中島哲也監督 『渇き。』 バケモノを描くことの難しさ
『下妻物語』『嫌われ松子の一生』などの中島哲也監督の最新作。
出演は役所広司、小松菜奈、妻夫木聡、二階堂ふみ、橋本愛など。

元刑事の藤島昭和(役所広司)に離婚した妻(黒沢あすか)から連絡が入る。娘の加奈子(小松菜奈)が失踪したのだという。藤島が娘を探し出すために調査を開始すると、次第に加奈子の周囲には不良グループやヤクザが絡む事件が生じていることが明らかになる。加奈子を追ううちに、藤島も次第に常軌を逸していく。
「愛する娘は、バケモノでした。」というコピーにも示されているが、加奈子は社会学者・宮台真司の言うところの“脱社会的存在”だろう。宮台によれば反社会的存在とは別に、脱社会的存在がいる。たとえば、ヤクザなどは反社会的勢力などと呼ばれるが、彼らは一応社会のルールは前提としているが、それに対抗するような存在だ。他方、脱社会的存在とは、社会のルールそのものを欠落させたような存在であり、たとえば『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士のようなバケモノなのだ。ヤクザ組織はたかだか金が目当てだから交渉が成り立つかもしれないが、レクター博士の場合そう単純にはいかない。
中島哲也の前作『告白』でも、“脱社会的存在”がいた。松たか子演じる先生と対決することになる修哉がそうだ。しかし先生自体も娘を殺され、その父親(つまり夫になるべき人)も喪い、脱社会的存在となりつつあった。『告白』では、主要な登場人物は多かれ少なかれ脱社会的存在ではあるが、『告白』という題名にもある通り、誰かに向かって自己弁護をしてくれる程度の社会性は持ち合わせていた。なぜ脱社会的存在となったのかを自ら説明してくれるほど、わかりやすい存在ではあったのだ。
一方、『渇き。』の加奈子は完全に脱社会的存在となりきっている。加奈子は告白もしなければ、泣き言も言わない。理解不能な存在なのだ。加奈子については、周囲の人物からの間接的な証言はあっても、最後まで彼女自身が父親の前に姿を現すわけではない。これは加奈子が脱社会的存在であり続けるための配慮だろう。加奈子が登場する場面は、細かいカットをつなげてポップな雰囲気で見せるものの、なぜ加奈子が“悪魔”呼ばわりされるほど怖がられ、同時に同級生たちを堕落の道へ引きずり込むほどの魅力があるのかは、いまひとつ伝わってこない。彼女はわかりやすさとは無縁の存在であり、常人の解釈の範疇を超えるような存在でなければならない。長々とスクリーンに登場したり、父親に向かって事情を説明するようなことをすれば、理解可能な範疇に堕してしまう。加奈子が最後まで父親に捕まらないのは、彼女に与えられた役割からして当然のことだろう。(*1)

もっとも父親の古臭さでは、加奈子の足跡を捕まえることはできるはずもない。父親の役名は、原作と映画では名前がわざわざ変えられているとのこと。「藤島秋弘」から「藤島昭和」へと。この父親が「昭和」的な存在であるのは明らかで、その車とか、麻のスーツとか、瓶ビールを呷り終始汗まみれのあたり、父親が古臭い時代を脱していないことを示している。
一方で加奈子は新時代の若者と言えるのかもしれないが、それ以上に明確に彼女の自己認識を示す場面もある。加奈子は『不思議の国のアリス』のアリスなのだ。その存在はワンダーランドという異世界の住人であり、その夢のような世界では何でもありなのだ。だから「昭和」という古い社会を未だにひきずっている父親には、そうした異世界に辿り着くことも、加奈子を見つけることもできないのだ。
ただそんな脱社会的存在である加奈子が魅力的だったかというと、首を傾げざると得ない(演じる小松菜奈の存在はいいと思うが)。加奈子をほとんど異世界の存在にするあまり、彼女が具体的な像として結ばれることがないからだ。作品そのものも共感できる存在は皆無で、加奈子を追い求めて這いずり回る父親のキチガイぶりばかりが目立つ映画になってしまっていたと思う。
一番の見所は、ほとんど不死身の父親役・役所広司と、シャブ中ゾンビのオダギリジョーとの対決場面だろうか。にやけキャラの妻夫木聡もそれなりにいい味を出していた。
(*1) 加奈子にも理解可能な解釈の仕方があったのかもしれない。仲のよかった緒方を自殺に追い込んだ不良たちへの復讐という物語がそれだ。たしかにそういう面もあるが、緒方のことを殺したとも言っている。次に加奈子に篭絡されるボクについては、緒方亡き後の自殺の手段かとも思えたのだが、結局それすらも否定される。やはりわかりやすい存在ではないようだ。


