グザヴィエ・ドラン 『わたしはロランス』 とにかく必見!
監督・脚本・編集などを担当したのはグザヴィエ・ドラン。このカナダ出身の若者は、これまでに製作された3作品すべてがカンヌ映画祭に出品されているという注目株。まさに“恐るべき子供”といった形容が相応しい存在だ。
出演はメルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイなど。
4月25日にDVDが発売となった。

何かを訴えるようにこちらを見つめてくる眼差し。冒頭、スローモーションで捉えられる多くの眼差しは、実はトランスジェンダーであるロランス(メルヴィル・プポー)に対する視線だ。“トランスジェンダー”というのは“トランスセクシャル”とは違うということを含んでいるわけで、ロランスは男性だが女性の格好をしつつ、性別適合手術をすることは望まない。だから端的に言えば女装なわけで、冒頭で描かれていたのは、街に出れば投げかけられる興味本位の眼差しだったわけである。
さらに複雑なのは、トランスジェンダーの性的指向は様々で、同性愛もあれば異性愛もあるということ。ロランスは同棲しているフレッド(女性)のことを愛しているけれど、外見的には男性から女性に越境する。ロランスがそれまでの長年の偽りの生活に終止符を打つことは、それまで女性であり異性愛者である、ごく“普通”のフレッド(スザンヌ・クレマン)には青天の霹靂だ。通常ならそこで終わるはずの関係だが、フレッドは自分も「超“普通”ってわけじゃない」として、ロランスを支えることを選ぶ。この映画はふたりの恋愛模様を描いていく。
『わたしはロランス』は10年に及ぶ恋愛大河ドラマで、しかも168分という長尺にも関わらず、演出には目を瞠るものがあり、まったく長尺と感じさせない魅力がある。場面ごとに演出方法を変える巧みさで、登場人物の心理を描く場面は、現実にはありえない誇張した表現となっている。フレッドがロランスからのプレゼントで涙を流す場面では、部屋に滝のような大量の水が落ちてくる。また、ふたりの逃避行ではカラフルな服が空から降ってきたり、別れにおいては大量の枯葉が舞い上がるという……。それらがロランスやフレッドの心情に見事にはまっている。画面サイズは今どき珍しいスタンダードで、ときには画面の一部を壁などで遮った構図を作り出すなど見せ方も凝っている。
音楽の使い方も気が利いていて、ポップな曲からクラシックまで取り入れている(サントラは発売されていないようだが、公式ホームページにはリストがある)。また監督グザヴィエ・ドランは衣装コンセプトなどにも携わっていて、ロランスが着る肩パットが入ったスーツもその時代をよく表しているし、フレッドの赤く染めたソバージュ(しかもサイドは刈上げ)は、当時流行っていたシンプリーレッドのボーカルみたいな印象で雰囲気を出している。
※ 以下、ネタバレもあり。

「何を求めているの?」という台詞が何度か登場する。ロランスはその質問にこう答える。
この映画では“普通”であることが重要な意味を占めている。“普通”というのは何なのか? 藤子・F・不二雄の漫画に「並平家の一日」(『パラレル同窓会』所収)という、日本で最も平均的な家庭を描いた短編があった。実際はそんな家庭は存在しないからこそ題材となっているわけで、完全なる“普通”な人物も存在するわけではない。この映画は“普通”というものの価値を改めて問いかけているのだ。
ロランスは何だかんだ言ってロランスだから、ロランス以外のものになりたくないという思いからトランスジェンダーであることを選ぶ。それはロランスにとって“普通”で自然の成り行きだが、一方でフレッドにもノーマルな(=異性愛)女性としての幸福を求める権利がある。だからフレッドはごく“普通”の家庭を持ち、子供を産むという選択肢を選ぶことになるのも自然だ。フレッドは社会から孤立してふたりだけの楽園に引きこもるようなことには嫌悪を感じているから、最後に「地上に降りてきてよ」とロランスに言ってみるものの、結局は拒否されることになる。ロランスはロランス以外の何者でもないというのが大前提であり、社会に適応するために自分を曲げるようなことはできないのだ。
結末は“普通”かもしれないが、それは問題ではない。そこに至るまでの描き方が圧倒的に素晴らしかった。丸坊主のロランスが化粧をし、スカートにピンヒールで登場するあたりはカッコいいとさえ思えた。劇場公開時にはまったくノーマークでスルーしてしまった作品だが、とにかく必見の1作だ。


