』のチョ・ジェヒョンと、ソ・ヨンジュイ・ウヌなど。

キム・ギドク最新作 『メビウス』 中央がギドクのペルソナなどと呼ばれる“チョ・ジェヒョン”

 この日は上映前に映画評論家・塩田時敏と配給会社キングレコードの担当者とのトークショーも行われ、公開遅延の諸事情についても裏話が披露された。諸事情の詳細についてはここでは触れることはできないが(「書かれると色々都合が……」ということらしい)、とりあえずご立腹の様子だったとだけ記しておく。
 上映前、塩田氏から「乳首に注目せよ」との意味深な発言もあり。

 “近親相姦と去勢”という精神分析を匂わせるキーワードで語られているこの作品だが、観てみればそうした印象とは違うかもしれない。精神分析の見取り図には収まらないギドク印満載の映画になっていると思う。
 『メビウス』では、男たちは精神的に“去勢”されるわけではなく、実際にペニスを切除されてしまう。また、主人公の高校生(実際に15歳だったのだとか)の性行為が、演じる役者の年齢からしても際どいものであることも確か。とにかく万人に受けるような作品ではないだろう。
 前作の『嘆きのピエタ』も相当どぎついエピソードを含んでいるが、説明的な部分もあって、ギドク作品のなかでもわかりやすいし、テーマとしても母性愛など共感できるものでもあったため、ベネチア映画祭での金獅子賞の獲得ともなった。一方、『メビウス』は誰の共感も得られないし、賞レースとも無縁だろう。そのくらいぶっ飛んでいるし、ギドクは好き勝手にやっている(その分、公開を巡っては問題もあるようだが)。
 『嘆きのピエタ』でのしゃべらせすぎの反省かどうかはわからないが、『メビウス』では登場人物は一切口をきかない。うめき声やら悲鳴やらはあったとしても、誰一人として意味をなす言葉を発しない。一部、ウェブサイトの情報を提示する部分はあるが(英語だから詳細はわからないが)、そのほかはほとんど視線のやりとりや行動で物語が進んでいく。言うまでもなく不自然極まりないのだが、誰もが言葉を封じられ、行動だけで自らの意図や感情を示さなければならないという状況は、シュールなコメディのようだった。さりとて笑えるかと言えば、あまりに悪趣味な部分があって苦笑いといったところ。

◆物語は?
 冒頭の様子からすると、この映画で描かれる家庭は明らかに壊れている。朝から赤ワインを傾けている母親が最も狂気を帯びているが、どうやらその原因は父親にあるらしく、父親は母親を無視して愛人との情事に夢中らしい。息子は品行方正らしく見え、両親の激しいつかみ合いを見て唖然としている。
 事態は急に進行する。母親は父親(夫)の浮気現場を目撃し、その夜、父親のベッドへ向かう。父親のペニスを切り落とそうとするのだ。父親は咄嗟に跳ね除けるが、なぜか母親はその刃を息子に向けることになる。母親は寝ている息子のペニスを切り取って、しかもあろうことかそれを食べてしまう……。


 ※ 以下、ネタバレ全開です。鑑賞後にどうぞ。


『メビウス』 左上から右回りに、狂った母親、自殺志願の父親、去勢される息子、父親の愛人。


 ※ 結末にもかなり詳細に触れています。観ていない人はご注意を !



 ここまでが序盤だが、ほとんどあっという間に生じる出来事だ。あまりの性急さに唖然とさせられる。一応それは母親の狂気のなせるわざだが、狂気だとしても狂気は狂気なりに順を追って進行していくはずだと思うが、一気呵成にここまで描いてしまうのが、ギドクらしいと言えばギドクらしい。これらは与えられたシチュエーションであって、そうした状況から何が生まれてくるのか、そこにギドクの主眼があるものと推測する(設定にリアリティがないと非難しても仕方ない)。

 メビウスの帯(輪)の数学的な意味はわからないが、ごく一般的な理解では、表と裏がひと続きになっているような不思議な図形のことだろう。この『メビウス』もその題名の意味から推測すれば、よく理解できる。結論を言ってしまえば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、そうした表と裏の関係にあると思われているものも、実は皆ひと続きになっているということだ。