中島哲也の作品

出演は役所広司、小松菜奈、妻夫木聡、二階堂ふみ、橋本愛など。

元刑事の藤島昭和(役所広司)に離婚した妻(黒沢あすか)から連絡が入る。娘の加奈子(小松菜奈)が失踪したのだという。藤島が娘を探し出すために調査を開始すると、次第に加奈子の周囲には不良グループやヤクザが絡む事件が生じていることが明らかになる。加奈子を追ううちに、藤島も次第に常軌を逸していく。
「愛する娘は、バケモノでした。」というコピーにも示されているが、加奈子は社会学者・宮台真司の言うところの“脱社会的存在”だろう。宮台によれば反社会的存在とは別に、脱社会的存在がいる。たとえば、ヤクザなどは反社会的勢力などと呼ばれるが、彼らは一応社会のルールは前提としているが、それに対抗するような存在だ。他方、脱社会的存在とは、社会のルールそのものを欠落させたような存在であり、たとえば『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士のようなバケモノなのだ。ヤクザ組織はたかだか金が目当てだから交渉が成り立つかもしれないが、レクター博士の場合そう単純にはいかない。
中島哲也の前作『告白』でも、“脱社会的存在”がいた。松たか子演じる先生と対決することになる修哉がそうだ。しかし先生自体も娘を殺され、その父親(つまり夫になるべき人)も喪い、脱社会的存在となりつつあった。『告白』では、主要な登場人物は多かれ少なかれ脱社会的存在ではあるが、『告白』という題名にもある通り、誰かに向かって自己弁護をしてくれる程度の社会性は持ち合わせていた。なぜ脱社会的存在となったのかを自ら説明してくれるほど、わかりやすい存在ではあったのだ。
一方、『渇き。』の加奈子は完全に脱社会的存在となりきっている。加奈子は告白もしなければ、泣き言も言わない。理解不能な存在なのだ。加奈子については、周囲の人物からの間接的な証言はあっても、最後まで彼女自身が父親の前に姿を現すわけではない。これは加奈子が脱社会的存在であり続けるための配慮だろう。加奈子が登場する場面は、細かいカットをつなげてポップな雰囲気で見せるものの、なぜ加奈子が“悪魔”呼ばわりされるほど怖がられ、同時に同級生たちを堕落の道へ引きずり込むほどの魅力があるのかは、いまひとつ伝わってこない。彼女はわかりやすさとは無縁の存在であり、常人の解釈の範疇を超えるような存在でなければならない。長々とスクリーンに登場したり、父親に向かって事情を説明するようなことをすれば、理解可能な範疇に堕してしまう。加奈子が最後まで父親に捕まらないのは、彼女に与えられた役割からして当然のことだろう。(*1)

もっとも父親の古臭さでは、加奈子の足跡を捕まえることはできるはずもない。父親の役名は、原作と映画では名前がわざわざ変えられているとのこと。「藤島秋弘」から「藤島昭和」へと。この父親が「昭和」的な存在であるのは明らかで、その車とか、麻のスーツとか、瓶ビールを呷り終始汗まみれのあたり、父親が古臭い時代を脱していないことを示している。
一方で加奈子は新時代の若者と言えるのかもしれないが、それ以上に明確に彼女の自己認識を示す場面もある。加奈子は『不思議の国のアリス』のアリスなのだ。その存在はワンダーランドという異世界の住人であり、その夢のような世界では何でもありなのだ。だから「昭和」という古い社会を未だにひきずっている父親には、そうした異世界に辿り着くことも、加奈子を見つけることもできないのだ。
ただそんな脱社会的存在である加奈子が魅力的だったかというと、首を傾げざると得ない(演じる小松菜奈の存在はいいと思うが)。加奈子をほとんど異世界の存在にするあまり、彼女が具体的な像として結ばれることがないからだ。作品そのものも共感できる存在は皆無で、加奈子を追い求めて這いずり回る父親のキチガイぶりばかりが目立つ映画になってしまっていたと思う。
一番の見所は、ほとんど不死身の父親役・役所広司と、シャブ中ゾンビのオダギリジョーとの対決場面だろうか。にやけキャラの妻夫木聡もそれなりにいい味を出していた。
(*1) 加奈子にも理解可能な解釈の仕方があったのかもしれない。仲のよかった緒方を自殺に追い込んだ不良たちへの復讐という物語がそれだ。たしかにそういう面もあるが、緒方のことを殺したとも言っている。次に加奈子に篭絡されるボクについては、緒方亡き後の自殺の手段かとも思えたのだが、結局それすらも否定される。やはりわかりやすい存在ではないようだ。
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