出演はメルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイなど。
4月25日にDVDが発売となった。

何かを訴えるようにこちらを見つめてくる眼差し。冒頭、スローモーションで捉えられる多くの眼差しは、実はトランスジェンダーであるロランス(メルヴィル・プポー)に対する視線だ。“トランスジェンダー”というのは“トランスセクシャル”とは違うということを含んでいるわけで、ロランスは男性だが女性の格好をしつつ、性別適合手術をすることは望まない。だから端的に言えば女装なわけで、冒頭で描かれていたのは、街に出れば投げかけられる興味本位の眼差しだったわけである。
さらに複雑なのは、トランスジェンダーの性的指向は様々で、同性愛もあれば異性愛もあるということ。ロランスは同棲しているフレッド(女性)のことを愛しているけれど、外見的には男性から女性に越境する。ロランスがそれまでの長年の偽りの生活に終止符を打つことは、それまで女性であり異性愛者である、ごく“普通”のフレッド(スザンヌ・クレマン)には青天の霹靂だ。通常ならそこで終わるはずの関係だが、フレッドは自分も「超“普通”ってわけじゃない」として、ロランスを支えることを選ぶ。この映画はふたりの恋愛模様を描いていく。
『わたしはロランス』は10年に及ぶ恋愛大河ドラマで、しかも168分という長尺にも関わらず、演出には目を瞠るものがあり、まったく長尺と感じさせない魅力がある。場面ごとに演出方法を変える巧みさで、登場人物の心理を描く場面は、現実にはありえない誇張した表現となっている。フレッドがロランスからのプレゼントで涙を流す場面では、部屋に滝のような大量の水が落ちてくる。また、ふたりの逃避行ではカラフルな服が空から降ってきたり、別れにおいては大量の枯葉が舞い上がるという……。それらがロランスやフレッドの心情に見事にはまっている。画面サイズは今どき珍しいスタンダードで、ときには画面の一部を壁などで遮った構図を作り出すなど見せ方も凝っている。
音楽の使い方も気が利いていて、ポップな曲からクラシックまで取り入れている(サントラは発売されていないようだが、公式ホームページにはリストがある)。また監督グザヴィエ・ドランは衣装コンセプトなどにも携わっていて、ロランスが着る肩パットが入ったスーツもその時代をよく表しているし、フレッドの赤く染めたソバージュ(しかもサイドは刈上げ)は、当時流行っていたシンプリーレッドのボーカルみたいな印象で雰囲気を出している。
※ 以下、ネタバレもあり。

「何を求めているの?」という台詞が何度か登場する。ロランスはその質問にこう答える。
私が発する言葉を理解し、同じ言葉を話す人を探すこと。自分自身を最下層に置かず、マイノリティーの権利や価値だけでなく、“普通”を自認する人々の権利や価値も問う人を……
この映画では“普通”であることが重要な意味を占めている。“普通”というのは何なのか? 藤子・F・不二雄の漫画に「並平家の一日」(『パラレル同窓会』所収)という、日本で最も平均的な家庭を描いた短編があった。実際はそんな家庭は存在しないからこそ題材となっているわけで、完全なる“普通”な人物も存在するわけではない。この映画は“普通”というものの価値を改めて問いかけているのだ。
ロランスは何だかんだ言ってロランスだから、ロランス以外のものになりたくないという思いからトランスジェンダーであることを選ぶ。それはロランスにとって“普通”で自然の成り行きだが、一方でフレッドにもノーマルな(=異性愛)女性としての幸福を求める権利がある。だからフレッドはごく“普通”の家庭を持ち、子供を産むという選択肢を選ぶことになるのも自然だ。フレッドは社会から孤立してふたりだけの楽園に引きこもるようなことには嫌悪を感じているから、最後に「地上に降りてきてよ」とロランスに言ってみるものの、結局は拒否されることになる。ロランスはロランス以外の何者でもないというのが大前提であり、社会に適応するために自分を曲げるようなことはできないのだ。
結末は“普通”かもしれないが、それは問題ではない。そこに至るまでの描き方が圧倒的に素晴らしかった。丸坊主のロランスが化粧をし、スカートにピンヒールで登場するあたりはカッコいいとさえ思えた。劇場公開時にはまったくノーマークでスルーしてしまった作品だが、とにかく必見の1作だ。
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