◆男⇒女⇒男
 ペニス切断事件のあと、狂気の母親は街を彷徨し、たまたま街角で会った“祈る人”を追いかけて姿をくらます。その後、父親は甲斐甲斐しく息子の世話を焼く。事件のきっかけが彼の浮気ということもあるのだろう。だがその後悔が自分のペニスを息子に移植することにつながるとは……。父親は自殺も考えるが、それは果たせず奇妙な贖罪の行動へと進む(これはひとりよがりの考えであり、ペニスは病院で保管され、後に再登場する)。
 というわけで、しばらくの間、父親と息子は去勢された男同士というややこしい関係にある。この間のふたりは妙に穏やかで馴れ馴れしく、互いを気遣う様子を見せる。言わば女性的な関係なのだ。
 父親は去勢された息子を心配し、ペニス抜きのマスターベーションの方法を探る。それは皮膚を擦ることで快感を得るという方法だった。蚊に刺されて皮膚を掻けば最初は心地いいが、やり過ぎれば痛みを伴う。石などで皮膚を擦れば次第に皮膚は傷つくのだが、皮膚が爛れるまで擦り続けることで、痛みは快感へとつながるらしい。もちろん快感のあとには苦痛が待っている。つまりここでは痛みと快感が表裏一体になっている(痛み⇒快感⇒痛み)。
 さらに息子は別のマスターベーションを見いだす。というよりもこれは一種のセックスとして機能しているようだ。息子は父親の愛人と接近し、別の方法を試す。ペニスがなく、痛みが快感につながるなら、人工的なヴァギナを拵え、それで快楽を得ようとするのだ。具体的にはナイフで身体を刺し、それを傷口に入れたまま振動させる。ナイフはペニスであり、その傷口はヴァギナであるというわけだ。
 この一連のシークエンスで意図されているのは何か?
 父親が見つけ息子がさらに発展させた方法は、去勢された男が女性的な存在として生きることを目論むものだ。父も息子もペニスを切り取って女性的な存在になるが、再びそれを縫合することで息子は男に戻る(男⇒女⇒男)。男と女は対の存在と思われているが、実はあまり差はない。そんなふうにギドクは考えるわけだ。男と女に裏も表もない。裏は表になり、またいつの間にか表が裏になるのがメビウスの帯(輪)であり、男が女になり、女が男になることも当然あり得るのだ。

◆メビウスの帯の結節点?
 息子が男に戻ったころ、母親は家に戻ってくる。すると憑き物が落ちたような穏やかな表情をし、その目からも狂気の妖光は消えている。そして、母親は切り取ったはずの息子のペニスが復活し、父親のペニスがないことに驚く。ここでは以前の正気と狂気の立場が入れ替わっていることにも気づかされるだろう(狂気⇒正気⇒狂気)。
 この映画全体が「家族の物語」だとすれば、「狂気の家族」が裏返って「正気の家族」に向かうと推測できるが、ギドクはそうはしなかった。この映画は家族関係の崩壊あるいは修復などにテーマがあるわけではないからだろう。
 家庭を出て一度は正気に戻った母親だが、家庭に戻ると途端に息子の寝込みを襲うようになる(直接的な近親相姦ではないが性的接触はある)。母親が欲望を息子に向けるのは、単に父親にはペニスがないからだ。一方、父親は妻を奪われたのを羨み、息子に与えたペニスを奪い返そうとする。こうしたすったもんだの挙句、家族の結末は悲劇に終わる。しかし、この絵に描いたような悲劇は現実の出来事でない。恐らく息子が見た夢だ。

 ラストシーンは“祈る人”の再登場だ。最初の登場では後姿しか見せなかった“祈る人”だが、ラストでは振り返って観客に向かって笑いかける。“祈る人”は息子だったのだ。ギドク監督本人が演じているような風貌の“祈る人”だが、それは意図的なミスリードだったようだ(『春夏秋冬そして春』などの俳優ギドクの姿を見ていると、そうしたミスリードをされやすいだろう)。最初の“祈る人”の登場は、息子がペニスを切られたシーンのあと。息子は病院に担ぎ込まれ、時を同じくして街を彷徨している母親が“祈る人”に出会うのだ。
 普通に考えれば、“祈る人”は息子とは別人になるはずで、何かしらの矛盾が生じている。(*1)しかし、その矛盾はここでは問題にならない。裏と表という通常は対の位置にあるものがひと続きになるのが、メビウスの帯なのであり、“祈る人”はメビウスの帯の裏と表との結接点なのだろう。そして、“祈る人”によってつながっているのは「現実の世界」と「虚構の世界」だ。この映画では、現実の出来事も夢の出来事も同等のものとして結びついている。ここでは現実と夢はいつの間にかにつながっていて、どこまでが現実で、どこからが夢だと分けることはできないのだ(現実⇒虚構⇒現実⇒・・・)。

(*1) これは『悪い男』の砂浜に埋められた写真と同じような機能だ。海辺を訪れたハンギとソナは、ある女が海に入っていくのを目撃する。ソナは自殺した女が砂浜に埋めた写真を拾うと、そこには未来の(もしくは幻想の)ハンギとソナの姿が写っている。


◆最後に「乳首の話」
 さて、ここで先に記した「乳首の話」を思い出そう。『メビウス』で登場するふたりの女性(母親と愛人)の乳首(というか乳房)は、幾分作り物めいている。もしかしたら整形なのかもしれないが、そういうことを塩田氏は言わんとしたわけじゃない。ふたりの乳首(乳房)が同じものだということを示していたわけだ。つまり母親役と愛人役を演じているのは、イ・ウヌという一人の女優だということだ。
 一部の情報ではすでに発表されているが、私自身は映画が終わってもそれに気がつかなかった。塩田氏は「ぼんやりしていると気がつかないから」という老婆心から、そのことを前フリしていたのだが、それでも私にはわからなかった。そのくらい妻と愛人は別物に見える。チラシなどでわざわざ登場人物を4つに分割して見せているのも戦略なのだろう(上の写真のふたりの女は到底同じ人物とは思えない)。
 もちろんイ・ウヌがメイクや演技力でうまく化けたことが重要なのではない。母親役と愛人役を一人の役者が演じなければならない理由は、『メビウス』という題名からすれば、すでに明らかだろう。女というものは、妻という存在にも、愛人という存在にもなるということだ。
 ここでは妻という存在にイメージされるのが、たとえば“貞淑”だとすれば、愛人には“不貞”があてはまるが、それらは決して対のものではなくひと続きになっているのだ。たとえば母親が家庭の“守護神”だとすれば、愛人はその“破壊神”かもしれないし、この映画では母親は“狂気”を帯び、愛人は“正気”を保っているようにも見える。とにかく妻という存在と愛人という存在は裏表のようでいて、実は同じ地平にいて“貞淑”も“不貞”も同一人物に生じるその時々のあり方みたいなものなのだ。

 改めて結論を繰り返せば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、現実と虚構、そして妻と愛人、そうした反対物も『メビウス』という映画においてはひと続きになっているのだ。
 これはギドクが『悲夢』で取り上げている“黒白同色”という思想に、ひねりを加えて発展させたものだと思う。「そうした思想はわかった。だからどうした? 異様な物語があるばかりじゃないか」というツッコミもあるかもしれない。しかし、迷いが感じられた『悲夢』よりも突き抜けたものがあるし、最後に“祈る人”が観客に向ける不敵な笑みは、ギドクの自信の表れとも思えた。

 続きというか、こちらでも一言

キム・ギドクの作品


Moebius [Italian Edition]



 ↑ 私自身は観ていないが、こんな海外バージョンも出ているようだ。台詞がないから字幕も必要ないわけで、これでも十分かもしれない。ただ海外のものなので、「再生できない可能性」がある旨の注意書きはある。DVDの情報ではイタリア語となっているが、意味不明。悲鳴やらうめき声をイタリア語で吹き替えするとも思えないが。

メビウス [Blu-ray]


メビウス [DVD]



 ↑ この2つは日本版。7月8日に発売。
Date: 2014.06.20 Category: キム・ギドク Comments (39) Trackbacks (7)

ダーレン・アロノフスキー 『ノア 約束の舟』 狂気のノア

 旧約聖書・創世記の「ノアの箱舟」のエピソードを映画化した、ダーレン・アロノフスキーの最新作。
 出演は『ビューティフル・マインド』でも夫婦役だったラッセル・クロウとジェニファー・コネリーや、『ウォール・フラワー』でも共演しているエマ・ワトソンとローガン・ラーマンなど。

ダーレン・アロノフスキー監督 『ノア 約束の舟』 出演陣もなかなか豪華

 旧約聖書では、まず天地創造があって、アダムとイヴが楽園を追われる話があり、人類最初の殺人とされるカインとアベルの話がある。そのあとに続くのがノアのエピソードであり、この映画では天地創造からノアまでを門外漢にもわかるようにさらっと要約してくれている。
 一般的な理解からすれば、「ノアの箱舟」のエピソードは、神が創った人類があまりに堕落しているので、もう一度途中からやり直そうという神の意図を読み込むものだろう。義の人とされるノアの家族と、罪を知らない動物たちだけを助け、リセットした新たな世界を創るというわけだ。
 しかし、この『ノア 約束の舟』のノアはちょっと違う。聖書に詳しいわけではないが、独自の解釈がなされていることは確かなようだ。最初の殺人者カインの末裔たちが暴虐の限りを尽くす輩ということは間違いないのだが、ノアは自分たちも彼らと変らないんじゃないかと考える。箱舟に乗せる人を決めるのはノア自身の選択であり、家族だけを乗せるのは、単にノアのエゴに過ぎず、それはカインの末裔たちが生きたいと願うのと何ら変りはない。そういう考えがさらに進んだのか、ノアは「神は人類がこの世に存在することを望んでいない」とまで思い詰めるようになる。
 箱舟に乗るのはノア(ラッセル・クロウ)とその妻(ジェニファー・コネリー)。長男のセムとその妻イラ(ただし妊娠できない身体)、次男のハムと三男のヤペテ。大洪水を生き延びても子供を産める女がいないために、次代に続かないないわけで、人類は絶滅することになる。また、ノアはカインの末裔たちが無理やり箱舟に乗り込むのを、堕天使たち(石の巨人という妙なキャラ)の手を借りて封じてしまう。ノアが神の名の下に人類を滅ぼそうとしているわけで、ほとんど狂気を帯びているのだ。(*1)

『ノア 約束の舟』 建物のように見えるのが箱舟。大がかりなセットだ。

 人類のその後にとっては、ノアが箱舟に乗せた唯一の部外者イラ(エマ・ワトソン)が重要になる。イラは腹部に傷を負って瀕死のところを、ノアが情けをかけて助けたのだ。そのイラがセムの子供を身ごもることになるわけだが、神に従うことよりも小さな命に情けをかける“慈悲”を選ぶという展開は、ちょっと腑に落ちないところもある。腑に落ちないというのは、旧約聖書の映画化としてはあまりに道徳的過ぎるということだ。
 同じ旧約聖書の「イサクの燔祭」では、一人息子イサクを神に捧げるように命じられたアブラハムは、実際に息子イサクに手をかけようとする。最後の瞬間に神がそれを止めることになるわけだが、アブラハムは自分の選択でそれを止めたわけではないのだ。ノアの選択で人類が存続するのは万々歳かもしれないが、結局、神は姿を見せないし、その啓示はノアの夢だったとなると、ノアは単なる勘違い野郎ということにもなりかねないのだ(実際、そう見えてしまう)。
 ラストでは次男ハム(ローガン・ラーマン)はノアたちの下を去っていく。カインの末裔とハムとの結びつきから、悪の種みたいなものが現代にも受け継がれていくことになるとも思えるのだが、その時点で人類の生き残りはノアたちだけなのだから、ハムはどこでその血統を守るつもりなのかが心配になる。ハムの系統が絶たれれば、世の中は“慈悲”に溢れ住みやすくはなりそうだが、実際にはそうなってはいないわけだから……。

(*1) ダーレン・アロノフスキーの作品群から見ると、今までにない規模の壮大なスペクタクルで金もかかっている感じは伝わるのだが(スペクタクルはいささか退屈だが)、ノアの狂気が伝わって来なかった。アロノフスキー作品の主人公は『ブラック・スワン』にしても『ファウンテン 永遠につづく愛』にしても、たいがい狂っているわけだけれど、その狂気はそれなりに身近なもので、狂気に伴う痛みもあった気がするのだが……。

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ダーレン・アロノフスキーの作品
Date: 2014.06.16 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

グザヴィエ・ドランの過去作品 『マイ・マザー』『胸騒ぎの恋人』

 以前に取り上げた『わたしはロランス』グザヴィエ・ドラン監督の過去作品(『マイ・マザー』『胸騒ぎの恋人』)が、6月4日にDVD発売となった。

グザヴィエ・ドランのデビュー作『マイ・マザー』

『マイ・マザー』

 グザヴィエ・ドランのデビュー作。原題は「I KILLED MY MOTHER」。母子家庭の母親と息子の物語。
 精神分析ではエディプス・コンプレックス(もしくはエレクトラ・コンプレックス)というものが重要視される。これは子供が異性の親に対して憧れを抱き、その邪魔となる同姓の親との間に葛藤が生じるということだ。これによれば異性の親と子には対抗意識は生じないことになってしまうが、現実にはそんなわけはない(特に反抗期の息子にとって、母親は何かしらウザい存在なのではないだろうか)。
 また、子供の性的対象が必ずしも異性となるわけではないわけで、この映画でドラン自身をモデルにしたと思わしき主人公も同性愛者だし、そうした場合は異性愛とは違ってさらに複雑な図式が必要となるのかもしれない。
 この映画のケースでは、父親はすでに離婚して家庭の外にいるために存在感は希薄で、単にそうした対象からは外れている。いない人は憎むことも愛することもできないという意味で。それに対して母親は常に一緒にいるわけで、現実的な存在にはどうしても複雑な感情が渦巻くことになる。
 グザヴィエ・ドラン自身が演じる主人公ユベールは、その母親(アンヌ・ドルヴァル)と事ある毎に衝突している。ユベールの甘えはもちろんあるのだけれど、母親もそれに対して子供じみた対応をするものだから、けんかは絶えることがない。
 それでもユベールはこんなふうにも語っている。

 母を愛している。でも息子だからではない。母を傷つけるヤツがいたら、そいつを殺したくなる。でも母より愛してる人はたくさんいる。これはパラドックスだ。母を愛せないが、愛さないこともできない。


 寄宿舎に出発する別れ際には、ユベールが「今日、僕が死んだら?」と試すように訊くのに対して、母親はユベールが去ったあとに「明日、私も死ぬわ」とつぶやく。ここはそれなりに感動的な場面だけれど、脚本を書いているのはドランだから、映画のなかの母親の台詞にはドラン自身の願望が投影されているのだろう。女教師(スザンヌ・クレマン)の役柄もそうで、ちょっと普通じゃない母親とは別の理想的な母親像とも見えるし、ドランが抱く母親への複雑な感情が反映された映画となっている。
 「僕が死んだら、後を追ってほしい」という願望は、主人公ユベールが17歳という設定にしても甘えん坊だけれど、映画そのものはドラン自身が19歳のときに撮ったとは思えないほどまとまっている。

『胸騒ぎの恋人』 中央がニコラを演じるニールス・シュナイダー

『胸騒ぎの恋人』

 男ふたりと女ひとり。ありがちな三角関係だが、中心にいて、ほかのふたりを惹きつけて離さないのは男性だ。ギリシャの彫刻に重ね合わせて描かれる金髪巻毛の青年ニコラ。ゲイのフランシス(グザヴィエ・ドラン)と幼なじみのマリー(モニア・ショクリ)はニコラに夢中になる。
 フランシスもマリーもセックスの相手はいるのだけれど、恋は別物らしく、ふたりは共にニコラに片想いして苦しみを味合うことになる。ニコラを演じるニールス・シュナイダーは『マイ・マザー』にも出ていたけれど、いかにもナルシストの美形といった感じ。ギリシャ神話に登場する神々みたいなイメージで、周囲の男女を翻弄するキャラクターとして説得力がある。
 「唯一の真実は愛の衝動だけ」(アルフレッド・ミュッセ)という言葉が冒頭を飾る。その言葉を表現するかのようなインタビューが何度も登場する。彼ら(彼女ら)は“愛の衝動”について語るのだが、なぜかほとんどが相手にフラれた記憶ばかり。フランシスもマリーも同様で、ニコラに抱いた“愛の衝動”はどちらも実ることはなく、その分、それは深く記憶に刻まれる。叶えられた欲望など“愛の衝動”と呼ぶには足りないということだろうか。
 フランシスとマリーが“愛の衝動”を感じると、ほとんど魔術にでもかかったかのように相手に引き寄せられる。「Bang Bang」という曲に合わせてのスローモーションは、そうした夢心地の感覚を表している。この選曲は結構微妙な感じもするのだけれど、最後の最後でまた「Bang Bang」が流れるころには何だかはまってきた。

 『胸騒ぎの恋人』でニコラの頭上からマシュマロが降ってくる場面とか、『マイ・マザー』での構図(人物を端に置いて余白を大きく残す)なんかは、『わたしはロランス』につながるものを感じさせる。また、どの作品でも性的マイノリティを扱っているけれど、親子関係や三角関係といった普遍なテーマに通じているため、多くの人が共感できるものを持っていると思う。

マイ・マザー [DVD]


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Date: 2014.06.09 Category: 外国映画 Comments (2) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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